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「お世話になります。自分などのために来ていただいて、心から感謝します」


 被疑者はゆっくりと頭を下げ、そのような発言から会話を開いた。

 やがて彼は頭を上げると、中央の椅子、ヒナノの正面に腰を下ろした。

 彼の視線は、最初からずっとヒナノに注がれている。弁護士の榎戸にも、もちろんチューヤにも一顧だにしない。


 身長は170センチ程度。

 細いが筋肉質の骨格をしており、身長よりも大きく見える。

 ホームベースのような形の顔。髭が伸びていて、おそらく実年齢より年を取った印象なのかもしれない。


「……あなたが、ミツヤスの居所を知っているのですね」


 ヒナノは静かに言った。

 チューヤは、彼がいかなる犯罪者なのか知らないが、そうとうな悪人だろうことは、なんとなく察せられる。

 その屈強の男を相手に、すこしも気圧されることなく、震えの一片も見せず問いかけるヒナノを、さすがだと思った。

 男はしばらく、目のまえの高校生を値踏みするように見つめてから、言った。


「自分は死刑になる人間だ。これまでの罪を告白して死にたい」


 横にいた職員は、ガラス板の下に斜めに備え付けられた木製の小さな机にノートを置き、会話の内容をメモしている。

 許される面会時間は、基本ラインはあるものの、実際には職員の裁量にゆだねられている。10分足らずで打ち切られることもあれば、20分以上話せる場合もある。

 基本的に15分前後と考えてよい。


「あなたの外にいる仲間が、わたくしの弟を連れ去った。そういうことですか?」


 ヒナノの言葉に、メモを取る職員の手が止まる。

 男の表情は変わらない。


「……浅井ですか」


 そこで、黙って聞いていた榎戸が、遠慮がちにゆっくりと口を開いた。


志村(しむら)波佐雄(はざお)。川東連合の鉄砲玉だったが、組の金に手をつけて追われた。以後、組に属することなく、浅井(あざい)成正(なるまさ)とふたり、重大犯罪をくりかえしている」


 その浅井という男が、シャバでヒナノの弟に営利誘拐の手を伸ばした、ということだろうか。

 そして、監獄にいる仲間の志村のほうが、なぜかその行く先を知っている……?

 チューヤのなかにも、すこしずつ事情が呑み込めてくる。

 本当は、もっと早くちゃんと説明してほしいところだが。


「どういうことでしょうか、弁護士……」


 志村の視線が、ゆっくりと榎戸に向かう。

 その視線に一瞬、奥深いものを感じたチューヤだったが、解き明かしている時間も能力ももちろんない。


「……浅井氏によれば、ガキの居場所は志村に訊け、と」


「あなたは、弟の居場所を知っているのですか」


 榎戸からヒナノに視線をもどす志村。

 刹那、彼はカッと目を見開き、プラスチックの壁を打ち割る勢いで頭を突き出した。

 その顔をまっすぐヒナノに近づけ、べろり、と舌なめずりをする。

 慌てて立ち上がる職員。チューヤは驚いて椅子から転がり落ちたが、ヒナノは泰然としてわずかに顎を引いたのみだ。


「くくく……なるほど、心強い〝使徒〟さまだ」


 志村はそう言うと、ゆっくりと頭を引きもどす。


「……勝手な携挙(けいきょ)は許されません」


 ヒナノの言葉に、志村と榎戸の表情がやや変わる。

 携挙。耳慣れない言葉だが、キリスト教では重要な概念だ。


 ご多聞に漏れず、キリスト教もいわゆる「世界の終末」を説いている。

 新約聖書の予言のなかには、最後の大災害が近づくと敬虔なキリスト教徒が「突然、姿を消す」とあり、これが携挙と呼ばれる現象とされている。


 瞬く間に何百万人もが消える、という。

 厳しい試練の時。七年間大災害が増えた末に、世界が終わる。

 これまでにない苦難が訪れ、人間は絶滅するのだ。


 手短に、榎戸からそう説明されたチューヤは、脳裏に新たなパズルが組み合わされるのを感じる。

 この世から、人間が消える。

 それはまるで、いや、それこそが……境界によって、あちら側の悪魔に、人間たちが喰われていく現象そのものではないか?


「こいつらが……こいつらも、それにかかわってるのか」


 チューヤの言葉に、ヒナノは眉根を寄せ、顧みる。


「主の選択と、悪魔の蛮行を同一視してはなりません」


 だとしたら、自分たちは神と悪魔をどのように峻別すればいいのか?

