08
石神井公園は、東京都練馬区にある都立公園である。
園内には石神井池、三法寺池があり、沼沢植物群や雑木林が広がっている。
野球場や庭球場、ボート場、アスレチック広場などがあり、人々でにぎわっている。ここを舞台にした作品も多い。
そこが、こうして殺戮の舞台になっている物語を、追加しなければならない。
「早く覚めろよ、こんな夢、ふざけんなよ」
チューヤは、雑木林のなかに建てられた納屋に身を潜め、うずくまって、ぶつぶつつぶやいている。
隣には、まだ気を失っているサアヤ。
みずからの手には、固着したように握り締められているバット。
チューヤはもう一方の手を使って、言うことを聞かない自分の指を一本一本はがしていかなければならない。
身体の調整がうまくいかない。あきらかに混乱している。
いまさらながら、震える。
自分はいま、殺し合いに参加させられているのだ。
いや、あるわけがない。
こんなことは映画やゲームのなかだけの話で……。
「ほんとに、あったんだ」
声に、ハッとしてふりかえる。
サアヤが目を開けて、自分の手を見つめている。
「大丈夫か、サアヤ」
「うん、ありがと。チューヤが助けてくれたんだね。それから、あのおじさん……」
自分の手を見つめるサアヤの行動の意味を、チューヤはようやく理解する。
それは、さっきのおじさんの首から溢れた、血。
彼女は自分が頬に浴びた液体の意味を、みずからの手で確認した。
あれは夢でも幻でもなかったのだ、と。
「いや、夢だよ、こんなの」
チューヤは認めない。こんなもの、認められるわけがない。
しかしサアヤは、意想外にしっかりとした挙措で、首を振る。
「夢みたいだけど、向き合わないと。夢だとしたらラッキー、くらいの気持ちで。現実感がないからこそ、逃げないで。目が覚めたら、いつもの日常だろうけど、いま、こうして同じ夢を見ているのは事実だから。しっかり見て、そして考えて」
あまりのショックに気絶したことを反省し、二度と足手まといにならないと言う。
これが、あのサアヤか? とチューヤは自問する。
いざとなると、女の子はこんなに強いのか。
そのとき、ぱちぱちぱち。
拍手が聞こえる。
ハッとして緊張感を高めるふたり。
腰を上げ、音のほうを見つめるまでもなく、それは壁の暗がりから恐ろしい速度で接近し、くるりと円を描いて、2メートルほど先の棚のうえに着地する。
壁につくりつけられた棚に、ちょこんと乗れるほどの大きさ。
小さな人形に、羽が生えたようなシルエット。
この姿かたち、チューヤには、見覚えがある。
「ピクシー……?」
「ハーイ。なんか忙しいことなってんねー」
それを目にしたチューヤは、むしろ半笑いになって、
「やれやれ、やっぱり夢だよ、おい」
さすがにサアヤも同意する。
「だと思うけど、それ言ったらさっきの化け物からして、そういう話でしょ」
「夢のつづきってわけか? くそ、早く覚めてくれよ」
二人で勝手に話す「現代日本人」たちに、よそからやってきたらしい妖精は、
「あのさあ。あたしの話を、まずは聞こうって気にならない?」
組んだ足のうえ、頬杖をつき、つまらなそうに言った。
しばらくその姿をあらためて見つめていた、現地人ふたり。
「認めよう。向き合おう。とりあえず話を進めよう。夢だとしても」
ぐっ、と丹田に力をためるように、サアヤははっきりと言葉にした。
「さすが、ピンク色の夢を見がちのくせに、妙にリアリストなところもある女の子。そうだね、この場合、それが正解だね」
ピクシーは優艶に笑い、軽く人差し指を振った。
そのままチューヤの顔面近くを舞い、
「まず訊くけどさ、あんたチューヤじゃんね?」
意外な方向からの人定質問。
チューヤは自分を指さしながら、首をかしげる。
それからサアヤと目線を交わし、自分たちが会話のなかで「チューヤ」の名前を口にしていただろうかと模索する。
「そう呼ばれることもあるが、本名はナカタニ……」
「あんたさ、反対じゃなかったっけ? 〝侵食〟。いい子ちゃんぶってさ、そりゃ突き上げも食うよ。もちろんあたしらの合言葉は〝奪回〟だけど。
荻窪のみんなだって、そりゃ石神井の過激派のやり方を認めてはいないけどさ、総論賛成各論反対がほとんどで、あんたみたいに頭っから反対とか、どんな悪魔使いだって憎まれて当然じゃん?
