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やはうえさま お元気ですか
ゆうべ釘の小爪で 赤いひっかき傷ひとつ作りました
施主は言いつけます やはうえのもとに とてもやらしく
私は施主に話します 釘出ませんよ 大工の子です
怪しくなったら また見に来ますね いつかたぶん
それではまた 見積りします
やはうえさま さんきゅう
歌声とともに、扉が開かれた。
そこには、小柄な少年がひとり、美しい姿勢で屹立していた。
「ミツヤス……」
ヒナノの言葉に、一同の動きが止まる。
「おひさしぶりです、姉上」
南小路三休は、まるでお風呂に行ってきたばかりといった艶やかな肌色で、柔らかな挙措物腰に身体を揺らしながら、ひどく淡白な口調で言った。
──13歳にしてはやや小柄で、痩せ型だが不健康さはない。
筋肉があるようには見えないが、声はおそろしく透き通って美しい。いわゆるボーイソプラノで、鈴を転がすような美声が、いつまでも耳に残っている。
顔が映りそうなほど、つるりと剃り上げられた丸坊主。
顔立ちは、かわいらしいという言葉がまず真っ先に浮かび、おみそのCMにでも起用されそうな日本人顔。
その表情にはときおり、怜悧と呼ぶべき知性のひらめきが感じられる。
顔立ちに比してアンバランスにも見えるミッション系学園のブレザーは、高級なデザイナーズブランド。ヒナノの通っていた田園調布の有名女子校と双璧をなす、全寮制の男子中高一貫校だ。
アクセサリー類はつけておらず、唯一、右手に数珠のようにロザリオのチェーンを巻いている。
姿を見せた最初に、その手で十字を切った姿は、堂に入っていた。
「おひさしぶり、とは、ずいぶんな物言いですね、ミツヤス……」
ヒナノは、ふるえる声で、いかに弟を難詰するかを考える。
「姉上こそ、ワタシに一言もなく、拘置所を訪れるというのは、いわゆる〝薄情〟なのではありませんか」
「あなたですよ! 勝手に寮を抜け出したりなどして、問題になっても知りませんよ」
「どうぞ、サンキュウとお呼びください、姉上」
慇懃無礼に頭を下げる少年。
会話を聞き進むほどに、トンチキな姉弟だなという印象が強くなる。
あるいはこれが、貴族というものの普通なのかもしれないが。
「あのー、ヒナノン?」
サアヤの声に、ヒナノはようやく友人たちのことを思い出したように、顔を振り向けた。
今回、なんのために動いたかを考えれば、そのほとんど最終目的とも呼ぶべき弟が、いきなり目のまえにみずから現れてしまった、というのは展開として唐突すぎる。
当然に説明する義務はあるだろう。
……とはいえ彼女自身、まったくワケがわかっていない。
ヒナノはため息交じりに首を振り、すくなくとも必要な「紹介」をする。
「弟のミツヤスです。……聖王寮にはきちんと」
ヒナノの「紹介」は、それだけだった。
すぐに弟に向き直ると、寮に連絡云々というどうでもいい話が再開される。
弟も弟で、当然のようにそれを受け入れ、答えているのだから、一般ピープルの目にはトンチキ以外の言葉が見つからない。
「マイケル氏を助けるのは当然ではありませんか、彼はワタシのソウルメイトなのですよ、姉上。あなたのお目付け役がガブリエル女史であるのと同じように。それより姉上、ご友人の方々を、ワタシに紹介してくださら」
「わたくしの友人の話も、マイケル氏の話も、してはいません! そもそも彼は、ガブリエルと同様、神学機構の本部庶務に忙殺されているはずではありませんか」
「ガブリエル女史、お元気ですか? 最近、ご尊顔を拝しておりませんが」
「今朝も元気にわたくしを送って……そんなことはどうでもよろしい! ミツヤス、とにかくまず、あなたは勝手に携挙予備隊のパスコードを引き出して」
「勝手とは失礼ですな、姉上。ワタシはマイケル氏の許可を得て、信仰の赴くままに、己のなすべきことに邁進しておるだけですぞ」
「それが勝手だというのです。そもそも」
「そもそも姉上は、呪われたご自身の問題を片づけるほうが先なのではありませんか?」
「ミツヤス……っ」
延々とつづきそうな姉弟喧嘩を、三人の友人は、どこでぶった切って突っ込んでやろうかと、虎視眈々待ち受けていたが、まずその契機を見つけて口を出したのはケートだった。
「なにに呪われてんだよ、お嬢」
