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ケートはつまらなそうに、榎戸を見つめる。
「法律屋か。大事ってのはわかるが、ボクはあまり好きじゃないな」
榎戸は、年上に対する敬意のかけらもない天才ケートを見つめ返し、
「私は尊敬しておりますぞ、理系という種類の方々を。わが母校でも、文Ⅰより理Ⅲのほうが、なんとなく……アレですからな!」
「へー、榎田さんて東大なんだね。ナミおばさんもそうだよ」
とくに東大がすごいという印象はない。
というより、頭はいいのだろうが、どこか変人という印象のほうが強い。
榎田自身の言う通り、「アレ」なのだ。
「文Ⅰは文系のトップだろ。理系のトップである理Ⅲと肩を並べるらしいが、生涯賃金じゃ、比べ物にならないらしいぜ」
「理系は儲からないの?」
マネーの話となると、真っ先に食いつく女子、サアヤ。
「そりゃそうだろ。だから〝神〟ってのは文系なのさ。信者で儲ける組織だからな」
ケートの痛烈な皮肉に突き刺され、榎戸よりもむしろヒナノが苦虫を噛み潰す。
『律法』の第一が、まずわかりやすい。
企業が熱心にやっている囲い込み、利益誘導の典型例だ。
──「私をおいて、他に神があってはならない」。
しばしば偏狭な行為に走る旧約の神だが、ここでそれを法律にまでして示した。
他の宗教に利益を垂れ流すんじゃないよ、みんな私のところに持ってきなさいよ、と。
多神教の場合は、他の神々がいる前提で、まあ比べてみなさいよ、うちにはこんなご利益がありますから、という企業努力の余地がある。
一方、旧約の神は唯一神なので、努力をする必要がない。
一党独裁の寡占企業は、自分で好きな値段をつけられる。
よその店なんてねえんだよ、おまえらこの定価プラス手数料商店で、時価の免罪符を買っていくしかねえんだよ、と。
なんていい商売だろう。
「いやはや、手厳しいですな!」
言いながらも、榎戸は別段、腹を立てている様子もない。
「そんなことより、榎戸。あなたはいったい……」
ヒナノは数歩、榎戸のほうに歩み寄りながら、その福々しい顔に指を突き付ける。
「これはこれはお嬢さま、この榎戸、お嬢さまのご無事をなにより祝福」
「なにがご無事ですか、あなたは……っ」
「ご安心ください、戦えぬ私にも、できることはございますぞ」
ころころと転がるように走り、部屋の奥のドアのまえまで進む。
「……どういうことです?」
「裏技でございます。問題解決のために戦うなど、愚か者のすること。無駄な血を流さずとも、世界を行き来する方法はございます。準備にもうすこしかかりますゆえ、こちらの部屋でしばしお待ちください」
榎戸はそれだけ言うと、奥の部屋に入って扉を閉じた。
一瞬、沈黙が支配する。
毒気を抜かれたように、一同はなんとなくその場に立ちすくむ。
「裏技ってなんだ」
「さっきヒナノンの弟くんがやったみたいな方法じゃないかな」
「それが裏技なら、本来はどうすべきなのです?」
「境界を構築した悪魔を倒す、っていう方法で俺はやってきたけど」
たしかに血なまぐさい方法。
それだけしか選択肢がない、と多くの人が思った、あるいは思い込まされた結果、重要なターニングポイントが人類史に刻まれつづけてきた。
血と骨と武器と涙の歴史が。
「戦いを批判するのは簡単だが、全否定されるもんでもないだろ。事実、そうやって人類は発展してきたんだ」
「いやー戦争はよくないよー」
「誇りを保てる方法なら、わたくしは構いませんが」
「お嬢がいちばん血なまぐさいことを言ってるかもね……」
血なまぐさい事態は、事実、近づいていた。
やおら、空気に緊張が張り詰める。
ただちに戦闘フィールドを確保するのは、悪魔使いの仕事だ。
ばん!
