3. 魔導師は隠居したい
「リ・ムー師よ」
段上から低く穏やかな声がかけられる。
略式の型だが、それでも金糸の刺繍によって豪奢な意匠を凝らした鉄紺色の衣に身を包み、ゆるく波うつ白銀の髪と深い翡翠の瞳を持つこの男は、ラウィード・イルータ・ギルシフ。
このギルシフの現王、御年三十三。眉目麗しい美丈夫が、玉座から戸惑うような視線を向けていた。
ここはギルシフ王城、謁見の間。
「・・・・・・」
一方、対面するリ・ムーと呼ばれた男は、白を基調とした登城服が多い中、頭からすっぽりと厚ぼったい煤色の長衣を纏い、その頭巾に隠れた表情は窺えない。
王の呼びかけに応えることもなく、腕を組み、先ほどから変わらぬ姿勢で広間中央に立ち尽くしていた。
とうの昔に引退し隠居生活に入るはずだったが、訳あっていつ終わるとも知れない潜伏生活を今も余儀なくされている。
それでもそれなり穏やかな暮らしに馴染んでいたのだが、突如、城からの数年ぶりの呼び出し。しかも火急の。
応じたくもなかったが、そうすると後々自分と家人にとって厄介なことになる。
そして年若い王からもたらされた思いもよらない知らせ。
───リ・ムー師の機嫌は非常に悪かった。
関係者として集められた数名の要人と、それらに従う側近、事務官、持ち場に着く護衛騎士たち。
階級、役職により広間に並んだのは人数にして20程にもなるだろうか。皆、固唾を飲んで見守っていた。
自国の王の御前にあって不敬極まりない態度をこの男は続けているが、王の側に侍る大臣達も、この場を護る騎士達も、それには介さずむしろこの男の発する怒気と垂れ流される瘴気のような魔力に気圧されていた。
魔力のない、或いは少ない者達はその密度の濃すぎる空間では体調に異変をきたす。
怖気に寒気。冷や汗が流れ、動悸にめまい。
次第に怠さが増してくる。
物理的な重さを感じる。
王座のいちばん近くに控える、額の大分後退した小柄な老宰相は、嘔吐きを通り越し胃痛を覚え始めていた。
うっすらと涙目になり、
───・・・胃薬・・・。
無意識に鳩尾をさすっていた。
「・・・あれが?まだ、生きていると?」
隠居生活を逃すこととなった因縁の、禍根の人物は、疾うの昔に死んだはず。
唸るように発せられた声に、その場の幾人かがぴくりと肩を揺らす。
この元筆頭魔導師と数十年来の腐れ縁である古株数人には慣れた様子も窺えるが、内心蒼白、いや実際真っ青な者もちらほらとみられた。
壁際に控えるいっとう年若い近衛騎士は、思うように呼吸ができず気を失うまいと必死で、知らずゴクリと喉をならす。
これが、“先代”宮廷魔導師筆頭・・・。
経歴不詳、ある日ふらりと王都に現れ、見る間に歴代最年少で宮廷筆頭までのし上がった。
頭の堅い古参の導師らからも憎々しげに当代随一と言わしめ、先のギルシフ王からもそれは目を掛けられていたと聞く。
権力に阿る事を嫌い国主にすら憚ることなく傲慢無礼なこの振る舞い。話に違わぬ人物であった。
現王もやはり慣れた様子で、そんな男の態度を微塵も気にする様子はない。
一方、手に汗を握り、場の空気に必死で耐える者達は思った。
────帰りたい・・・。
場が益々密を増し皮膚がヒリつく。体が鉛のようにずしりと重く、臓腑がきゅうきゅうと締めつけられ、ギリギリと頭が痛む。
更に幾人かが思った。
────もう帰りたい・・・。
処理しても処理しても終わりの見えない書類の山の待つ執務室が恋しく思えてしまう事務官。
現場から退いて久しいが、戦の前線に立つ緊迫感とどちらがマシだかと比べる老軍務顧問。
・・・件の宰相に至ってはフラつき始めている。それに気付いた広間の面々は、違う意味でもハラハラしていた。
男がその気になれば、短いまじないの文言と手の一振りで紡がれる陣により、軽くこの一室など粉微塵に吹き飛ばせることを知る古参たちは、更にじっとり厭な汗をかく。
実際に昔隣国との紛争時、短気を起こし、辺境、西の城砦を半壊させた前科があるのだ。自国の城砦をである。
そんな中にあり、全く空気を読めない人物がただ一人。
鮮やかな緋色の毛織の敷き詰められた壇上の、その玉座にゆったりと背を預けるギルシフ王その人だった。
王たる資質の成せる業か、はたまた鈍さ故なのか。
困ったね、という顔をして肩を竦める。
「うん。そうみたい。どうしようね?」
へらり、と無邪気な笑顔で軽く答える主君に、その場の臣下一同が叫んだ。心の中で。
────陛下アァァァァァ──!!!
チッ、と舌打ちが聞こえ。
そしてぎちり、と空間が歪んだ。
ギルシフ王城、奥の宮。
謁見室は、静かに静かに荒れていた。
©️2018秋雪
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