「個人的な問題です。より重要な組織の問題を、まずは解決しなければなりません」
ピシャリ、と切り捨てるヒナノには取り付く島がない。
「地下に、ホストコンピュータがあります。姉上、ひとまずそこを目指すべきと考えますが、よろしいか?」
「あなたは……っ」
姉弟喧嘩は、永劫機関のようにつづいている。
とにかく、地下のコンピュータルームを目指すことがつぎの指針のようだな、ということだけ理解すれば当面はよさそうだ。
そう合意して、3人は沈黙することにした……。
「なんですって?」
ヒナノの声は、最近もっぱらヒステリックな傾向がある。
「ですから、ワタシは異世界の監獄に閉じ込められていたところを、先ほどシンエモンさんに助けていただいたのです」
その原因である三休が、飄々としてしゃべる姿は印象的だった。
移動の途中、とにかく会話だけはよく転がった。
「いろんな登場人物が出てくるね。シンエモンさんてだれよ?」
「一休さんのナカマじゃね?」
ヒナノはパタパタと苛立たしそうに足を踏み鳴らしながら、
「あなた方も知っているはずですよ。榎戸新衛門弁護士です」
「え、榎戸さんてシンエモンて名前だったのか」
「そう呼ぶと不快なようですが」
三休はにこにこ笑い、
「ワタシだけには許してくださっておりますよ、シンエモンさん」
「そんなことはどうでもよろしい。榎戸はこちら側にきているのですか?」
「はい。境界に巻き込まれ、ただちにワタシを救出にきたと。いまは先に地下に向かい、脱出ルートについて探っておられるようです」
「榎戸ぉ……」
ヒナノの怒りは、いろいろな方向に向いている。
「じゃ、あの弁護士さんも、そうとう強いんだね」
サアヤの言葉に、三休はやや驚いて顔を向ける。
「みなさん、ご存じない? ガブリエル女史やミカエル氏さえ、一目置く存在ですぞ。悪魔の弁護士と恐れられております」
チューヤはうなずき、
「ああ、それは知ってる」
「謎の多い弁護士です。たしかに、そうとうな力の持ち主であることは事実のようですが」
こめかみを押さえて、ヒナノは言った。
「じゃあもう最初から全部、あの人に任せておけばよかったんじゃね?」
「いえ、当人はいっさい戦うことはしない、と言明してもおりましたから……」
「たしかに、ワタシもあの方が戦うところは、これっぱかりも見ておりませぬ。強すぎる力を封じて、行動しておるのかもしれませぬな。ひゃー、かっくいー!」
少年らしい純朴な瞳を輝かせ、三休は美しい声を張り上げた。
この濃厚なキャラたちのやり取りを、薄っぺらな主人公はどうにもできず見守るしかない。
彼らは地下にいた。
死刑執行が行なわれる、東京拘置所の地下空間。
さすがの4人組も、着実に強化されていく敵悪魔たちの攻撃に対し、疲労の色を隠せなくなっている。
戦闘を終え、何度目かの休憩。
チューヤ(の悪魔)を見張りに立て、床に座り込んで息を整えるメンバー。
これも、いつもの光景になりつつある。
「このさきに、榎戸がいるのですね」
「おそらく」
「もとの世界にもどりますよ」
「むろん、そう願いたいものです」
あまり危機感を感じさせない三休の言動態度に、ヒナノは決然として向かい合う。
「──どういうつもりなのですか、ミツヤス」
しばらく、その姉の表情を観察していた三休は、やがて短く吐息し、生真面目な表情を引き締めて答えた。
「端緒は純粋な気持ちです。その点、お疑いいただきたくはない」
「……いいでしょう。あなたの信仰は、最初から疑っていません」
「悪魔は……主の意図を捻じ曲げ、我欲のために利用する。アザゼル、シェムハザ、その他の堕天使たちは、やってはならないことをやりました。ワタシは、それらの行為を弾劾せねばならない」
「それと、いま、こうしてここにいることへの脈絡です」
「……聞こえませんか、姉上は」
「なにがです」
「神の声ですよ。ワタシたちは、神の戦士なのです」
壮大な歴史に裏付けられた世界観が、三休の背景に拡散する。
とくにパリに生まれ、血みどろの世界史を学んだヒナノであればなおのこと、三休の言葉の意味を、より以上に深い信仰に基づいて認識できる。
──民衆を導く自由の女神。
神は人間を率いて、戦場に赴かせる。
ヒナノは沈黙した。
──「主に命じられた」。
かつて、これほど濫用され、陳腐化し、真意を捻じ曲げられた概念も多くない。
だが、それをあえて弟の口から聞かされる。このことの意味はなんだ?