チューヤたちが入ってきた、榎戸が消えたのと反対側のドアが開かれる。
そこには、敵のボス──シェムハザがいた。
「よくもやってくれたな、てめえら」
悪魔はドスの利いた声を張り上げ、まずは心理的圧迫をかける。
「お互い様でしょうが」
チューヤは敵ステータスをアナライズしながら、脳内に戦闘計画を描く。
悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
シェムハザ/魔王/24/紀元前/エチオピア/エノク書/小菅
倒せない敵ではない。
相手が単体であれば、あるいは実勢レベル(ボス補正)が圧倒的に高くなければ。
召喚された、この場に最適の悪魔4体と、敵ボス・シェムハザとの間には、適度な間合いが構築されている。
「向こうからボスご来臨とは、痛み入るねえチューヤくん」
「まったくですな、ケートくん」
男子を前面に、女子を後方に、戦闘の気配が高まっていく。
「ここは、拘置所というところでな。人を殺してもいいって決まっているんだよ」
悪魔は不敵に言い放ち、さらに多くの悪魔を呼び出した。
敵の戦力が増加する。押し包まれるように、チューヤたちのフィールドが局限される。
RPGでは敵ボスが1体、仲間たちが力を合わせて倒す、というデフォルトが推奨されているが、事実は往々にしてその期待を裏切る。
「リンチかい、さすが悪魔ちゃん」
「タイマンしろや、って言える雰囲気じゃないねえ」
軽口をたたいているが、内心は冷や汗まみれだ。
敵の数が、想像以上に多い。ここは敵の巣だ。
悪魔の壁が、シェムハザを包んでいる。一撃を当てたところで、十撃くらい返ってくるだろう。
「ひとを殺していいなんて、ばかなこと言わないで!」
後方からサアヤが声を張り上げる。
彼女がきれいごとを宣っている間に、どうにか状況を改善することはできないか。
「殺してはいけないからこそ、捕まった者たちが送り込まれる場所でしょう」
ヒナノが正論をかぶせる。
ケートの視線が背後のドアに流れる。
示唆されるまでもなく、チューヤのなかに、お得意の「逃げる」という言葉は常に浮かんでいる。
最初から退路について準備しておくのは彼の生きざまなのだが、いまのところ背後のドアを開けて外に駆け出す、などというシンプルな逃路は実現性が薄い。
その先にいるはずの榎戸が、決定的な逃走方法を用意して待っていてくれる、という他力本願の期待値は別として。
シェムハザは……いや、殺人者・志村の顔で、彼は一歩を踏み出した。
「人殺しは物語なんだよ。この真実を理解して死ぬかどうかは、選ばせてやるぜ」
確信犯的に、にやり、と笑う。
彼らは、自分を正当化するための、あらゆる手段を持っている。
「なにが物語だ、えらそうに……」
言いながら、ケートは相手にサイコパス特有の挙動を見て取る。
「偉いんだよォ! 俺は本来、こんなところにいるべきじゃねえええんだよォ!」
絶叫する志村にも、彼なりの事情がある。
高学歴で殺人者になった、「アレ」な人のなかでも度し難いタイプに属する、彼なりの手前勝手な事情が。
「なら作家にでもなればいい。なんとか殺人事件というタイトルで売り出せば、夢の印税生活だろう」
会話をつづけることで時間が稼げる、とチューヤは判断した。
「なぜそれが売れる? 人々が読むからだろう。そうだ、おまえらはみんな、殺人が大好きなんだ。だから、それを代わりにやってくれる俺たちのことも、大好きなんだよ。殺人者は英雄なんだァ!」
極端に冷酷、無慈悲、エゴイズムの塊。
彼らには監獄こそふさわしい。
「バカな。創作を楽しむのと、じっさいに殺すのは、わけがちがう」
ケートはチューヤと視線を交わす。
この戦略が現状、最適解に近い。
「オセローがデズデモーナを殺しましたって? エレクトラが母のクリュタイムネストラを? メディアはライバルの女ばかりか、自分の子どもまで殺したな? もちろんロドリーグは婚約者シメーヌの父ドン・マルゴスを殺した!」
エウリピデスから、シェイクスピア、コルネイユに、アイスキュロスまで、なかなか博識なことを言う。
「……だから?」
つぎの言葉を促す。
タイムテーブルを埋めるために。
「だから! そんなものに興味を持って、おまえらは劇場に通うのか? ちがうね! 無力なクソどもは、惨劇が見たいと思いながら、なにもできない。てめえらが見たいのは、もっと血あふれ肉の裂けるような、いまそこにある惨劇なんだろうが!? だから俺が、やってやんよ、それを! そのスプラッターを見せてくれる、俺を尊敬しろよ!」
