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「要するに、泳がされたのはお嬢ってわけか」
ケートが、とくに感情を込めることもなく、言い切った。
「わたくしは……っ」
否定したいが、できない。
「最初から、自分の弟のことなのに、なんか奥歯にものの挟まったような、前頭葉に電線が挟まったような、引っかかる感じではあったよね、お嬢も」
チューヤとしてはフォローしているつもりだが、まったく役に立っていない。
「ヒナノンというかさ、その、ガブリエルさんじゃない? 困ったことに……なってるかどうかはわかんないけど」
天然のサアヤにしては、それなりにまともなことを言っている。
「いやいや、ガブんちょにも困ったもんだ。こんど会ったらお尻ぺんぺんしてやろう」
完全に他人事として、ケートはもうそのことに興味を失ったがごとく、廊下の先に視線を転じている。
「…………」
ヒナノは無言で立ち尽くす。
言うべき言葉が見つからない。そもそも状況を整理して考えられる状態にない。
そんな自分が腹立たしい、という表情だ。
すると、もう先へ進むことに決めたケートから、先行して動き出す。
「おいチューヤ、コンピュータルームを見つけた。ここから世界を変えてやろう」
「なによ、かっこいいこと言って」
「小さなことからコツコツとだよ」
男たちは先に立ってその部屋に移動し、廊下には少女がふたり、残される。
「ちょっと男子ぃ、女子を置いてくとか、正気? ……さ、行こう、ヒナノン」
「…………」
ヒナノはサアヤに手を引かれて歩き出したが、その表情に生気は感じられない。
さっきから、不愉快な事柄ばかりが起きている。
そもそも最初から、あのミツヤスがどうこういう時点で、いやな予感はしていたのだ。
それにしても、まさか、ガブリエルが……。
「ようこそ、マドモワゼル・南小路雛乃。あなたの信仰を確認するための質問をはじめます。よろしいですか?」
数日前のガブリエルには、なんの違和感もなかった。
「……ウィ」
なにも知らないヒナノは、ガブリエルと向かい合い、心を安らかに話すことができた。
「あなたは神が救い主を遣わすことを信じますか? 神の戒めを守りますか?」
純粋な信仰者らしい口調で、底意など一片も感じられなかった。
「ウィ」
もちろんヒナノも、数日後、こんな悪夢に巻き込まれることになるなどと、想像すらしていない。
「ガブリエル・ソレルを指導者として認め、信仰儀礼のすべてをゆだねることに同意しますか?」
古典派の典礼として、ありふれた信仰の確認儀式。
ヒナノはおもむろにガブリエルの目を見つめ返し、ゆっくりと答える。
「Provisoirement」
ガブリエルは薄く笑い、つづける。
「いいでしょう。ではつぎの質問です。あなたは教会の教えに反する集団や個人と親しくしていますか?」
「……ノン、ゲイブリエレ。数人の学友以外には」
ヒナノは意識せず、フランス語に近い発音をする。
「あなたは両親を尊重していますか? 貞節を守っていますか?」
「ウィ」
両手でピースをつくり、頭より高く掲げることで、誓いを守るという意味になる──。
──その同じ姿勢を見て、ヒナノは意識を引きもどす。
ここは東京拘置所の地下、境界に巻き込まれた、戦いの巷。
信仰に反する友人のケートが、キーボードに向かい合い、実体のない何事かと格闘しながら、両手の指を立てて頭を掻きむしっている。
「なかなか手ごわいじゃんかよ、ニセ神学機構サーバちゃん」
神学機構という単語に、ヒナノはようやく注意を現実に引きもどした。
画面には、複数のプロンプト画面に半ば隠されながら、見たことのあるホームページの意匠が見える。
携挙を管理する神学機構のサイトが、どこかにある。
それを堕天使が模造して、フィッシング詐欺よろしく、神に流れるべき魂を自分たちの利益としてぶんどっている。
そのサイトを解析し、反撃できる可能性がある、とケートは言っていた。
「大丈夫か、ケート。なんか、あんまり時間なさそうだぜ」
チューヤが、部屋の奥に視線を走らせながら言った。
彼の召喚した悪魔たちが、斥候の役割を担い、場の安定性を確保している。
ケートが敵のサーバを攻撃しようとしていることを察すれば、敵からそれに対して反撃が加わることは当然だ。
