66 : Day -56 : Kitami
サアヤとは、成城学園前で別れた。
「私はチューヤとちがって、そんなに暇じゃないのよね」
そう言って、腕時計を見ながら、彼女は川の手線に乗り換えて帰っていった。
「帰るなら、経堂から下北沢までもどって、井の頭線に乗り換えるって手もあるぞ」
「うっさい、そんなに電車乗りたければ、ひとりで乗りまわってろ!」
そんなサアヤの声が耳に残っているうちに、電車は喜多見に到着する。
ぎりぎり世田谷の境界線。隣は全国で二番目、東京では一番小さな市、狛江だ。
『デビル豪』の設定では、23区内の駅すべてに悪魔が配置されている。
言い換えれば、その外の駅には悪魔はいない。
「さて、ここにホルスがいるわけだが。説明することあるか、ハトホル」
脳内に話しかけるチューヤ。
「わからない。悪魔の言っていた再生装置というのは、たぶんイシスさまのことだと思うが」
エジプト神話において、バラバラにされたオシリスの遺体を集め、生き返らせたのは妻のイシスだった。
「このゲームも、なかなかひねった配置をしてるよな。イシスは北の果て、オシリスは南の果てに配置されてる」
『デビル豪』の悪魔配置が、正確に現実を反映しているというわけではないが、おおむね現状把握の指針として役立っていることはまちがいない。
イシスは日暮里舎人ライナーのターミナル見沼代親水公園駅。足立区の北の果てだ。
一方、オシリスは京急本線の六郷土手駅。大田区の南の果てだ。
「エジプトの神々は、ことごとに辺遠に押し出されているな」
内心忸怩たる表情でつぶやくハトホル。
セベクは練馬区の西の果てに追い込まれていたし、ホルスも世田谷区の南西の果てに押し出されている。
バステトやアヌビスといった神々も、ことごとく23区の周縁部だ。
「このことには、なにか大事な意味がありそうな気はするけどな」
「解き明かせ、悪魔使い」
ハトホルの言葉が脳裏をよぎった瞬間、上空をすごい速度で駆け抜ける物体を、チューヤは見て取った。
一瞬、ドローンかと思ったが、どうやら生き物だ。
目線を下すと、闇のなかに目指していた店舗が見える。
──ペットショップ喜多見。
代理教師・矢川についていた前科によれば、ここのペットショップにまつわる動物虐待の疑いがある。
高速飛翔体は、たしかにその店舗のほうに降りて行った。
店は、闇に沈んでいた。
「つぶれたのか」
問題は昔からつづいていたが、SNSなどで騒がれるようになったのは最近だったという。
たくさんの動物を集め、売れるものから売り、売れ残った動物は処分した。
いや、適切に処分されたならまだいい。そうでないケースがかなりあった。
動物虐待の定義をあきらかにし、それに応じた罰則規定を。
これ以上、不幸な動物を増やさないために。たったひとつの「いのち」のために。
そのようなフレーズが並んだ紙が、閉店した店のあちこちに貼り付けられている。
動物愛護法改正に向けての署名を呼びかける文言も、多く踊っていた。
ここは地獄の繁殖場。どろどろの汚物にまみれ、顔の位置も判別できない。
その奥に、よく知っている瞳がある──。
そんな話を、サアヤからちょっと聞いていた。
このペットショップがやっていた数々の悪事は、しかし全国でくりかえし行なわれている悪の、発露のひとつでしかない。
「なにか用?」
そのとき背後からの声に、チューヤはビクッとふるえあがった。
俺様の背後をとるとは、こいつデキる、と一瞬考えてから、俺ごときの背後なんて子どもでもとれるな、と気づいて苦笑う。
「いや、ちょっとね。……えっと、この店の人?」
ふりかえった視線の先には、同年代くらいの少女が立っていた。
顔はあどけなさが残る日本人的な顔立ちで、細身の体躯はチューヤよりやや小柄。
服は飾り気のないジャージで、晩秋の一日にしては薄手だ。
だが、なにより目を引くのは、その左手にはめられたゴツい鹿皮の手袋。
「いえ、ちがいます」
首を振る少女の視線は、ときどき高いところを泳ぐ。
「店、やってないよね?」
「うん、先月かな。わるい話がSNSに出て、すぐでしたよ」
動物虐待は、噂だけでもペットショップの経営に甚大な被害をもたらすらしい。
「あの、きみは」
「この子、ここで買ってしまったから。たまに来るの」
言って、左手の手袋を高く掲げる。
チューヤの視界の外から、それは舞い降りた。
「……タカ?」
「ハヤブサ」
そういえば、とチューヤは思い出す。
高校生の少女が鷹匠として活躍している、というローカルトピックが、地域ニュースに取り上げられていた。
さっき駅で見た飛翔体は、この鳥だったか、とチューヤは考える。
まちがいなく、この鳥には特殊なオーラがある。
「……そのバッグ、なにがはいってるの?」
「え?」
ふと意外なことを訊かれて、チューヤは動きを止めた。
肩から提げた背負い袋の中身を思い出す。
ここは現世なので、境界用の装備は見えないし、効果もない。
ぺちゃんこの袋の中で、しかしなにかが動く気配を、チューヤはたしかに感じた。
「まさか」
境界化がはじまっているのか?
