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72 : Old Days : Tennōzu-Isle


 湾岸の高級ホテル。

 最上階スイートで、6歳のケートはぽつねんと座っていた。

 ちょうど家庭教師の男が帰っていったところだ。

 ──父親とともに、はじめて母国である日本に帰国した最初の日、空港から直行したのは広尾の自宅ではなく、取引相手のいるここ天王洲アイルの高級ホテルだった。


「なに? 日本も9月入学になったって?」


 ぶつぶつ言いながら、息子・ケートの処置をどうするか、しばらく考えてはいたようだ。

 フォーブスに名前と顔写真の載る、ヘッジファンドの総帥を務める彼は、日本人離れした顔と体躯を持っていたが、なによりその考え方の大雑把さが、そうとうにアメリカナイズされていた。

 英語と日本語をチャンポンにした電話を何本かかけながら、ケートにはこう言い置いた。


「ステイ、ヒア」


 引きつづく電話の言葉で、ここで待っていれば迎えがくるという意味だと、幼いケートも理解はした。

 だが、そのまま立ち去っていく父親の大きな背中に、ひどく不安な気持ちを煽られたことを思い出す。

 父親の考えは、こうだ。


 日本における小学校の入学時期まで、広尾の実家に任せることに決めた。

 必要な連絡を済ませた(と彼は信じた)。

 さて、これ以上やるべきことはあるか? いや、もう自分が日本にいる必要は、ない。

 だとすれば? 仕事だ。


 彼は歩いても行ける距離の羽田空港へ高級外車を飛ばし、再び世界のマーケットへ向けて飛び立った。

 ──ここで、いくつかの誤解と錯誤と忘却が重なって、ケートは台風の目に忘れ去られることになる。


 ケートの生活の各部分については、常に一流のスタッフが配置されていた。

 栄養は完全に計算された栄養士の管理の下、最高の品質と最適の量が提供された。

 勉強は各ジャンルの泰斗が割り当てられ、計算されたストレス環境のなか、学力は向上した。


 生活の「各部分」は、たしかに一流だった。

 だが、トータルして彼がどうするのか、どうすべきかという大きな流れについては、まったく宙に浮いたまま放置されたのだ。

 アメリカ英語ネイティブらしいざっかけなさで、当面、ケートが会話できる相手は、画面の向こう、アメリカに住む兄弟分だけだった。


「よう、兄弟。調子どう?」


「ぼちぼちだよ、クリス。そっちはどう?」


 タブレットの向こう、海底ケーブルを経たクリスの顔は、ニューヨークの太陽を浴びている。


「あっはは、先週まできみもいたじゃん。それを訊くなら、ぼくだよ。故郷の日本はどうだい、ケート」


「……まだホテルにしかいないし、わかんないよ。マーヤ・ママ、元気?」


 クリスはタブレットの画面をキッチンのほうにまわしながら、


「うん、こっちで学位もとれたし、来年から日本へ行くって。ぼくもいっしょに行っていいかな?」


「待ってるよ、早くきてよクリス」


 ケートとクリスの付き合いは、ことほどさように長い。

 西原家の圧倒的な資金力が、インドからの移民母子をケートの傅育係に選び、日本でも引きつづき生活全般、面倒を見てほしいとの依頼に至った。


 完璧を期するマーヤは言った。

 ──たしかに私は坊ちゃんの教育のために日本語を学びましたが、日本に慣れるには日本のスタッフが必要です。

 けれど、日本には私たちを必要としてくれる場所もあるようです。

 なにより、故郷にすこしでも近い。

 旦那様がよろしければ、日本に行きたいと思います。


 ──そうか、それでは頼むよ。


 このごく短いやり取りで、ケートの父親は問題の大半が片づいたような錯覚を覚えてしまった。

 そのくらい、このインドからやってきた養育係は優秀だった。


 先にケートが日本にもどったのは、たまたま父親が帰国する予定があったからにすぎない。

 そして、自宅に帰ることもなくそのままニューヨークにとんぼ返りしたのも、彼らしいといえば彼らしい。

