06
「ママー、ワニいたよー、ワニー」
一瞬ドキリとするが、動きを止めたのは数人。
最初、ギョッとした表情を見せた中年のおばさんも、すぐにそんな反応をした自分を恥ずかしそうに自省して、小走りに立ち去っていく。
広場からやってきた人は一顧だにしないし、反対から歩いてきた人々も、すぐに言葉の意味を把握する。
池のほうから騒ぐ声と、単調なメロディーが響いてくる。
「レファソー、レファソー、レファミードー、レファソー、レファソー、レファミーソー」
まんなかに横たわる、なにか。
それを取り囲み、踊りながらぐるぐるまわる、鳥の頭の面をかぶった人々。
「レファラー、レファラー、レファベー(シ♭)、ラーソーファーミー、ラソファミレー」
くりかえされる音階。
脳にドーパミンを大量に分泌させる、永劫反復の宴。
──いつもの石神井公園に、いつもとはすこしちがう人々が集まっている。
チューヤとサアヤは並んで歩きながら、
「危ない宗教かな?」
「演劇部じゃね?」
ゲーミックな打ち込み音楽と、キッチュな着ぐるみダンス。
下北沢あたりに出没しそうな独特の雰囲気。
踊る人々の隙間から見える緑色のワニ。もちろん本物であるはずがない。
「飲めや喰らえものども、神のエサ食い尽くせ」
メロディに歌詞が載ってくる。
回転する人々の踊りは激しさを増し、歌声はあくまでも朗々。
「祈れ神のしもべ、ナイルの御賜物」
中心にささげられた供物。
緑色の皮膚がぬらりと光る、それはたしかに、ワニ。
「ワニを囲んで踊るトリ?」
「すごくシュールだね。食物連鎖の下克上かな?」
数人が興味をもって踊り歌う人々を眺めるが、多くの散歩者は一瞥して通り過ぎていく。
これが都会というもの。
ときおりエキセントリックな行動をとる人がいる。
全国からいろんな人々が集まってくる東京で、この程度の踊りは日常。
ナイルの賜物が動き出したとしても、それはただの演出。
横たわる着ぐるみに潜んで、世間を楽しませるための仕込み。
大都会の池にワニが住んでいるはずもなく、そういう噂で騒いだ挙句、鼠の一匹も出てこないのが真相。
都会は広範な正常化バイアスに浸り、目のまえで起き上がったワニのなかには、きっと演劇部のエースがいて、最高のダンスを見せてくれるにちがいない──。
「ママ、この下だよ、川の手線はダイシンドを走る環状地下鉄なんだよ!」
さっきの子どもが、元気な声を張り上げている。
地面に耳をつけて、40メートルも地下を走る地下鉄の音に耳を澄ませる。
チューヤはそれを生ぬるい目で見つめ、サアヤは複雑なまなざしで見つめる。
「まあヒロくん、よく知ってるわね」
「このまえ、鉄道の日に教わったのー」
前途有望な鉄っちゃんだ。
チューヤはうんうんとうなずいて、日本の未来に光明を見出す。
少年がふりまわしている、ことしの「鉄道の日」グッズのウチワ。同じものをチューヤももっている。もちろん持ち歩いてふりまわしたりはしないが。
「標準軌はね、こう言わなきゃいけないんだよ。ダァ、ダァシェリイェス、イェス!」
少年が指さし確認をしながら、呪文のような言葉を口にする。
鉄道に特に興味のないサアヤは、無感情な目でそれを眺める。
「昔のチューヤにそっくりだね。日本の未来は錆色だ」
けっして京急はそんなこと言わないが、この「ドア閉まります」を砕いた言い方は、長らく鉄板ネタになってきた。
「なにを言っている。さわやかな風のように、明るくまぶしく輝いてるわ。いやいや、あの少年も日比谷にいたんだな。そういえば見たことがあると思った」
「うそをつくな、うそを」
「ご存知のとおり、鉄道の日は、日本初の鉄道を記念して制定された、日本国民全員あまねくだれでも知っている……」
「なんて思うなよ、鉄ヲタ。存じねえわ」
「いや、そのくらい知っててくれよ。1872年10月14日(旧暦では明治5年9月12日)、新橋~横浜間が開通したことを記念して、当時の鉄道省がだな」
サアヤはしかたなさそうに、鉄ヲタの話に付き合ってやっている。
「ああ、鉄道の日とかで、騒いでたねそういえば。あんまり最近すぎて思い出しちゃったよ、いやだなあ」
「いやじゃない! すべての鉄道会社が記念日にしているんだぞ。まあ、もともと旧暦9月9日に開業予定だったのに、その日が悪天候で12日に順延されたって話もあるが。徳川の昔から、もっとも大きい奇数が重なるのは縁起が良いと考えられていたんだ。もちろん知ってるよな、お鉄の国の人だもの」
