92 : Day -53 : Todoroki
「そ、そうなんだ」
意想外に重い話に、チューヤは息をのんだ。
「ミツヤスが言っていた〝呪い〟とは、このことです。たいした話ではありません」
ヒナノはもう、そんなくだらないことに興味はない、とばかりに言ったが、彼女の指がわずかにふるえている事実に、チューヤは気づかないふりをした。
「そ、そうだね。たいしたこと」
「……そうです、だから、こんな泣き声が聞こえてくるのは、おかしいのです」
ヒナノは眉根を寄せ、じっと目のまえの空間を凝視した。
──東京都指定史跡、等々力渓谷3号横穴。
吹き出す風に乗って、チューヤの耳にも確かに聞こえた。
女の泣き声が──。
悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
バンシー/幽鬼/24/中世/アイルランド/ケルト神話/等々力
吹きすさぶ氷のような風に、チューヤたちは身を低くしながら、臨戦態勢を整える。
「あなたは、私を、見捨てた──」
バンシーは嘆く。すべての恨みをこめて。
チューヤたちは風の方向に目をすがめながら、状況を確認する。
「その、自殺した子の魂が、取り憑いているってことかな」
「わたくしはただ、呪いなどというくだらないものを払拭する。それだけです」
ヒナノの決意は、強烈なプライドに支持される。
彼女は、自分がわるくないと思っている。
多少の失敗はあったかもしれないが、当時の選択肢としては許容範囲だ。
だから彼女は決然とした態度で、目のまえの「怨霊」に対峙することができる。
「わたくしには、わかっているのですよ。妙子さん、あなたは、ただの死にたがり」
そう言った瞬間、猛烈な風が巻き起こって、チューヤたちの全身を切り刻んでくる。
「ハトホル、防御と回復に専念! 前衛、相手の体力を削れ!」
チューヤの指示で、戦闘は進展する。
「ちがう、あなたのせい、全部あなたのせい。あなたが、私の肩を持たなかったのは、自分のため。もし、私の肩をもって、それが聞き入れられなかったら、自分の影響力のなさを知ることになってしまうから。あなたは自分のために、私を見捨てたのよ」
「そうね、そうかもしれない。けれど、あなたの責任は? あなたは他人のせいにして、自分の責任を放棄した、ただの弱い無責任な人間だった」
ヒナノは一歩も退かない。昂然と胸を張り、言い放つ。
衝撃波が激突する。
両者の見解は正面からぶつかり、互いの弱いところを狙って、えぐりこもうとしている。
「あなたは私を助けてくれなかった。あなたは私を見捨てた。私はあなたに殺された。憎い憎い憎い憎い憎い死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
たしかに、そんな手紙を受け取った。
ヒナノはショックを受けたが、けっしてそれを表には出さなかった。
自分がすべて正しかったとまで言うつもりはない。
だが、彼女の死の責任は彼女にある。
ヒナノは静かに、その事実を告げる。
「わたくしは、わたくしの責任を負う。あなたは、あなたの責任を負いなさい」
強いな。
チューヤはヒナノを見つめ、心底そう思った。
チューヤがいなくても、彼女はひとりでこの問題を解決するつもりでここに来たし、事実やり遂げていたかもしれない。
たしかに敵は強かったし、いまも強い。
チューヤがいなければ途中で倒れていた可能性も、もちろんある。
だが、それでもひとりで、すべてを解決しようとする心の強さを、彼女はみずからに課し、それを証明する努力をつづけた。
目のまえの、なんでも他人のせいにする女より、よほど気高くて美しい。
「ちがう、そうじゃない、私は殺された、あなたに殺された」
バンシーの泣き声が、再び空間に満ちる。
この泣き声だけで、じゅうぶんな精神的攻撃になるが、ヒナノはすこしも退かない。
「いいえ、あなたが死んだのは、あなたのせいです。認めて、くだらない呪いなど、終わらせなさい。それが、あなたの魂のためですよ」
魂の救済という、信仰者にとって完璧な動機を、ヒナノは提示した。
弱い人間がすがりつくのにじゅうぶんな動機。
自分の弱さ、まちがいを認められず、他人のせいにする。
これはみずからの弱さの露呈だ。
みんな自分にしか興味がない。自分がわるいなんて、だれも思っていない。自分は認められるべき人間で、その価値を正当に見てほしい。
だからわるいことは全部、他人のせい。
「あなたがわるい、私は汚された、あなたに汚された、それを認めて、あなたも汚れろ。跪け。悪かったと謝れ!」
そんな自己承認欲求の塊のような人間が、自殺願望と出会ってしまったら、考えることは、ひとつだ。
「そうですか。だからあなたは、神に背を向けたのですね。死にたくてしかたがなくなって、そんな自分を許せなくて、でも自分はわるくない、だから、だれかのせいにできる絶好のタイミングで、死という汚染を周囲にまき散らすために、これ見よがしに死んでみせた」
自分の死が最高に影響を与えられるタイミングで、死んでやること。
死にたがりにとって、これほど得心のいく動機はない。
「うるさい、だまれ、謝れ、わるいのは、あんただ」
つぎの瞬間、ヒナノの身体がふわりと浮き上がった。
ガーディアン・シームルグの風に乗り、彼女はバンシーの直前まで舞い寄ると、
「ならば、わたくしが責任を負ってあげましょう。あなたの魂に、終わりをもたらした責任を」
燃え盛る腕に、炎の剣。
ほとばしる魔力が、バンシーの胸を貫く。
かつて妙子と呼ばれた魂が、その表情に一瞬浮かび、やがて消える。
鮮血が舞い、生命の残照が周囲を照らす。
つぎの瞬間。
にたあ、と笑ったバンシーの両腕が、がっしりとヒナノを捕まえる。
「じゃあ、引き受けてよ、あんたにも、くれてやるから、〝死〟を!」
引き裂けるほどに広がったバンシーの口から、黒い球が現れた。
それは〝死〟の球。
──その呪詛を受け止めたら、死ぬしかない。
そして呪詛は、何者かを巻き込まないかぎり、決して消えることはない。
それはひとつの魂が、別の魂を巻き添えにすると決意した証。
呪いによって掘られた、2つの穴。
その一方に自分がはいった、もう一方には、おまえがはいれ……!