 この世から人間が消えるという事象そのものは、まったく同じように見えるのに。


「この世から、突如として肉体が消滅するのだ。──なるほど神の御心によって、一足先に連れ去られるものも、いるかもしれない。神の御心によって」


 志村が、不気味なほど深い笑みで、大事な言葉をくりかえした。

 ヒナノは、さらに不快げに目のまえの罪人に視線をもどす。


「わたくしの弟も、そうなったとでも?」


 ある意味、信者にとって美しい言葉である、携挙。

 英語ではラプチャー。プロテスタントにおけるキリスト教の終末論でもあり、それは破滅ではなく「救い」に当たる。

 キリストの再臨において起こるとされ、神のすべての子らが復活の身体を与えられ、よみがえりを経験する──。

 チューヤは遠慮がちに、しかし決然と、ヒナノの斜め後方から問いかける。


「ちょっとお嬢、ごめん、説明してよ。神様が、()()()()()の? じっさい、いま……」


「ええ。現象としては、昨今、各地で引き起こされている行方不明に近い」


 その点は認めざるを得ない。

 静かに首肯するヒナノに、チューヤは問いを重ねる。


「ええと、キリスト教では、そいつをそういうふうに解釈してる、って話かな?」


「その部分もありますが、積極的に再臨を説く牧師様もいらっしゃいます」


「カトリックとかプロテスタントとか、よく区別はわからないけど、お嬢はどっちなの?」


「わたくしは古典派といって、どちらかといえばカトリックに近いですが」


 黙って高校生たちの「低い」会話を聞いていた志村は、ゆっくりと立ち上がった。


「携挙された者は、きたる苦しみから逃れられ、残された者は大災害の中で苦しむ。──あなたの弟とやらが信仰に篤ければ、そういうことなのではないかな?」


 ヒナノは、さらに不快げに表情をゆがめ、

「あなたごときが、神の御業を語るべきではありません」


 あまり論理的に追及されたことはない、天の方による奇跡の業。

 携挙には、さまざまな解釈や、他の宗教との関連があるが、最大の中心は聖書である。

 信者の引き上げとは、死ぬわけではなく、一瞬にして別の存在に変わるのだ、とパウロは言っている。

 ただし身体そのものが引き上げられるという解釈は、近代になってから現れた。


「……同じことが、()()()でも起こっていますね」


 ふと発された榎戸の言葉に反応したのは、なぜか職員のほうだった。

 横で黙ってメモを取っていた制服の肩が、ぴくりと揺れる。

 拘置所のなかで行方不明が続発しているなどとなれば、国家公安の危機に等しい。

 志村はにやにや笑い、


「この犯罪者たちの巣に、救われる価値はありませんかな」


「善人なおもて往生遂ぐ、いわんや悪人をや、って習ったけど」


 チューヤの言葉に、たまりかねたように志村はゲラゲラと笑い出した。


「すばらしい! これだから日本はおもしろい。笑わせてくれたお礼に、見せましょうか。どうしても知りたいなら、あなたの弟が逝ったであろう世界、新しいグリモワールというゲームをね!」


 志村は言うや否や、突然、懐からなにかを取り出した。

 刃物。

 チューヤはハッとして飛び出し、ヒナノを守ろうとするが、すぐに動きを止める。

 あんな小さな刃物で、この強化されたガラスが割れるとは思えない。


 案の定、彼が目指したのは別のこと。

 慌てて対応しようとする係官の首筋に刃物を走らせ、舞い散る鮮血を両手に受ける。


 びしゃっ!