そのとき、まず異変に気づいたのはチューヤだった。
「……境界が、なんだ、これ。揺れてる?」
最初、わずかだった揺れは、着実に大きさを増した。
地下空間が微動している。
本来、地下は地震に強い場所だ。そこに、これほどの振動を伝えてくるということは、なにか強大なエネルギーが作用していることを感じさせた。
「……まいられた」
ゆっくりと立ち上がり、三休は中空に視線を固定する。
その先に、光が集まりつあった。
「ミツヤス?」
つづいて立ち上がるヒナノ。
「姉上なら、ジュハンヌになれましたのに」
ゆっくりと姉を顧みて、三休は言った。
はるか昔、フランス東端のドンレミ村に生まれた少女ジャンヌと、姉の姿を重ねる。
「代わりに、あなたがミッシェルの訪いを受けたのでしょう」
口にしてから、ハッとして空中の光に視線を集める。
──聖女カトリーヌとマルグリットを従えた、大天使ミカエルがジャンヌのまえに現れたのは13歳のとき。
それまで善行を勧めていた神の声は、突如「フランスを救え、神の子よ」に変わった。
「日本を、いえ、世界を救わねばならぬのですよ。姉上」
「ミツヤス……」
「どうぞ、サンキュウとお呼びください」
光はいよいよあきらかに、三休の眼前の空間を広げていく。
1429年、17歳となったジャンヌは、フランスを救うべく戦いを開始した。
一方、ミカエルならぬガブリエルの訪いを受けた17歳の少女も、極東の境界で戦いを開始していた、が──。
「答えなさい、ミツヤス、あなたは」
「ロベール・ド・ボードリクール」
「わたくしもあなたも、ジャンヌ・ダルクではありません」
「これはしたり、オルレアンの少女が最近、よく夢に現れるもので」
英霊ジャンヌは、どの駅に配置されていたかな、とチューヤはアクマニアらしいデータ検索に走る。
そんな悠長なことをしている時間が、唐突に切れた。
──空間をこじ開けて、孔雀の尾羽のような文様の翼を有した姿、右手には剣、左手には魂の公正さを測る秤を携えて、一体の天使が現れた。
悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ミカエル/大天使/90/紀元前/新バビロニア/ダニエル書/東雲
アナライザが解析してくれるデータを見るまでもなく、もはや言葉もない。
本来、この段階で出てきてはいけない悪魔だ。
「バカな」
「うわあ」
「すげえ……」
最終盤用の超破壊兵器、大天使ミカエル。
その威容に、ケルベロスすら、どこかに引っ込んでしまっている。
ゲーム的に言えば、バランス崩壊だ。
分霊の状態とはいえ、中盤の入り口にも立っていない面々にとって、最終盤神格のプレッシャーは半端ではない。
圧倒的な光を帯びて、ミカエルは空間に座を占めた。
「ふがいないな、サンキュウ」
「これはしたり、ミカエル殿こそ」
その三休の態度に、一同はさらに度肝を抜かれた。
彼はまるで対等の友人のように、ミカエルの傍らに寄り添い、その翼を撫でているではないか。
「堕天使ごときの遊びに、いつまでもかかわっている暇はない」
ミカエルが左手の天秤をゆっくりと持ち上げる。
三休は、その揺れる皿に手を置きながら、
「泳がせて動きを見るのでは?」
「ああ、とくに重要な動きが、見えてきたわ」
「……携挙の魂の行く先、ですか?」
一同、ぴくりと反応する。
「自家消費するレベルの量ではない。必ず、どこかしらに送っているはずだ。どこに流しているかは、大方、察しはついていたがな」
ミカエルの言葉に、三休は首をかしげる。
「じゃ、ぶっ倒してしまえばよろしいのでは?」
「そう簡単な相手ではない。というよりも、敵ではない、とも言える」
「ほう。よくわかりませぬが……」
「私たちが忠誠を誓うのはだれか?」
「ヤハウェさまー♪ でしょうか」