 のちに言い訳をさせるなら、連絡の行きちがい、ということだ。


 ケートを実家に連れ帰ることは、現地の秘書に頼んでおいたはずだ。

 が、秘書に言わせれば、滞在の()()()()全般を依頼されました、というにすぎない。天王洲のホテルから請求があるかぎり、その会計処理は遺漏なく担う。

 また、ケートの帰宅を待っていた祖父母に言わせれば、入学時期がくるまで日本にいてもしかたないので、連れ帰ったのだろうと思っていた、ということだ。


 ケートの父親の気持ちも、わからないではない。

 コロナのときにも変わらなかった鉄板のような日本の教育行政改革が、川の手線をはじめとするいくつかの巨大事業計画とともに、一気に国会を通過した。

 およそ10年前のこの時期、日本に暮らす日本人でも、その変化に追いついていけない者が少なくなかったのだ。


 現実的に生活の支障がなかったことも、問題の発覚を遅らせた。

 当面、ホテルで問題のない生活が送れる、すべての準備が整っていた。

 ただ、ケートを実家に送り届けるという、決定的に基本的なことを、だれもが閑却していたにすぎない。


 のちにケートは「一年もホテルに放置された」と誇張するが、夏休み中にマーヤ・ママが来日して事態が発覚するまで、つまり3月から8月にかけての約半年、天王洲のホテルに放置されつづけたことは事実だ。

 彼が「ボクの日本の故郷は、広尾じゃなく天王洲だ」と言うのも、このあたりに理由がある。

 じっさいケートは中学まで広尾にとどまったが、高校になると千歳烏山のタワーマンションに引っ越し、一人暮らしをしている。

 彼にとって、広尾はあまり印象のない町だった。




 日本の首都はヒートアイランドだったが、京浜運河沿いの公園で海風を浴びられる時間が、ケートは好きだった。

 ホテル滞在中、家庭教師の授業を受ける数時間を除いて、なんの拘束もない。

 ある意味、この自由な時間が、彼の独立不羈(ふき)の魂を育んだ、といえるかもしれない。


 そんなある日、ケートは天王洲公園で彼女を見かけた。

 同年代くらいの少女、彼女は()()と言った。

 日本で初めてできた友達だった。


 当時も天王洲はウォーターフロントとして栄えていて、多くのビジネスマンが行きかい、住む場所というよりは交流する場所だった。

 そんななか、京浜運河に臨む公園がケートの遊び場所になった。


 ブランコ、滑り台、うんてい、ジャングルジム。

 天王洲に、そんなものを期待してはいけない。

 地図を見て「公園」と書いてあるからといって、そのような遊具や自然豊かな並木道など、そもそもウォーターフロントに存在すべきものではない。


 あるのは野球場、サッカー場を基調とした多目的のプレイエリア。

 各種球技や陸上競技を可能にするスペースをつくることが、都市計画として必要だから、そこに空間を用意してやった。

 そういう意味でしかない「公園」たち。


 そのような人間の集合的るつぼ、天王洲において、ケートはなにを見たのか。

 天王洲公園野球場やサッカー場、品川南ふ頭公園野球場など、周囲にはその手の施設しかないなかで、天王洲アイル第九公園には、遊具こそないものの、円形の遊歩道とベンチがあった。

 海が近く、目のまえには京浜運河が流れており、時に川風が心地よい。

 さらに、下にりんかい線、上に高架道路をくぐって西へ進めば、待っているのは東品川海上公園(北側)。


 なんと、ここには滑り台がある!

 ケートはひとり、この小さなクジラの滑り台に座り、深く人生を哲学した──。


「んなわきゃねーよ」


 幼きケートは老成した表情で吐き捨て、タブレットを片手に数学の問題を解いていた。

 数学者であるマーヤ・ママの宿題。

 こいつを解いてやるのが、なによりおもしろい。


 ホテルにこもっていると頭が濁るので、気分転換に外に出ているだけの話だ。

 ──なかなかおもしろいぞ、インド式。

 ケートはしばらく、いくつかの公式に取り組んでいたが、やがて飽きて地面に大の字になった。


 東京の濁った灰色の空。

 なんでこんなところにいるんだ?