つぎの瞬間、バタン、とチューヤたちの背後のドアが開いた。
榎戸に呼ばれ、4人は一斉にそのドアをくぐる。
──崩壊するパノプティコン。
背後のドアに殺到する悪魔たちを感じながら、榎戸は手早く言う。
「こちらです」
「戦わずに、出られるんですか?」
懐疑主義者チューヤの無意味な問い。
「どうやらそうらしいぜ」
殺到する悪魔たちの雑多な移動速度より、榎戸の用意したルートのほうが最適化されている、と微分完了したケートは薄笑いを浮かべる。
「無益な殺生は控えるべきでしょう。それが避けられるならね」
どちらが殺される立場になるか、榎戸は言わなかった。
ふつうに考えれば、相手の数が多すぎるこの局面を回避するのは正解だ。
だが、いまの自分たちならシェムハザを倒せる、とチューヤは思っていた。
たしかに戦力的には不利だったが、いまのチューヤには、戦闘フィールドをコントロールして各個撃破する、という選択肢もあるような気がしていた。
もちろん、ある程度、強くなると生じる予断と余裕と慢心が、いずれ彼の足元を掘り崩し、絶望の淵へ追い落とす可能性も忘れてはならない。
「ここへ」
榎戸は、地面に穿たれたダストシュートに、なにやら不思議な文字を描いた。
ここは異世界の死刑執行場で、それは死体を投げ捨てるダストシュートなのだ、という事実はもちろん知らなくてもいいことだ。
榎戸が描いた文字は、いわゆるエノク語と呼ばれるもので、16世紀後半、ロンドンの占星術師と霊媒師が記録した「天使の言葉」であるという。
つぎの瞬間、開かれた魔法の通路が、チューヤたちを吸い込むように陰圧をかける。
先刻、三休たちが吸い込まれていった光の穴に近いものが感じられた。
「な、なんですか、ここ」
「アイテールという名の砂漠ですよ」
榎戸は不敵に笑い、それ以上の説明はしなかった。
アイテール。後世のオカルティストたちにより、異空間を開いて魂を飛翔させる魔術として有名になった。
イギリスの魔術結社「黄金の夜明け」にも影響を与えているという。
「帰り道は、ここに開いてーる。……さあ、ご帰還なさい。あなた方の世界へ」
通行の全権を握るもののように、チューヤたちを送り出す榎戸。
長かった境界の戦いは、意外な方法によって決着を迎えた──。
榎戸は、4人の高校生を送り出すと、そのまま通路を閉じた。
つぎの瞬間、背後のドアが激しくたたき開けられ、悪魔の群れがなだれ込んでくる。
榎戸は、ゆっくりとふりかえる。
彼は戦わないが、それ以外の全能を持っている──。
そう思わせるに足る強大な「力」に埋め尽くされた部屋にはいま、36万5000個の燃える目がハスコレ画像のように広がり、ぎろりとその眼光を投げている。
完全に空間を支配するとは、こういうこと。
榎戸を中心に展開する強大な魔力は、そこに「魔王」に匹敵する威圧を見た。
潮が引くように、悪魔の群れは絶叫しながら逃げていく。
あとに残ったのは、ボスであるシェムハザひとり。
その全身から力が抜ける。
最初から彼は、榎戸に対する敵意を一片たりとも見せない。
榎戸を恐れているから、というよりも、最初から彼は敵ではないと理解している。
むしろ榎戸に敬意を払いつつ、
「連絡が稚拙すぎるぜ、弁護士さんよ」
アザゼルの名を出し、ふたりの関係を改めて明示した。
アザゼルの誘拐騒ぎが、このわけのわからない展開を招いた、とシェムハザはまだ信じている。
「拙速は幾重にもお詫び申します。それにしても、あなたのやりようも、あまりスマートではありませんでしたがね」
ブリーフケースを持ち直し、事務的な口調で言う榎戸。
「やつがガキをさらったんだろう。どういうことなんだ」
「神学機構を侮りすぎですぞ。彼らは、あなた方の動きを利用していたにすぎない」
シェムハザの表情が微妙にゆがむ。
自分たちがやりたいのは、神学機構の上前を撥ねることだ。
巨大な世界企業が、膨大なソフトウェアのライセンスを売っている。その一部を盗み出してオークションで売りさばく。
そうして小銭を稼ぎたい程度の小悪党にとって、世界企業そのものが本気で怒り、つぶしに来ることなど想定していない。
「とにかく、俺をここから出してくれ。あんたならできるだろう」
「自力で出ようとしていたのでしょう? そうすればよろしい」
