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  作者: 高原伸安
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ボクはロリコンじゃないぞ!の巻 クイズ美リオネアの巻 「ミステリーの楽しみ方」の巻

主な登場人物

美咲マリア(10) …小学四年。モデル以上の絶世の美女。IQ200以上の天才。

美咲綾介 (50)  …マリアの父。分子生物学者。

美咲美奈子    …故マリアの母。植物学者。

上野一平 (18) …M大学経済学部一年。

松平ゆき (20)…美咲家のメイド。

黒木和也 (10)…マリアの同級生。

早川大助 (10)…マリアの同級生。

岡田俊彦 (10)…マリアの同級生。

ラッキー (?) …ドイツ・シェパード。

高木清四郎(37)…マリアの叔父。推理作家、シナリオ・ライター。

 美咲耕作 (36)…マリアの叔父。警視庁警視。


『ボクはロリコンじゃないぞ!』の巻


登場人物

加藤夏美 (22)…大金持ち。M大学文学部四年。ミステリー・クラブ会長。

財部良造 (58)…会社社長。

財部令子 (51)…良造の妻、夏美の叔母、夏美の唯一の肉親。

財部あかね(21)…良造の長女。M大学教育学部四年。ミステリー・クラブ会員。

財部健太 (17)…あかねの弟。高校二年。

久我美子(20) …住み込みのお手伝い。

片山太郎 (18)  …一平の友人。M大学理学部一年。

小森和夫 (24)  …夏美の恋人。M大学医学部五年。

森田琴絵(21)   …M大学法学部三年。ミステリー・クラブ会員。

内田敏之(22)   …M大学工学部四年。ミステリー・クラブ副会長。

佐々木千栄(21)  …M大学教育学部三年。ミステリー・クラブ会員。

静 警部(41)   …この事件の担当者。


美咲博士の宏大な邸である。

門のインターホンに向かって真面目そうな青年が立っていた。

「上野一平です。いま到着しました」

一平が言った。

「いま開けます」

 メイドだろう。

鉄格子の門扉が自動的に開いた。

「オオーッ」

一平は、感激した。道の両脇に花壇と木々が連なる、広大な西洋館であった。緑が濃かった。


美咲博士邸の邸内である。

一平が、ゆっくり歩いていた。花壇の花々が色を添えていた。

「マリアさんかア? どんな人なんだろうな?」

 

一平の記憶。

親戚の結婚式である。美咲綾介博と一平、それに彼の両親が、テーブルを囲んでいる。

「一平君も、この春から大学生か? 大きくなったね」

 博士が言った。

「ハイ、M大学の経済学部に合格しました」

 一平が答えた。

「一平君さえよければ、うちに下宿すればいい。わたしも、七月末に渡米するんだよ。娘はこちらへいたいというんで、用心棒といっちゃなんだが、心強いですからね」

 博士が提案した。

「博士のお嬢さんというとオックスフォード大学を首席で卒業したという。今度はマサチューセッツ工科大学に入ったとか」

 父が聞いた。

「インター・ネットで講義を受けられるから、世界中どこにいようが構わないのです」

 博士が答えた。

「お嬢さん一人のところへ、一平なんかが転がりこむと心配じゃありませんか?」

 母が恐縮して言った。

「一平くんなら心配ありません。矍鑠とした執事がいますし、家事を取り仕切っているばあやも健在です。それに、ばあやの孫娘のゆきちゃんもいます」

 博士が締め括った。


一平の想像図である。マリアは二十四、五の聡明なモデル並みの美人で、有名大学の淑やかなお嬢様タイプのイメージだった。


屋敷の玄関で呼鈴を鳴らすと、すぐさま扉が開かれた。戸口に、二十歳前後の美人のお姉さんが立っていた。

「ぼく、上野一平です」

 一平が自己紹介した。

「私は松平ゆき。この家のメイドです」

 ゆきが応じる。

内側はカーペットが敷かれ、大ホールの両端には翼のように広がった二階への階段があった。ホールには高価そうな絵画や騎士の鎧などが飾られていた。

「やあ、一平君、いらっしゃい」

階段の上から博士が声をかけた。

「これからよろしくお願いします」

 

美咲博士の屋敷の中。

ゆきが一平を案内して、東の階段を上って行った。 

「一平さんのお部屋は三階になります。普段は客室として使っているところです。用があったら何なりと言ってくださいネ」

 ゆきが言った。

「メイドなんて今時珍しいですね?」

「アルバイトです。私もM大学、文学部の三年生なんです」

「へえーっ、ぼくの先輩なんだ」

 一平が感心して言った。

屋敷の二階のホールで辺りを見回していると、取っ付きのドアの隙間が少し開いてジャーという音が漏れていた。一平は、その音に誘われて部屋の中へ入っていく。ゆきは、それに気づかずあらぬ方を向いて、この屋敷の説明をしていた。

シャワーの音が止んで、バス・ルームから裸身にタオルを巻いた女性が出て来る。

「キャー! キャー! ちかん!」

 マリアが大声を出した。

マリアは、一平を目の前にして、ドアを思いっきり閉めた。

一平は、その声に驚き、尻もちをついた。整った顔立ちに白い肌が艶めかしかった。子供というより息をのむように美しい少女だ。一平は、ロリコンではないが、そのセクシーさにドキリと胸を高鳴らせた。感覚と頭がついていかなかったのだ。

マリアの悲鳴に反応して、矢のように黒い固まりが飛んで来て、一平に押しかかり、制圧する。

ゆき、執事の山崎鉄之進、ばあやの松平富も遅ればせながら駆けつけた。


マリアの部屋で、美咲博士が、ニコニコ笑っていた。

「一平君も災難だったね。ラッキーはマリアの最強のボデーガードなんだ」

 博士がホーと一平を見た。

「彼は私の一番の友だちよ」

 マリアが犬を擁護した。

「あ、そうそう。一平君はマリアとは初めてだったね。ここで紹介しておこう」

 博士が二人を引き合わせた。

「この痴漢が、一平くん?」

 マリアがあんぐりと口を開ける。

「このコがマリアさんですか。小学生じゃ・・・」

一平が言った。一平は、呆れ顔で、言葉を飲み込んだ。鬼のようなマリアの顔を目にして・・・。

「小学生で悪かったわね。私の裸を覗こうとしたくせに」

「それは誤解だってば」

 一平が謝った。

「まあ、まあ、二人とも仲良くやってくれよ。先は長いんだから」

 博士が仲裁する。

「これからが大変だァ」

ゆきが両手を広げた。


博士の部屋だ。

博士と一平が、向かい合って座っている。

「一平君、マリアをよろしく頼むよ。あれで結構やさしいところもあるんだ」

 博士が真面目な顔で言った。

「お母さんは?」

 一平が尋ねた。

「ママは、五年前に事故で亡くなった。いや、そのことはいずれ話す。いまは聞かないでくれ!」

博士が断固とした意志を見せた。一平は黙ったままだ。

「マリアがまだ五歳の時だった。それから甘やかしたために、我儘娘に育った」

博士は、パソコンの横のママの写真を示した。とても美しくて、優しそうな女性である。マリアにはその面影がある。

「お任せください。でもマリアちゃんがIQ200以上の天才少女だなんて驚いちゃうな」

 一平が言った。

「この前、ペレリマン博士の『ポアンカレ予想』や望月新一教授の『ABC予想』の証明をマリアは、楽しそうに読んでいたよ」

博士の言葉に、一平はチンプンカンプンだという顔をしていた。

「でも、これは秘密だよ。マリアには普通の子の生活を送らせたい」

一平は、大きく頷いた。

「マリアちゃんの特殊な才能を知っているのは?」

「この家の人間とわたしの身内だけだ」

「ゆきさんも知っているんだ?」


博士の研究室に舞台を移す。

「マリアは相手を試すためにときどき嘘をつくことがある。しかし、大目にみてやってくれないか。自分のアイデンティティーを守るためでもあるんだ」

「よく肝に銘じておきます」

「それから、プライドがものすごく高い。注意した方がいい。これは忠告だ」

「今日のことで、十分わかりました」

「それに、知っておいて欲しいことが、もうひとつある。マリアは経済的にも独立している」

「お母さんの遺産でもあるんですか?」

「いや。自分の実力で稼いでいるんだ。小さいときから、ずっと」

「自分で?」

「マリアは人気のファンド・マネージャーでもあるんだ。誰も顔を知らないがね」

「ウソッ」

 博士は、有名なクオンツの名前を二~三人挙げた。みんな数式で億万長者になった天才たちだ。


マリアの研究室である。一階にあった。

マリアと一平の二人きりだった。マリアは、パソコンの前に座って、キー・ボードを叩いていた。画面を図形と数式が流れていった。

「お父さんがアメリカへ行くと淋しくなるね」

 一平が慰めた。

「いつでも、インター・ネットで顔が見えるから平気よ。みんな、リモートやテレビ電話を使っているわ。それにパパは私のために働いているんだもの」

 マリアが言った。

「それにラッキーもいるしね」

一平は身震いした。

「それに、ゆきちゃんも。一平ちゃんは、恋人がいるの?」

マリアが、悪戯っぽい目をして笑った。

「どうなの?」

「いないよ。ガールフレンド募集中なんだ」

「だったら、私が彼女になってあげようか?」

「きみが? まだ、小学生だろう」

「失礼しちゃうわ。れっきとした大卒のレディーよ。それに身体だってT一四八、B七二、W五一、H七三あるんだから」

マリアが、胸を張った。

「それって」

「美人でしょう?」

「確かに、将来は美人になると思うけど」

一平は、睨んでいるマリアから目を逸らした。

「まだ子供だと思っているのね。赤ちゃんだと」

マリアが、ジッと一平を見た。

「そこまで言ってないよ」

一平は目を逸した。

「ちゃんと私の目を見ていって!」

マリアが、ピアノを弾くようにパソコンのキー・ボードを打つ。

「少し恥ずかしいんだけど観ていてネ」

ディスプレイ上に、鮮やかに、3Dのマリアの裸の全身像と顔のアップが浮かび上がった。

「この映像は私の未来図よ。データをすべて入れて十年を三分に短縮したの。見て!」

コンピューターの画面上にビジュアルなマリアのホログラムが浮かび、ゆっくり回転して少女から美しい女性に変身していった。

「十五、十六、十七、十八、十九、二十。これが十年後の私よ」

パソコンの画面上には、ミス・ワールド顔負けの絶世の美女が現われた。 

「これが、マリアちゃん? 面影は残っているけど」


マリアの研究室である。

「どう、抜群のプロポーションでしょう? 目、鼻、口、すべてが黄金分割よ」

一平は、涎を垂らしそうに画面の美女に見入っていた。

「身長一七五㎝、バスト八七、ウエスト五八、ヒップ八八㎝か」

パソコンのデジタル・データーはそうなっている。

「エッチ、いつまで見ているの。鼻血が出てるわよ」

「エッ、見ていろと言ったのはきみだぞ!」

一平は、鼻の下を触り、自分の手を見た。

「嘘をついたナ。鼻血なんて」

画面上には、十年後の素っ裸のマリアがこちらを向いて微笑んでいる。

「でも、こんなにうまくいくのかナ」

「インチキだというの。頭にきちゃうわね」

マリアがキー・ボードを叩くと、画面では再び、少女のマリアが美少女から美女に変わっていった。

「この変化、どこから見ても自然でしょう」

「でも、なんだか、騙されているような」

一平は、マリアの顔色を見て口を噤んだ。

「もう、私が大人になったとき相手にしてあげないから」


マリアの研究室である。

「これから面白い遊びをしない。名づけて“恋愛ゲーム”よ。大人になった私を、パソコンの前のあなたが口説き落とすというゲームなの。私が作ったゲームよ」

「ナンパゲームか。嫌な予感がするな」

マリアが、キー・ボードを操作した。画面に大人のマリアが登場して形のいいおしりを振って街を歩いて行く。プレイヤーの目線であった。

「さあ、声を掛けて」

一平は、マイクで話しかけた。

「お嬢さん、お茶でもいかがですか?」

「ダッさい。そんなサイテーな台詞だと、女の子は逃げちゃうわよ。バッカじゃないの?」

 パソコンの中のマリアが言った。

画面の中のマリアは、馬鹿にして見向きもせずに行ってしまった。

「あーあ。簡単にふられちゃった。一平ちゃんが私を口説くのは十年早いわネ」


マリアの勉強室である。

マリアが、勉強机の前に座って何か書いていた。

「何してるの?」

 一平が言った。

「ミステリーを書いてるの」

 マリアが答えた。

「ミステリー?」

「叔父貴が高木清四郎っていう推理小説家なんだけど、私は時々ゴースト・ライターをやっているの」

「あの高木清四郎の?」

「いま“マリアに首ったけ”っていうのを書いているのよ」

「・・・」

「役に立っているでしょう?」


都内の高級ホテルである。プール・サイドにいる。

一平は、マリアの同級生の黒木和也、岡田俊彦、早川大助の三人組と一緒に、プールで遊ぶゆきとマリアを眺めていた。

ゆきとマリアの二人は、反対のプール・サイドへ上がる。

ゆきは真赤な赤のハイレグでマリアは黒のスクール水着。マリアが、こちらへお尻を突きだしプリプリと振ってからかう。

悪がき三人組が、ワオーと声を上げる。和也はリーダー格で、俊彦はお坊ちゃまタイプ、大助は少し太っている。

「マリアちゃん、可愛いな」

和也が言った。

「アイドル歌手みたい」

と、俊彦。

「ほんとうに」

大助も同じ意見だ。

「一平さんもそう思うでしょう」

和也が、少し疑わしそうに訊く。

「ぼくは、ゆきさんにクラッとくるナ」

一平が答える。一平は、コーラを飲みながら三人と一緒に寛いでいた。

「本当に?」

俊彦が言った。

「どういう意味だい?」

一平が聞き返す。

「マリアちゃんを見ていて何も感じないの?」

大助が不思議そうにきく。

「まさか、ぼくはロリコンじゃないよ」

一平が首を強く振る。

「安心した。僕たち心配していたんだ。教え子と家庭教師ができちゃう話ってよくあるでしょう」

一平がコーラをブッと吹き出した。

「テレビの観すぎだよ。マリアが何か言っていたのかい?」

「いい家庭教師のお兄さんが来たって! 私の成績がいいのも一平さんのおかげだってさ。彼女、優等生だから」

和也がホッとして言った。

一平は、ニンマリ笑う。


プール・サイドである。

一平は、視線をグラマラスなゆきの水着姿からマリアへ移した。

「確かに将来が楽しみだな。今でも少し」

一平は、ひとり言を言った。

一平は、マリアを凝視しているが首を振った。

「まさか! まさか? まさか! ぼくはロリコンじゃないぞ」

 一平が小声で言った。

「一平さん、協定を結びませんか?」

和也が一平の妄想を断ち切る。

「なに?」

 一平が首を回す。

「僕たちは一平さんとゆきネエとの仲を取り持ちます。だから一平さんは僕たちがマリアちゃんと仲良くなるのに力を貸してほしいんです」

「きみとマリアの仲だろう?」

 一平は和也の方を向いた。

「抜けがけは許さないぞ」

 大助と俊彦が同時に振り向く。

「ちがうよ!」

和也は真っ赤になり弁解する。


一平の部屋である。

一平は、ベッドの上で、大学の前期試験の勉強をしている。ノックの音がする。

「どうぞ!」

 一平が声をかける。

「ちょっと、いい?」

 マリアが笑って言った。何か陰謀でも企んでいる顔だ。可愛いキティちゃんのパジャマを着ている。

「どうしたんだい?」

「眠れないの。“ケインズ理論”に“一般哲学”? 試験なの?」

マリアは、一平の本を取りあげる。

「明日からなんだ。嫌になっちゃうよ」

「完全無欠の必勝法を教えてあげましょうか?」

「ヤマを伝授してくれるというのかい? きみに教わるのは、複雑な気持ちだけど」

マリアは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「もっと、確実な方法よ。ハイテク装置を使うの。CIAやMI6の御用達のネ。私が、全ての答えを教えてあげるわ。いわばカンニングよ」

「しかし、ぼくの良心が」

「目を瞑っちゃいなさい」

マリアは、アッサリと切り捨てた。


マリアの研究室である。

屋敷の中は寝静まっていた。一平は、パソコンの前に座り、マリアの十年後の未来モデルを見ていた。一平は、キョロキョロと周りを見回した。天井の明かりは消していた。

「確かに理想の美人なんだよね」

 一平が呟く。

一平は、キー・ボードを叩き、何度もマリアの変化を繰り返し、楽しんでいる。

「ああ、ぼくはなにをやっているんだろう?」

一平は、再び“恋愛ゲーム”にチャレンジする。十年後のマリアが登場する。

「ホテルに行きませんか?」

一平は、パソコンのマリアに声を掛ける。

「私と遊ぼうなんて十年早いわ。一昨日おいで!」

 パソコンのマリアが言った。

画面のマリアに、一平が平手打ちを喰らわされる。

「相変らず気が強いな。十年後もそうなのかナ?」

一平はもう一度最初からやり直し、シミュレーションを繰り返した。

「ぼくと結婚してくれませんか?」

「もっと女心がわかるようになったらね。バイバイ」

画面のマリアが言った。何度やってもふられるばかりである。


研究室の天井の明りがパッと点き、ドアからマリアが顔を出した。

「見たわよ! 相変わらずエッチネ」

マリアはニヤニヤ笑って言った。

「びっくりした。心臓が止まるかと思ったよ」

一平は、消え入りそうである。

「うまくいってる? 駄目みたいネ。それじゃ、恋多き私が恋愛の極意を伝授してあげましょうか?」

「きみが?」

 一平が呆れて言った。

「そうよ。これでも、一年前に女になって以来、絶好調なんだから」

「それって、せい・・・?」

 一平が小さな声で言った。

一平は顔を赤らめる。

「ちがうわ。ハッキリいうと処女ヴァージンじゃなくなったってこと」

「ゲゲー」

「オックスフォードに留学していたときよ。相手は十歳年上の紳士ジェントルマン

「うそだ!」

「信じなくていいわ」

「だれ?」

一平、頭が真白になっている。

「さる王国の王子様プリンス。だから、名前は教えられないの」

マリアはニッコリ笑顔を見せる。

一平は驚きのあまり凍りつく。


一平の部屋である。もう朝だった。

マリアが乱入し、ベッドで寝ている一平の上へ馬乗りになる。

「一平ちゃん。いつまで寝ているんだ。もう朝だぞ、試験だよ!」

マリアが大声で言った。

「しまったー。何もやってない」

 一平が言った。

一平は、がばっと跳ね起きる。

「そう思って、試験対策の用意をしてきてあげたわ」

マリアは、テレビ・カメラ内蔵のメガネ、無線機用イヤホン、メール受信用腕時計、ピンマイク付きのペンダント等(etc)、実践スパイ・グッズをテーブルに並べた。

「これから使い方を教えるわね」

「今回だけは助っ人を頼もうかな。でもきみも学校があるだろう?」

「じいやに、病気だからって電話してもらうわ」


美咲家の食堂で、マリアと一平が、朝食をとっていた。

一平は疲れ切った様子である。

「夜遅くまで勉強しているからよ」

 ゆきが、給仕をしている。

「ただパソコンで遊んでいただけよ」

 マリアがバラす。

「今日は試験でしょう。がんばってね」

 ゆきが言った。

「ありがとう。ゆきさんこそ」

 一平は、ゆきを憧れの目差しで見た。


美咲家の玄関である。

マリアと一平の出発を、ゆき、ばあや、じいや、ラッキー達が見送っていた。ラッキーは、尾を振り、ワンと吠えた。一平は、ビクッとした。マリアは、大きなリュックサックを背負っている。一平と手を繋いで、楽しそうだった。