 などと、思索を深めるような段階では、もちろんない。6歳だ。

 与えられた環境になじむ。それが幼児にできる唯一にして最大の処方箋。

 だから、近くに佇む少女の存在に気づいて、彼女とコミュニケーションをとることは、幼児的にベターな最適解だった。


「オハヨーゴザイマス」


 素人の女(?)と日本語で会話したのは、このときが最初だったかもしれない。


「こんばんは」


 少女はにっこり笑って、正しい日本語を返してきた。

 自分より小さい少年であるがゆえ、最初から心を開いていた部分もある。


 アメリカ人らしい遠慮のなさで、ケートは会話をつづけた。

 自分は、ふつうの日本人とも普通に会話ができるのだ、ということを証明しようとでもするかのように。


「ひとり?」


「……お父さんと」


 どこか悲しげに答える少女の内心を、もちろんケートにはとうてい察しえない。


「いいね、ボクんちはいなくなっちゃったよ、お父さん」


「……死んじゃった?」


「いや、生きてるけど。死んだようなもんかな」


 あはは、と笑うケートに、少女はどう返していいかわからずに困ったような表情を浮かべた。

 世間一般がどういうありようで、自分がどう答えるべきか、などという一般回答とは縁遠いところにいる少年、ケート。

 である以上、彼には我が道を行く以外にない。


「遊ぼうか」


「……うん」


 それは幼児の正解。

 彼らは滑り台に登り、滑り降り、走りまわって、遊んだ。

 東京の片隅で、そのとき、その場所には、たしかに幼い友情があったし、彼らはそれを心から楽しみ、すばらしい記憶として心の奥底に刻み込んだ。

 この出会いは奇跡で、ふたりは近年まれにみる幸福な時間を過ごしたのだ。


「あい、仕事だぞ!」


 悪魔が、やってくるまでは。




 ケートはその後、ほぼ半年間、天王洲の高級ホテルに忘れ去られた状態で暮らすわけだが、彼にその期間を、孤独に数学を解くだけで終わらせなかったのは、ひとえに()()のおかげであった。


 彼女は、このあたりの高級ホテルで仕事があるという父親とともに、毎週のようにやってきた。

 そのたびに、ごく短い時間、彼女と遊ぶことができた。

 それは幼児期の情操教育にとって、決定的に重要で、他に代えがたい経験だった。

 そうしてケートが人として、他者の気持ちを思いやる気持ちを育むミッションは、彼女がなにかを隠している、と気づくところからはじまった。


「ねえ、あい」


「なーに? けいと」


「キミは、天王洲に、お父さんの仕事できてるんだよね?」


「……そうだよ」


 いつもは、これ以上つづけられない会話を、どうにかしてつづけようとしたことが、ケートの成長の証。


「お父さん、なにをしているの?」


「仕事、だよ。取引の、話」


「うん、キミをここに待たせて、話をしてるよね。それで、終わったらキミを呼んで、そのあと、ホテルのラウンジで飲んでるよね」


 お世辞にも、いい飲み方ではない。バーテンダーも迷惑そうにしているが、金払いのいい客ということで、黙認されているようだ。

 彼が、あいの父親であるらしいことを、ケートは理解した。

 そのうえで、飲んでいるときの彼の周囲にあいの姿がない事実を、どう理解すればいいのか?


「キミ、そのとき、どこにいるの?」


 ケートの問いは、残酷だったかもしれない。

 だがもちろん、彼はそんなことを知らないし、知りようもない。

 彼女が話してくれなければ……。


「あのね、わたしね、わたし……」


 口ごもるあい。

 彼女にあと少しの時間があれば、そのときケートは、より多くの情報を得ることができたのかもしれない。


 酒焼けした汚らしい男の声で、あいが呼ばれ、姿を消してから数分間、ケートはその場から動かなかった。動けなかった。

 なにか決定的な事柄が、この先に起こっている。

 子どもに、どうこうできるような問題ではない、ような気もする。

 だが、なにかができるような気もする。


 ケートは煩悶した。

 それは6歳の少年には、重過ぎる選択肢、見逃された人生の分岐点だった。




 がしゃん。

 目のまえで開いた扉に、ケートは意識をもどす。


 ──面会室。

 自分がいま、どの時点、どの場所にいるのかを思い出す。

 もう十年もまえの話だ。

 言い換えれば、あれから十年近くも、苦しみ抜いたということだ──。


「ねえ、ケーたん、大丈夫?」


 傍らから女の声がする。

 ケートは意識して、いつもの冷静なオリエンテーションを発揮する。


 自分はいま、どうすべきか。サアヤの友人として、ふさわしい態度はなにか。

 サアヤがいてくれてよかった、とケートは思った。

 自分を取りもどすために、どうしても彼女の力が必要だ。


「ここにはな、悪魔がぶちこまれているんだよ」


「……悪魔?」


「まあ、聞きなれた種族だろうとは思うけど、そういう意味じゃなく、本当に、生きる価値のないゲス野郎が、犯罪を犯して、ぶちこまれてるんだ。まだ、罪を償うこともなく、のうのうと生きてやがるんだよ」


「……その人に、会いにきたの? ケーたん」


 本能的に声を潜めるサアヤ。


「ああ……」


 ケートの視線は、目のまえのプラスチック壁に注がれる。



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