まあさ、石神井の連中に付き合ってここにいるあたしらもあたしらだけど、ってか、反対のあんたが、なんでここにいんのよ?」
ぽかーん、と聞いていたチューヤ、流れのなかでほどなく気づく。
「どうやら人ちがいだ。おまえの言うチューヤは、俺が呼ばれることのあるチューヤとは別人だ」
「うっそだぁ。あたしにはわかるね! てか、構造見ればバレバレ。あんたみたいな悪魔使い、いるわけねーし」
その言葉の意味をしばらく考えていたチューヤは、ハッと気づいて、ポケットからスマホを取り出す。
「それ、ゲームの話じゃね? けっこう進めてるけどさ、デビル豪……」
だがピクシーはスマホを無視し、チューヤの背中あたりを注視しながら、
「あっれー? スカスカじゃん、あんた! ナカマ全捨てって、どんだけ? 荻窪のみんなと、そんな決定的に喧嘩してたの?」
「だから……」
「ってか、ナノマシンは? もしかして物理フォーマット!? ほんとにあるの、そんなの。変なのー。あんたほんとにチューヤ?」
「ようやくスタート地点だよ。だから、ちがうと言うとろうが。そう呼ばれることもあるが、おまえの言うチューヤとは別人なんだよ」
ピクシーは大きく首を振り、
「信じなーい、だって見たことないもん、チューヤ以外の四倍体なんて」
勝手に大仰な形相をつくるや否や、すぐにケロッと表情をもどす。
「──ま、いいや。きょうは機嫌がいいから、一個プレゼントしちゃう。でもぉ、お高いんですよぉ?」
ピクシーは、空中をひょいひょいと飛びながら、唖然としているチューヤの口に向け、なにかを投げ込んだ。
ハッとするまもなく、ピクシーはチューヤの唇に軽く口づけし、いたずらっぽく笑う。
ショックに息を飲む。ついでに、投げ込まれたなにかも。
「ちょっと! いかがわしい行為は許しませんよ!」
見過ごせないサアヤが声を張り上げると、
「ごめんごめん、チューヤのカノジョ? お詫びに、あなたにもあーげる(はぁと)」
サアヤの肩の上に舞い降りたピクシーは、チューヤの口に入れたのと同じものを、彼女の口にも放り込んだ。
……ごくん。
ふたりが運命のプログラムに感染したのは、はたして偶然と呼べるのか。
「ごめんね。私が公園に行こうなんて言わなければ」
数刻後、同じ納屋のなか、チューヤとサアヤは並んで座り込み、いつまでも覚めない夢を憂いている。
「いや、サアヤのせいじゃないよ。だけど、なんで」
チューヤは、なぜサアヤが、わざわざきょう、この場所に自分を誘ったのか、うっすらと感じていた違和感について問うてみる。
サアヤは確たる答えをもたない。
むしろ部外者であるはずのピクシーのほうが、訳知り顔で解説した。
「それはさ、完全に誘われたわけよね」
「たしかに俺は、サアヤに」
うなずくチューヤ。
ピクシーは首を振る。
「いや、女の子のほうがさ、無意識的に、悪魔に誘われてたってことだと思うよ。きっかけがどうかは知らないけど、この場にいる人間たちが全員、多かれ少なかれ誘われていたのはまちがいないから」
いぶかしげに、チューヤとサアヤは同時に問う。
「……どういうこと?」
「こちら側の人間たちは、着実に〝侵食〟されてるってこと」
さっきから、ちらほらと出てくる用語〝侵食〟の意味を、ひとしきり問いたださなければならない、と思った。
「侵食って、汚染される、みたいな意味? それとも精神的な意味で、悪魔に洗脳される、とか?」
「うーん、似てるかもしれないけど、ちょっとちがうかな。文字通り、空間的に〝侵食〟してるのよ。こちら側を。ごめんね、チューヤ。やっぱりあんた、あたしの知ってるチューヤじゃないわ」
「だから言ってるだろ、最初から」
「いや、あたしの知ってるチューヤじゃないけどさ、同じチューヤでもあるのよ。ごく珍しいパターンなんだけど、聞いたことはあるんだよね。あちら側と、こちら側に、同時に存在する同一の遺伝子。同位体だか同素体だか、なんかそんなふうに呼ぶらしいよ」
「……あちら側っていうのが、おまえらの世界か」
「並行世界ってやつかなあ」
顎に手を当て、首をひねりながら、サアヤが自信なげに言った。
その手の概念は、多数のファンタジーになじむ機会の多い現代日本の若者にとって、それほど違和感のある考え方ではない。
そうなると、ピクシーの言う〝侵食〟は、あちら側からこちら側への攻撃的な接触方法、とでも理解すればよいのかもしれない。
「むずかしい話はわかんないけど、なんかそんな感じかもね。あっちのチューヤは反対だったけど、じっさいいろんな形で、ここ数か月、〝侵食〟は始まってたのよ?
ほとんどの場合は夢とか、肉体だけに干渉する狭い範囲で完結してたけど。ときどきは部屋ひとつとか、ある程度の範囲をまとめて〝侵食〟することもあった。
でも、こんな大規模な〝侵食〟はめずらしいと思う。……ま、遅かれ早かれ、結局は同じなんだけど。おととい、鉄色の血の旗を立てて、攻撃開始を記念する式典まであったからね。これから増えると思う。そういう計画だから」
ぞくっ、と背中に冷たいものが走る。
このピクシーから聞くべきことは、少なくない。
二度と会いたくない気持ちもあるが、このまま別れてはいけないような気もする。
そんなチューヤの気持ちを察したのかどうか、ピクシーは、さて、とその場に立ち上がると、
「そろそろナノマシンが脳に定着したころだと思うわ。いくよ?」
アホ面をさげて、半分口を開けるチューヤ。
「……は?」
「もし、あなたのなかにその準備ができていれば、プログラムは実行される。さあ、言って」
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「エグゼ……?」
促されて口走った、一言。
それは20世紀後半、ベーシックという言語からはじまった。