M大学である。

経済学部の擂り鉢状の大講義室で、大勢の学生が階段状の机についていた。一平が、教官にマリアを連れて来た理由を説明していた。

「今日一日、子守りをするよう頼まれたんです」

 一平が言った。

マリアは、リュックサックから童話の本・リカちゃん人形を取り出した。

「本を読んで大人しくしています」

 マリアは可愛らしく言った。

一平は、マリアと一緒に最後尾の席についた。経済原論の試験が始まる。


講義室である。

マリアは、寄り添い右手を延ばして一平の答案用紙に解答を書いていった。隣の女学生が目を丸くしている。一平、その女子大生に情けなく愛想笑いをした。


教養学部の視聴覚室である。三日目になる。フランス語の試験だった。

一平が、超小型無線機のイヤホンをして、ワッペン型のスピーカーを視聴覚室のマイクに近づけていた。マリアは、トイレの個室から変声器を通し答えていた。一平の声にそっくりである。


七日目になる。法学部の憲法概論の試験だった。大きな教室である。二十一ある最後の試験になった。

一平は、スパイの眼鏡を掛け、イヤホンをしている。マリアは、外の芝生の上でラップ・トップ・パソコンを開け、試験の解答を一平の腕時計にメールで送っている。パソコンのディスプレイの画面にテレビ・カメラがとらえた試験問題が映っていた。一平の眼鏡がディスプレイの画面を映し出している。

「まるで、ミッション・インポシブルみたいでしょう?」

 マリアが得意げに言った。

 

一週間後である。一平は、ゼミの担当の鈴木教授から部屋へ呼ばれていた。

「やればできるじゃないか」

 鈴木教授が言った。

「ヘッ?」

 一平が、わけがわからないという顔をした。

「今度の試験は全部Aだそうだ。他の教授も褒めていたよ。完璧だってね。きみには、将来私の教室に残ってほしいな。まだ一年生だけど」

「ありがとうございます。でも」

一平は、複雑な表情を浮かべていた。

「私の推薦じゃあ不満なのかね」

「いいえ、そんなわけじゃなく、ぼくは卒業したら国家公務員になりたいんです」

「君の意志が強いんならしかたがない。でも、もったいないな」


一平の部屋である。

マリアが、お邪魔していた。窓から朝顔が咲いているのが見える。一平が、ビールを飲んでいた。

「勉強さえすれば、マリアがいなくたってオールAを取る自信はあるんだ」

 一平が不満を述べた。

「ハイハイ。わかっていますよ。ねえ一平ちゃん、三泊四日のミステリー・ツアーがあるんだけど行かない? M大学のミステリー・クラブの合宿よ。ゆきちゃんも行くわ」

 マリアが言った。

「なんだって?」

「会長の加藤夏美さんが田舎に別荘を持っていて、夏休みに遊びに来ないかって誘ってくれたの。本当は恋人の和夫さんと一緒にいたいからなのよ」

「その夏美さんの別荘ってどこにあるんだい?」

「それは着いてからのお楽しみ!」

「参加者は?」

「私たちとゆきちゃん、友達の和也くん、俊彦くん、大助ちゃんと、同好会の人が二・三人よ」

「まるで、お子様クラブじゃないか?」

 一平が呆れていった。

「夏美さんはお父さんの教え子なの。私とも仲がいいのよ。だから、わがままが通るの。でも、夏美さんって美人で驚くわよ」


合宿の当日である。

M大学校門前に豪華なキャンピング・カーが停っていた。マリア、一平、ゆきが到着した。ラッキーも同行していた。和也、俊彦、大助も待っていた。みんな可愛いリュックサックを背負っていた。

「お待たせ!」

 マリアが言った。

マリアは、三人組と頭の上で、ハイタッチ。「オッス!」。

ゆきが、一平にミステリー・クラブの三人のメンバーを紹介した。

「この方が副部長の内田さん、こちらが森田さんと佐々木さんよ」

 ゆきが引き合わせる。

「こんにちは!」

 一平が挨拶した。

「どうも!」

 内田が応える。

「よろしくね」

森田が言った。

「騒がしくなりそうね」

佐々木がため息をついた。


キャンピング・カーの中である。ラウンジ風になっている。

「ヤッター、出発だ」

和也、俊彦、大助が同時に叫ぶ。


キャンピング・カーは、都心を離れ、だんだん寂しい風景になった。窓の外に、木々の緑が迫り、蟬の鳴き声が喧しい。マリアと三人組たちが、外を見てはしゃいでいる。


キャンピング・カーの中。

一平が、マリアの人形のように可愛い顔を眺めていた。


一平の回想である。

M大学のキャンパスの芝生の上である。一平と友人の片山が座って話していた。カップルの姿も見え、テニスコートでは女子学生が練習をしている。

「きみは、小さな女の子に、その、何て言うか、恋愛感情みたいなものを感じたことはないかい?」

 一平が言った。

「小学生にか? それとも、中学生?」

片山が、一平を恐るおそるみて言った。

「たとえば、小学生にだよ。もちろん、ぼくは大人の女性が好きなんだけどね」

「俺はロコンじゃないよ」

片山が、疑わしい目を一平に向けた。

「もしその女の子が人形みたいに可愛くて、将来スーパーモデル並みの美女になることが約束されていても?」

「それなら、唾をつけておくかも。そんな美少女がお前の近くにいるというのか? いや、やっぱ俺は遠慮しておく。いくらなんでも小学生じゃあな」

片山は一平をジッと見た。

「そうだよナ」

「一言忠告しておくけど、このことは誰にも言わない方がいいぞ!」

「何か誤解してないか?」

「わかっているって。人の趣味はいろいろだもんな」

「絶対、誤解しているよ」


キャンピング・カーが、田舎を走っている。

両隣に山が迫っている。

大きな川に掛かる橋を渡る。

マリアが一平を肘で小突いた。

「ねえ、一平ちゃんたら」

 マリアが言った。

「なんだい?」

 一平は、ボーっとしている。

「何を考えていたの?」

「別に。それより、加藤さんと小森さんは?」

「二人は、一足先に夏美さんの別荘に行っているわ。あちらで、従妹のあかねさんも一家で夏を過ごすのよ」


山道にかかる。

道はだんだん狭くなり、車では行けなくなる。

一行は、キャンピング・カーを降りて、歩く。一平と内田が、荷物を担いで、肩で息をしている。マリアと、三人組は、テンションが高い。ラッキーは、嬉しそうについて行く。ゆき、森田、佐々木三人は、話しながら歩いている。

「メイドさんは、久我さんって言うんだけど、コックの腕はプロ並みだそうヨ」

 森田が言った。

「それは楽しみ」

 ゆきが嬉しそうに言った。

「でも、いつまで歩くの?」

 佐々木がきいた。

「この峠を越えたらすぐだよ」

 内田が期待をこめて言った。


マリアの回想である。

和夫と夏美との会話を思い出していた。

美咲邸の応接間で話をしていた記憶である。和夫は、隣でクシャミばかりしていた。

「スギ、マツ、ブタクサ、全部ダメなんだ」

 和夫が言った。

「いくらお金があっても幸せとは限らないわ」

夏美はマリアの方を見て、溜め息をつく。

「あかねちゃんでさえ、私のご機嫌を伺っているのよ。叔父さんが借金で火の車だから。そんなことしてほしくないのに」

 夏美が言う。

「本当の友達がいないって悲しいネ」

 マリアが言った。

「だけど、この人はこんな私を心から愛してくれているの」

夏美が和夫を見て示す。

「羨ましい」

 マリアは言った。心からの言葉のようである。

「あなたにもきっと現われるわ。あなたを本当に理解してくれる人が」

 夏美が温かい目でマリアを見た。

「たぶん、いっぺ……」

マリアが言いかけて口を噤んだ。


峠に立って、長閑な村を俯瞰する。

目の前一杯に、山村が拡がり遠くに夏美の別荘が見える。一際大きな、レンガ造りの三階建ての屋敷である。

「ワオー、雰囲気ある」

 和也が感激して言った。

「まるで、ファミコンの中みたいだ」

と、俊彦。

「今夜、肝試ししようよ。あの黄色い野原から墓地へ抜けるの」

 マリアが言った。

「オレ、イヤだよ」

大助が首をふった。


夏美の別荘は、大きな三階建ての西洋館だった。門を入ると広い庭があり、花壇には夏の花が咲き乱れていた。一行は一階の小ホールに通された。

皆が疲れを癒している。財部あかねが出迎え、いろいろ世話をしていた。良造、令子夫妻の姿も見えた。

「もうすぐ夏美さんが来ますから、もう少しお待ちください。小さな紳士たちは、何か飲みますか?」

あかねが皆へ言った。

「僕は冷たいコーラ」

和也が注文した。

「ボク、アイス・コーヒー」

と、俊彦。

「オレ、オレンジ・ジュースがいい」

 大助が頼む。

少し離れたソファに、マリアと一平が座っている。

「一平ちゃんは、財部家の人をどう思う?」

マリアが言った。

「あかねさんは控え目で感じのいい人だね。お母さんは何か陰険そうだし、お父さんは傲慢な感じがするナ」

 一平があかねに目を遣って口を開いた。

「私の印象は、ちょっと違うけどナ。でも、夏美さんが財部家の人達を嫌っているのは確かだわ」


小ホールで皆が寛いでいるとき、突然悲劇の惨劇のショーの幕が上がった。

大ホールの方でドタバタと音がした。

和夫の声がして、「バン」と物を叩く音に続いて、「痛い」と夏美が叫ぶ声が聞こえた。大ホールとの境のドアがノックされ少し開いた。「あかねちゃん、ちょっと」と夏美の声がした。ドアのすぐそばにいたあかねが、飛んでいった。あかねが、首を突っ込み二人で、小声で話していた。あかねは、後手でドアを閉め一同に向き直った。

「夏美さんは、化粧し直してから来ます。その、少し目の下に痣が出来たからって」

 あかねが説明した。

「和夫君に殴られたんだな?」

 良造が言った。一同が、良造の方へ向いた。

「今朝、喧嘩をしていたようだから・・・。まあ、仲のいい証拠だよ」


小ホールでの出来事である。

大ホールから、夏美と和夫が喧嘩をする大声が聞こえてくるので一同そちらへ向いた。

「浮気をしただろう。わかっているんだぞ! 相手は誰なんだ?」

 和夫の声だ。

「私を信じて! 愛しているのはあなただけよ」

夏美の訴えるような声が聞こえた。

続いて、「バン、バン」「ガチャーン」と物を叩き壊す音やガラスが割れる音etc。なんだか、バットで殴っているようである。みんなは動けず、フリーズしていた。

そのシーンを想像していたのだ。

「や、やめて! 助けて!」夏美が哀願した。

「待て!」和夫の大きな声が続く。

バタバタと夏美の逃げる音。

ドタドタと和夫の追い駆ける足音がした。

良造が、ドアのところに行って、ノブを回す。

しかし、大ホールの側から錠が下りている。

内田が、ドアをドンドン叩き、「夏美さん、和夫さん! ここを開けてくれ!」

「向こうには健太や美子さんがいる。大丈夫だ」

 良造が言った。


まだ、小ホールである。

皆が、集まっていた。

「外に入口は?」

一平が言った。

「裏口が」

 内田が言った。

「そっちへ回ってみよう」

 と、一平。

「待て!」

 良造が止める。

一平、マリア、三人組は、良造の止めるのもきかず、飛び出した。ラッキーが続き、あかねが、すぐ後を追った。


別荘の裏口に向かう。

一平が、ドアのノブをガチャガチャ回すが鍵が掛っていた。

あかねの携帯電話が鳴る。

「エエ、わかったわ。こちらも鍵が掛かっているの」

 あかねが電話で言った。

「何ですって?」

 一平がきく。

「お父さんから。大ホールの鍵が見つかったので戻れって! 行きましょう」

 あかねが促す。

マリアが、裏口のそばにある蛇口と、水撒きホースを見ていた。


再び小ホールである。

良造が、大ホールの仕切りのドアの鍵を開ける。

大ホールの中に一同が踏み込む。

豪華なオーディオ・セットなどが破壊されていた。水槽も叩き壊され水がカーペットの上に溢れて金魚の蘭鋳が床の上で跳ねていた。まるで、嵐が吹き抜けて行ったようだ。

「内田君、上野君、あかねらは二階の様子を見てくれ。儂は、台所へ行ってみる。みんなはここにいて」

 良造が指示した。

「気をつけて! 相手はバットを持っているわ」

マリアが注意した。


二階への階段を上がった左の部屋が、夏美の部屋である。

「夏美さん! 大丈夫ですか?」

 内田が大声を上げた。

バス・ルームから換気扇の音が聞こえる。

「夏美さん、入りますヨ」

 あかねが小さく声をかける。バス・ルームへ行きカーテンを開ける。

あかねは、思いっきり、「キャー」と叫ぶ。

内田と一平が、そちらへ駆けつける。

バス・タブの中で夏美が胸を刺されて死んでいた。


厨房では、良造が、後ろ手に括られた久我美子のロープを解いていた。

財部健太も同じように後ろ手に縛られていた。

二人とも意識がなかった。

内田、一平、あかねの顔が入口から覗く。

「夏美さんが刺されて死んでいます」

 内田が報告した。

「和夫くんは?」

 良造がきく。

「どこにもいません。二階の部屋は全部見て廻ったのですが」

 一平が言った。

「一階も同じだ。警察を呼ぼう。一一〇番だ」

良造が指示した。


別荘の二階の夏美の部屋では、検死官が夏美の死体を検分していた。ずんぐりした体の静警部がそれを見ていた。いかつい顔をしているが、どこか憎めないユニークなところがある。


別荘の大ホールは、不安や動揺の声でざわついていた。

静警部が、良造へ事情聴取していた。

皆もそこへ集められていた。

「つまりこういうことですか? 小森和夫という青年が痴情の縺れから加藤夏美さんを殺し裏口から逃走した。その間、約五分間。お手伝の久我美子さんと財部健太君に薬を嗅がせ、縛って自由を奪った」

静警部が聞いた。

「痴情の縺れというのはどうだか。二人は真剣に愛し合っていた。ちょっとした浮気心じゃないのかな? 夏美は女王様だったから」

良造が答えた。

マリアが、ゆきに耳打ちしている。

「刑事さん、裏口のドアの鍵は掛かっていたんですか?」

ゆきが言った。

「ぼくたちが、あのドアから離れた後ですか?」

一平が確かめた。

「我々が来たときは開いていた」

 静警部が、静かに言った。

「だから、和夫君がそこから逃げたとしか考えられない。もう少し遅かったら、きみたちと鉢合わせの可能性もあった」

 良造が断定した。

「そんなことは不可能です。ほら」

 ゆきが否定した。

ゆきが、ドアを開ける。ホースから流れる水が溢れ、土が泥濘でいる。足跡はない。

「裏口から戻る時、マリアちゃんが悪戯して水を流しっぱなしにしたんです。見てのとおり足跡ひとつありません。これは誰もここを通らなかった証拠です」

 ゆきが推理を述べた。

「台所の窓は鍵がかかっていなかった」

 良造が言った。

「ドアを開けてみたら水浸しだったので、窓から脱出したと言うんですか? 一刻も早く逃げだしたいはずなのに?」

 一平が首を振った。

マリアが、一平へ親指を立ててみせた。


数時間後のことである。近くの山林の野原に風が一撫で通り過ぎていく。

ブタクサの黄色い花が一面に咲いていた。大きな木の枝に、小森和夫が首を吊ってぶら下がっている。それを静警部や刑事たちが取り囲んでいる。


再び夏美の別荘の小ホールである。

静警部が、一平、マリアたちと話している。

「和夫さんは自殺したんじゃありません」

 一平が言った。

「どうして?」

 静警部がきいた。

「和夫さんは花粉症なんです。とくにブタクサのネ。これは、ゆきさんからの情報です。それがブタクサの生えている野原で自殺なんてしませんよ。クシャミのオンパレードで、それどころじゃありません」

 一平が説明した。

「しかし・・・、だれが、どうやって?」

 静警部が自問した。

マリアが、一平に耳打ちした。

「麻酔を用意していたなら、計画的殺人です」

 一平が言った。

「たまたま持っていたんだ。医学生だからな」

 良造が意見を述べた。

一平とマリアが顔を見合わせた。

「ナイフも?」

一平がきいた。

「あれは夏美ちゃんの部屋にあったものよ」

 令子が言った

あかねが、そうだというように頷く。


大ホールである。

みんなは、それぞれの想いで過ごしていた。隅に静警部や刑事たちの姿も見える。

気を紛らわすために、内田が、ゆき、一平、マリア、三人組にマジックを見せていた。

「あれはごく単純なマジックなのよ」

 マリアが言った。

「そうなんだ」

 一平が言った。

「私たちは、ミステリー・クラブというよりマジック・クラブなの。でも、夏美さんはミステリーが大好きだったわ。本気で推理作家を目指していたみたい」

 森田が言った。


夏美の別荘の一平の部屋である。

さり気なく置かれている家具や、壁の絵、インテリアは高級なものである。

「和夫さんが、あんなことをするなんて、とても信じられない」

 マリアがいった。

「だって、『和夫さんがバットで暴れ回った』とか『和夫さんに襲われて薬を嗅がされた』って。家政婦の久我さんと健太君が証言しているんだよ。二人の証言だ。これって、動かし難い事実というやつだろう」

 一平が反対意見を述べた。

「だから、おかしいのよ」

 マリアは、手をあごにやった。


夏美の別荘の二階のゆきとマリアの部屋。

ゆきが、窓際で読書していた。マリアが、ベッドに腹這いになって映画のDVDを観ている。一平が、椅子に座って、それを眺めていた。画面ではブロンドの美女が濃厚なベッドシーンを演じていた。

「つまらない映画ね。嘘っぽいわ」

 マリアがいった。

「君は英国イギリスにボーイフレンドがいるんだろう。こんな感じじゃ?」

 一平がきいた。

「一平ちゃん、妬いているの」

 マリアが笑った。

「一平さん、からかわれているのよ。マリアちゃんは、ボーイフレンドはおろか、まだキスしたことさえないんだから」

 ゆきがニッコリして言った。

「ゆきネエ、バラしちゃ、ダメ!」

 マリアが慌てていった。

「そうなんだ?」

 一平が頷く。

「私がそんな安っぽい女に思える」

マリアが少し怒ったように言う。

「全然!」

 一平が、さも当然というように目を伏せる。


夏美の別荘の三階である。一平の部屋だった。

一平とマリアの二人きりだ。

「罠を掛けてみようかナ」

 マリアが言った。

「何?」

 一平が聞き返す。

「一緒にお風呂に入ってあげようかってきいたのよ」

「冗談はよせよ」

「ワァー、赤くなってる。一平ちゃんのエッチ!」


早朝の林の中。

マリアが、散歩をしている。

「美味しい餌を撒いてあげたんだから、おいでなさい」

 マリアがひとり言で言った。

近くでポキッと枝を踏む音がした。マリアが、ドキッとして振り向いた。


林の中である。

マリアが、木の陰に引き摺り込まれた。暴れるが大人の力にはかなわない。当て身を喰らわされ、気絶する。その前にポケットのスパイ・グッズのスイッチを入れる。


マリアとゆきの部屋である。

ゆきと一平がいた。ゆきが、ラッキーに食事をやっていた。マリアのラップ・トップ・パソコンがポーズの状態になっていた。一平は、そのリターン・キーを押してみた。ディスプレイに何か浮かび上がって来た。