そういう一連のパワーゲームを、この男子らはプレイしている。
「もうちょっとがんばっとけ、チューヤ。おまえのデジタルデビルの壁で、ボクの立ち位置を守るんだ」
すさまじい速度でキーボードをたたくケート。
その見つめる画面内には、同じくデジタルデビルの状態で、ひげのおっさんがらんらんと目を輝かせ、ケートと同じく胡坐をかいている。
「プロメテウス……」
つぶやくヒナノ。
ヨーロッパ文明の母、ギリシャ神話の素養はもちろん彼女も持っている。
天界の火を盗んで人類に与えた、ティターン神族の一柱。
「天の火とか冗談を言ってる場合じゃないよな、プロメテウス。おまえがここにいる理由は、まさに……」
ケートの目が、狂気に近い光を帯びて、目のまえを走るプログラム言語に集中する。
「ウォール貫通、3、2……っ見つかった!」
鋭く警告を発するチューヤの目には、データの道を走って追いかけてくるシェムハザの姿が見える。
そもそもナノマシンによってデジタル化されている悪魔は、オンラインで戦わせることも可能だが、相手のほうがかなり強い点はどうしようもない。
「いいや、まだ見えないね。ボクたちは、だから真実を見、知るためにいる。人はなぜ、ここにあるか? そうだ、人にしかできない、英知の地平を切り開くためだ!」
目にも見えぬスピードでキーボードをたたくケートの指に、プロメテウスの指が重なる。
超速で紡がれるプログラム言語が、シェムハザの追跡を最後の局面で切り離す。
──プロテクト解除。外部サーバへ、リダイレクト。
「よっしゃ!」
ケートの挙げた手を、画面の中でふりかえったプロメテウスが、そこから手を出して、パァン! と打ち合わせる。
──なかなか、おもしろかったぞ、人間よ。
そう言って、知的好奇心を満たしたプロメテウスが、満足そうに遠ざかる。
あとはケートが、現世とのネットワークで解決すべき問題だ。
画面の右側にチャットスペース。
そこには驚いたような表情のクリスがいる。
「どちらさまかと思ったら、ケートじゃないか」
「昼間から起きてるなんてめずらしいな、クリス。このアドレスをコピーして、再定義してくれ。ちゃんと最高のプロキシで囲い込めよ」
サアヤがくれたアメちゃんをなめながら、ケートは指示を飛ばす。
「インド人ナメたらあかんぜよ」
画面の向こう、クリスが笑いながら作業にはいる。
向こうの作業に同期して、ケートのほうも作業をつづける。
一般人には理解できない言語で、デジタル世界は再構築されていく。
境界から現世にネットワークをつなげる、という離れ業をやってのけたことを、ケートはとくに誇るでもない。
「……あらためて気づきましたが、あなたは天才なのですね」
ヒナノは、理系特進というクラスの意味について、認識を新たにした。
「褒めてくれてんの? そりゃどうも」
ペットボトルをくわえ、ケートは椅子に胡坐をかいたまま、首の角度だけで水を飲む。
「ちょっと嫉妬かな」
ぼそりとチューヤ。
ヒナノのケートを見る目には、たしかに真実の敬意がある。
「ははっ、心配すんな。ボクたちに恋愛感情は皆無だ」
ぷっ、とペットボトルを吐き出して作業をつづけるケートは、ヒナノに見向きもしない。
「その通りですが」
うなずくヒナノに、
「男子の口から言われるとカチンとくるよね!」
サアヤがかぶせる。
「いえ、まあ……」
口ごもるヒナノ。
「むしろボクは、チューヤにサアヤ、おまえらカップルのことが大好きだぜ」
ケートがひさしぶりに画面から外した視線の先、サアヤがテレテレと笑う。
「やだなーケーたん、みんなのまえで直球すぎー」
「サアヤにコクるのは勝手だが、俺まで巻き込むなよケート……」
床に転がるペットボトルを拾い、ごみ箱に入れる小市民、チューヤ。
「あはははっ、おまえらほんと、いいよ。……さて、つながったぜ。神学機構さんの中枢部、神の魂の在処、だ」
ぱん、と最後にたたいたエンターキーが、画面に開いたのは──機密の渦。
ヒナノの目に、ほとんど見たことのない内部データベースが表示された。
ごくりと息を飲む。彼女ならずとも、ここから先がトップシークレットであることはわかる。
「西原くん……あなたが神学機構と手を組むことは、ありえないのですか」
ヒナノはライト、ケートはコスモス。
互いの道は似通うようでいて非なるもの。
