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「姉上。ワタシ、神様にお会いしましたよ。光に包まれた優しいお姿で、聖なる都エルサレムを目指せと、ご指示がありました」
ヒナノは優しい口調で、目のまえの少年に語り聞かせた。
「そう、よかったわね。またパスポート、なくしていないでしょうね?」
「もちろんです。はじめて訪れるのですよ、聖地に。あの麗しいお姿を、この目で見届けることができるのですね。十字架の星に祈った甲斐がありました。羊たちのように前足を折って、神様にお祈りを捧げます」
「さあ、今夜はもう寝なさい。オルレアンの少年」
ヒナノは優しく少年の頬を撫で、その目を閉じさせる。
ゆっくりと目を開ける。
──愛すべき弟だった。
昔から、時折見せる不気味な老成した視線を除けば。
「……まだ」
死んでいない。
ヒナノは意識して声を発することにより、現状把握に努める。
──それにしても、純粋培養とは、彼のような者を指すのだろう。
一度も信仰に疑いを持つことなく、まっすぐに、どまんなかを歩いて、エルサレムを見上げていた。
「あ、起きた。よかった、ヒナノン。大丈夫?」
サアヤの回復魔法の残滓が、まだヒナノのうえにまとわりついている。
心地の良い癒しの風が、ヒナノのなかに弟の記憶を呼び覚ましたのだろうか。
「その弟は、お嬢以上の狂信者なのかい?」
皮肉っぽいケートの声を無視して、ヒナノは信仰のまんなかを、まっすぐに進む弟の後ろ姿を思う。
1212年、神に会ったと言い出して大騒ぎを起こした、オルレアンの羊飼いエティエンヌのように──。
彼らは、(狂)信者という通行手形を手に、大挙してマルセイユを目指した。
途中、少年たちは大歓迎を受けたものの、約束の地を導く海は裂けない。
待ちくたびれて船に乗ったのが悲劇の始まり。途中で難破して溺死したのはまだいいほうで、わるい船主に奴隷としてアフリカに売られた者も多くいたとか。
同じころ、ドイツのケルンでも似たような話があり、大半が行方不明になるという似たような悲劇的結末となっている。
信仰が行き過ぎると、時として悲劇に見舞われる。
やがて1284年、ハーメルンで130人の子供が、一人の笛吹きに連れられて姿を消したという。
ただの人さらいだとか、ネズミを退治したのに町の人が報酬を支払わなかったからだとか、そういう話が残されている──。
「なにを、ばかな」
慌てて首を振り、ヒナノは周囲の状況を確認する。
戦闘は終了し、ひとまず安全は確保されているようだ。
チューヤが悪魔を配置して敵の接近を警戒し、ケートは壊れかけのコンピュータに向かって何事か作業中だ。
「どうやらこの始末だぜ、お嬢」
ケートがキーボードをたたくと、画面に拘置所内の監視映像が映し出される。
「ポァアアア!」
後期密教一般において、慈悲のために他者を殺害して、極楽浄土などへ意識を遷移させるという思想がある。
それを「ポア」と表現する狂人が、かつてこの拘置所に収容されていた。
──拘置所内は、混乱の巷となっていた。
悪魔に関係なく、人間同士が殺し合っている。
むしろこれが、本来の人間の姿であるかのように。
「なんですか、これは……」
「狂信者だよ、あんたらの大好きな」
境界化するということは、こちら側とあちら側の世界線が(限定的に)混ざる、という意味だ。
どうやら異世界線でも、東京拘置所は狂信者の収容施設になっているらしい。
囚人の着ている服が、現世の側のものとはわずかにちがう。
チューヤは軽く肩をすくめ、
「どうやら神様の軍隊も、人間に殺し合いをさせることがお好きみたいだよ」
ケートはあきれ果てた表情で付け足す。
「あたりまえのことを言うなよ、チューヤ。神様の本質は、殺し合いをさせること……いやちがうな、みずから手を下して大虐殺することのほうがお好みの場合もあった」
聖書でもなんでもいいが、神はたいがい「殺す」。
ものすごい数を殺す。
旧約聖書で殺しまくる神は有名だが、けっこうな数の神話で、神は人間を殺しまくっている。
若者たちは考える。
殺す神。これはなにを意味するのか。
「それは〝自然〟なのだろうな」
霊気に満ちた声が、森厳と響く。
その声に顔を上げたヒナノは、一瞬ビクッとして身を固くした。
先刻、戦いを繰り広げたアークエンジェルがいたからだ。
「ああ、話し合ってナカマになってもらったよ。好戦的な天使といっても、べつにみんながみんな、話の通じない天使というわけでもないからね」
チューヤがとりなすように言った。
「いや、むしろたいがいの天使は話が通じるものだ。このパノプティコンにかぎって、いやらしい堕天使の誘惑に流された天使が多いというだけのこと」
アークエンジェルの紳士的な物言いに、ようやくヒナノも落ち着きをとりもどす。
逆に自分が天使に対しておびえていることが、おかしな話だと考える。
「で、自然?」
「殺す神の話だろう?」
「……なるほど、そうかもしれないな」
頭のいいケートから、天使の意図は理解されていく。
──神とは、自然のことではないか?