そのとき、大助が、慌てて飛び込んできて、

「マリアちゃんが誘拐されちゃった!」

「どこだ!」

 一平が大きな声で叫ぶ。

「あっちの林の中。バードウオッチをしていたら、黒い手が伸びてきて、マリアちゃんをさらったんだ」

大助が、窓の外を指さし言った。

「ラッキー、マリアを捜すんだ」

 一平が、命令する。

一平は、ラッキーの首輪を外した。

ラッキーは、部屋を弾丸のように飛び出して行く。


再び、林の中である。

マリアが、担がれ湖の方へ運ばれていく。

「大人を脅迫するからこんなことになるんだ!」

犯人が悪態をつき言った。

ゆきとマリアの部屋である。

テーブルの上のパソコンのディスプレイ上に、マリアのメッセージが浮かび上がる。

しかし、部屋にはだれもいない。


【犯人丨財部家のみんな。良造、令子、あかね、健太。四人の共犯。たぶん、主犯はあかね、良造と健太が実行犯、令子も同罪である。なぜならこの殺人は家族みんなのチーム・ワークがなければ実行不可能だから。

動機丨夏美の莫大な財産、夏美に対する嫉妬、敵愾心等。

トリック丨夏美がミステリーを書くために創出したTRICKを使った。お金がかかる大掛かりなトリックだ。それを検証するために、夏美と和夫は、財部家のみんなに協力させた。あのホールの破壊や喧嘩は全部お芝居で、一時間前に終わっていた。それをレコーダーで全部音を拾う。この秒読みと時間差のトリックは悪党たちにそっくりそのまま盗まれた。配役もシチュエーションも実際と同じで……。被害者の二人が主役を演じるのだから完璧な殺人劇だ。観客はお手伝いの久我美子と私達別荘に招かれた人たち。これがミステリー・ツアーの本当の正体で夏美が用意したサプライズだ。ただ自分と和夫が殺されることを除いて……。これは被害者の協力なくして不可能な犯罪である。】


マリアの推理のイメージのシーン1。

前夜、夏美、和夫がお酒を飲んでいる。お手伝いの久我にも勧め、その酒に和夫(医者の卵である)が眠り薬を入れる。翌日一時間早く久我が起こされる。時計は、すべて一時間進められていた。


マリアの推理のイメージのシーン2。

その朝、財部家のみんながこの計画をリードし、久我の行動を監視した。十一時三十分。トリック開始。あかね、久我にミステリー・クラブの面々が来たと言う。久我は十二時半だと思っていた。トリックのため夏美は計画通りに和夫と喧嘩し、和夫、大ホールの水槽や家具などを破壊した。それをレコーダーで録音しておいた。久我に、その様子を見せておいた。そのすぐあと、久我は和夫に薬で眠らされた。ここで、夏美と和夫は退場。久我を眠らせてから、財部家のみんなは夏美と和夫を殺した。二人は再び登場するマジシャン役のはずだった。すべてが終わり、トリックの検証が済んだあと・・・。夏美の死体は二階の浴室へ、和夫の死体は野原へ運ばれた。夏美と和夫はシナリオどおり久我が作った朝食を一時間後に食べているので検視における胃の内容物の消化とも辻褄が合った。


マリアの推理のイメージのシーン3。

十二時三〇分、本当に一行が到着する。健太が、小ホールのあかねと呼応し、みんなに十一時三〇分のレコーダーの音を聞かせるーオーディオ・セットで。もう一度水を撒き、生きている金魚を放す。小ホールからは、誰も夏美を見ていない。境のドアを健太が少し開けてあかねが芝居したのだ。健太は厨房に戻って自分の足を縛って薬を嗅ぎ、被害者だと偽装した。勿論あらゆる証拠を消し、和夫を貶める色々な細工をしておいた。


マリアの推理のイメージのシーン3。

十二時四〇分。一同大ホールへ踏み込んだ。良造の指示でみんなは二階へ行き夏美の死体を発見し、良造は厨房へ行き健太の手を後ろ手に縛った。後の山狩り(捜索)で、警察が小森の首吊り死体を発見。

以上、 証明終了(QED)。


―数学が苦手な一平ちゃんでも、こんな簡単な問題は融けるでしょう? これしか答がないんだから―


林の中である。

ラッキーが、マリアを追いかける。一平が、息を切らせて全力疾走で後に続く。一平はポケットの中でスパイ・グッズが鳴っているのに気づく。スパイ・グッズで、マリアの居場所を確かめながら走る。


湖の崖の上。

一〇メートルの高さがある。

良造、令子、あかね、健太の顔がみえる。

良造がマリアの両手、あかねが両足を持ち一、二、三のブランコの反動で、マリアを湖へ投げ入れようとする。ラッキーが、良造へ飛びかかる。時すでに遅く、悲劇のお姫様は、湖へ投げ込まれる。一平が、全力で駈けて来て、崖から湖へ飛び込む。

「しまった。泳げないんだ」

 一平が口を開いた。

「ドボン」と、一平は水の中へ沈む。


湖の畔である。

マリアと一平は、後からやって来た静警部や刑事や警官に助け上げられた。ラッキーが、マリアの顔をペロペロ嘗ている。

「ありがとうございます」

 マリアが言った。

「もう、あんな無茶をするんじゃないよ。自分を囮にするなんて」

 静警部がやさしくいった。

「金槌なのに私のために、無茶よ!」

マリアが一平へ涙ぐんだ目を向ける。

マリアの目が、悪戯っぽい目に変わる。

「といいたいところだけど、遅かったじゃない! もうすこしで殺されるところだったんだゾ」

「強がり言ってる。しかし、これは役に立ったよ」

 一平は、ポケットからスパイ・グッズを取り出す。


夏美の別荘である。

「静警部、ありがとうございました」

 一平がいった。

「ありがとうございました」

 マリアの声が先細りになる。

「マリアちゃん、もうあんなことをしちゃ駄目だぞ。美咲警視も心配していたよ」

 静警部がお灸をすえる。

「まあ、叔父さまを知っているの?」

「ぼくの友達だからね。それに、彼は警察庁の星だ」

「そんなにエライ人なんだ」

 一平がいった。

「でも、今回は君と一平くんのお手柄だ。でも調子に乗っちゃダメだよ」

 静警部がいった。

「そうみたいネ」

マリアが、素早く一平の唇に唇を重ねる。

「もう。言ってるそばから」

 静警部は笑った。

和也、大助、俊彦たちがやって来る。

「一平さんばっかり。ズルーい」

三人は頬を膨らませる。

マリアは、三人の頬に軽くチュ、チュ、チュッとキスをした。三人達は、照れまくる。

良造、令子、あかね、健太の四人が、手錠で拘束されたまま呆然としてその様子を見ていた。静警部が犯人達を連行していく。


シーンは変わり、ホテルのプール・サイドである。

三人組が、ビーチ・ボールで遊んでいた。マリアと一平が、それを眺めていた。

「でも、すごい推理力だね」

 一平が言った。

「シャーロック・ホームズ顔負けでしょう?」

 マリアが言った。

「よく言うよ。確かに、彼より頭がいいけど・・・」

「あかねさんたち、少しも反省してないようよ。他の人のせいばかりにして」

「美人で頭も良く、大金持ち。その嫉妬と反感が、この悲劇を生んだんだナ」

「もし、人を殺すつもりなら、切腹する覚悟でやれっつーの。私、あの人たちが死刑になったって、同情しないわ」

「あんなひどい目に遭ったんだから、当然だよね!」

「命の恩人にはやさしいわよ。それに、愛する人にもね」

マリアが一平にニッコリ微笑む。


美咲邸の一平の部屋である。

一平がマリアの恋愛ゲームに嵌っていた。

「一平ちゃん、なにしているの?」

マリアが後から急に現われる。

「マリアか! ああびっくりした!」

 一平がドキッとして言った。

「十年後の私を口説こうとしても無駄よ。お堅いんだから」

「だから今のきみを口説いているんだよ」

ディスプレイの画面では、十歳のマリアが微笑んでいた。ピンクのハートのマークが舞っていた。

「もう、子供なんだから」

「それを言わないでよ」


「それより、本物のデートをしてみない?」

 マリアは、満面に笑みを浮かべる。

「いいね。どこへ行きたい?」

「東京ディズニー・ランドに行きたい!」

「やっぱり、子供だ〜」

 マリアは一平の頬にキスする。

 一平が飛び上がる。


『クイズ美リオネア』の巻

 美咲邸の一平の部屋にマリアがお邪魔している。

「今度、本物のデートをしてみない?」

 マリアが満面に笑みを浮かべて誘う。

「いいね。どこへ行きたい?」

 一平がきいた。

「『クイズ美リオネア』に一緒に出るっていうのは、どう? 予選は一週間後なの。ハガキを出しておいたのよ」

「またー。ぼくの意志を完全に無視している。でも面白そうだな」


数週間後、一平・マリア組が次々と予選を勝ち上がっていき、決勝戦まで勝ち残る。

マリアの部屋に今度は一平が来ている。相変わらず可愛いインテリアの普通の子供部屋である。

勉強机の上のパソコンのディスプレイに、世界の株式市場の数字が流れてさえいなければ・・・。

『クイズ美リオネア』決勝戦前日である。

「ここまで来られたのも全てきみのおかげだよ」

一平が、マリアの目をみてきいた。

「でも、ボクらのコンビって、おかしくないかい? 変な意味じゃなくってさ」

「別にいいんじゃない? もちろん、わたし的には一平ちゃんの知性には少し不満がないこともないけど・・・」

「そういう意味じゃないよ。大学一年生の男子と小学三年生の女の子のコンビだよ」

一平が言った。

「一平ちゃんは秀才大学生ということになっているのよ。大学の前期試験もオールAだったし、問題ないんじゃない?」

「もう、ITカンニングのことは言うなよ。きみには感謝しているんだから」

 一平は顔を赤くしていった。

「ボクにも良心の呵責はあるんだぞ。ちょっとしなけりゃよかったと後悔しているんだ」

「あのスパイ・グッズはよくできていたでしょう?」

「君が作ったんだろう?」

「この賞金が入ったらどうする?」

 マリアが話題を変えた。

「きみにみんなあげるよ」

「クイズビリオネアなのよ。ミリオネアじゃなく」

「ヘエー」

一平は、信じていない。

「それに、今度の問題は高木叔父貴が作ったらしいわ」

「あのミステリー作家の? だったら、答を知っているわけ?」

「そんなこと絶対にありえない。叔父さんは不正が嫌いなの」

「でも、IQ200以上だから簡単だよね」

「叔父貴は手強いわよ。私の小さい頃の家庭教師だったの。何でも教えてくれたわ」

「ウッソー」


『クイズ美リオネア』決勝戦当日二人はテレビ局にいた。

「マリアって、目が悪かった?」

広い控え室で、一平が言った。

「いいえ、全然! お洒落のためよ。視力は、2.0あるわ」

「そうだよね。テレビに映るんだもの・・・」

「これは秘密兵器よ。叔父貴に対抗する」

「それじゃ、ボクが使ったようなカンニング・マシン? CIA御用達の」

 一平が、そっと囁く。

「人聞きの悪いこと言わないで! 実力と自信はあるわ。これは保険よ」

「そうだよね。そんな007みたいな道具を作れる人間コンピューターだもの」

「まあ、任せておいて!」


「今回の問題はドラマ形式のミステリーなんだろう? どんなんだろう?」

「ドラマでは、どんな設定でも受け入れなければならないの。たとえ常識ありえそうにないことでも」

 マリアが言った。

「このクイズの問題のことを云っているの?」

「『タイム・マシン』も、ホーキング博士が理論物理学的にはそんなことは不可能だとのたまってしまえば、H・G・ウエルズの、あの名作は存在意義がなくなってしまうでしょう? 晩年のホーキング博士はタイム・マシンの存在を否定していないけど」

「なるほど」

「いつか高木叔父貴が、そんなことをいっていたわ」

「参考になるね」

「ならないわ」


『クイズ美リオネア』の本番の会場である。

豪華な舞台で、クイズ王決定戦という看板のイルミネーションがキラキラ輝いている。

観客の中に美咲家のじいや、ばあや、ゆきちゃん、悪がき三人組たちの顔もみえる。

観客の拍手で司会者が登場する。

「今回の正解者には二千万円の賞金がプレゼントされます。キャリー・オーバーで賞金が貯まっているからです。さあ、お二人の登場です。どうぞ!」

 司会者の紹介で、マリアと一平が、舞台に現れる。

マリアは堂々としており、一平は緊張している。

一平は観客に小さく弱く、マリアは大きく強く手を振った。

「難関の予選を勝ち抜いた二人です。美咲マリアさんは小学四年生、上野一平さんは大学一年生の学生さんチームです」

観客は、この凸凹コンビに惜しみない拍手を送る。

「今回出場するのはこのチャンピオンの一組だけです。クイズは、これからドラマを観てもらって、後で出す問題に答えるという簡単なものです」

「二千万円。そんなに・・・。きっと難しい犯人当てゲームなんだろうね?」

 一平が小声で言った。

「たぶん、奇想天外で、現実離れしたトリックよ」

 マリアが言った。

「先生は、犯人当てのミステリーが得意だし、きっと最も意外な人物が犯人なんだろうね」

「たぶんね。もしかしたら、ラマヌジャンの方程式より奇想天外かも」

「そのラマ・・・なんとかって?」

「インドの天才数学者よ。三十代の若さで夭逝しちゃたけど・・・」

「ボク達が玉砕しなければいいけれど・・・」

一平の声が小さくなった。

「負けないわ」

「クイズ・スタート! さあ問題のドラマをご覧ください」

 司会者が言うと、会場の巨大スクリーンに映像が映し出された。

 会場が暗くなる。

 ドラマ、スタートである。


『恋するDNA


登場人物

高木清四郎(38)…私。天才生物学者。

   紀子(31)…私の妻。生物学者。

形山真梨 (24)…私の恋人?

翁長秋暢 (37)…私の親友。心理学者。

天藤俊介 (33)…私の助手。生物学者。

森田真一 (28)…医師。

阿南由利 (21)…看護師。

中谷隆  (67)…ナカタニ製薬社長。

花岡麗子 (36)…  〃   副社長。

鈴木一郎 (25)…  〃   秘書。

小林真一郎(70)…紀子の父親。

内藤悟  (19)…ガードマン。


○美しいDNAの二重らせん構造モデルの紐がほどけていき、問題「恋するDNA」という文字を形成する。


○エッシャーの「滝」の騙し絵。動画である。

この絵の水の中を『この問題の答えは、○○(マルマル)だ!』という文字が滝に流れていく。すばやく、さり気なく、大胆に・・・。


○サブリミナル・メッセージ。

この不思議な動画に『この問題の答えは、○○だ!』という映像(文字)と音声(声)を二十四分の一秒で一コマ挿入。数箇所。


○ナカタニ研究所の一室。バス・ルーム。

形山真梨、白い裸身を泡の立つバス・タブの中に沈めている。

真梨「あなたも入ったら?」

男「(隣の部屋のベッドから)ぼくはいいよ」

 真梨、バス・ルームから出て寝室のベッドの毛布の中に潜り込む。机の上のカレンダーの八月十一日の数字が○で赤く囲まれ、机の引き出しの中には小さなダブル・デリンジャーの拳銃が見える。


○同ベッド・ルーム。

 真梨と男、毛布の中で抱き合う。

真梨「本当に、結婚してくれるの?」

男「ぼくがウソをついたことがあるかい?」


○八月十一日。ナカタニ研究所。

 三階の吹き抜けのバルコニーから男が落ちて行く。三階のフロアに体をぶつける。男の頭から白い床に真っ赤な血が広がっていく。


○八月十一日。同研究所。

 三階のバルコニーから、顔がのぞき、下を見る。顔は影になってよく見えない。


○テレビ。ニュース。

アナウンサー(女)「平成十八年、山中伸弥教授のチームがiPS細胞を発見して以来・・・」


○テレビ。チャンネル・チェンジ。クローン人間についての討論会。テーブルに四人の男女がいる。

女B「一体、いつの時代の話をしているのですか? 今は人間の自由、権利、倫理などがないがしろにされていた中世とは違うのですよ」

男A「さあ、いつだろうな?」

女B「やめてください!」

男A「冗談だよ。現代だからこそ遺伝子組み替えやクローン技術に制限が必要なんだ」

女A「なにもそれを否定しているわけじゃないわ。いいも悪いも人間の未来が掛かっているんだから」

男B「バイオ・テクノロジーは人類の幸福に貢献する科学のはずです」

女A「ワトソン博士が言ったように、DNAには無限の可能性があるわ」

男B「しかし、倫理や道徳心という人間にとって一番重大な問題を抱えているのも確かです」


○病室。完全防備の個室。医師の森田新一と看護師の阿南由利、検診に来ている。私、テレビを観ている。

森田「精密検査の結果、肉体的には何の異常も見つかりませんでした」

私「つまり問題は頭ということか?」

森田「脳は物理的な損傷を受けていませんし脳波も正常です。記憶喪失と言っても悲観することはありません」

私「紀子とは連絡がついたのか?」

森田「きいていません」

私「いつまで待てばいいんだ」

 森田、由利、ビクッと体を硬直させる。

私「ゴメン。何も思い出せないんだ」

森田「焦らず、気長に治療することですよ」


○テレビ。クローン人間製造反対etcのプラカードを持ったデモ隊の行進のニュースをしている。

アナウンサー(女)「ワトソン博士とクリック博士によるDNAの二重らせん構造発見から二世紀経ちますが、現在クローン人間製造に関して再び議論が沸騰しています。その発端となったのは、高木博士、中谷社長が『ネイチャー』誌のインタビューに対して爆弾発言をしたからです。自分とまったく同じコピーを作ることが可能だと。高木博士は、バイオ・テクノロジーの世界的権威でノーベル賞候補にも挙げられており・・・」


○同病室。私と翁長秋暢の二人である。

私「あの夜、ぼくに一体何があった?」

翁長「研究所で実験をしていた。その時、お前は事故に遭った」

私「ぼくにはこの半年の記憶がない。記憶は戻るのか?」

翁長「わからない。頭を、強く打っているんだ。生きているだけでも幸せと思え」

私「紀子は?」

翁長「ナイロビの学会に行っている。お前達の研究を発表するためにね。今朝ちょっと電話が通じた。天候が悪くて、飛行機が飛べないらしい」

私「どのくらい入院すればいい?」

翁長「もう少し入院してもらう。森田と相談したんだ。お前、ビデオ撮影が趣味だったな。そのDVDを見ればいい。記憶を取り戻すキッカケになるかもしれない」


○DVDのアップ。下へ二・十六(FRI)の日付。今年。

私のマンションの鏡台の前。紀子、化粧をしている。

私「化粧している女性は残酷だといいますが紀子はとてもチャーミングです」

紀子「駄目よ。こんなところを撮っちゃ」

私「怒った顔も可愛いね」

紀子「もう!」

 紀子、笑ってこちらへ来る。


○病室。紀子の父、小林真一郎が見舞に来ている。

真一郎「君が入院したと聞いて心配したよ」

私「心配かけてすみません。ところで、紀子は?」

真一郎「もう少し時間がかかるそうだ。帰って来るまでにはね」

私「自然の力にはかないません」

真一郎「もう手の傷は大丈夫かい?」

 私、きれいな両手をしげしげと見る。

私「(首を傾げ)エエ? もう治りました」

真一郎「マックスが人に噛みついたのは初めてだよ」

私「すみません、覚えてないんです」

真一郎「ああ、そうだったね。悪かった」

私「そのうち思い出すでしょう」

真一郎「君たちの仲が、どうなろうとも、私は君のことを息子だと思っているよ」

私「(驚き)ありがとうございます」


○私の回想。高級ホテル。ニューヨーク、ロングアイランド。十二年前。コールド・スプリング・ハーバー研究所歓迎会という垂れ幕。会場には多くの人がいる。私、隅にいる日本人の女性に視線を奪われジッと見ている。その女性、先程から男からのダンスの誘いをことごとく笑顔で断っている。私、その女性の前へ行く。