「わるいな、お嬢、ボクは多神教なもんでね。根本的に、思想がちがう」
ヒナノを見向きもしないケートの動きが、ぴたり、と止まった。
ケートの後頭部に、銃口が突き付けられる。
ヒナノの右手がトリガーを握る、装弾済みの銃口が。
「ちょ、ヒナノン、どうしたの」
右往左往するサアヤたちを無視し、ヒナノは指に力を込める。
「それでは、手を引いてください。そこから先は機密です。敵に……すくなくとも味方ではない者に、土足で上がり込まれるわけにはいきません」
ケートは不敵に笑い、キーボードから指を離す。
「だってよォ、クリス。お嬢様はお怒りだぜぇ?」
ネットワークの向こう、親友が脳天に銃口を突き付けられていても、クリスの笑顔は変わらない。
「そりゃそうでしょうよ。よくもまあ、ここまで見逃してくれましたって」
鏡のように、ケートと同じ姿勢をとって両手を挙げるクリス。
ケートが右手を動かすと、クリスも動かす。左手を動かす、同じように動かす。首を傾ける、顔をゆがめる、ウインクをする。
「なにを遊んでいるのです!」
ヒナノに怒鳴られて、いたずらをとがめられたふたりの若者は、ひとつ吐息して動きを止める。
ケートはゆっくりとふりかえり、
「ここから先は、きみのパスワードを使うかどうか、それだけだ。悪魔が食い込ませたウイルスは沈静化させてある。コードはオープンだ。神学機構の頭の固いプログラマでも、ここまでお膳立てしてもらえりゃ、解析はできるだろ」
ケートの作業は、神学機構に対して「塩を贈った」ということになるのかもしれない。
「わたくしのアカウントでログインしろ、と?」
「べつに、だれでもいいけどね」
「それでは、ワタシのパスワードでどうぞ」
突如、クリスの画像がぷつりと消え、かぶさるように出現したのは、三休だった。
ヒナノはハッとして、画面のほうに駆け寄りながら、
「ミツヤス、あなたは……っ!」
おいしいところを持っていこうとしている、というのはヒナノならずともわかった。
「お手柄ですぞ、姉上。それではごきげんよう」
ぷつり、と画面が切れる。
「だいぶ個性的な弟くんだね……」
チューヤにも、それ以外の言葉が見つからない。
三休が登場するほどだから、神学機構中枢もとっくに対応している。
画面上、どうやら管理人たちは、ウイルスの駆除を完了し、サーバを健全な状態にもどしたようだ。
ケートは軽く肩をすくめ、立ち上がる。
知的好奇心を満足させられたら、あとはどうでもいい、というような態度だ。
「ミツヤス……!」
激しく壁を叩きつけたのは、彼女にしてはめずらしい行為だった。
画面を殴っても、もうそこには肌色のピクセルすら残っていない。
手柄を横取りされた、という気持ちは一瞬だけで、結果オーライと言えば言える。
結果的には、彼女が負っていた任務はほぼ完遂され、万々歳のエンディングも近いと考えられる。
それでも、弟に対する怒りがどうにもならず渦巻いている。
最初から、ことごとく、手のひらのうえで踊らされたようではないか?
想像のなか、拳をふるい、弟の顔面をへこませてやって、どこか留飲を下げている自分に気づいた瞬間、ヒナノはゾッとする。
見透かしたように、声が聞こえた。
「おまえが流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」
それはまるで闇の奥深くから轟く声。
ヒナノは全身を痙攣させて立ちすくんだ。
創世記4章11──カインによる弟殺しの物語だ。
一同の視線が、声の方向に集まった。
「榎戸……」
そこには丸々と太った弁護士がひとり、笑顔で両手を広げていた。
「皆さん、ご無事でなにより。ははは、申し訳ありませんお嬢様。なんとなく、口をついて出てしまったのですよ。いいえ、なんの腹蔵もございません。ただ罪深かった父が残してくれた言葉、というだけのことです」
含むところはないと言いながら暗喩に満ちた物言いに、ヒナノは、いぶかりながら周囲を見まわす。
変に感受性豊かで賢いと大変だな、とケートは思ったが口には出さない。
罪は、たとえそれを犯しても、悔い改めるなら光へと転じる。
それを否定したり、ごまかしてしまったとき、その先には底知れぬ闇が口を広げる。
神の怒りを買ったカインは、エデンの東へと追放される──。




