07
視界がゆがむ。
いや、空間そのものが事実、ゆがんでいる。
もしかしたら酔っ払いは、世界がこんなふうに見えているのか。
そう思わされるような、二重写しの世界が、しばらく視界を埋め尽くす。
「なんだこれ、毒ガスでも流されてんのか」
チューヤは頭を押さえ、首を振り、両足を踏ん張って、この奇妙な状況を耐え、理解しようと試みる。
理解は必要だ。絶対に。
できるかどうかはともかく。
麻薬の経験があれば、似たようなトリップを味わったことがあるかもしれない。
だが、それが内側からではなく、外側から襲ってきていることは、大いなる違和感だ。
まるでゲームだな。
一瞬そう考えて、ゲーム脳だと揶揄される理由を理解する。同意はしないが。
ゲームならいいが、現実では、こんな景色はあり得ない。
ありえないことを、理解できるわけが、ない。
見上げる空は赤黒く、夕焼けとは別の邪悪な色彩。
そのうえに浮かぶシルエットは、古い絵画やゲームで見る形。
まるで悪魔。まさに、悪魔。
「チューヤ、あれ、なに」
声を耳にして、ようやく状況を思い出す。
手を差し伸べ、幼馴染の感触を求める。
「サアヤ、来い。なんかマズイこと、なってる」
空気はいよいよ震撼して、ひりつく皮膚に刺すような痛み。
ぎゃあ……ぁあ……あっ。
ぎくり、と背中を揺らす。
遠くから聞こえるこの音は、ただの風切り音でも、気のせいでもない。
人間の喉が、断末魔の絶叫を漏らしている、まさにリアルタイムで絞り出された、声。
反射的に手を握り合い、身を寄せる。
赤と黒の靄がかかったような視界に、上書きされる濃密な霧のエフェクトが、血煙を意味していないことを願いたい。
公園の向こう側で、大量虐殺がはじまっているなどと、誰が信じられるだろう?
そして、いままさに、それが他人事ではなくなろうとしている事実によって、信じたくないことは、信じざるを得ないことに変わる。
……ずしゃっ!
鋭い痛みが肩口を切り裂く。
反射的に飛び退かなければ、致命傷だったかもしれない。
若者の本能は、すでに殺し合いがはじまっていることを、即座に理解する。
いや、いまのところ一方的な殺意の押し売りでしかないが。
「チューヤ……っ」
「逃げろサアヤ、こいつは」
こいつが何者かは、わからない。
だが、現実にそこにいて、触ることができる。そして、どう見ても人間ではない。
餓鬼道に堕ちた悪魔。
表現するとすれば、それしかない。
「ガルァグワァア!」
耳障りな奇声をあげて、突撃してくる餓鬼。
その危機的な一瞬、脳天をぶち割られて倒れたのは、餓鬼のほう。
「大丈夫か!」
くずおれた餓鬼の向こう側に見えたのは、途中、通り過ぎた石神井公園A野球場で練習していた、草野球チームのおっさんだった。
金属バットを片手に、必死の形相で戦ってきた痕跡が、ユニホームの各所に見受けられる。
「あ、ありがとう、おじさん。どうなって……」
「危ない!」
横合いから、サアヤの悲鳴のような叫び。
人間が対応する間もない速度。
それは上空から、ハヤブサのように舞い降りて、おっさんの頭上の死角から、まさに死の角を振り切った。
「ぎあ……っ」
断末魔の叫びにすらならない。
空を飛ぶ悪魔は、即座に首の気管を切り離し、発声器官との連絡を絶ったからだ。
噴水のようにあふれる鮮血。
もう彼が、その血液についてガンマGTPや中性脂肪の心配をする必要はなくなった。
ぴしゃしゃ……っ。
数メートルの距離を迸った粘着質の液体を浴びて、ふっ、とその場に倒れるサアヤ。
同じように立ち尽くしていたチューヤの足元に転がる、金属バット。
それを振るって自分を助けてくれたおっさん、おそらく何人かの命を助け、しかし彼自身の命までは助けきれなかった──その武器を手に、チューヤは反射的に動いた。
「てめぇえああ!」
渾身の力を込めてふりまわした金属バットを躱そうとしたおかげで、黒い凶鳥はその武器の破壊力が最大になる部位に、最大のダメージを受ける頭部を差し出す結果となった。
それがこの巨大すぎる不幸のなか、幸いと呼べる最低限の偶然。
めしゃっ!
ステータス「運」によってもたらされる、クリティカルショット。
吹っ飛ばされる悪魔。
どう、と倒れるおっさんの死体。
手に、じんわりとしびれたような感覚。
伴われる、ある種の感情。
おっさんの仇を討った。
自分を助けてくれた人に、最低限の義理を果たした。
そんな理屈をこねまわしていたわけではないが、戦うことの意味と結果は、確実に肉体に刻み込まれている。
ふと思い出して顧みる。
地面には気を失ったサアヤ。
周囲を見まわす。
あちこちで悲鳴が上がっている。
悪魔たちの影は多く、行きかう足音、飛び交う羽音は恐ろしく響き、迫りくる。
「逃げないと……」
金属バットを小脇に抱え、サアヤに駆け寄ると、ぐったりしたその身体を肩から背負う。
ここから、逃げないと。