私「ぼくと踊ってもらえませんか?」

紀子「(少し躊躇し)エエ、私でよければ」

 私、その女性とスローなワルツを踊る。

私「ぼくは、高木清四郎です」

紀子「はじめまして。私、小林紀子です。前にお会いしましたかしら」

私「ええ、研究所でときどき」

紀子「ごめんなさい。覚えていなくって」

私「いいんですよ。研究員は多いですから」

紀子「日本語でお話しできる方に会えてよかったですわ」

私「ぼくもです。あなたと踊ることができて光栄です」

 私、紀子の手を取ってエスコートする。


○病室。夜。形山真梨、忍んで来る。真梨、私に抱きついて熱いキスをする。

真梨「大丈夫だったの?」

私「きみは?」

真梨「あなたが入院して、二週間以上経つのに何の連絡もなくて」

私「二週間?」

真梨「本当に、あなた、奥さんを殺しちゃったの。ずっと紀子さんを見かけないけど」

私「エッ! ぼくが紀子を殺した?」

真梨「やはり私を愛してくれていたのね」

私「ぼくがきみを愛しているって?」

真梨「なにを言っているの?」

私「覚えていないんだ。なにか知っているなら、教えてくれないか?」

真梨「うそ!」

 真梨、探るような瞳で私を見る。

真梨「最後を見届けていないの?」


○同病室。真梨、私から目を離さない。

真梨「本当に記憶喪失なの?」

私「誰がそんなことを?」

真梨「(私の瞳をジッと見て)研究所のみんなよ。もっぱらの噂。秘密だけど・・・。この病院でも、みんな知っている」

私「実はこの六ヶ月ほどの記憶がないんだ」

真梨「それじゃ。私のことも?」

私「君のことは知っている」

真梨「知っているですって? やめて、そんな他人行儀な言い方」

 真梨、強く私の唇に、唇を重ねる。

真梨「これで思い出した?」


○同病室。真梨、部屋を出て行こうとする。

真梨「だれも信じちゃ駄目よ」

私「どういう意味だい?」

真梨「いまにわかるわ」


○テレビ画面のアップ。私、録画番組を見ている。私、クローン人間反対の急先鋒の八木沢教授と、公開会場で対決している。

八木沢教授「確かに高木博士の研究は不老不死を可能にするかもしれません。まるで不死鳥のようにね。しかし生命を作り出すことは神の境域、神の匠です。そんなことをすれば人類に必ず天罰が下るでしょう」

私「確かに、同じ人間を作る行為は、宗教的に見れば非難されても仕方がないかもしれません。しかし、そのクローン人間まで否定することはできません。同じ人間なんですから。あなたはわかっていない」


○同テレビ。討論会。録画。

八木沢「もし仮にあなたの奥さんがクローン人間だとしても、あなたは彼女を愛することができますか?」

私「もちろんです。もし、クローンだとしても、私は紀子を愛するでしょう(会場固唾をのんでいる)」

八木沢「信じられません」

私「たとえコピーでも紀子は紀子です。もし紀子が紀子でないというなら、断固として私はその機械人間と戦います」

女性陣から、拍手喝采が湧く。

八木沢「いくら同一人物だといってもDNAが同じだけで、まったく別の人間でしょう?」

私「いいえ。まったく同じです」

八木沢「しかし存在そのものがちがいます。もしあなたの前に自分のクローンが現れたとします。あなたは、それを自分だと思いますか? いや、思わないでしょう。なぜなら、あなたはもうそこに存在しているのですから」

私「もしタイム・マシンで過去や未来の自分に会う場面を考えましょう。たとえば私が過去へ行き二十歳の私と会うとします。この場合、相手が自分ではないと言えるでしょうか?」

八木沢「詭弁です。タイム・マシンなんか発明できません」

私「量子論をよくご存じですね。私も次回までに勉強しておきます(笑)」


○同テレビ。討論会の続き。録画。

八木沢「もし、本物の奥さんとクローンの奥さんの二人がいたとしたら、あなたはどちらを愛しますか?」

私「どちらの紀子も愛します」

 女性陣が、ざわめく。

八木沢「それは不道徳ではありませんか?」

私「そうは思いません。もし、あなたに二人の子供がいるとします。どちらを愛するのかと聞かれてどちらか選べますか? 選べないでしょう? それと同じです」

八木沢教授「ちがいます。ただの詭弁だ」


○病室。テレビの前。私と翁長、そのビデオのやり取りを見ている。

翁長「実にうまいな。完全な勝利だ。奥さんの名前を繰り返し呼ぶことで、クローンがものではなく人間であることを視聴者に訴えている。しかし、よくもまあ”宇宙一愛している”なんてセリフが言えるなあ」

私「量子論の話だからな」


○病室。朝。

  私の携帯が鳴る。私、素早くそれを取る。

私「アッ、きみか? 心配していたんだぞ! いまどこなんだ?」

  私、携帯に耳を押し付ける。

私「よく聞こえないよ。アフリカ? まだ飛行機が・・・。きみのせいじゃない」

 電話が切れる。

私「もしもし、もしもし」

 私、布団の上に携帯を投げつける。


○ビデオ画面のアップ。下部に四・一一(THUR)の日付が出ている。今年。

私のトレーニング風景。私、台に寝てバーベルを持ち上げたり下したりしている。ベンチ・プレスである。真剣な顔で、汗を流している。

紀子の声「清四郎さんも少し逞しくなったようです。この太い腕、私に気に入られようと彼も必死なんです」

私「そんなことないよ」

紀子の声「無理しちゃって」

私「今度の結婚記念日には何がほしい? 四ヶ月あとだよ。知ってる?」

紀子「もちろん」

私「忘れているのかと思ったよ」

紀子「別になにもいらない。いいえ、とても大きなダイヤのペンダントがほしいわ」

私「(唇だけで)わかったよ。アイシテル」

紀子「清四郎さん、良く聞こえませんよ」

 私、ふざけて紀子に襲いかかる。

紀子「(笑顔で)キャー」


○病室。天藤俊介と一緒である。

私「あの時ぼくたちは一緒にいたんだね?」

天藤「あの夜は、先輩、紀子さん、オレの三人が残っていました。オレと紀子さんは四階のコンルームで成長剤とメンタルケアの話をしていたんです。先輩は、休憩だといって外へ出て行きました。少しして悲鳴がして、下を覗いたら、先輩がフロアに落ちて倒れていたんです。それで、すぐ森田君に連絡を取りました」

私「ぼくが記憶喪失なのは知っているな。詳しく知りたいんだ」

天藤「わかります。でも、あれは単純な事故ですよ」

私「他には誰もいなかった?」

天藤「神に誓って」

私「現在のぼくたちの研究のことを話してもらえないか?」

天藤「一言でいえば、クローン人間の創造です。血の一滴から自分とまったく同じ人間を創ろうとしています」

私「ごく短い時間で?」

天藤「ええ、ごく短い日にちで。それには紀子さんが発明した成長剤と新しい万能細胞が鍵になります。魔法のアイテムですよ。それを先輩が開発したDNAコンピューターの”成長システム”に組み込むのです。あとマインド・ケアは翁長さんが発明したRHIC=ECOMの新技術を使います」

私「・・・」

天藤「RHIC=EDOMはマインド・コントロールと記憶操作の略です。脳にコンピューターにダウンロードした記憶、性格、嗜好、性向、感情etc.をアップロードします。このマインド・ケアを行うから、まったく同じ人間が誕生するのです」

私「もういい。頭が痛くなって来た。ぼくの頭はまだそこまで回復してない」


○ビデオの画面のアップ。下に八・十一(MON)と日付がでている。一〇年前。

私と紀子の結婚式・結婚披露宴。

羽織袴姿の私と白無垢の紀子がいる。緊張しているが幸せ一杯なのがわかる。

中谷社長、祝辞を述べている。

中谷「今日ほど嬉しいことはありません」

 翁長、スピーチをしている。

翁長「紀子さんが美人だということは新郎から聞いていました。しかし、こんな美しい方だとは想像していませんでした」

 森田、花束を紀子に贈っている。

天藤「紀子先輩、清四郎さん、本当におめでとうございます。心からお祝いの言葉を贈らせていただきます」etc。

 紀子、ドレスにお色直ししている。二人、ウェディングケーキにナイフを入れる。だれかが、クラッカーを鳴らす。紙テープが二人に降り掛かる。小林真一郎、歌をうたっている。私たち、各テーブルのキャンドルに火をつけて周る。皆楽しそうである。


○私の回想。ニューヨーク州、ロングアイランド。ハーバー研究所。十年前。紀子、白衣姿で電子顕微鏡の接眼レンズを覗き込んでいる。私、後から肩を叩く。

私「やあ、ちょっといいかな?」

紀子「どうしたの?」

 私、後ろ手に隠していたリボンを掛けた小さな箱を差し出す。紀子、目を丸くする。

私「ハッピー・バースディー」

紀子「開けていい?」

私「もちろん」

 紀子、リボンを解き、包装紙をきれいに剥がす。中から赤い革張りのケースが出て来る。開けると中には、ダイヤの指輪。

私「よかったら、それを左手の薬指に」

紀子「それって、もしかして」

私「そう、プロポーズの言葉だよ。ぼくと結婚してほしいんだ」

紀子「オーケーよ。考えるまでもないわ。そのお言葉、謹んでお受けします」

私「ありがとう」

 私、紀子を抱き締め、キスをする。私と紀子の頭に紙テープが降り注ぐ。「おめでとう」「お誕生日おめでとう」「婚約おめでとう」等々。突然現れた同僚や友人たちが次々に祝福の言葉を掛ける。大きなケーキが運び込まれる。それには、日本語で「紀子、清四郎、婚約おめでとう」。

紀子「最高のバースディ・プレゼントだわ」

 紀子、再び私に抱きついて、熱いキスをする。ヒュー、ヒューと、周りから囃し立てられる。


○病室。ナカタニ製薬社長の中谷隆、副社長の花岡麗子、社長秘書の鈴木一郎、見舞いに来ている。森田医師、そばに由利が添いている。麗子、持って来た真っ赤なバラを花瓶に生けている。

中谷「事故のことをきいたときはびっくりしたよ。面会謝絶だったからね」

森田「念のためです。放射線も浴びていましたし」

中谷「でも、ピンピンしているんで安心したよ。未来のノーベル賞学者なんだから」

鈴木「高木博士になにかあったら人類の損失です。社長は食事が喉を通らないほど心配していたんですよ」

麗子「大袈裟ネ。本当はそう思っていないくせに。でも清四郎さんは金の卵を産む鶏ですものね」

鈴木「失礼な!」

麗子「でも、もしあの研究が成功したら、ノーベル賞がいくつあっても足りないわ」

鈴木「もしもじゃありませんよ」


○同病室。険悪な雰囲気である。

中谷「まえにテレビで清四郎君が言ったあのセリフは実によかったね“すべては、DNAから始まる。あなたの血の一滴から”ってね。あれはCMで使わせてもらうよ」

麗子「まだ、クローン人間規制法の問題が残っていますよ」

中谷「それは、きみがうまくやってくれ。政治家のお友だちに頼んでね。私はマスコミを使って世論を味方につける」

鈴木「それに特許の手続きを進めなければ」


○同病室。中谷社長、森田の顔を窺うようにチラッと見る。

中谷「記憶が少し混乱しているんだって?」

私「ええ、少し曖昧な部分があります」

鈴木「記憶喪失なんてすぐ治りますよ」

麗子「いいかげんね。無責任だわ」

森田「記憶は元に戻りますよ。いつかはね。大事なのは、落ち着いてじっくり構えることです」

中谷「そうだ。この際だから、ゆっくり休めばいい」

麗子「リフレッシュもたまにはいいわ」

鈴木「ゆっくりご夫婦で旅行にでも行けばいいんですよ」

麗子「社長は清四郎さんの実験は成功した。それは、自分の手柄だと吹聴しているものね」

鈴木「社長は博士にお金の面で援助しているんです。何百億もね。しかもドルで」

麗子「嘘ばっかり。何も知らないと思って」

森田「あまり仕事の話はしないでください。患者さんが混乱します」

 由利、私と視線が合うとソッポを向く。


○テレビ・ニュース。チャンネル・チェンジ。中谷社長がのっぽビルの本社へ入っていく。その横に女性アナウンサーの姿。

アナウンサー「ナカタニ製薬は業績不振との噂もありましたが、最近ベンチャー投資家の巨額資金が次々とつぎ込まれ、株価も最盛期を上回る勢いです」

 私の顔の写真のアップ。

アナウンサー「専門家筋の語るところによると、これは全て高木博士の貢献の賜物だということです。その高木博士は現在事故により入院療養中です」


○テレビ。チャンネル・チェンジ。『クイズ美リオネア』をやっている。美リオネアのドラマの中では、探偵が『この事件の犯人は、あなただ!』といっている。テレビの前に私と翁長がいる。

私「この番組は面白いな。みていると新しいアイデアやインスピレーションが湧いてくるんだ」

翁長「頭の体操にもなる」

私「紀子から電話があった」

私、翁長の目を見る。

翁長「それで、何て?」

私「すぐ切れてしまった」

翁長「・・・」

私、雰囲気にのまれて何も言えない。


○病室。深夜。再び真梨が忍び込んでいる。

真梨「やはりあなたの奥さん、行方不明よ。だれも居場所を知らないし、ナイロビの学会にも行っていないわ」

私「本当か?」

真梨「学会に探りをいれたら病気で欠席するって。飛行機もキャンセルよ」

私「でも、紀子から電話がかかってきたんだぞ。そして、まだアフリカにいるって言っていた」

真梨「本当に紀子さんだったの?」

私「雑音が大きくて、聞き取り難かった。そう言われれば自信がない。でも、何のために?」

真梨「それはわからないけど」

 真梨、黙ってしまう。私、考えに沈む。

真梨「あの日、何があったの? あなたが紀子さんを殺して、どこかに埋めたんじゃない?」

私「そんな馬鹿な!」

真梨「だって記憶がないんでしょう。みんななにか隠しているわ。森田さん、由利ちゃん、翁長さん、天藤さん、みんなよ」

私「中谷、花岡、鈴木の三人は?」

真梨「あの人たちは、何も知らないみたい。もしかしたら、紀子さんの居所はあなたしか知らないのかもね。それで誰かが薬を使って自白させようとした。だからその副作用で二週間意識がなかったし、この半年の記憶を失くしてしまった。きっと、そうよ」

私「想像力が逞しすぎる」

真梨「本当にだれも信用しちゃ駄目よ。私以外はね」

私「みんなぼくの友だちだぞ」

真梨「私、あなたの部屋で見たのよ。カレンダーに赤い印がついていたわ。八月十一日のところよ。あなたが事故にあった日。なにかの決行日だったんじゃないの?」

私「真梨、きみにひとつ頼みがあるんだ。病院のコンピューターに侵入して、ぼくのカルテを調べてみてくれないか」

真梨「お安い御用よ。これでも天才プログラマーなんですからね」


○ビデオ画面のアップ、下には六・八(SAT)の日付がある。今年。

いきなり真梨が現われる。

真梨「真梨、ストリップしまぁ~す」

 真梨、服を一枚一枚脱いでいく。

真梨「少し酔っていまーす」

 真梨の肌がピンク色に染まり、エロチックな絵である。

私の声「可愛いよ」

真梨「ありがとう」

 ピンクのブラジャーを取るとほどよい大きさの乳房がのぞく。私の溜息が聞こえる。

私の声「もうこっちへ来いよ」

真梨「ハーイ!」

 真梨の裸、大きくなり、ビデオが消える。


○屋上。麗子と私の二人きりである。

麗子「本当に記憶がないの?」

私「この半年のことは、なにも」

麗子「私との約束のことよ。契約といってもいいかしら」

私「約束? 一体何ですか?」

麗子「思い出さないの? だったら、いまは話さない方がよさそうね。時期を見てゆっくり話すわ。でも、何なら真梨さんに訊いてみたら?」

私「真梨さん?」

麗子「あなたと真梨さんのことは知っているのよ。紀子さんはどうしたの? ずっと見掛けないけれど」

私「ぼくが知っているはずがないでしょう」

麗子「そうかしら? あの夜、一体何があったの? 自分で探偵してみれば? もしかしたら、後悔するかもしれないけど」

私「あなたは何か知っているんですか?」

麗子「まさか。でも、記憶がないんでしょう? 何があっても不思議じゃないわ」


○病室。翁長、私を診察している。

翁長「お前、記憶を取り戻すのが恐いんだろう」

私「ああ、恐い。わかるか?」

翁長「精神科医だぞ」

私「みんな嘘をついている」

翁長「お前の思いすごしだ。みんな心配しているんだ」


○私の回想。私の家。寝室。一年前。

ベッドの中に、私と紀子がいる。

私「好きだよ」

紀子「もっとロマンチックなことを言って」

私「たとえば?」

紀子「きみを世界一愛しているとか」

私「それは、もうインタビューで言っただろう。“宇宙一愛している”って」

紀子「(私に抱きついて)あったかい」

私「いい匂いだ」

 私、紀子にキスし、抱き寄せる。

紀子「あなたの赤ちゃんがほしいわ」

私「今は駄目だ。研究が成功してからだよ」


○ビデオ画面のアップ。下に六・十七(MON)の日付。今年。

紀子がパソコンに向かって、キーを叩いている。ディスプレイに、DNAの二重らせんのモデル。紀子、顔が紅潮している。

紀子「実際に人間のコピーを作るなんて本気なの? 研究の発表と実際に行うこととは、全くの別ものだわ。原爆を発明したオッペンハイマー博士も理論を実践したことを晩年後悔したというわ。それと同じよ」