 ガラスが赤く染まる。

 小さな穴から漏れ出した血が、筋になってヒナノの頬を染める。


「なにを……っ」


「ニータグラム……スティムラマトン……エロハレス……」


 狂気に満ちた視線のなかに、どこか冷静な光が閃く。

 唇がもごもごと蠢き、何事かを詠唱する。

 知識グリモワールがなければできないこと。

 彼は赤い血で、魔法円を描きだす。


「エリオナ……エムマヌエル……サバトアドナイ……」


「グリモワール?」


 どこぞの上流階級では、魔術的知識がないと参加できないサロンがあるという。

 グリモワールは、悪魔たちの使役法が書かれている魔法書として知られる。

 古いものではなく、17~18世紀のヨーロッパで流行し、つくられた。


 ヒナノもその図形に見覚えがあり、その詠唱に聞き覚えがあり、その効果もある程度、知っている。

 レメゲトンに掲載される魔法円は、本来、その中心に術者が立つものだが、犯罪者は手錠のかかった両手でガラスに指を走らせ、円と五角形を血で描き上げる。

 それはやがて浮き上がり、回転しながら部屋に広がっていく。


「境界化する……こいつ、悪魔を」


 つぎの瞬間、ガラスが弾け、


「捧げます、この処女の血を!」


 伸びてきた腕を、チューヤの腰から引き抜かれて硬化したベルト、クチナワの剣がぶった切る。

 チューヤのナノマシンは、すでに超速で活性化している。


「残念、境界で強くなるのは、おまえだけじゃないんだよ!」


 悪魔召喚プログラムの実行ファイルが走り出す。

 志村は一瞬、怒りの表情でチューヤを見たが、すぐにつまらなそうに表情を消して、


「浅井のやつ、どういうつもりだ」


 さしたる後腐れもなく、くるりと踵を返した。

 切り離された腕が、魔力によって引き寄せられる。

 そのまま、ぶつぶつ何事かをつぶやきながら、横手のドアから外へ出て行く志村。

 あまりにも自然な流れに、チューヤたちは言葉もなく見送る。


 脱獄が予期される緊急事態。

 一瞬、非常警報の鳴り響く拘置所を想像したが、状況はあきらかに別の次元にある。


「榎戸……っ」


 ヒナノがふりかえったその場所に、しかし榎戸の姿はない。


「まさか……俺たちだけ?」


 選択的に境界へ人間を引き込める、という可能性をチューヤは最近知ったばかりだ。

 グリモワールというゲームが、はじまった。




 背後の扉を開けて外に出るまでもなく、チューヤにはわかっていた。

 この境界空間は、現世の拘置所と、異世界の拘置所の設備が融合し、あちら側から「餌」をむしり喰うためにある場所。

 ならば、さっきの男を倒さないかぎり、現世にはもどれない。


「小菅に配置されている悪魔は、たしか……シェムハザ」


 いつもはゲーム脳と揶揄されるところだが、現状「ゲーム」という概念そのものとの親和性が高い。

 ぴくり、とヒナノの肩が揺れた。


「なるほど、そういうことですか」


 なにがなるほどなのか、さっぱりわからない。

 チューヤは考え込むヒナノの肩を、遠慮がちに、だが強く握る。


「説明してくれないか。もう、いいかげん」


 ヒナノは、しばらくチューヤをまっすぐ見つめ返してから、言った。


「あなたも察していると思いますが、携挙は、神々による境界化です。しかし事象としては同じでも、悪魔が試みにくりかえしているような、邪悪なものとは本質的に異なります」


「客観的にみて、まったく同じであったとしてもね。そうやって人間を集めて、むさぼり喰うんだろ」


 ヒナノに罪はないとわかっているが、チューヤの口調から皮肉の棘は抜けない。


「神はちがいます。これは救済なのです」


「……わかったよ。それで、どうして俺たちがその救済にかかわることになったんだ?」


「神が携挙をするなら、もちろんそれは正しく、救われる人間たちの心は永久に癒されるでしょう。しかし、そうではない携挙が横行しているのです。たとえば、この東京拘置所で。

 神学機構にも、そのような悪辣なたくらみが見られると情報が寄せられていました。唯一なる主のもとに集められるべき人間の魂を、その名を騙る悪魔が吸い上げているとしたら、神の王国にとっても由々しき事態ですから。

 そこで遅まきながら、わたくしも神学機構の手駒として、便利に使われはじめたというわけです」


 どこか自嘲気味に言う。

 神学機構なる組織のパワーバランスに興味のないチューヤは、


「で、弟くんとの関係は?」


「弟──ミツヤスは、わたくしなどよりも熱心な信徒です。世が世なら遣欧使節団にも採用されたでしょう。神学機構にも強いコネクションがあります。

 彼は言い難い決意をもって、携挙を悪用する堕天使たちの邪悪な姦計を挫くべく、調査を進めていたようです。そのなかで浅井という犯罪者にたどり着いたらしいのですが、なにがあったのか三日ほどまえ、突然、行方がわからなくなりました。

 榎戸が調査をして、ようやく浅井との連絡をつけたところ、そこから先ほどの志村という男の名が出たのです」


 チューヤの脳裏にもつぎつぎと、連結するパーツがはめ込まれていく。


「……シェムハザっていう悪魔、知ってる?」


「紀元前、エチオピアに成立した旧約『エノク書』に著される堕天使です。あの悪魔なら、邪悪な携挙に踏み出してもおかしくはない」


 さすがはパリに生まれ、日本にもどってからもミッション系で育まれた素養、聖書の知識はしっかりしている。

 人間を教育するため地上に降りた天使たちの集団「グリゴリ」は、人間の娘たちと交わり子を成したため、神に堕天使の烙印を押された。また、その子どもたちは争いや破滅を好んだため、神の怒りに触れ、大洪水で滅ぼされたという。


 シェムハザは、このグリゴリの統率者のひとりであった。

 すべての魔法使いの育ての親であり、数々の神の知識を人間に授けたともいう。

 グリモワールをもって、試みに殺し合いのゲームをはじめても、まったく不思議ではない悪魔だ。


「よし、わかった。じゃ、さっさとその悪魔を見つけ出して、ぶっ倒そう。そいつがなにか知ってるなら、弟くんのことも聞き出す。それで、できれば救い出そう。いいね?」


「……ええ、まあ」


 ヒナノは、理想的なことを言うチューヤを、静かに見つめる。

 口だけ男と思われたかな、とチューヤはやや自重したが、ヒナノはそれ以上なにも言わなかった。


 直後、背後から飛んできた電撃の弾丸を、いつのまに召喚されていたヌエが弾き返す。

 耐電撃性能を持った悪魔による防御で、行動ターンを握るチューヤ。


「先制攻撃は、反撃の要求に等しいぜ、悪魔さんよ!」


 瞬時に4体のナカマたちが召喚される。

 彼は戦場でイニシアティブを握ることの意味を、よく知りつつある。


 そこには、あるべき姿の悪魔使いがいた。




 ケートは黙って、その男が現れるのを待っていた。

 チューヤたちと同じ時間、別の場所で、ケートたちはひとりの犯罪者と相見えることになっていた。


 目のまえに現れる、まさに悪魔と──。



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