雨の日、狐
ジメジメとした日々が続く梅雨のある日、橘は自宅でインスタントコーヒーを淹れていた。以前訪れた定食屋で出されたコーヒーが忘れる事が出来ず、それからも良くその店にお邪魔していたのだ。とはいえ、あまり頻繁に訪ねるのも何だか恥ずかしかったので、自宅でコーヒーを味わえないかと色々探した結果、まずはインスタントから始めることにした。
「雰囲気はあるけど……うーん」
どうやら満足いく味ではなかったようだ。せめてドリップコーヒーならまだ良かったかもしれないが、そこまで手間を掛ける気もしなかったのだ。だがインスタントとはいえ、初めての自分で淹れるコーヒーは何だか特別感があったようで、首を捻りながらも橘はコーヒーを飲み、外の様子を見る。
「雨、止まないな。晩御飯どうしよう」
そう、現在橘の部屋には食料が無く、唯一あるのがこのインスタントコーヒーだったのだ。そこで雨が止むまでの間、現実逃避も兼ねてコーヒーを淹れたのだが、あっという間に出来るのがインスタントの良さである。そのわずかな時間の間で雨が止むはずもなく、橘は外を眺めながら呆然とする。チビチビと飲んでいたコーヒーが無くなっても、外の様子は変わらないので橘は気合を入れて買い出しに行くことにした。雨は最初よりも強さを増していた。
橘は商店街のスーパーに出向き、弁当といくつか日持ちのする食料を漁り帰路に就こうとしたが、ふと商店街に相応しくない生き物を発見する。毛並みが非常に美しく、何やら芸能人みたいなオーラを放つ狐がそこにいた。
(もしかしてこの辺だと珍しくない?)
橘はそう思って辺りを見渡したが、橘と同様に足を止めてその狐を見ている人がチラホラといた。だが彼らとは別に気にしていない人も一定数いる。この違いは何だろうか。
再び狐を見ると豆腐屋さんを眺めているようだった。
(狐と言えば油揚げって言うけど本当にそうなのか)
狐と一緒に橘も豆腐屋さんを眺めることにする。そうすると近所の人だろうか、話が聞こえてきた。
「ここのご主人、もう長くないらしいわ」
「お幾つだったんでしたっけ。確か結構お年を召されていましたよね」
「ええ、今後は息子さんが切り盛りするようだけど大丈夫かしら」
そんなことをオバサンたちが言い合っていると、中から話にあった息子さんと思われる人が出てきて、オバサンたちに会釈する。気まずいのか会釈を返すと、慌ててオバサンたちは何処かへ行ってしまった。
「あれ、お客さんかい?」
ずっと豆腐屋さんを眺めていた橘に声を掛けられる。仕方がなく、そうだと頷いて適当なものを買う事にした。すると店内でも何やらバタバタとしており、思わず先の話を思い出す。不躾ではあったが聞いてみることにした。
「何か慌ただしいですね?」
「ああ、親父が体を壊していてね。病院で治療していたんだが良くならなくて、最後はこの家で息を引き取りたいって聞かなくて困ったよ」
「はぁ」
「ってお客さんに言う話でも無かったよな! 良かったらお揚げサービスしとくよ、そこの小さいのもどうだい?」
店主の視線に釣られて隣を見ると、さっきの狐が行儀よく座っていた。店主は油揚げを二つ用意し、一つは橘に、もう一つは狐へと持って行ったが目の前に出されても食べようとはしなかった。
「うーん、やっぱ親父のお揚げじゃないと受け取ってくれないかぁ」
「どういう事ですか?」
何やら親交のありそうな店と狐だったが見当もつかない。疑問に思って店主にぶつけると快く教えてくれた。
「昔、親父が元気だったころから、この狐は良く店にやって来て親父からお揚げを受け取っていたんだ。俺はその時まだ小さくて、何でせっかくの商品を動物にあげるのか不思議だった。親父に聞くと『うちの守り神様なんだ』って言っててな。詳しいことは良く分からないけど、親父はその狐に対して最大限の礼儀を払っていたから何かあったのかもな」
興味深い話ではあったが一つおかしい点があった。
「それって何年前の話ですか?」
そう橘が訪ねると、店主は意図に気づいたらしく気持ちの良い笑い声を発した。
「その話自体は俺が十歳の頃に聞いたから、四十年位前だ。だけど狐の寿命は長くて十年、生きている訳が無いな!」
「じゃあこの狐は?」
そう橘は狐を指さしたが店主は少し真剣な顔を見せた。
「さあな、普通で考えるのなら別の狐だろうさ。だけど何となく俺は同じだと思っている。親父が倒れてからもこの店に来ているのは多分親父が心配なんだろう。だけどもうすぐ親父は死ぬんだ。コイツが食べたがっていたお揚げを与えてやる事も一生出来なくなる。すまんな」
そこまで言ったところで狐は走り去っていった。アーケード街を抜けて、雨の中どこへ行くのだろうか。橘には、何となくあの狐は店主の言ったことを聞いた上で走り去ったように見えた。そう考えると橘の選択肢は一つだった。
橘は会計を素早く済ませ、狐の後を追ってはいるものの姿が見えない。一体何処へ消えたというのだろうか。
「くっそ~、確かこっちの方に行ったと思うんだけど……。アレ、何だこれ」
いつかのあの日、如月と初めて会ったような場所で感じた違和感がその路地にはあった。試しにそこを通ってみると、街中だというのに今度は獣道が現れる。無意味かもしれないが、野生動物に警戒しながらも歩みを進めていくと、見慣れた施設が橘を出迎えた。
「え、何だここ。神社?」
少々寂しい様子だったが紛れもなく神社がそこにはあった。そして神社の前に、誰か人がいる事に気が付く。その人物は巫女服を着た金髪の美しい女性だったが、橘の存在を認めるとかなり驚き迷った挙句会釈をした。橘はそれを見て思い切って声を掛けることにした。
「すみませんちょっといいですか、この辺で狐が走っていくのを見ませんでしたか?」
「狐とな、そんなものは見ておらんぞ」
もしかするとだった。こんな怪しい場所で、こんな綺麗な女性が居るわけない。如月の言葉を思い出す。妖怪は自分たち人間に紛れると。もしかするとこの女性は……。試しに橘はカマかけ――と言うにはかなり幼稚だったが――を試みた。
「そうですか、おかしいなぁ。あんなに綺麗な毛並みの狐、目立つはずなのに」
「む。お主見る目があるな! そうだろう、そうだろう!」
無邪気な笑顔が、所詮は獣畜生の脳みそだという事を語っていた。