私「ぼくは生命の神秘には尊敬の念をもっている」

紀子「あなたがテレビで云ったように、もし私が死んで、もう一度生き返ったとしても、それはもう私じゃない。姿、形がまったく同じだけで、まったくの別人よ」

私「ぼくは人間の記憶も善悪といった性格さえも遺伝子(DNA)に組み込まれていると考えている」

紀子「科学に神の領域はないって? 天才の驕りだわ」

私「紀子、きみはカトリックだから」

紀子「(遮って)人間の尊厳だけは守らなければいけないわ」

私「でも、永遠の命を得るんだぞ」

紀子「生まれて死ぬのが自然の摂理よ」


○病室。夜。三度真梨が忍び込んで来る。

私「何かわかったかい?」

真梨「なんだか変よ。あなたのカルテがないの。念のため、紀子さんのカルテも調べたけど、やっぱりなかったわ」

私「きみが言うように森田たちが共謀しているのかな」

真梨「この陰謀は私が突き止めてみせるわ」

私「それはそうと、麗子さんとはどんな約束をしているんだ?」

真梨「(戸惑い)麗子さんは新しいベンチャー企業を立ち上げる予定なの。あなたはその会社へ移籍することになっているのよ」

私「中谷社長はぼくの育ての親同然だぞ。その中谷社長を裏切るなんて」

真梨「条件がいいのよ。あなたも同意したじゃない」

私「きみも金に目がくらんだ口だな」


○テレビの前。私と翁長、中谷社長のCMを見ている。

翁長「ナカタニ製薬がお前の発明で、どれだけ儲けることになるのか知っているのか? 学者馬鹿のお前には、わからないだろうがナ」

私「ぼくには、そんなこと関係ない」

翁長「そう言うと思ったよ」

 翁長、溜息をつく。

翁長「お前は世界でも指折りの富豪になるんだぞ。百万長者ミリオネアじゃなく億万長者ビリオネアのね。いや、たぶん兆だ」

私「そんなことはどうだっていい」

翁長「どうだっていい?」

私「今ぼくが欲しいのは紀子だけだ。他のことはどうでもいい」

翁長「そうか?」


○ビデオの画面のアップ。下に七・二(TUE)と日付のテロップ。今年。

画面の向こうでは、紀子がこちらに向かって怒っている。ものすごい剣幕である。

紀子「何度もいうけど、私は手を引くわ。もし実験を続けるなら離婚よ」

私「そんなことをいうなよ。きみがいたからここまで来られたんじゃないか?」

紀子「でも、もう決めたことなの」

私「ぼくに力を貸してくれ」

紀子「こんな大切な話をしているときに、ビデオなんか撮らないで」

紀子の手が伸びて画面に大写しになる。

私「わかった。もうやめるよ。ぼくらの未来について、ゆっくり話し合おう」

 プツリとビデオの画面が消える。


○屋上。私、麗子と会っている。麗子、煙草を吸っている。

麗子「(微笑んで)真梨さんから話を聞いてくれた?」

私「中谷社長はあなたが独立することを知っているんですか?」

麗子「まさか、先手必勝よ。それに中谷の会社はもともと父のものなの! それをあいつが乗っ取ったのよ」

私「しかし」

麗子「もうあなたは私と契約しているのよ。口約束だけど、それに」

私「それに?」

麗子「条件として、私の肉体を与えることも入っていたの。あなたは、私を抱いたわ。もしそれを知ったら、紀子さんと真梨さんはどう思うかしら?」

私「嘘だ! そんなことあり得ない」

麗子「そう云い切れるの? 自分が信じられる? それに紀子さんや真梨さんが、あなたの言うことを信じると思う?」

麗子、私に近づき強引にキスしズボンの上から右手で股間を握る。

麗子「これでどう?」

私「あなたは、美しいけど、恐い人だ」

麗子「奇麗な薔薇には刺があるものよ。知ってた?」


○病室。鈴木一郎を呼んでいる。

私「我々の”アダムとイヴ”計画プロジェクトはどこまで進んでいるんだ? きみの知っていることを全部教えてくれ」

鈴木「もう完成しています。社長が話したとおりです。少なくとも、ボクはそう聞いています」

私「きみは、社長思いだな」

鈴木「ええ、あの人をボクは父親だと思っています。血は繋がっていませんけど」


○医務局。十人ほどの看護師たちが集まっている。

私「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」

看護師A「博士、もうお体の方はよろしいんですか?」

私「(胸を叩き)ああ、この通りだよ」

私、ゴホッ、ゴホッと噎せる。皆、笑う。

看護師B「博士、おききになりたいことって何ですか?」

私「あの事故のあった日ぼくの看護をしてくれたのは誰?」

看護師C「阿南さんです。森田先生直々のご指名(笑)」

私「ひとりで?」

看護師D「なんでも放射能を浴びているからといって。私達には幸いでしたけど。あらゴメンナサイ」

看護師E「すぐ集中治療室に運び込まれて、ずっと無菌テントの中でした。酸素マスクを付けていましたわ」

看護師F「遅ればせながら、いまからでもお世話させていただきます(笑)」

私「(独り言のように)誰も、ぼくの顔を見ていないんだな?」

 全員、頷く。


○医務局のそばの廊下。私、森田と由利を呼び止める。他にはだれもいない。

私「あの夜の真実が知りたいんだ。何があったか。隠していることがあるだろう?」

森田「本当に何も知らないんです。ぼくが知っているのは博士が、この病院へ運び込まれて来てからのことだけです。その前のことはなにも知りません。病状は前に説明したとおりです。体に異常はありません」

 森田と由利、そそくさと立ち去る。

私「(その背中へ大声で)ぼくを、人殺しだと思っているんだな?」


○同病室。麗子、面会に来ている。私、麗子から目を離さない。

私「ぼくと紀子の仲はどうなっていたんですか?」

麗子「一触即発の状態だったわ。これは何か起きるなって!」

私「たとえば」

花岡「あなたが残って、紀子さんが消えた。それが答えよ」

私「ぼくが紀子を殺してどこかへ埋めたとでも」

麗子「なにもそんなこと言ってないわ。でもどうして”埋めた”ことがわかるの?」

私「言葉のあやですよ」

 私、ドアまで歩いていってドアを開ける。麗子、笑顔を見せて立ち去る。

麗子「じゃ、またね」


○ビデオの画面のアップ。下に七・三一(WED)と日付のテロップ。今年。

紀子、ゆり椅子に座って読書している。冷たい横顔。こちらを、振り向こうともしない。紀子、視線は動かさないが、こちらを意識してピリピリしているのが伝わってくる。その緊張が、暫く続く。そのうちビデオが消える。


○病院。待合室のロビー。ガードマンの内藤悟が待っている。

内藤「形山さんから、博士が何かききたいことがあるって」

私「事故があった八月十一日のことを話してほしいんだ」

内藤「そのことなら、お役に立てません。ちょうど事故があった時、ボクは研究所の裏へ見回りに行っていましたから」

私「何のために?」

内藤「あの前日、博士から研究所の裏に人影が見えたといわれたんで調べました。でも異常はありませんでした。次の日も、“念のために見回ってくれ”と頼まれたので巡回していたんです」

私「ぼくがそんなことを?」

内藤「何もなかったので帰って来ると、ちょうど天藤さんが急いで研究所に入っていくところでした」

私「天藤が? 研究所の中にいたんじゃないのか?」

内藤「そのとき駆けつけて来たように見えました」

私「監視カメラのDVDは持って来てくれたかい」

内藤「(困った顔で)それがそっくりなくなっているんです」

私「無くなっている?」

 私、スリムになった腕を摩る。


○病室。私、パソコンのキー・ボードを叩いている。

パスワードのNORIKO・KIYOSIROUを打ち込む。ディスプレイのアップ。アクセス成功。私、質問していく。血の一滴から人間のコピーができるまでのイメージ図が映し出される。一分で終了するようタイムアップされている。中央に答えが、表示される。『クローン(コピー)完成まで、全体で約一五,〇〇〇minutes』

私「(独り言で)これは”本当の話“なのか?」


○ビデオ画面のアップ。下へ、八・九(FRI)の日付、今年。

森田真一と阿南由利の婚約パーティー。知らない顔も二~三ある。真一と由利のキスの後、クラッカーが鳴り、八人のバンドマンの演奏に合わせて、適当なカップルでダンスが始まる。翁長、紀子の背中に手を回し、やけに親しそうである。真一郎、マイクを持ち歌っている。私、酒を飲み出す。その横にドイツ・シェパードのマックスが座っている。紀子、私と視線を合わそうとしない。私、酒に酔ってマックスの頭をポンポン叩いたりして、しつこく絡む。怒ったマックス、私の右手をガブリと噛む。

私「痛い!」

 手から血を流して悲鳴を上げる。

真梨、いち早く駆けつける。

中谷社長、麗子も集まり、大騒ぎになる。森田、由利、ハンカチで私の手の傷を押さえて応急処置をする。紀子、翁長の傍で立ち竦んでボー然としている。近寄ろうともしない。


○テレビ(ビデオ)画面の前。

私「これは重傷だな」

 私、紀子の様子を見て胸に手を当てる。


○病室。天藤と二人きりで話をしている。

私「我々のそのクローン計画は順調にいっているのか?」

天藤「”アダムとイヴ”計画プロジェクトですか? 理論的には、完璧ですよ。全て先輩のアイデアの賜物です」

私「理論的には? それじゃ、現実的にはどうなんだ? 本当のところが知りたい」

天藤「先輩には、嘘はつけません。ハッキリ言って、技術的に大きな問題を抱えています。この前の実験結果も失敗でした。でもガンバレば何とかなりますよ。スタッフのみんなも同じ意見です」

私「中谷社長は知っているのか?」

天藤「勿論です。全て報告していますから」

私「社長は嘘をついているのか? 成功したって。まるで詐欺じゃないか?」

天藤「本当に成功すれば問題ありませんよ。理論的には間違っていないんですから」

私「理論的にはね?」


○病室。深夜。四度真梨が忍び込んでいる。

真梨「(少し咎めるように)私はおつまみだったの?」

私「いや、ちがう。ぼくはいつも本気だ」

真梨「たぶんね。でもいまは紀子さんを愛しているんでしょう?」

私「しかし、紀子はどうしたんだ? 本当に何も知らないのか?」

真梨「事故以来だれも紀子さんを見ていないわ」

私「ひょっこり現れることだって考えられるだろう? 少しの間、家出したとか?」

真梨「まさか。人を殺したなんて思いたくないのはわかるけど。でも、私は嬉しいの」

私「なぜ?」

真梨「あなたが私のために殺人まで犯してくれたからよ」

私「いや、ちがう」

 私、首を激しく振る。

真梨「私を愛していたわ。少なくとも、あの事故の日までは」


○屋上。私、中谷社長と対決している。

私「中谷社長、あなたは汚い人だ。あなたの頭には金のことしかないんですか?」

中谷「なにを言っているんだ?」

私「しらばくれないで下さい」

中谷「きみは、何か誤解している」

私「それじゃあ、ぼくの研究は完成しているんですか? 成功していると本当に言えますか?」

中谷「研究が完成したと言ったのはきみの方だぞ! 実験は成功だったと。紀子さんも天藤君も、きみの言葉を保証してくれた」

私「天藤が、ぼくの研究は失敗だったと言っていますよ」

中谷「そんな馬鹿な! 何かの間違いだ」

私「ぼくは、社長と縁を切ります。それを言いたくてここへ呼んだんです」

中谷「どうか私を見捨てないでくれ。いまきみに手を引かれたら破滅だ」

 突然二人の前に鈴木一郎が現われる。

鈴木「高木博士、あなたは社長の恩を忘れたんですか?」

 鈴木、38口径のスミス&ウエッソンを取り出し、銃口を私の方へ向ける。

私「鈴木君、どうして? そこまで?」

鈴木「社長はボクの命の恩人なんだ。身なし子だったボクを引き取って大学まで出してくれた。博士こそ、裏切り者だ」

中谷「(私の盾になり)やめろ!」

鈴木「社長、どいてください。ボクは博士があの女狐とコソコソあっているのを知っているんです」

中谷「私は一歩も動かない。博士を撃つなら私を撃て!」

鈴木「社長、どうしてそこまで」

中谷「我が社には博士が必要なんだ。一郎、銃を下してくれ」

一郎、ワァーと泣き崩れ膝をつく。中谷、手を貸して立ち上がらせる。

中谷「博士、いまのことは見なかったことにしてくれませんか」

 私、頷く。中谷、拳銃を自分の上着のポケットに入れると一郎を連れて立ち去る。


○同屋上。ドアの影から、麗子が現われる。

麗子「(パチパチと手を叩いて)とんだ茶番劇ね。あなた、あんな大嘘を信じちゃ駄目よ。全部お芝居なんだから」

私「ぼくは、もう何がなんだかわからない」

麗子「私を信じればいいのよ。私は、あなたに嘘をついたことはないわ」

私「ぼくは記憶を取り戻すまで、どちらへも手を貸しません」

麗子「いいわよ。待っているから」

 麗子、背を向け立ち去る。

麗子「これも信頼の証よ」


○ナカタニ研究所。警備員詰め所。私、内藤と向い合っている。

内藤「実は,事件があった次の日、天藤さんから監視カメラのビデオのことをいろいろ聞かれたんです」

私「そして、きみが席を外している間に、DVDが無くなった」

内藤、頷く。


○病院。地下の食堂。私と真梨、食事をしている。私、周りを気にしている。

真梨「まるで、デートしているようで楽しいわ。以前はいろいろ豪華な所へ連れて行ってくれたものよ」

私「ひとつ、わからないことがあるんだ」

 私、ナイフとフォークの手を止める。

私「(小声で)みんなの話から想像すると、あの日ぼくは研究所の三階で天藤と紀子と会っていた。転落事故の直前までね。その後、転落して病院に運ばれた。そして、記憶を失った。だったら、いつ紀子を殺して死体をどういう方法で処分したんだ?」

真梨「確かにそうだわ。もしかしたら、天藤さんが嘘をついているんじゃ?」

私「ガードマンの内藤の証言もある」

真梨「だから、大きな陰謀があるのよ。みんな、グルなんだわ」


○病室。翁長、私と会っている。私、少しイラついている。

私「世の中には、知らない方がいい事があると思うか?」

翁長「急にどうしたんだ?」

私「ぼくは精神科医じゃない。真面目に聞いているんだ! アドバイスが欲しい」

翁長「ある青年がプリンセスに恋をした。その青年は未来が見える鏡の噂を聞き、恋の行方が知りたくて、その鏡を盗もうとした。最後に、青年が鏡の中に見た未来は何だったと思う?」

私「・・・」

翁長「青年が見たのは、鏡を盗んだ罪で、王女の前で処刑される自分の姿だったんだ」

私「そういうことか?」


○ナカタニ研究所。その夜。玄関。私、ワイシャツにズボン姿である。私、カードを照合機にあて、指を指紋照合装置に認識させる。強化ガラスのドアが音もなく開く。一階の広いフロアの正面にガードマンのブースがある。

内藤「高木博士、もういいんですか?」

私「ちょっと用事を仰せつかってね。サラリーマンは辛いよ」

内藤「お互いさまですよ」

 私、手を上げて通りすぎる。


○同研究所。三階。一般所員立ち入り禁止と書かれている。いくつかのセキュリティをパスし、実験室の奥へ進む。三階と四階は吹き抜けになっていて、バルコニー、テクルームのコントロール・ステーションが見える。中央には、ステージがあり青い液体が入っている球体の強化ガラスの容器が置かれている。私、そこを迂回して、奥の保管庫に入る。私、保管庫の冷凍室のロックを解除すと、震える手でそのドアを開ける。

私「ぼくは、本当に紀子を殺したのか?」


○同冷凍室。私、その引き出しを一つ一つ開けていく。最後の一つの引き出しをひく。私、呆然と立ち竦む。目的のものを見つける。そこには保存液に入った本物の高木清四郎の姿があったのだ。冷凍されて・・・。


○同冷凍室。

私「やっぱり実験は成功していたんだ!」

 私、崩れ落ち膝をつく。

翁長「(後から)想像していたんだろう?」

紀子「やはり、ここまで来ちゃったのね。でも、どうして?」

 後ろを振り向くと、紀子が立っている。翁長秋暢、天童俊介、森田真一、阿南由利の姿も見える。

私「第一、二週間程前にマックスに嚙まれた傷の痕がない。・・・第二、相当トレーニングを積んだのに筋肉が落ちている。・・・それに半年間の記憶がない・・・たぶん六ヶ月前のぼくの保存血液を使ったんだろう。まだきみを愛していた頃の」


○同冷凍室。紀子、私をジッと見る。私、紀子の視線を外さない。

私「ぼくは、きみを殺そうとしたのか?」

 紀子、首を激しく振る。頬を涙が伝わる。


○ビデオ画面のアップ。下に、八・十一(SUN)の日付。

研究所のビデオ。私、研究所のロビーへ入って行く。胸ポケットの辺りをポンポンと叩く。私、三階へ階段を上っていく。オープンの三階、コントロール・パネルの前に紀子がいる。紀子、私が近づくと顔をこわばらせる。私、何もいわせず紀子にキスし、胸の内ポケットに手を突っ込む。紀子、キャーと悲鳴を上げ、私を突き飛ばす。私、バルコニーから落ちる。紀子、下を覗き込む。私、倒れている。私の右手の掌がゆっくり開く。その中に握られていたのは、大きなダイヤのペンダントだ。ダイヤが美しく輝いている。


○同冷凍室。紀子と私、見つめ合う。

紀子「あなたが私を殺す計画を立てていたのは知っていたわ。密かに拳銃を購入していたことも」

 私、黙って紀子を見詰める。

紀子「あなたが、胸の内ポケットに手を入れたときは、本当にびっくりしたわ。だから、咄嗟に手が出たの。でも、ちがっていた。あなたは、私にダイヤのペンダントをプレゼントするつもりだったのね?」

私「わからない」

紀子「八月十一日は私たちの結婚記念日でしょう? 私、そんなことさえ忘れていた。あなたは、最後に私の所に帰って来てくれたのよ」

私「わからない。本当に、きみを殺すつもりだったのかも」

紀子「その時、私はまだあなたを愛していることに気づいたの。だから、あなたのクローンの技術であなたを蘇らせたの。チームのみんなに協力してもらって。たとえ神の御心に反することでも」

 紀子、私に抱きつく。そんな二人を皆温かく見守っている。少し離れて、真梨、機械の陰から覗いている。

真梨「(小さな声で)負けたわ」


○同研究所。私、紀子をジッと見る。胸に輝く大きなダイヤのペンダントが眩しい。

紀子「(抱きついたまま)何も言わないで」

 皆そっと立ち去る。真梨の姿もない。


○私の屋敷の寝室。ベッドの中で私と紀子、二人抱き合っている。

私「ぼくは」

紀子「もう、お喋りはお仕舞い」

 紀子、人指し指で私の唇を塞ぐ。 


○私、ベッドの上でガバっと身を起こす。  

夢をみていたのだ。

                              FINの文字』


『クイズ美リオネア』の会場が明るくなる。

「レディース&ジェントルマン、お待たせしました」

司会者が再び登場して言った。

観客が静かになる。

「さて問題です。このドラマの事件が起こったのは西暦何年のことでしょうか?」

「ワー、予想外の問題だァ~。わかんないよ」

 一平が嘆いて大声を出す。

「大丈夫よ。たぶん」

 マリアが言った。

 司会者がプラカードとマジックを持ってきて、それを前のテーブルの上に置く。

「それでは解答をお書きください」

マリアが、プラカードにサラサラと答えを書き、それを伏せる。

「本当に?」

「ドラマの中に、ちゃんと解答を書いてくれていたもの。ご親切にね。カレンダーの数式も解いた。でも」

「でも、なに?」

「それが、叔父さんのトラップかもしれないってこと」

「ぼくは気づかなかったナ」

「目に見えないものを見なければいけないの。耳に聞こえないことを聞かないといけないのよ」


会場の大きなスクリーンに、先の男女四人が、テーブルに着いている映像が映し出される。

『女B「あなたには、この答えがおわかりになったでしょうか?」

男A「この年は、テレビで『ワトソン・クリックの二重らせん構造発表の年から二世紀経つ』といっている。その発見の年は1953年だから2150年頃の話と思っていいね」

女A「高木清四郎さんが見ていたビデオで、紀子さんが化粧しているビデオが二月十六日(金)で清四郎さんがバーベルを持ち上げているビデオが四月一一日(木)とあったから、この年はうるう年ね。また、あの事故があった日は八月一一日(日)よ。そして、一〇年前の清四郎さんと紀子さんの結婚式は、八月一一日(月)だった」(ビデオで確認する)

 会場の大きなスクリーンに、2100年から2200の間の、八月一一日の曜日の表。その右に10年ずらして同じ表が、二つ並んで示される。2090―2100、順番に数字が続き最後は、2100―2190というように。二つの表で八月一一日(日)が赤で、八月一一日(月)が青でマークされている。