大半の聞き手がうんざりするような話を、楽しげに得々としゃべりつづける人種。
それが鉄ヲタだ。
「なんだよ、お鉄の国って。先週、日比谷公園でバカ騒ぎしてた、ああいう危ない人たちのこと? まさに悪魔の行列だったよね」
「失敬だな、ちみは!」
この言葉が言い得て妙であることを、知らずに済めば幸いだ。
地下の鉄道や、ワニの踊りから、やや離れた場所。
もう音も、ほとんど聞こえてこない。
池に沿ったベンチに腰を下ろし、チューヤは一息ついて、
「で、話ってなによ?」
スマホを取り出しながら言った。
サアヤは、うん、とひとつうなずいてから、ゆっくりと語りだす。
石神井公園に出現するモンスターのうわさ、について。
しばらく黙って聞いていたチューヤは、
「ただのワニだろ?」
「言っとくけど、さっきの」
「いやたしかに、あれはひどい悪ふざけだとは思うけど」
ワニのうわさに引き寄せられて、趣味のわるい劇団が動き出したようにしか見えない。
「本来、大騒動でしょ!」
「うわさ自体は聞いたよ。じっさい、騒動になってるやん。おかげでああいう、タイムリーな演劇部? まで集まってるわけだろうし、じっさいいるなら近いうち捕獲されるだろ」
冷静な見解であり、大多数の共通認識でもある。
「それがおかしいのよね。本来なら、危険な生物が池にいる可能性があるってだけで、行政的に立ち入り禁止だし、警視庁じるしのキープアウトで大騒ぎだと思うんだけど」
チューヤは肩をすくめ、父親の職業を思い出すことまでは成功したが、その顔を思い出すことには失敗した。
「オヤジの仕事増やすなよ」
「働きすぎのお父さん、お元気?」
「知らん。ここ一か月、見かけたこともない」
父子家庭においてこのありさまだから、チューヤはほとんど一人暮らしに近い。
──そのとき、目のまえを走り抜けようとした子どもが転んで、泣き声を上げた。
サアヤは小走りで駆け寄り、ポケットから取り出した飴玉をわたして、頭を撫でてやる。
子どもはほどなく泣き止むと、飴玉を口に放り込み、ママー、と声を発して反対方向に駆けていく。
「魔法のポケットか」
「うん、えらいえらい。ちゃんと学習してるね」
引き返してきたサアヤは、チューヤの頭をさっきの子どもと同じように撫でてやる。
以前、キャンディを落として泣いている子どもに、ポケットの飴玉を全部あげてるサアヤを評して「関西のオバチャンか」と、ボケたつもりもなく言った瞬間、きれいな張り手に突っ込まれたことがあった。あの痛みは本物だった。
16歳の女子高生に対し、オバチャンとは何事か。
あらためて周囲を見まわす。
なんの変哲もない世界。
これが、日常というもの。本来、あるべき姿。
「静かなもんだな。なにも知らない散歩のおばさん、子どもたち、スポーツ少年、草野球のおっさんたち。なかなか平和な光景だ」
「おかしいでしょ? 絶対、おかしいのよこれ」
謎の力強さで断定するサアヤ。
チューヤは大きく首をひねり、
「そうかなあ。いつもの石神井公園だし、いつもの三宝寺池だと思うけどなあ」
「だからおかしいの! いつもの石神井公園じゃないのに、なんでいつもの石神井公園なのよ?」
「お、落ち着けよ。興奮すると落ちるぞ」
ケヤキ、シダレヤナギ、ハンノキなどが、枝を垂らす水辺。
日の落ちた夕刻、ボートを漕いでいる者はもういない。
93年、石神井公園にワニがいた、という騒動が起こった。
マスコミが連日報道し、大騒ぎになったが、結局発見されることはなかった。
「大山鳴動して鼠一匹、ってな」
「だけど鳴動はしてるのよ。どうしてだと思う? 鼠が一匹で、山は鳴動しないでしょ」
「どうしたってんだよ」
「おかしいのよ。でしょ、ケルベロス」
つぎの瞬間、ポメラニアンが身を低くして、唸り声を上げた。
空気の質が変わる。
──なにかが、おかしい。
「……なんだ、これ」
空気がひりつく。空の色が変わる。
静電気のようなチリチリという音。
すべての要素が、いつもの公園にふさわしくない。
「キャンキャン、ギャウン!」
ケルベロスが激しい鳴き声を上げながら、藪のなかへ向けて駆け出す。
追いかける間もない。
状況の変転が、あまりにも早すぎる。
ばさっ、ばさっ、ばさっ。
巨大な影が、上空から舞い降りてくる。
あんな巨大なカラスは、見たことがない。そしてそれは、あきらかにカラスではない。
地獄が、はじまった。