「まずい、お嬢……っ」
このときチューヤは、ほとんど本能的に、やってはいけないことをやった。
代償を出すなら、自分自身の責任で、支払える分だけを支払うべきだ。
だれも、他人の魂を勝手にギャンブルのテーブルに差し出す権利など、ない。
だが、チューヤは悪魔使いだった。
彼は、自分の判断でテーブルに差し出すことのできる魂を、いくつか持っていた。
それは、勝手に使っていいという意味ではなく、ただ預けられているだけなのだが、その一瞬、チューヤは厳正であるべきその事実を忘れた。
「イヌガミ、頼む!」
チューヤの指示に、本能的に忠実に従ったイヌガミが、突進して、バンシーの口からあふれた黒い球を噛み破った。
瞬間、黒い墨汁のような闇が広がり、二体の悪魔を飲み込んで空間を汚す。
吹き飛ばされたヒナノを受け止めるチューヤ。
だが、その視線はすぐに悪魔に向き直る。悪魔使いの良識が、彼の内心に、いわく言い難い感情を引き起こしている。
気がつけば、そこには悪魔たちの死骸が、2つの穴に埋まるようにして横たわっていた。
一瞬後、チューヤはハッとしてスマホに手を伸ばし、邪教システムを起動する。
「あいあーい。なんざんす、邪教使いの荒い悪魔使い」
「合体だ、邪教。ディースとイヌガミ」
「んー? あれ、こっち死んで……」
「いいから、やれ!」
「うーん、邪教的にはいいけれどォ、あんさんのポリシー的には……」
「頼むよ!」
「ま、そういうことなら、よござんしょ。さーてーはー、みっくすじゅー」
邪教テイネの歌声とともに、悪魔合体が実行される。
──合体に死体を使うと、事故率が上がる。
この事実は揺るがせにできず、本来、魂の強化を目指す悪魔にとっても、できれば避けたい選択肢だ。
だが、それを強行することの意味は……。
事故率が上がるといっても、わずかのことだ。
今回は、成功に終わった。
「われは聖獣バステト、今後ともよろしくニャン」
結果オーライ。
目のまえには、成功した合体の成果がいる。
──それで済ましていいのか……?
イヌガミとディースの合体でバステトというレシピは、とっくにできていた。
この戦いが終わったら、生きたイヌガミと、事故率少なくして合体させようとも思っていた。
その悪魔使いとしての倫理を、みずから破った。
そのとき、チューヤは確かに、なにか大切なものを失った──。
悪魔たちの視線が突き刺さる。
彼は……この悪魔使いは……チューヤという男だけは、ちがうと思っていたのに。
魂が決定的に汚される合体事故のリスクを、この男は、あえて取った。
いや、問題は、そのまえにもある。
人間の仲間のために、悪魔のナカマを犠牲にしたのだ。
それは正しいのか? 悪魔使いの判断として、本当に正しいのか……?
この男も、そこらにいる有象無象の悪魔使いと、なにも変わらないのではないか。
チューヤはぞっとするものを感じながら、邪教アプリを閉じる。
世界から境界が遠のき、そこにはいつもの等々力公園が広がっていた。
「くだらないことに付き合わせました。このことは、おぼえておきます」
ヒナノにとって、呪詛の克服など、その程度のことなのだ。
「あ、ああ。ええと……」
チューヤは口ごもる。
どんなふうに言えばいいのか、わからない。
「行くところがあるのではありませんか? わたくしもそうですが。それでは、ごきげんよう」
ヒナノの去り際は、つねにスマートで澱みがなかった。
その言葉の最後には顧みる刹那さえもなく、高邁な視線ははるか道の行く先にある。
その耳元で、シームルグがささやく。
「あの呪詛のまえ、骸はつねに2つだ」
ヒナノは短く吐息し、自分の死を思う。
メメントモリ。答えは決まっている。
「たとえ死んでいたとしても、それは神が決めたこと。わたくしは運命を受け入れる」
「……気高き者。あの者が救わねば、われが代わっておったろう」
「ならば、わたくしの命運も、まだつながっているのでしょう」
「しかし、われが決めるよりも速く、あの者が動いた事実を忘れてやるな」
「…………」
ヒナノは一瞬、ふりかえりそうになったが、意志の力でそれを抑えつけ、そのまま歩み去った。
彼女が塩の柱になることはない。
なぜなら決して、ふりかえらないからだ。
再び、ひとり残されたチューヤは、なにをか思う──。