男B「2100年から2200年の間で、八月一一日(日)で且つ10年前が八月一一日(月)なのは、どの年でしょうか?」

2120年、37年、48年、2165年、76年、93年の六つの年の行を残してすべて消える。

男B「以上の数字になります」

女B「そしてうるう年は4の倍数の年です。だから、この条件を加えると2120年、2148年、2176年が残ります」

この三つの年の他は、消えていく。

男B「普通、二世紀と言えば200年で、20年も違えば、この言葉は使いません」

三つの数字のうち2148年だけになりキラキラ輝き、残りの二つが消える。

女A「よって、この『クイズ美リオネア』の解答は、2148年ということになるのよ。QED」

男A「これは、シャーロック・ホームズの消去法の推理だ」

女B「もし正解ならあなたの勝ち、もし間違っていたり、わからなかったりしたら、あなたの負けです! はたして、あなたはこの問題を解くことができたでしょうか?」


再び会場である。

「どうなの?」

一平が不安そうな顔をする。

「ごめんなさい」

 マリアが頭を下げる。

「エーッ!」


「さあ、答えをどうぞ!」

 司会者がいう。

マリアが、プラカードを裏返すと、そこにはちゃんと2148年と書かれている。一瞬の間があって、息をひそめて見ていた観客席から大きな拍手と喝采が湧き上がる。

「大正解です」

 司会者が大きな声で言う。

会場が大きな拍手で包まれ興奮の坩堝と化す。

美咲ファミリーや三人組も歓声をあげている。

マリアは会場に高木清四郎の姿を認め小さなガッツポーズをする。清四郎が笑顔で深々とお辞儀をする。

「やったァ~」

 一平が言った。

「だから大丈夫って言ったでしょう。私の記憶は映像記憶力よ」

「このウソつき!」

一平は、笑いながらマリアと抱き合う。

再びスクリーンが映し出される。

高木清四郎のN「このミステリー・ドラマでは、エッシャーの「滝」の絵の中と、サブリミナル・メッセージで『この問題の答えは、2148年だ!』という映像(文字)や音声(声)等を示しておきました。(その絵やサブリミナルの部分をスロー・モーションやコマ送りでハッキリ見聞きさせる)サブリミナル・メッセージは現代の科学では効果がないと言われていますが、こういう使い方もできるのです。CMにも使えます。スマホ世代の時代だから・・・。それでは、また次の作品でお会いしましょう」』


「結局、そのメガネにはどういう意味があったんだ?」

 一平が、楽屋できいた。

「このメガネは、サブリミナル探知装置よ。たとえば映像の中に不審なものが入っていたら、拾い出すの」

 マリアが、可愛いメガネを操作して渡す。レンズの内側のスクリーンに、デジタル文字で『この問題の答えは、2148年だ!』というデジタル文字が浮かび上がる。またフレームのスピーカーから同じ音声が流れている。

「へェー、すごいね。だから“目に見えないもの・・・、耳に聞こえないもの・・・“って言ったのか」

「叔父貴は、こういう面白いことが好きだから。自分だったら、どうするだろうかって想像したのよ」

「どちらも凄いナ。ボクは“紀子さんを殺したのは誰か?”という問題だと思ったんだけど。それどころか、“犯人が紀子さんだった“と散々なものだったけど・・・」

「お生憎さま。そんなに甘くはないわよ。二千万円の賞金が懸かっているんだから」

「そうだね。きみの叔父さんが作った問題だものね」

「でも、悲観しないで! 一平ちゃんも、前期試験オールAの秀才だから・・・」

「また、それをいう」


「二千万円で、何をしたい?」

「本物のディズニー・ランドに行きたい」

「やっぱり、子供だ〜」

マリアが、一平の頬にキスする。

一平は、真っ赤になって飛び上がる。


「ミステリーの楽しみ方」の巻


美咲家の食堂で、マリアがイチゴのショート・ケーキを食べながら、原稿を読んでいた。

「マリアでも、そんな甘い物が好きなんだ?」

 一平が、ちょっかいを出した。

「子供なんですもの」

「よく言うよ」

「女の子は、だれでもケーキは大好きですわ」

 ゆきちゃんが、マリアを擁護した。

「ところで、何を読んでいるの?」

「叔父貴の短編のミステリーよ。探偵作家クラブで出題するの」

「あの恒例といわれる」

 ヘェーと、一平はきいた。

「犯人当てよ。一平ちゃんも挑戦してみる?」

「面白そうだね。ボクも売られた喧嘩は買わなきゃ」

「だれも、挑発なんかしてないわ」

「もちろん、わたしには簡単にわかったけど・・・」

 マリアは、ニッコり笑って、原稿を一平に手渡した。


『夜歩く


                           高木清四郎


 挑戦状

 犯人はだれか?

 エラリー・クイーン先生の先例に従いまして、読者に挑戦します。私がすべての手掛かりが揃った状態になったら、そのことを指摘します。その時点で、犯人を当ててみてください。

 もうひとつの驚きも用意しました。

          ―作者―


主な登場人物

ウォルター・マーヴェル ……クインエーカーズ荘の当主。被害者。

エリザベス・マーヴェル ……ウォルターの後妻。

マリオン・マーヴェル  ……ウォルターと先妻の娘。

ジョン・ハートリー   ……マリオンの婚約者。この事件の話し手。

アンソニー・ウエリントン……ウォルターの秘書。

トニー・ヴェントナー  ……ウォルターの友人。弁護士。

クリストファー・ドルー ……画家。

エイムズ        ……執事。

ブラント        ……女中頭。

ジュリー・ウエインライト…女中。

マシューズ      ……警部。

キャプリン      ……刑事。

ロジャー・フェアベアーン…この事件の訊き手。探偵役。


 一九三×年、十二月のある底冷えのする日の夜、リージェント通りに面するオリエンタル・クラブには珍しく二人の客しかいなかった。

 暖炉では、薪が勢いよく燃えていた。

「御一緒してかまいませんか?」

 若くて背の高い男が、食事を終えた紳士に声を掛けた。

「ええ、どうぞ。酒を飲むのも、ひとりだとつまりませんからね」

 その紳士はナイフとフォークを置くと、ナプキンで口を拭きながら言った。温厚そうな顔に刈り込んだ口髭がよく似合っている。落ち着いた雰囲気から実際より上に見られそうだが、年は三十代前半といったところだろうか。

「ぼくはジョン・ハートリーといいます。失礼ですが、アメリカの方ですか?」

 若い男は自分のグラスを持ったまま、テーブルの向こう側についた。真面目で誠実そうな青年だったが、疲れているのか少し元気がなかった。

「ええ、ペンシルヴァニア生まれです。アクセントとか、なまりで判断したわけですか? でも、正統な英語を話す自信はあるのですが・・・」

「いいえ、ただの勘です。あなたの英語は完璧です」

「ありがとうございます。わたしはロジャー、ロジャー・フェアベアーンです」と、紳士は悪戯っぽい目をして云った。

「どこかでお見かけしたような気がしますが、どうしても思い出せません。パーティーかなにかでお会いしたことはありませんか?」

 青年は少し考えて訊いた。

「いいえ、初めてだと思いますが・・・」

 そこで、手持ち無沙汰なウエイターが注文を訊きにきたので、話が中断した。

 二人がそれぞれスコッチを注文すると、ウエイターは奥へ引っ込んで行った。

「だけど、あなたのことはだいぶ推察できると思います。住んでいる所はロンドン南部で、列車で三十分ぐらいのところ。たぶん、ブロムリイかチズルハーストにちがいない。少し前までアメリカへ留学していた。職業はたぶん新聞記者。そして、女性、たぶん恋人か婚約者のことで問題を抱えており心配で夜も眠れない。といったところじゃありませんか?」

「まさか、驚いたなあ! 確かにぼくはロンドン・タイムズの記者ですが・・・。その他のことも当たっています」

 青年は開いた口が塞がらないといった面持ちで言った。

「でも、なぜ? あなたはシャーロック・ホームズですか?」

「まさか。でも、観察を重視するといった点では似ているかもしれませんね」

 青年の顔には、胸の内を告白しようかどうしようかという葛藤が見てとれた。

「あなたには心配事があるはずです。もし、こんなわたしにでよかったらですが話してみませんか。もしかしたら、心が軽くなるかもしれませんよ。もっとも、初対面の人間ですから、話せないことかもしれませんが・・・」

 青年は紳士の顔をジッと見ていたが、決心したように口を開いた。紳士の誠実で真摯な態度に心を動かされたのだろう。

「おっしゃる通りです。ぼくには眠れないような心配事があります。それが、探偵小説にでも出てきそうな不可解な出来事なんです。あなたのような明晰な頭脳の方なら、その謎を解いてくださることができるかもしれません」

「果して、お力になれますかどうか? そんなに期待してもらっても困りますよ。たぶん、あなたのフィアンセが関係しているのでしょう?」

「なぜ、ぼくの婚約者が事件に巻き込まれていると?」

「あなたのような立派な青年が心を悩ますのは、古代から愛しい女性のためと決まっていますよ。シェークスピアもいろいろ書いているではありませんか」

「ええ、ぼくの婚約者のマリオンが関係しているのです。あなたは、クインエーカーズ荘でおこった殺人事件のことはご存じですか?」

「一週間前にエセックスでおこった事件ですね。新聞で読みました。なんでも、被害者が完全な密室の中で死体となって発見された。マスコミの言葉を借りれば悪魔か悪霊が殺したという。ロンドン・タイムズでも、大々的に取り上げていたのではありませんか?」

「殺された当主であるウォルター・マーヴェルの一人娘がマリオンなのです」

「そうですか。ご愁傷さまです。何といったらいいかわかりませんが…」

 その紳士は、少し考えて口を開いた。

「あなたは、その婚約者を疑っているのですか?」

「まさか! マリオンが犯人であるはずがありません。ぼくはそんなこと、ちょっとだって信じていません。それに、マリオンはお父さんをたいへん愛していました。お父さんが亡くなった時のマリオンは、傍で見ているのが辛いぐらいでした。しかし、世間にはいろいろなことを言う人がいます」

「人の口には戸が立てられないといいますからね。あなたのご両親もそうなのですか?」

「父も母もそんなことは少しも信じていません。でも、年を取って気が弱くなってしまって…。ぼくは両親に反対されたってマリオンと結婚するつもりです。でも、父と母を悲しませたくないのです」

「それに状況が状況だけにスッキリさせたいわけですね。あなたが藁にも縋りたい気持ちなのはよくわかりましたが、結果が反対になった時のことは考えないのですか?」

「構いません。ぼくはマリオンを信じていますから」

 青年は、はっきり言い切った。

「わかりました。できるだけのことはやってみましょう。神か悪魔の仕業ではないかぎり、合理的な説明がつくはずです」

「どうもありがとうございます」

「それでは、わたしも新聞などで人間関係や事件の経緯はだいたい知っていますが、やはり直接の関係者であるあなたの口から話してください。新しい情報や事件を解く重要な鍵が、本人には些細なことと思っているものの中から発見されるかもしれません」

 紳士が窓の外の通りを眺めながら促した。

 ロンドン名物の霧がだんだん濃くなってきており、通りには人や車の影もなかった。

「ウォルター・マ―ヴェル氏は、完璧な密室の中で見つかったんですね」

「ええ、クインエーカーズ荘はオードリー・エンドの田園にある昔ながらの大きな邸なんですが、その図書室が現場なんです。探偵小説家が好んで使うような設定です。部屋の出入口のドアは頑丈な厚さが何センチもある樫の木で、内側にこれも同じ角材を通すようにできている鉄製の閂がついています。窓はドアから向いて左右の壁に二つありますが、両方外開きの窓があり、ばね式の鍵が掛かっていました。この窓には、二〇センチ間隔で固定式の鉄格子があるため、抜け出すことは不可能です。ドアの真正面には暖炉があり、煙突は人ひとり通り抜けるぐらいの広さですが、もしそこから脱出するなら、煤だらけになること間違いありません。部屋はダークブルーの絨毯が敷かれていて、中央には大きな机がドアに向き合ってあり、そのむこうに革張りの豪華な椅子があります。そして、窓と暖炉を除いた壁に沿って本棚になっています。ぼくの説明で図書室の様子がわかりますか?」

「ええ、鮮明に心に描くことができます。どうぞ先を続けてください」

 紳士が運ばれてきたスコッチで喉を潤しながら言った。

「この前の雪の日に、ウォルター・マーヴェルの死体がこの図書室の中で発見されたのです。彼の体には細身の刃の剣が胸から背中に貫いて刺さり、中央の椅子に虫ピンのように止められていました。目の前の大きな机の上には『禁断の書』という本の、悪魔を呼び出す方法の頁が開かれて載っていました。その凶器の剣は図書室の外にある鎧が握っていたもので、指紋はついていませんでした。かなり抵抗して暴れたみたいで本棚からは本がだいぶ落ちて散乱していたし、本棚もひとつ倒れていました。それから奇妙なことに、絨毯の何カ所かに焦げ痕がありました。火のついた薪を当てたようです。ドアは隙間がなくピタッと閉じていましたし、閂の鍵が掛かっていました。ドアの扉板に沿ってテープで目張りまでしていました。ですから、ぼくたちは斧でドアを破って入ったのです。後は暖炉の煙突ですが、執事の話ですと犯行があったと思われる時間より一時間程前に火を入れたそうです。ぼく達が踏み込んだ時にも薪が勢いよく燃えていました。もちろん、屋根の上も警察が入念に調べましたが、降りやんだ雪の上には足跡はおろか何の痕跡もありませんでした」

「雪はいつ降ったのですか?」

 紳士は興味深げに訊いた。

「家の中にずっといたので気づかなかったのですが、後で訊いたところによると午後三時半頃降り始めて六時前にやんだそうです」

「完全な密室ですか?」

 紳士は独り言のようにいった。

「繰り返すようですが、テラスにも庭の上にも足跡も血痕も何ひとつありませんでした」

 ジョン・ハートリーは、紳士の顔を見た。

「ただひとつも。ただ、警察が丹念に調べたところ、南の窓のばね式の鍵が壊れていたんです。ちょっと見にはわかりません。それに、窓は閉まっていましたし、鉄格子にもおかしいところはありませんでした」

「ポーの『モルグ街の殺人』ですね! バタンと勢いよく窓を閉めたときに鍵が掛かった。テラスに出るのは?」

「本館からいけるドアがありますが、大雪でしたので、その夜は早々と執事のエイムズが鍵を掛けていました」

「庭はどうですか?」

「花壇があり、芝生がはってあって、広いだけの普通の庭ですよ。もちろん、雪の上には足跡ひとつありませんでした」

「近くに建物がありますか?」

「約25フィートぐらいのところに3階建ての別館がありますが、それが何か?」

「いや、周りの様子も把握しておきたいですからね」

「折れていた釘といいポーの『モルグ街の殺人』が、この密室と何か関係があるんでしょうか?」

「わかりません。ただ、同じばね式の鍵で同じ状況だったというだけです。しかし、違うのは鉄格子が嵌っていたことです」

「あの鉄格子は、詳しく調べたんですが、ガッチリ嵌っていてびくともしませんでしたよ。完全な密室です」

「ウォルター・マーヴェルの死体の第一発見者は誰ですか?」

 紳士は話題を変えた。

「厳密にいうと、ぼくと執事のエイムズですが、ほとんど同時に、あの屋敷にいた全員が目にしたはずです。というのは、図書室で、大声で罵る声とドスン、バタンと争うような音がしたので、みんなびっくりして駆けつけたのです」

「その時、クインエーカーズ荘にいたのは誰々ですか?」

「ウォルターさんを除けば、九人です。ぼくと娘のマリオン、後妻のエリザベス、秘書のアンソニー・ウエリントン、ウォルターさんの友人で弁護士のトニー・ヴェントナー、これまた友人で画家のクリストファー・ドルー、執事のポール・エイムズ、女中頭のテス・ブラント、そして女中のジュリー・ウエインライトです」

 ジョン・ハートリーが指を折りながら言った。

「泥棒とか強盗とか外部から侵入した者はいないのですね?」

「はい。警察が徹底的な捜索をした結果、邸の周りには足跡ひとつなかったので、少なくとも雪がやんでから出て行った者がないことがわかっています。また、家宅捜索も行いましたが、隠れている者はいませんでしたし、隠し部屋などもないことが判明しています」

「ということは、内部の者の犯行ですか?」

「だから、こんなにも悩んでいるのです。みんな疑心暗鬼で…。それに犯行方法もわからないし、密室であること、駆けつけるまでの時間を考えれば、誰も犯行が不可能なんです。まるで、神か悪魔の仕業です」

 ジョン・ハートリーは頭を抱え込んだ。

「でも、必ず科学的に説明できるはずです」

 紳士はこの大いなる謎を楽しんでいるようにも見えた。

「ウォルターさんのことで、最近変わったことがありますか?」

「前は肉とかは食べなかったんですが、最近レバーとかがお気に召したようで、毎食欠かさず食べています。まるで人が変わったように」

「まるで、悪魔に憑かれたように?」

「そう。ぼくに言わせるとそうです。エリザベスという魔女に誑かされたんだ」

「ウォルターさんには敵はいましたか? いや、表現が悪いですね。ウォルター・マーヴェルをなき者にしたいという動機を持っていた人はいますか?」

「それは・・・」

 ジョン・ハートリーの顔に一瞬苦悩の表情が浮かんだが、決心したように口を開いた。

「たぶん知っていると思うので、正直に申しますが、ウォルターさんは十一月の初めにエリザベス・ヘイスティングスという女と再婚したのです。その話が持ち上がった時から、マリオンとうまく行っていません。マリオンは家を飛び出して、ロンドンの証券会社に職を見つけました。いまは大英博物館の近くのアパートに住んで、そこから通勤しています。髪も短くして、すっかり働く女性です。エリザベスとは酒場で女給をやっているところを、ウォルターさんが見初めたというのがはじまりだそうです。マリオンにいわせれば、エリザベスはマーヴェル家の財産を狙って転がりこんで来たのに相違ないと会う度に主張しています。エリザベスはマリオンより七才年上で二十七才ですし、ウォルターさんはもう六十才を超えていてお爺いさんといっていい年です。誰が考えても不自然で、愛情で結婚したとは考えられません。それに、七つしか年が違わない女性を母と呼ぶには抵抗がありますよね。マリオンの気持ちもわかる気がします。少し行き過ぎのところもあるかもしれませんが・・・」

「マリオンさんは、現代的で自立心が強い女性なんですね」

 紳士が笑顔を浮かべていった。

「ええ、美人なんですが、非常に気が強い娘です。カレッジ時代はフェンシングをやっていて、今でもやっているんですが、これが負けず嫌いで…。何か気に入らないことがあると、途端に頑固になります。一途な性格だというのが的確な表現かもしれませんね。お父さんの結婚式にも出席しませんでしたし、エリザベスと顔を合わせることがあっても一言も口をききません。そんな性格ですから、最近はますますお父さんを怒らせてしまって、遺言の遺産相続からも外されてしまいました」

「その遺言は、どういった内容なんですか?」

 紳士が興味深げに言った。

「以前は全財産をマリオンが引き継ぐことになっていたのですが、一ヶ月程前に遺言状を書き変えてしまって、すべてをエリザベスに遺すようにしてしまったのです。他に肉親がおりませんので・・・」

 ジョン・ハートリーは、顔を曇らせていった。

「マリオンさんを完全に相続人から外したのですか?」

「最初は些細なことから始まった親子喧嘩でした。それが売り言葉に買い言葉であんなことになっちゃったんです。ぼくも、その時、居合わせたのでよくわかるのですが、一時的な感情の縺れだと思います。だから、それが動機のはずがありません」

「客観的にはどうかわかりませんが公正にいえば、エリザベス・マーヴェルにも全財産を手に入れるという動機がありますね」

その紳士は冷静な顔で訊いた。

「ウォルターさんの財産はどれぐらいあるのですか?」

「よくわかりませんが、相当なもののはずです。広大な土地はもちろん、かなりな証券類、宝石、美術品を所有しています。一生遊んで暮らしても、何代も食べていけるでしょう」