自然現象によって人類が殺しまくられてきたことは、周知の事実だ。現在進行形で、自然はけっこう平気で人を殺す。
昔の人は、この偉大な自然の力を「神」に仮託したのであって、宗教者は、この自然に対する恐れを利用して収益を得る流通機構を開拓し、代わりに道徳とか救済という「プラセボ効果」を信者にもたらした。
「そういうことかい、天使さんよ」
「そこまでハッキリとは言わぬが、な。それに、人類はすでに……」
天使の視線は、監視映像に向かっている。
自然に殺される、というような段階は、人類はすでにほとんど乗り越えてしまっている。
「意外に善戦してるようじゃないか、現世側の囚人も」
見ると、異世界線からやってきた囚人服に対して、あきらかに現世側から境界に巻き込まれたのであろう囚人が、その栄養状態のいい体格を生かして優位に戦いを進めているようにも見えた。
「境界化は、必ずしもあちら側がこちら側を侵食するためにばかりあるとはかぎらん、というわけか」
ケートの言葉にうなずき、天使は戦いの背景を穿つ。
「シェムハザめは、どうやらあちら側の反乱分子を排除する手段としても、この境界化を用いようとしているようだな」
であれば、ヒナノの言ったとおり、こうして繰り広げられている殺し合いそのものが、悪魔の姦計ということになる。
「悪魔のために人間同士が消耗戦を強いられている、ということですか?」
「そういう部分もある、ってだけで、主目的ではないだろ。そもそも、むこうの住人をぶっ殺したい、と思っている人間は、こっち側にはそんなにいない。基本的には、ボクたちは一方的に奪われる」
天使はうなずき、
「そうだろうな。そちら側の資源は豊かだ。熱力学第二法則というやつか」
熱量は常に平衡状態を目指すもので、高い部分から低い部分に流れることはあっても、逆は絶対にない。
高温の部分が低温の部分から熱を奪う、などということは本質的にあり得ないのだ。
よって、異世界が欠乏に苦しんでいるとしたら、豊かな現世側は必ず、奪い取られる側にならざるを得ない。
「……どうやら、人間が善戦している理由は、これのようだ」
天使が指さした画面を、ケートが操作して拡大する。
拾われた音声が、一同の耳に届く。
それは拘置所における「布教」の模様であった。
「ありゃあ、教祖さまの利益をぶんどろうとする悪魔じゃ。ぶっ殺さにゃならんぞ」
「戦って死ねば、天国に引き上げられる。まちがいない」
「正しいことをしたあとには、お裁きのあとで神様の国がくるんだと」
「正しいことってなんだ、なにをすりゃいい」
「教祖さまの演説じゃ、狭い土地や金の争いなどやめて、敵の土地と金をぶんどるのがええんじゃと。本来は自分らのもんの土地と金、信濃町にあるじゃろ、ああいうところから取り返していかんならんと」
「信濃町は本丸じゃろうが。もうちと手軽なところから攻めたほうがよかないか」
「たとえばこの拘置所みたいなところにも、敵がおるからのう」
それは、エルサレムをとりもどせ、パレスチナを奪われた、という話とどこか符合する。
信仰を利用して、兵隊が生産されるのだ。
「悪魔の、姦計です」
ヒナノは頭痛をこらえながら、囚人たちの会話の意味をどう理解していいのか、考え込んだ。
──神学機構の本丸は護国寺だが、その南にある信濃町には、対立する別の宗教団体がある。
どちらの組織も、狂信者を量産して兵力にしようとしていることは同じだ。
本当に神学機構の兵士なのか、その忠誠心を捻じ曲げて堕天使が利用しようとしているだけなのか、よくよく考えて行動を決めなければならない。
囚人にとってはむずかしい選択が迫られているというわけだった。
「だが、これが真相なんだな。おまえらのやってることは、結局この程度……」
ケートの決めつけるような物言いに、ヒナノが食いついた。
「神を愚弄するのはおやめなさい。西原くん、それではあなたの言う〝神々〟は、どれだけ高邁な思想によって動いているというのですか?」
ケートは唇の端をゆがめて笑い、モニターを切り替える。
「見せてやるよ、そのうち、いやというほどな」
喧嘩でもはじめそうなふたりの気配を察して、チューヤがケートの手元を指さしながら、
「そんなことより、地下への出口は見つかったのか?」
ケートは肩をすくめ、
「地下は出口なのか?」
「わからんが、とにかく脱獄するルートがあるはずだ」
「いよいよプリズンブレイクになってきたね!」
大脱走のテーマソングを口ずさみながら言うサアヤ。
「ここは監獄じゃなくて拘置所だけどな」
冷静に突っ込むケート。
英語的な意味では、明確に異なる。
「さすがアメリカ生まれヒップホップ育ちだね」
「悪そうなやつはだいたいアメ公、ってか」
「逮捕理由がラッパーなら納得するYo!」
両手をまえに突き出し、人差し指を下に向けるチューヤ。
ニューヨークのアッパーイーストサイドで生まれたケートの目には、違和感だらけだ。
「日本人のラップは、なぜかカッコワルイと思うのはボクだけか?」
「本場を見すぎなんだよ。百人一首の大会を見てからフリースタイルラップを見ると、そこはかとなく、やんごとない気持ちになるから」
「カルチャーショックだね!」
3人の友人の会話に、いつも通り、ヒナノだけが乗っからない。
いつもはいつもの理由があるが、今回は今回にかぎった特殊な事情が、彼女を桎梏している。
刹那、飛び込んでくる敵の群れ。
悩んでいる暇はない。戦闘開始だ。
パァン!