「それはそうだが、こちら側じゃなく、むこうでも合法的にだ。あんたならできるだろう。あんたは、俺たちを助けてくれる。こんどこそ、その約束を守ってくれ」
答える榎戸の表情は、恐ろしく冷たい。
「……シェムハザ、私は、あなたたちをとりなした。神は堕天使を赦さない。その宣告は重いが、まだ酌量の余地はある」
「エノク。悪魔の弁護人よ。憐れみをもって、成果をもたらしてくれ」
シェムハザの声が、空虚に響いた──瞬間。
周囲を包んでいた無数の目のひとつが裏返って、光を放った。
すさまじい破壊力の熱線は、シェムハザの脳天を貫き、余りあるエネルギーによって空間をビリビリと震わせる。
ごろり、と死体が転がる。
あまりにも唐突な末路に、堕天使自身、みずからの死の意味を理解できていない。
きょとんとした表情で転がる死体を見下ろし、榎戸はやれやれと首を振る。
この燃え盛る眼球の先にいる、黄金の鎧をまとった大天使を予期して。
「裁くなかれ、という言葉をご存知ですか」
榎戸の軽めの言葉は、大天使の黄金の眼球に触れて上滑った。
やがて、光る目玉のなかから、ぬるりと実体を伴って、かの者が姿を現す。
──戦う天使の代表格、ミカエルの手には剣。
時に天秤を持つこともあるが、これはミカエルが死者の魂の善悪を量る、裁きの役割を担っているという伝承に基づいている。
裁きを待つ「拘置所」に、ミカエルが降臨する意味は、ひとつしかない。
榎戸の言葉を受けて、ミカエルの表情は微動もしない。
そして榎戸の表情も、すこしも変わらない。
たとえ相手が最強の熾天使だろうと、あるいは極悪の堕天魔王だろうと、彼はいつもと変わらず手を挙げ、弁護士の名刺を差し出すだろう。
「ふん、ここは裁きを待つ者どもの場であろうが」
ミカエルの懐には、小さな坊主頭の少年が抱えられている。
彼は安らかに眠っているようだ。
「……あいかわらずですな、ミカエル様。カルデア以来、お変わりもなく重畳至極」
福々しい笑みを浮かべて最敬礼をする榎戸を、ミカエルはやや不快げに一瞥する。
──カルデアはメソポタミア南東部に広がる沼沢地帯で、ミカエルは、かつてそこで神と仰がれていた存在だった。
それが旧約聖書、キリスト教に取り込まれ、最高の守護天使の地位に昇りつめた。
出世と言えば出世だが……。
「偽典の話はよい、悪魔の弁護人よ。罪を贖うべく働いておるのではないのか」
ミカエルの声は低く、冷たかったが、そこに人を見下すような権威はなく、対等な立場で情報交換する者の気配がある。
エノクは重要な使徒だが、ミカエルにとっての印象はさほど良くないようだ。
とくに腹に一物あるエノクの策略は、ミカエルたち主勢力にとっても、獅子身中の虫を思わせないところもない。
それでも使えるものは使うのだ、という大勢の判断で、彼はここにいる。
「こんどはオルレアンの少年を鼓舞して、この国の独立を守ろうというわけですか」
榎戸は、ミカエルの懐にいる禿頭の少年を一瞥する。
ミカエルからの命を受けて、ジャンヌ・ダルクが百年戦争を終結に導いた、という歴史がフランスにはある。
その後、彼女が魔女裁判にかけられ、悲惨な末路を遂げたことも、よく知られるとおりだ。
ミカエルは軽く舌打ちをしてから、単刀直入に言い放つ。
「……ガブリエルを査問にかける。それだけを伝えにきた」
「そうですか。いや、穏当な言い方をなさっても無駄ですぞ。お嬢さまには、おつらい時期がつづきますな」
両者の距離が開いていく。
社交辞令など一片たりと必要ではない。
もちろんキリスト教は、凄惨な「査問」の歴史を持っている。
一般には「異端審問」と呼ばれる──。
「分限をわきまえよ。我より強大だなどと奢るな。ノアの曽祖父にして、神の書記官よ」
「私と同じように、人類を棺に詰めて火をかけますか、炎の執行者。先陣を切る最強の熾天使は、あなただ」
一瞬だけ、両者の目に光が宿る。
「神をはかるな。契約の箱はもたらされる」
「だれが神のようになれようか?」
最後の言葉を交わし、ミカエルは光の向こう側へ消えた。
境界は、溶けだしている。
シェムハザが殺されたことにより、境界を維持する契機も消えた。
彼がいようがいまいが、出入り自由な高位の存在は別として、境界に巻き込まれていた犠牲者たちは順次、熱力学第二法則の通り貧しい側へと解放されていく。
それに乗ってもいいし、流れに逆らってもいい。
しばらく考えてから、榎戸は、ミカエルの後を追うことに決めた。
神の国にも、複雑な事情がある──。