「ウォルターさんは、どういう人ですか?」

「昔ながらの旧家にありがちな保守的で頑固な人ですよ。見た感じは、小柄でどこにでもいる老人です。昔は軍医だったこともあるそうですが、除隊してからは田舎に引っ込んだまま、隠遁生活を送っていました。エセックスの有力な地主で、代々大金持ちだったせいか、働かなくてもよかったのです。マリオンがまだ小さい頃、奥さんを亡くしたので、ウォルターさんも寂しかったのだと思います。だから、エリザベスにやさしくされると、年がいもなくコロリと参っちゃったのでしょう。年を取っての恋は激しいといいますように、エリザベスの他には何も目に入らなくなったんです」

 ジョン・ハートリーの目には少し憤りの色が見られた。

 紳士は少し考え込んだようだった。

「最近ウォルターさんは心霊術やPSKといった超自然の力を信じて研究していました。この頃は週に一回程、降霊や超能力に関する会合や実験などに出かけていました。図書室にも、悪魔、魔女、宗教裁判、降霊術、心霊学、超能力といったものに関する古今東西の本があります。その中には貴重といっていい非常に高価な本もあります」

「今、最近といいましたが、何か切っ掛けがあったのですか?」

 紳士が興味深かげといった面持ちで訊いた。

「たぶんエリザベスと知り合ったからでしょう。以前から興味は持っていたのかもしれませんが、のめり込むようになったのは、エリザベスが現れてからです。ウォルターさんはエリザベスを優秀な霊媒だと信じていましたから」

「屋敷の中では、誰かそういったものの存在を信じていましたか?」

「ウォルターさんに同調していたのは、エリザベス、アンソニー・ウエリントン、クリストファー・ドルーです。四人でよく降霊の実験をしていましたよ」

「あなた、マリオンさん、ヴェントナーさんはどうですか?」

「はなから信じていません。ときどきウォルターさんが主催する会合に出席しましたが、子供騙しのトリックだと思っています。中にはわからないものもありますが…。マリオンもヴェントナーさんも同意見です。金が掛かるだけだと諫言したこともありましたが、ウォルターさんは耳を貸そうとしません」

「クインエーカーズ荘の使用人達はどうでしょう? 信じていたようですか?」

「信じる、信じないというより、恐れているといった方が正しいでしょう。田舎は迷信深いですから仕方がありません。今度のことも、罰が当たって悪魔か悪霊に殺されたにちがいないと、影ではコソコソ噂をしていますよ。使用人でやめた人間も何人かいます」

「ポール・エイムズ、テス・ブラント、ジュリー・ウエインライトなどの使用人達はいかがですか?」

「気味悪く思っているでしょうが、通いの女中やコックの大部分がやめたり、暇をとったりしているので、三人で家事を切り盛りしています。ジュリーはウォルターさんの死体を見た時は失神してしまいましたが、若いんですね。もう大丈夫です」

 若い新聞記者はしみじみと言った。

「しかし、誰も出入りできないような完全な密室での殺人ですから、悪魔や悪霊の仕業と思うのも当然かもしれません。ぼくも、ほとんど信じてしまいそうですよ」

「ウォルター・マーヴェルは、あなたとマリオンさんの結婚をどう思っていましたか? 祝福してくれましたか?」

「いいえ。ウォルターさんは、新聞記者が大嫌いなんです。でも、本当はマリオンと仲なおりしたいので、最近はぼくのご機嫌を伺っています。この頃は頻りにマリオンと一緒にクインエーカーズ荘に来るよう勧めています。マリオンも父親に会いたいので、週末はあちらで過ごすことが多くなっていました。事件があった時も、ウォルターさんに招待されて行っていたんです」

「エリザベスさんの人となりはどうですか?」

「外見はマリオンとよく似ています。二人とも背が高くてプラチナ・ブロンドの髪をしています。ただ、髪の長さがちがいます。マリオンは短い髪ですが、エリザベスはロングです。顔立ちなんかも、二人が姉妹だといっても通るほどです。でも性格は対照的で、マリオンは感情をすぐ表わす性質ですが、エリザベスはどんなことをいってもニコニコしているんですが、何を考えているのかわからないところがあります。マリオンは、狡猾なせいだといって毛嫌いしていますが、それは世間を渡っていく上で身につけた知恵かもしれません」

「ゴシップ雑誌には、アンソニー・ウエリントン君とは愛人関係にあると書いてありましたが、本当ですか?」

「それは公然の秘密です。知らぬはウォルターさんだけです。恋は盲目といいますからね。マリオンもぼくも、ウォルターさんの目を覚まそうと努力しましたが結局無駄でした。アンソニーが彼女の従姉弟だという、エリザベスの言葉を頭から信じて疑わないのです」

「従姉弟? それは本当ですか?」

「もちろん嘘に決まっています。アンソニーはウォルターさんの秘書になって二年になりますが、前にはそんな話は一度だってきいたことがありません」

 ジョン・ハートリーは断言した。

「アンソニー・ウエリントンは、どんな人間なんですか?」

「あまり教養がない女性が好みそうなタイプの男ですね。ハンサムで背が高いスポーツマン。わざとらしい明るさを持っていて、少し軽薄な印象を受けると思います」

「なるほど。目に浮かぶようですね」

 紳士は、窓の方へ目をやった。暗闇が忍び込んでいたが、部屋の中は充分明るかった。「トニー・ヴェントナーについて教えてください」

「ウォルターさんの子供の時からの友人で、唯一の親友といっていいでしょう。ウォルターさんと違って大柄で陽気な老人で、銀髪と鋭い目が印象的な有能な弁護士でもあります。

近くの町で法律事務所をひらいていて、なかなか繁盛しているようです。確かお祖父さんもお父さんも弁護士で、代々マーヴェル家の法律問題を扱っています。ヴェントナーさんはハッキリした性格で、ずばずばものを言いますが、ぼくは好きですね。ウォルターさんが遺言状を書き変えて、遺産相続人をエリザベスにした時は大反対をして癇癪玉を破裂させたようですが、ウォルターさんの決心を変えることはできませんでした。だいぶ激しいやりとりがあったようですよ」

 ジョン・ハートリーは溜め息を吐いた。

「ヴェントナーさんは、マリオンさんの味方なのですね?」

「はい。いつも、マリオン、マリオンといって、実の娘のように可愛がっています」

「ヴェントナーさんには、子供がいるのですか?」

「いいえ、いません。奥さんをもう三十年以上も前に亡くして、ずっと男やもめを通してきたので、ウォルターさんとも境遇が似ているのです。それだけに一層、マリオンが可愛くてしかたないのでしょう」

「マーヴェルさんとヴェントナーさんが敵対関係にあったといったようなことはありませんか? 商売上のこととかでも…」

「ないと思います。そんな話はきいたことがありません。ただ、マリオンのことでは意見の対立はありましたが…。それは家庭的といっていい些細な揉め事です」

「なるほど」

 紳士は、さらりと話題を変えた。

「クリストファー・ドルーというのは?」

「ウォルターさんが後援している画家です。なんでもウォルターさんが若い頃大変世話になった人の息子さんで、それで恩を感じて面倒をみているそうです。あまり才能はないみたいです。ドルーさんには親が遺した財産がかなりあったということですが、働かずにブラブラしていたので、すべて喰いつくしてしまったようです。その困っているところを、ウォルターさんが呼んで、居候として転がり込んで来たということです。中肉中背の、見るからに人がいいけど、何の取り得もない男です。気が弱くて、居候ということに引け目を感じているみたいです。マリオンとは気が合って、マリオンはいつも、おじさん、おじさんと慕っています。でも、最近、ウォルターさんから援助を打ち切ると宣言されてしまいました」

「クインエーカーズ荘を追い出されるというわけですか?」

 紳士はジョン・ハートリーの顔を見て訊いた。

「いえ、そこまでは言われていません。絵では食べていけないから、まともな職を見つけて働くように言い渡されたようです。でも、今のままだといずれ追い出されるのは目に見えています」

「ドルーさんには、絵の才能はないのですか?」

「もともと道楽でやっているだけですからね。ここ何年もウォルターさんがドルーさんの絵をすべて買い上げていますが、外には一枚だって売れていないはずです。もっとも、本人は五年間パリのモンマルトルで修行したといっていますが、本当のところはわかりません。あなたはフランスへ行ったことがありますか?」

「ええ、二十代の時パリに遊学していました。だから、モンマルトルにも行ったことはあります」 

 その紳士は頷いて言った。

「そうすると、ドルーさんはマーヴェルさんが絵を買ってくれないと、忽ち困るわけですね?」

「ええ、今まで自分でお金を稼いだことがありませんからね。最初から職を捜そうという気がないようです」

「もし、エリザベスさんなら、ドルーさんの絵を買うでしょうか?」

「わかりません。エリザベスも吝嗇ですからね」

「ドルーさんは、ウォルターさんから最後通牒を言い渡されて恨んでいたでしょうか?」

「もしそうだとしても、表立って口答えとかはしていないはずです。気落ちして、まるで子犬みたいにすごすご引き下がったと、その場にいたアンソニーが面白おかしく話していました」

「もしかしたら、恨んでいたかもしれませんね。人間なんて勝手なもので、恩なんかすぐ忘れてしまうものですから」

 紳士は少し考えて言った。

「次にエイムズ、ブラント、ウエインライトの三人について話してください。三人は信用できる使用人ですか?」

「それはぼくが保証します。ぼくがクインエーカーズ荘に出入りしだして、もう二年になりますが、問題を起こしたことは一度だってありません。執事のポール・エイムズはいつもきちんとした服装をした忠実な男です。長身痩躯でウォルターさんより十歳程年を取っていて、先代の時から屋敷へ仕えているはずです。自分の仕事を弁えていて、けっして差し出がましい口はききません」

 ジョン・ハートリーは、スコッチを呷っていった。

「女中頭のテス・ブラントは、確かドイツ生まれの五十代の女性です。小柄でよく太っていますが、テキパキしていて働き者です。家政全般を取り仕切っていて、屋敷のことは何でも知っています。マリオンがまだ小さい時にマーヴェル家に来ましたので、マリオンのことはまるで我が娘のように面倒を見てきました。

 ジュリー・ウエインライトは、昨年田舎の学校を卒業してマーヴェル家に住み込みで働くようになりました。小柄で痩せていますが、とても明るくてよく働く娘です。少しおっちょこちょいで、よくブラントに怒られていますが、頑張り屋です。将来は歌手になるんだといつも云っています」

「それでは、最後にジョン・ハートリーについて教えてもらえますか?」

「ぼくのことですか?」

 長身の若者は驚いていった。

「ぼくのことは、最初あなたが推理したではありませんか? 本当に当たっていたので、ビックリしました。四年前にアメリカのハーバード大学の法学部を卒業して、すぐロンドン・タイムズに入社し、現在は社会部の記者です。現在はチズルハーストの叔父の家から通勤しています。学生時代はボートのエイトの選手として活躍しました。趣味は読書で、SFの本と探偵小説をよく読んでいます。両親は健在で、ウェールズで農業をやっています。性格は保守的で、支持する政党は保守党です」

「それに、性格は真面目で女性にやさしく、正義を愛する典型的な英国の若者ですね。もっとも、わたしも保守党を支持していて、もし労働党が政権を握るようなことがあれば、アメリカへ帰ろうと思っています」

 紳士は、ニッコリ笑って言った。

「マリオンさんとはいつ知り合ったのですか?」

「二年前の夏です。バカンスで、へースティングズの海岸へ遊びに行った時に出会いました」

「結婚するのですか?」

「もちろんです。ぼくたちは愛し合っていますし、たとえマリオンが一文なしでもぼくの決心には変わりありません」

「紳士なんですね」

「ありがとうございます。英国の男性を代表してお礼をいいます」

「それでは、容疑者がみんな揃ったところで、事件が起こった日のことを順序よく話してください」

 紳士は短く刈り込んだ口髭に右手を当てて言った。

 部屋の中は静まり返っており、暖炉の中でパチパチと薪が弾ける音がするだけだった。

「わたしもあの事件に関しては、私なりに独自の見解を持っていますが、よくわからないところがありましたら、その都度訊きますので教えてください」

「あの日のことは、マリオン達とも何度も話しましたし、警察へ何回も反芻して証言したので、かなり詳しく話せると思います。まるで、昨日みた悪夢のような感じです」

 ジョン・ハートリーは真剣な表情で紳士の顔を見ながら話し始めた。

「ぼくとマリオンは、休暇をクインエーカーズ荘で過ごそうと、事件の日の数日前から滞在していました。ヴェントナーさんも、用事があるからということで呼ばれていて、事件の前の日の午後に到着しました。この事件では、一階の図書室とみんなの部屋がある二階が重要な役割を果たすと思われますので、簡単な見取図を書いてみます。その方が説明もしやすいと思います」

 ジョン・ハートリーは、ナプキンをテーブルの上へ拡げると屋敷の簡単な見取図を画いた。

「一階には、食堂、厨房、配膳室、居間、応接室、女中の詰め所、ホール等がありますが、事件には直接関係ないと思いますので省略します」

「他の人は此所へ住んでいるのでともかくとして、あなた、マリオンさん、ヴェントナーさんがクインエーカーズ荘へ泊まる時は、いつも一階の同じ部屋なんですか?」

「いいえ、特に決まっていません。もっとも、マリオンは以前の部屋を使用しています。ぼくとヴェントナーさんも、特に希望しない限り、いつも同じ部屋です。エリザベスは、後からこの家に入ったので二階になっています。ヴェントナーさんがやって来た時も、ちゃんと部屋は用意されていたのですが、肝腎のウォルターさんがクインエーカーズ荘にいなかったものですから、一悶着ありました」

「どこへ行っていたのですか?」

「エイムズの話では、ロンドンへ行って来ると言って一人で家を出たそうです。ぼく達は知らなかったんですが、最初から向こうに泊まってくる予定だったようです」

「何をしに行ったのでしょうか?」

「エイムズには、マリオンの誕生日のプレゼントを買いに行くと言っていたそうです。マリオンの誕生日が近かったものですから」

「あなたは、その言葉を信じましたか?」

「たぶん、エイムズにはそう言ったのでしょう。でも、いまぼくは、ウォルターさんは嘘をついたのに違いないとおもっています」

「なぜですか?」

「エリザベスでさえその事実を知らなくて、後できいてびっくりしていました。ぼくはその時二人の関係を考えてウォルターさんはその理由を言わなかったんだと思いました。それにウォルターさんは約束には厳しい人でした。だから、自分でヴェントナーさんを呼んでいて、それをすっぽかすようなことをするはずはありませんし、これまでそんなことは一度だってありませんでした。それなのに、マリオンのプレゼントを選ぶためだけで、ロンドンへ行くはずがありません。きっと、別の重要なことで出掛けたのにちがいありません。ロンドンでの買い物はカムフラージュです」

「それはヴェントナーさんへ断わりの電話をできないほど緊急を要することか、そのことを忘れさせるほど、慌てるか驚くかしたことだったのですね?」

「はい」

 ジョン・ハートリーは、はっきり言い切った。

「そのことについて何か思い当たることがありますか?」

「ジュリー・ウエインライトがその日の午前中に図書室でウォルターさんが誰かを詰っているのを立ち聞いています。立ち聞きするのは悪いと思ってすぐ立ち去ったので、相手が誰なのか、何を言っていたのかわからなかったそうです。これは見ざる言わざる聞かざるというブラントの教育の賜です。それから暫くして、ウォルターさんはエイムズにロンドンへ行くことを告げたのです」

「たいへん暗示的ですね。しかし、あなたはいいスパイを持っていますね」

 その紳士の言葉に、若い新聞記者は真っ赤になった。

「ジュリーはぼくに好意をもってくれていて、マーヴェル家でおこったことは何でも隠さず話してくれるのです。けっして変な意味ではなく、ジュリーはぼくのことをお兄さんのように思っているのです。ひとりっ子なので淋しいんでしょう」

「ウォルターさんの話し相手は誰だと思いますか? 見当ぐらいはついているのではありませんか?」

「それが皆目わからないんです。ぼくも意気込んでみんなに訊いてまわったんですが、誰もが否定していますし、他にそのようなことを見たり聞いたりした人はいません。クリストファー・ドルーが毎朝の散歩に出掛けていたと言っている他は、使用人を除いてみな自分の部屋にいたと証言しています。ブラントは一階の厨房に、エイムズとウエインライトは女中の詰め所にいたそうです。みんな、部屋を出たり入ったりしているのですが、時間が錯綜して特定できないのです。今風にいえば、誰もアリバイがありません」

「興味深い事実ですね。それがウォルターさんのロンドン行きの原因だったとしても、目的は一体何だったのでしょう? ウォルターさんは実際マリオンさんのバースディ・プレゼントを買って来たのですか?」

「この事件を担当しているマシューズ警部の話では、ウォルターさんはニューボンド・ストリートのアスプレイという店へ行ってかなり高価なダイヤの指輪を買っていますが、屋敷のどこからも、そのようなものは発見されていません。それから、ロンドンでのウォルターさんの他の足取りもよくわかっていません。もちろん、これは警察がその威信をかけて全力で捜索しています」

 ジョン・ハートリーは、何か思い出したように笑って言った。

「マシューズ警部は、禿げかかった大きな頭、ちょっとずり下がった眼鏡が特徴の、がっしりしたビヤ樽のような体を持った大男ですが、それでいて非常に有能な警官です。もっとも、いつも手足となって駆け回っているのは、いかにも真面目そうな警官のキャプリン刑事ですが…」

「まるでヘンリー・メリヴェル卿ですね」

 紳士が面白そうに言った。

「カーター・ディクスンですか? ぼくも彼は好きで、よく読んでいます」

「その日、他に外出した人はいますか?」

「雪片が舞うような寒い日でしたから、ほとんどの人が家に閉じこもっていました。ただ、アンソニーがウォルターさんの用事で近くの町へ出掛けていますし、ドルーさんも近所の友人の家へチェスをしに行っています」

「アンソニーさんの用事というのは何ですか?」

「ウォルターさんが知り合いから借りていた本を返しに行ったそうです。魔女に関する本とかで…」

「何時に出掛けて、何時に帰ってきましたか?」

「ウォルターさんが出てすぐだったと思いますから、午後一時頃だったと思います。帰宅したのは、夕食前の午後六時頃です」

「ドルーさんは?」

「家を出たのは午後三時頃で、帰って来たのは午後八時半頃だったでしょうか。夕食は友達のところで御馳走になったそうです」

 ジョン・ハートリーは興味深げな顔つきで訊いた。

「二人の外出に何か意味があるのですか?」

「わかりません。あるかもしれませんし、ないかもしれません。ただ、起こったことをすべて知りたいだけですよ」

 紳士は、やんわりと質問をかわした。

「その日、他に何か普段と変わったこととかおかしいと思ったことはありませんか? たとえば、誰かの様子がおかしかったとか、寝込んでいたとかいったことでも構いませんが…」

「いえ、別にそんなことはありませんでした」

「それでは、日が明けた事件当日のことを話していただけますか。ウォルターさんが帰宅したのは何時でしたか?」

「夕方の五時頃でした。エイムズが出たのですが、余計なことは何も言わずにすぐ図書室へ入ったそうです。ただ、『食事は外でとったからいい。暫く一人にしておいてくれ』と申しつけたそうです。そして、エイムズは、図書室の暖炉に火を入れて出ていますが、その時ウォルターさんが机の椅子に深々と座っていたのを確認しています。何か非常に悩んでいる印象を受けたということです」

