11. 寝た子をおこす④
急に静けさが訪れる。
再び語りかけてきたのは、嗄れた年寄りの声だった。
先程雷を落としたそれと同じ「なにか」らしいが、うってかわったその優しげな様子に、頭を抱え込みぎゅうと縮こまっていたリコはそろりそろりと目を開けた。
なんだか、だいじょうぶそう?
「騒がしゅうてすまなんだな。こやつらもあれの魔力に当てられてな。落ち着かんのじゃよ。安心せい。お前さんに害を成すつもりはない。」
どうやら話しかけてくるだけで、リコに何かをするつもりはないらしい。
その声の主は、さらに勝手に話しを続けた。
「あれを野放しにされるのは困る。未だ半端にあちらと繋がれておるからの。お前さんとて、これ以上母御の命数を削るのは本意では無かろう?」
なんだろうかハハゴノメースーとは。
・・・わかりません。
聞き慣れない呪文のような言葉にはてな、と首を傾げる。
すると、
「分かるか?お前の母ちゃんのことだぞ」
若い男の声。
かあちゃん・・・おかあさんのことか。
はて。リコの血縁者は、祖父しかいないのだが。
「僕にはおかあさんはいません。」
訝しげに、でも素直に答えると、ふぅ、と呆れたようなため息がおちた。
「あの阿呆め、やはり何一つ聞かせてはおらなんだか。」
あの阿呆、という科白にちらりと頭を過ぎる人物がいた。
煙管をふかしながら、にやにや笑うリコの保護者。
お手伝いのマーチャ曰く、「ロクデナシジイサン」と言うやつだ。
「ねえ、僕のおかあさんっているの?生きてるの?」
初めて聞かされた事実に半信半疑で問うと、若い娘らしい声が応える。
「生きているわ。ちゃんとね。でも、もう時間がないの。」
「アトスコシ。アトスコシ。」
他のなにかも、再びざわめきだす。
時間がない、とはどういうことか。
何だかよくわからないが、どうやらリコにはちゃんとおかあさんが生きていて、そしてなにやら今現在よろしくない事態らしい。
またもや数多の声の主達が好き勝手にがやがやしだした中、別の穏やかな老婆の声がふってきて、ゆっくりと諭すように、穏やかにリコに告げた。
「よおくお聞きな。あれは災禍を呼ぶものではあるが、お前さんの心根が真っ直ぐなら、なにひとつ恐れる事は無いよ。白の一族の血をも受け継ぐお前さんにとってはな、取るに足らない只の道具なのだよ。お前さんが良しとする事に使えばいい。誰かを悲しませるようなことや、苦しめるようなことはしちゃあいけない。いいかい?」
リコは神妙な顔をして聞いていた。
───いや、聞いている振りをした。
正直、脈絡も話の中身もよく分からない。が、悪いことはするなということだろうと思った。
それは、いつもことあるごとにマーチャに懇々と言付けられている言葉。
「良い行いも悪い行いも、太陽と共にサハの神様は全てを見ていますからね。顔向けできないことはしないこと。いつでも、真っ直ぐにお日様のもとに立っていられるように」と。
彼女は皿を洗いながら、洗濯物を干しながら、傍らで遊ぶリコにいつも鼻歌でも歌うかのように言って聞かせる言葉。
それを思い出し、とりあえずきちんと返事をした方がよさそうだと力強くうんうんと頷いた。
「なあ、コイツほんとにわかってんのかね?」
疑う声が上がるが・・・その通りだった。
早く外に出たいな。リコはそう思っていた。
祖父の留守中の店内に不可抗力とは言え入りこんでしまい、このわけの分からないもの達に囲まれ、これまたわけの分からない事を色々と言われ。
今まで存在すら知らなかった母親が、存命する事実とか。
何やら不穏な、自分とその母に関する切迫した「なにか」の話しとか。
やれ急げだの、アレを止めろだの好き勝手にいわれても、全く意味が分からない。
まだ六歳のリコにはさっぱり理解が追いついていなかった。
どうにか平穏無事に解放され、店の外に出たいと小さな頭で一生懸命考えててしまうのは、仕様がない事と言えた。
おじいちゃんにばれたら、怒られる・・・。
げんこつはいやだ。
いつもはいい加減でちゃらんぽらんでも、いいつけを破ったときはもの凄く恐いのだ。絶対に酷く叱られる。
それにお腹も減ってきた。お昼ご飯。
マーチャの作ったおいしいご飯。今日は多分、昨日手伝って作った焼き菓子もついているだろう。卵を使ったふわふわの甘いお菓子。
頭にあったのはその二つだけだった。
一方でリコの様子にうむ、と満足したような別の気配が言った。
「頼むぞ。」
「えっ?」
たのむ?なにを?
意味がわからず眉根が寄る。
いやな予感がする。
すると、耳鳴りのようなものとともにくらりと体が揺らぐ。
目の前の空間がぐにゃりと歪み、複雑な紋様がびっしりと刻まれたそれはそれは巨大な扉がどおんと現れた。何やら怪しい黒いもやまで纏いながら。
おかしい。変だ。この店は、こんなに天井が高かっただろうか。視界を塞ぐほど、見上げるほど大きくずしりと重そうな、この扉が納まってしまうほど。
開いた口が塞がらないまま、うへえっ、と息を漏らす。
さらに嫌な予感がする。
それはリコのすぐ目の前、彼に向かって音もなく、ゆっくりと開いてゆく。
ひやりとした空気と、日陰の湿った土のようなにおい。
瞬きも忘れて見つめているうちに扉は開ききってしまう。
その先には、黒一色の闇があった。
ぽっかりと口を開けた全く底の知れない暗い深い洞のように見える。
またもや予測不能の出来事に目を見張り、叫ぶ。
「なにこれ!?」
「アレが繋がれている檻だ。お前さんならたぶんーーー大事なかろう。無事に戻れよ。」
たぶん!?おり!?ぶじに!?
不穏な言葉をつむがれると、いきなり襟首を捕まれひょいと持ち上げられる。
首元が詰まり、ぐえっ、と声が漏れた。
さらにさらにいやな予感。
・・・まさか。
そう思った瞬間、
「行ってこい。」
「へっ!?」
扉の向こう、真っ暗闇めがけて勢い良く放り投げられた。
やっぱりね・・・。
何処か冷静な別の自分が頭のなかで呟いた。
胃の腑がひゅわり、と持ち上がる感覚。
リコだって知っている。何度も見てきた。
祖父の古本屋に無断で入り込み、無事に出てきた者など今まで誰一人としていなかったではないか。
ーーーたかが下町の、しがない細やかな規模の古書店に全容のわからない罠魔法がなぜ執拗に仕掛けられているのか。
人死にこそ出してはいないが、正気をなくし記憶が奪われるほど強力なものである。
よくよく考えれば尋常ではない。
まだ幼いリコには預かり知らぬことではあるが。
つまりは、そういうことなのだ。
お昼ごはんも食べ損ね、祖父からは拳骨つきで叱られる。絶対に。
「ひゃああああっ!?」
本日何度目か分からない悲鳴を上げながら、リコは「向こう側」へ落ちていった。