「信仰の世界では、同じ神でありながら多くの別の名を持つことは、ままある」
「存じおります。強すぎる御名でありますゆえ。無限の分霊を有していらしても、おかしくはない」
「神が複数の名を持つように、悪魔や天使も、さまざまな名で呼ばれることはある。……たとえば、ジブリールと呼ばれる天使がいてな」
かたん、とヒナノの手からバッグが落ちた。
すべての答えが出た、とでも言わんばかり、ミカエルはそこまで言って目を閉じた。
中学生の三休は、それほど多くの知識を持っていないが、ジブリールという名は聞いたことがある。
それほど有名で、有力な、最上位天使──。
「まさか、ガブリエル女史が……」
「二股膏薬と呼んでいいものかは、わからんがな。かく言う私も、ミーカールと呼ばれることもあるようだ」
ミカエルは、やや不快げな表情。
それは、イスラームにおける大天使の名。
──同じ唯一神を崇めるユダヤ・キリスト・イスラームの流れのなか、もちろん大天使ミカエルも崇拝の対象になっている。
とはいえミカエルは、ユダヤ・キリスト教との差別化のためか、イスラームにおける地位はかなり低い。
イスラムで筆頭、ユダヤ・キリスト教でも第2位を占めるガブリエルに比べると、ミカエルにとっては、やや不満な取り扱いではあるらしい。
「ガブリエル殿は、イスラームの天使になった、と……?」
「そこまでは言わぬ。宗教としては似て非なるもの、という見方もあるが、対極に位置する勢力が乱立するこの世界で、かの勢力とまで敵対していたらきりがない」
ミカエルの教授を受ける生徒の体で、三休はしたり顔でうなずく。
「ははあ、なるほど。むずかしいものですな。それが大人の世界ということでしょうか」
「己が役割を果たせ、サンキュウ。転ぶことは、許されぬ」
「重々承知」
三休は言葉通り重々しくうなずき、ゆっくりとヒナノを顧みた。
──キリスト教が描写するガブリエルは女性的だが、イスラームが描写するジブリールは男性的で、マホメットがその姿を見たときは、あまりの恐ろしさに気を失ったともいわれる。
ヒナノの──姉の見たガブリエルは、果たしてどんな姿であったろう──。
「それで、ガブリエル女史はいずこにおられますか?」
「代々木上原だ」
その言葉で真っ先に反応できるのは、チューヤだけだった。
「代々木上原は、バフォメットだね」
ぴくり、と多くの人間の肩が揺れた。
意味がわからないサアヤが、つんつんとチューヤを肘で突いたが、説明している暇はない。
「よもや、ガブリエル女史が」
「どういうことですか、あなたたち……」
ようやくヒナノが口を開く契機を得た。
ミカエルはゆっくりと、ようやくヒナノの存在に気づいた、とでも言わんばかり、ガブリエルによって庇護される少女を見下ろした。
「まだ確信はない。だが、ガブリエルは失墜する可能性がある」
「バカな、この時期に神学機構内部で」
ヒナノは足を踏み出し、強い口調で言った。
「内輪もめなどをしている場合ではない、だからこそだ」
ふわり、とミカエルの身体が舞い上がる。
ヒナノは慌てたように、
「どこへ……っ」
「われわれは神の戦士として戦う。それ以外の選択肢があるか?」
最強の神の手駒は、機械的に言った。
「いいえ、ございません」
三休が当然のように応じた。
「ミツヤス……っ」
ミカエルの手に腰かけた高い位置から、ぶらぶらと足を揺らしながら姉を見下ろし、三休は切り上げるように言った。
「それでは、お先に失礼いたします、姉上」
「な……っ、ミツヤス……っ」
それ以上、会話はできなかった。
ミカエルと三休の姿が、瞬時に、光の穴に吸い込まれて消えたからだ。あたかも無能どもを切り捨てるように。
静寂がやってくる。
なにか重要なことが、そしてふざけたことが起こった。
そんな気がした。