「その五時頃までのみんなの行動を教えてくれませんか。あまり詳しくいわなくて、結構です」

「それなら、メモがあるので見ていただけますか。あの日は雲が低く垂れ籠める小雪まじりの寒い日だったので、みんな外出はしませんでした。屋敷へ出入りしたのは通いの女中や料理人だけです。その日は郵便も来ませんでした」

 新聞記者は胸ポケットから手帳を取り出すと、あるページを開いて渡した。

 紳士はそれをテーブルの上へ置いて覗き込んだ。


 エリザベス・マーヴェル

  風邪をひいたとかで、ずっと部屋で寝ていた。

  昼食にも出てこず、部屋でとる。


 マリオン・マーヴェル

  午前中は、ハートリーとフェンシングの稽古をしていた。

  午後は、ドルーの部屋でドルーの絵のモデルになっていた。


 ジョン・ハートリー

  午前中は、マリオンとフェンシングの稽古をしていた。

  午後は、ドルーがマリオンの絵を画くのを眺めていた。


 アンソニー・ウエリントン

  午前中は、部屋で書類の整理をしていた。

  午後は、ウォルターの手紙のタイプを打っていた。


 トニー・ヴェントナー

  午前中は、部屋で読書をしていた。本はエラリー・クイーンの「ローマ帽子の秘密」。

  午後は、顧客へ手紙を認めていた。


 クリストファー・ドルー

  午前中は、家の中をぶらぶらしていた。

  午後は、自分の部屋でマリオンの絵を画いていた。


 エイムズ(執事)、ブラント(女中頭)、ウエインライト(女中)

  午前中も午後も、いつも通り家事で一階、二階を行ったり来たりしていた。


「再度訊きますが、午後五時頃までに何か気づいたことはありませんでしたか?」

「ありません。鈍感なのかわかりませんが、別に普段と変わりはなかったと思います」

「そうですか。ウォルターさんが帰って来てから何かが動き出したのですね。それでは、ウォルターさんの帰宅後のことを話してください」

「ぼく達は、ウォルターさんが帰って来たのを知らなかったのです。ぼくはドルーさんの部屋で、彼がマリオンを画いているのをずっと見ていました。彼女はヒラヒラした白い古風な衣装を着て、すました顔でずっと椅子に腰かけていました。でも、ちょっぴり緊張していたみたいです。それは和やかな雰囲気で、ドルーさんはときどき冗談を言っては、ぼくたちを笑わせてくれました。

 エリザベス、アンソニー、ヴェントナーさんの三人はエイムズからウォルターさんの帰宅を知らされていたそうですが、暫く一人にさせて欲しいときいていたので、会いに行くのを控えていたそうです。三人のうちエリザベスは薬を飲んで寝ていて、アンソニーはタイプと悪戦苦闘しており、ヴェントナーさんは手紙を認めていたといっています。ただ、四時からアンソニーはエリザベスのところへ見舞いに行っており、思ったより具合がよかったので、雑談していたそうです。

 エイムズとブラントは、ずっと一緒に女中の詰め所にいました。そして、ウエインライトは二階の廊下の掃除をやっていました。ジュリーは二階の南側の廊下の清掃をしていたのですが、その午後は事件があった時までヴェントナーさんの部屋のドアもドルーさんの部屋のドアも開かなかったと証言しています」

「新聞などで読むかぎりでは、問題なのは犯行があった時間ですね」

「ええ、犯行時間には、みんな完璧なアリバイがあったんです。悪魔や悪霊の仕業だと言われるのも当然です」

「図書室の中の音はよく聞こえるのですか?」

「いいえ。相当大きな音でないと、外へ洩れないと思います。あの時は、ぼく達がブラントに呼ばれて、晩餐のため、食堂へ向かっているところに騒動が持ち上がったんです。ぼくとマリオンとドルーさんが南側の階段を降りると、突然『やめろ! 何をするんだ!』という叫び声と、必死で抵抗するようなドスンバタンという音が聞こえました。それで、図書室の扉まで駆けて行って開けようとしましたが、閂がかかっているのかびくともしません。ぼく達がドアをドンドン叩いて、『ウォルターさん、どうしたんですか? 大丈夫ですか?』と呼んでも全く反応がありません。ドアからも何の光りも漏れていません。後で知ったのですが、ドアの隙間にはテープで目張りをしていたのです。その時には、騒ぎを聞きつけて、ヴェントナーさん、エイムズ、ウエインライトも集まってきていました。ブラントはぼく達を呼びに来た後、エリザベスの寝室へ行ったそうです。ランプがなかったし、もともと図書室の前の廊下は暗いので、みんなの顔はよく見えませんでしたが、一様に青醒めて心配しているようでした。そうして突っ立っていても埒が明かないので、ぼくとエイムズが外のテラスに出て、明かりの漏れている窓のカーテンの隙間から中を覗いて、ウォルターさんの死体を発見しました。そして、エイムズに斧を取りに行かせて、ドアを破ったのです。すでにジュリーが異変をアンソニーとエリザベスに知らせたので、二人とも階下へ降りて来ていました。ブラントも一緒でした。エリザベスは寝着の上にガウンを羽織ったままで、アンソニーがその傍に寄り添うように立っていたのが印象的でした。閂を外すと無残な姿が目に飛び込んできました。図書室の中は照明が点いていたので、外とは対照的にとても明るかったのです。エリザベスとジュリーが気絶したので、警察と一緒に医者も呼びました」

「事件の経緯はだいたいわかりましたが、あと二、三はっきりさせておきたいことがあります」

 紳士は、水で喉を潤しながら言った。

「質問の第一は、博士は目が悪かったのですか?」

「いや、普通以上でした。狩猟もよくやっていました。うさぎや鴨を射つんです。それに、眼鏡をかけているところを見たことはありません」

「第二番目は、図書室の前の廊下はどのくらい暗かったのですか?」

「かなり。廊下の、電球が点いたり消えたりして。でも、それは細工されたものじゃなかったのです。ただ古くなっていただけです。警察がそう発表しました。普段でも、暗がりの中であの図書室の左右にある鎧を見ると、まるで生きているようでゾッとすることがあります。いまにも歩き出しそうで。あの日の凶器は右側の鎧が持っていたものですが、後で確かめてみるまでなくなっていることに気づきませんでした」

「そうですか」

「あっ、そうか! あの時、あそこに何かがあった、それとも誰かがいたかもしれないんですね?」

「そんなことは言っていませんよ」

 紳士は、笑顔を見せた。

「三番目の質問ですが、あなたが図書室に踏み込んだ時、どんな印象を受けましたか?」

「最初にウォルターさんが目に入ったのですが、何だか虫がピンで止められているようだナと変なことを思いました。人間なんて、あんな緊急時に、おかしなことを考えるものなんですね」

「他に感じたことはありませんか?」

「部屋の中が大変暑かったことと、絨毯のところどころが、焦げていたことを覚えています。部屋が暑かったのはたぶん誰かが薪を加えて燃したためで、絨毯は火がついている薪を当てて燃やそうとしたのではないでしょうか?」

「目張りのテープについてはいかがですか?」

「そうそう。あれを忘れていました。あれを見た時、ぼくはまたウォルターさんが降霊術かなにかをやっていたなと思いました。降霊術やPSKの実験をする時に、よくやりますので・・・」

「なるほど。完璧に外部から遮断するという意味なんですね」

「だけど、いつもは一人でそんなことはしないのですけど…」

「それじゃあ、”呼び出した悪魔に殺された”と世間の人が騒ぐのも、まんざら理由が無いわけではありませんね」

「そうなんですよ。だけど、マリオンまで呪われているというのは行き過ぎです。父と母も世間体を考えるものですから・・・」

 若い新聞記者は、頭を抱え込んだ。

「質問の第三は、ウォルターさんが買ったダイヤの指輪ですが、それが紛失していると言い出したのは誰ですか?」

 紳士はさらっと受け流して質問を続けた。

「それはエリザベスです。マシューズ警部が、ウォルターさんの所持品を見せて、何か無くなっているものがないかどうかを訊いた時に、ダイヤの指輪がないと指摘したのです。エリザベスは物質欲が強い女ですからね」

「ダイヤの指輪は、エリザベスさんにとって何か特別な意味があるのですか?」

「別にないと思いますけど」

「マリオンさん、ウォルターさん、マーヴェル家にとってはいかがですか?」

「ぼくが知る限りはありません」

「そうですか」

「以上が、この事件についてぼくが知っている経過です。警察は本腰を入れてこの事件に取り組んでいますが、解決のかの字も見えていません」

「たしかに常識では、この事件を解くことはできないでしょうね」

「あなたは解くことができたのですか?」

 ジョン・ハートリーは意気込んで訊いた。

「ええ。たぶん、解決できたと思っています」

 紳士は、自信を持って言った。

「エッ、本当ですか?」

「わたしは、この事件は始めからS・S・ヴァン・ダインさんの『ケンネル殺人事件』だと思っていました」

「犯人は、一体誰なんですか?」

 ジョン・ハートリーが、意気込んできいた。

「すべての証言と証拠が、唯ひとりの人物を指し示しています。その人物の名前はー」


 犯人はだれだろう?

 ここまでで、すべての手掛かりは与えられました。合理的な推理で、だれが犯人か当ててみてください。

 なぜ作者がこんなところにこんなことを書いているのか、そんなこともヒントになるものです。

           ―作者―


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

紳士は効果を上げるように少し間を置いて、芝居じみた口調で続けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


このクラブの中は暖かく、平穏で静かな時が流れていた。

「エリザベス、エリザベス・マーヴェルです。たぶん、アンソニー・ウエリントンも共犯なのでしょう」

「しかし、犯行時には女中頭のブラントと一緒にいたはずですよ」

「犯行は午後六時前に行なわれたのです。刺された時間と死んだ時間にズレがあったのです。その間に、ウォルターさんは、最後の力を振り絞って密室を作り上げたのです。たまに、致命傷を受けても暫く生きていることが報告されています」

 紳士は一気に続けた。

「動機は、あなたがおっしゃる言葉を借りれば金銭欲でした。前の日、マーヴェルさんが話をしていたのはエリザベスで、アンソニーとの浮気を責め、遺言を書き変えると言い渡したのでしょう。たぶん、浮気の現場を目撃したか、浮気の証拠を手に入れたのだと思います。そこで、エリザベスはヴェントナーさんが着いて、そのことが行なわれる前に行動を起こす必要があったというわけです。しかし、ウォルターさんもプライドが高い人物です。あんなにも諌言されたのにも拘らず遺言状を書き変えた手前、また書き直すとは言えなくなったのでしょう。そこで思い直して、ロンドンの他の法律事務所に頼んだのではないでしょうか?」

「あの日のロンドン行きにはそんな意味があったんですか。でも、もしそうなら、ロンドンの法律事務所から何か連絡があってもいいはずですが」

「それは日時を指定されているか、死後何日目に公表といった項目を設定されているにちがいありません」

 紳士はジョン・ハートリーを安心させるように言った。

「エリザベスはウォルターさんがヴェントナーさんを呼んだのは遺言を書き換えるためだと思ったのです。それで、エリザベスは事件当日の午後六時前に部屋を抜け出し、階下に降りて行き図書室の扉をノックします。髪を後ろにポニー・テイルに括って手にはしっかりと廊下の鎧の細身の剣が握られています。もしかしたら、指紋が付かないようにハンカチでカバーしていたのかもしれません。そして、ウォルターさんが出てきたところを、体当たりして刺し、脱兎のごとく二階の部屋へ駆け上がります。アンソニーが午後五時から午後六時頃までエリザベスと一緒にいたと証言したのは、エリザベスに頼まれたか、もしくはエリザベスを庇うためだったのでしょう。もし、ブラントにエリザベスの部屋に行った時のことを詳しくきけば、エリザベスが激しい息をしていた等の証言を得ることができるかもしれません。ウォルターさんは、後ろ姿を見てエリザベスをマリオンさんと間違えたのです。二人は背も高く、プラチナ・ブロンドの髪をしていて、よく似ていました。髪の長さは違っていたのですが、エリザベスは髪をポニー・テイルに括っていたので短い髪に見えたのでしょう。そして、マリオンさんは遺言のことでウォルターさんに恨みを持っています。だから、ウォルターさんが間違うのももっともなんです。もしかしたら、エリザベスがドアをノックしたとき、『パパ』とかいって開けさせたのかもしれません」

「それで、あなたは廊下の明かりのことを訊いたんですね」

ジョン・ハートリーは感心したように頷いた。

「それに、パパと呼ぶのはうまい手だ。そう言うのはマリオンしかいませんからね」

「ウォルターさんは夜盲症だったんです。暗いところではほとんど目が見えませんでした。夜盲症にいいのが、チキンや牛のレバーです」

「なるほど、人が変わったんではなく、治療のためだったんですね?」

 新聞記者は、店外へ目を遣って訊いた。

「ウォルターさんは昔医者だったこともあるので、そのことをよく知っていました」

「なるほど」

店の外の世界は霧がすべてを閉ざしており、幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「話を戻しましょう。ウォルターさんは、受けた傷が致命傷だということを一瞬にして悟りました。そこで、本当に死力を尽くしてマリオンさんを庇おうとしました。剣がタンポンの役をしていたので、出血は僅かしかありません。しかし、胸を長い剣で貫いて自殺する人間はいませんから、自殺には見せ掛けられません。また、雪のことを知っていたので、強盗か何かが外から忍び込んで刺されたことにすることもできません。そこで、困り果てたウォルターさんは、思いっ切り不可解な状況を作って、悪魔か悪霊の仕業に見せようとしたのです。ウォルターさんは扉の閂に樫の木の角材を通し、扉板をテープで目張りした上で、暖炉に薪を加えて煙突からの脱出は不可能と思わせました。もちろん、剣にマリオンさんの指紋が残っていたらまずいので、拭っておきます。しかし、やはり出血して絨毯に血が落ちていたので、火のついた薪で焼いて回ったのです」

「なるほど、あの絨毯の焦げ跡には、そのような深い意味があったんですね」

「そして、喧嘩をしているように思わせるために、一人で叫んで本棚などを倒したのです。あのようなお芝居や細工をしたのは、すべてウォルターさんです。最後に、椅子に腰を落として、自ら剣を引き寄せたのです。それですべて終わりです。最初、ウォルターさんが本棚を倒すほど抵抗したことと、大人しく椅子に座ったまま刺されていることの二つの対比が非常に奇異に感じられたのですが、このように考えると、すべて納得がいきます」

「やはり、ウォルターさんはエリザベスなんかより、ずっとずっとマリオンを愛していたんですね」

 ジョン・ハートリーは、涙ぐんでいた。

「失礼ですが、わたしは最初マリオンさんを容疑者NO1に挙げていました。ウォルターさんが命がけで守ろうとするのは、マリオンさんしかいないからです。しかし、マリオンさんには完璧なアリバイがあります。そこで、わたしはその考えを捨て、容姿がよく似ているというエリザベスが替わってスポット・ライトを浴びることになったのです」

「ぼくはいまのあなたの推理を訊いて、たぶんあなたのおっしゃる通りだと思います。ただ、惜しいことに、エリザベスが犯人だという証拠がありません」

「ダイヤの指輪があります。いつ、どうして、エリザベスはウォルターさんがダイヤの指輪を買って来たのを知っていたのでしょう? これがわたしの注意を引きました。ウォルターさんは誰にも目的を告げずにロンドンに行きました。そして、帰宅するとすぐ誰にも会わず図書室に籠もりました。ウォルターさんは、エリザベスとマリオンさんとの仲を考慮して、エリザベスにそんなことを言うはずはありません。それなのに、エリザベスはダイヤの指輪のことを知っていました。そして実際ウォルターさんはダイヤの指輪を買っています。たとえ、前に話を訊いていたとしても、ああいうふうに確信を持って証言はできないはずです。このことは、一体何を意味しているのでしょうか? そのことから推理できることは、エリザベスが実際ダイヤの指輪を目にしたということです。たぶん、ウォルターさんは扉のところで刺された時に、それを持っていて、落したのでしょう。それをエリザベスが拾って逃げたのです。だから、もう一度エリザベスの部屋を詳しく捜査すれば、きっと動かぬ証拠が出て来るはずです。警察が二度同じところを調べるとは夢にも思わないでしょうからね。エリザベスは物質欲が強い女性ですから、証拠となる品でも処分していないと確信しています。それに、宝石を金にするには警察の目が光っていて、この家から持ち出すこともできません」

 紳士は力づけるような口調で言った。

「それに、アンソニー君を責めてみてはいかがですか? エリザベスが手を下したのですから、再び遺言状が書き替えられたことを知ったら、計算高いアンソニー君はどうするでしょうか? 共犯でいるよりは、愛する人を庇って虚偽の証言をした恋人の役を演じるのではないでしょうか? そのほうが罪も軽くなりますからね。たまには、取引も重要です。それから、ゆっくり攻略にかかればいいのです」

「そうですか。目からうろこがとれた気分です。マリオンもお父さんの本当の気持ちがわかって喜ぶでしょう」

「あのダイヤの指輪は、ウォルターさんのマリオンさんへの愛の証ですよ。きっと、あなたがたの結婚を祝福して買った婚約指輪じゃないでしょうか? たぶん、マリオンさんの指にピッタリとフィットすると思います」

「どうもなにからなにまで、ありがとうございます。これから、あなたの推理をマシューズ警部に話してみます。きっと、あなたの言うことは正しいでしょう。ぼくは全面的に支持します」

 ジョン・ハートリーは喜びを満面に表わして言った。

「ぼくができることで、何かお礼がしたいのですが・・・」

「いや。どうか、そんなに気を使わないでください。わたしは若い二人が幸せになってくれるだけで満足です。それに、いい知的なゲームを楽しませていただきました。失礼な言い方なら、許してください」

「それでは、ぼくの気がすみません」

「それじゃ、ここでの食事をおごっていただきましょうか?」

 紳士は少し考えていった。

「ちょうど、あなたの生涯のパートナーが来たようですよ。あの様子だと、何かいい知らせをもって来たみたいです。ロンドンからの便りでしょうか? 邪魔者は早々と退散することにします」

 背が高い、プラチナ・ブロンドの美女が、白い霧と一緒に入って来たところだった。

 紳士が立ち上がると、ジョン・ハートリーが訊いた。

「最初、あなたはぼくのことを詳細に推理して、ことごとく当たっていましたが、どうしてですか?」

「手品の種を明かせば、実はあなたのことは以前パーティーでチラッと見かけたことがあるのです。そして、同席の婦人があなたのことを詳しく話してくれました」

 紳士は笑いながら最後の挨拶をした。

「どうかお幸せに・・・」

 紳士は、通り過ぎる若い女性に軽く会釈をして出入口へ向かった。

 ジョン・ハートリーは、ボーイからオーバーと帽子を受け取っている紳士に大声で呼び掛けた。

「もしかしたら、あなたはジョン・ディクスン・・・」注1

 その言葉が終わらないうちに、紳士は濃い霧の中に消えて行った。

 抱き合っている若い二人を残して…。


※注1、ジョン・ディクスン・カーは、カーター・ディクスンというもうひとつのペンネームの他に評論のときにロジャー・フェアベアーンというペンネームを使ったこともある。


               完』


「一平ちゃんには、犯人がわかった?」

マリアが、食後の一服をしながらきいた。もちろん、煙草を吸っているのでなく、オレンジ・ジュースを飲んでいるだけである。

「何となくね」

「ワァー、わからなかったんだ」

「わかったよ。たぶん、そうだと思ったんだ」

「負け惜しみね」

 一平は口を噤んだ。

「カーお得意の密室だもの。だから、最後の呼び掛けが生きてくるのよ」

「あれには、参ったね」

「でも、マニアだったら、あのペンネームは知っているわ。わたし、彼のファンだから・・・」

 マリアが、嬉しそうに笑った。


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