脳天を撃ち抜かれた悪魔が、絶叫とともに横たわる
サアヤがふりかえった視線の先、ヒナノが銃口を持ち上げて硝煙を吹いている。
「あ、ありがと、ヒナノン」
間断なくつづく戦闘のなか、助け、助けられるのが仲間というものだ。
「どういたしまして」
ごきげんよう、と同じ口調で、生き物の生死を決定できることを示すヒナノ。
「鉄砲、上手だね!」
アホな子のような誉め言葉で、射撃の腕を称えるサアヤ。
「向こうには狩猟という文化がありますから。わたくしはたしなむ程度ですが、みなさんにもぜひ、本場のジビエ料理を味わっていただきたいわ」
自然保護系の人々からはたたかれる狩猟文化だが、ヒナノは古き良きヨーロッパの文化として、これを継承している。
「そっかぁ。食べるために撃つなら、それはしょうがないね」
サアヤの言葉の意味を、ヒナノは深く考えようともしない。
「……あなたもお持ちになったら?」
横たわる警備員の死体を示唆して言った。
このミッションの序盤で、すでにチューヤたちも防弾チョッキをガメるなどして武装を更新している。
サアヤは困ったように首をかしげ、首を振る。
「私はいいよ。そういうのは」
「そう?」
ヒナノは重ねて誘うことをしない。
しょせん下々の者どものことに、たいした興味もないのだ。
そんな女子たちの会話からすこし離れ、ケートが声をひそめる。
「気づいてるか、チューヤ。サアヤの行動パターン」
なにが言いたいのか考えながら、チューヤはゆっくり答える。
「ま、付き合い長いから。……貴重な回復要員。補助魔法もかけてくれるし、そこそこ優秀だと思うよ」
「そんなことはわかってる。問題は攻撃だ」
ケートの言いたいことの方向性が見えてきた。
「ああ……たしかに攻撃参加は少ないけど、たまにぶん殴ってくれたり、ピクシー仕込みの電撃だっちゃで参加してくれるよ」
「参加するのはいい、だがその特徴に問題がある。──あいつは、敵にトドメを刺す攻撃を絶対にしない」
チューヤはサアヤをふりかえる。
そう、彼女は殺さない。ひたすら仲間を助けることにだけ、注力する。
かつてハクソーリッジで、銃を持たないと誓った衛生兵のように。
パン、パン、パンッ!
「おーっほっほっほ」
その隣では象徴的に、ヒナノが手慣れた所作で銃器を扱い、残敵を掃討している。
瀕死のザコどもに、二度と不埒なマネができないよう引導をわたす。それが貴顕の義務であると言わんばかりだ。
「平気でトドメを刺しまくる女というのも、どうかと思うが……」
「いや、あれはあれで」
「たしかに、この状況ではお嬢が正しい。サアヤのほうが問題は大きいだろう。──目のまえで瀕死のやつが、最後に極悪な攻撃をしかけようとしていたら、どうする?」
チューヤの脳裏に、瀕死の敵に3点バーストをキメる、アメリカのドラマの主人公が思い浮かぶ。
アメリカ出身のケートにとっては、そちらが正解なのかもしれない。
「わかってるけど、サアヤはそういう子だから」
「甘すぎるぞ、チューヤ。このことは、いずれ……」
自分たちの首を絞めることになるかもしれない。そんな予感がした──。