警戒しつつ周囲を見まわす。
だが、事件は周囲で起こっていない。
内部で、起こってるのだ。
「久しいな、ハトホル」
空間に浮き上がる「ホルスの目」から、声が聞こえた。
「邪教モード、か?」
チューヤは意識状態の変容を、認知機構の再接続によって乗り越えようと試みる。
この技術は昨日、部室で体得した。
世界の時間の流れが止まり、精神世界だけが加速される感覚。
いま、目のまえで繰り広げられている太古の神々の会話は、まさにそのような舞台で展開されているようだった。
「ホルス神。ご健勝なにより」
「おぬしもな、ハトホル」
エジプトの壁画に描かれたイメージが、そのまま幻影のように立ち上がっている。
まさに、これはイメージの世界。
チューヤの基本的な視界は、現世東京の現実を見ているが、そのうえに重ねられる拡張現実は、加速された時間軸のうえ、別個に走っている。
チューヤの身体も少女の身体も、軽く舞い上がったハヤブサの身体すら、ぴくりとも動いていない。
現実の時間はかぎりなく静止に近づき、精神活動だけが動的に交換されているわけだ。
「おぬし、人間のナカマをやりよるか」
「多様なる分霊の活動は、神格を活性しますゆえ」
かしこまるハトホル。
エジプト神話で言えば、たしかにホルスの序列は筆頭に近い。
だが、あくまでも神々は同列、という意識もある。
ハトホルは単に礼儀正しく勤めているだけのことで、必要以上にへりくだっているわけではない。
「だが、格を下げる恐れもあろう」
「この悪魔使いにかぎっては、無礼なこともしますまい」
信頼を得ているようでなにより、とチューヤは思った。
するとホルスは、その鳥の目をまっすぐチューヤに向けて、
「そこな悪魔使い。遠慮は要らぬ。直言を許すぞ」
「あ、どうも。気づいてたんすね」
チューヤは幽体離脱的な感覚を味わいつつ、邪教の味方のときと同じような霊体での会話に踏み込む。
身体がピクリとも動かない感覚だけに慣れれば、幽体離脱モードにはなぜか親和性がある。精神世界に引きこもる気持ちが理解できるほどだ。
「霊的交換は神格の戯れ。しかし邪教においては、冒瀆の穢れなる誹りも免れぬ」
「なんかよくわかんないけど、合体のわるい面の話かな?」
神様の難解な物言いを、チューヤなりに解釈する。
邪教の味方の言いようによれば、合体は単純に強くなりたい悪魔にとってバッチコイの面もあるが、もちろんそれだけではない多様な考え方があるはずだ。
「邪教の合体をくりかえすことで、大いなる成長をもたらすことも、往々にしてある由」
「わかっておる。肩を持つまでもない、ハトホル」
ホルスとハトホルの間で会話が進む。
「われわれは、どうやら敵ではないようですね」
「だが味方ともかぎらぬ」
お互いに、なにかを伺いあっている感じ。
しばらく空気を読んでいたチューヤは、
「そちらの女の子は、参加しないのかな?」
静止した時間という風景のうえに、ホルスの横にいる少女が幽体として参加してくる気配はない。
ホルスは現世における「飼い主」をチラリと一瞥し、
「ここな娘には才能があるが、まだ解き放てる段階ではない」
つぎの瞬間、ハヤブサがふわりと舞い上がる。
一瞬、視線が合う。現世の時間が動き出したのかと思ったが、そうではない。
幽体となったハヤブサは、チューヤの周囲をくるりとまわる。
その風を、チューヤは以前、感じたことがある気がした。
つぎの瞬間、チューヤのバッグから飛び出してきた手首が、鳥のうえに襲いかかる。
「クケーッ!」
鋭い叫喚に合わせて、バラバラにされる手首。
ハヤブサは、空中に舞う肉片をくちばしに挟んで集める。
そして、にやりと笑う。
「ようやく3つか」
言いながら、ふわりと飼い主のもとに舞いもどり、彼女の右手に集めた肉片を押し当てる。
それは光を帯び、吸い込まれるように、少女の中に消えた。
すべて霊的な事象のようだと理解しつつ、疑問は残る。
「な、なんだ? どういうことだ」
「やはり、あの人間の死体をバラバラにして東京にまき散らしたのは、ホルス様でしたか」
ハトホルが、チューヤの理解を何周も先まわりして言った。
「勝手に砕け散ったのよ。追いかけて捕まえるのに苦労したわ」
あたりまえのように交わされる会話を、黙って聞いていたチューヤは、ようやく、
「はああ? ちょっと、俺をバラバラ殺人の犯人に仕立て上げようとしたの、あんた?」
「意図はともかく、事象のみを見れば、さよう」
「だとしたら、なに落ち着いてんのハトホル、これ敵じゃね!?」
「落ち着け人間。神には神の事情がある」
そこでハトホルは、居住まいを正してホルスに向き直る。
「ご説明願えますか、ホルス様」
ホルスは目を閉じ、しばし何事かを考えてから、ゆっくりと語り出した。
「母上の身体が、14の破片に分けて東京中に捨てられたのだ」
「それは……」
絶句するハトホル。またか、という顔でもある。
これは、エジプト神話における「オシリスとイシスの伝説」に、原型を求めることができる。
ギリシャの歴史家プルタルコスによって紹介され、ファラオの王権に重要な影響を与えたと考えられる、重要な説話だ。
ホルスの叔父にあたるセトが、父親であるオシリスを謀殺し、遺体をバラバラにした。
オシリスの妻であり妹であるイシスが、エジプト中に捨てられたそれを集め、一晩だけ生き返らせて身ごもったのがホルス。
ただし男根だけは見つからず、「処女のまま懐胎して神を身ごもった」という説話の類型は、やがて世界的なベストセラーに引き継がれることになる。
「もちろん肉体ではない。赤い悪魔が、母上の力を欲している。魂の消えた肉体を使い、イシフを織りつづけさせられているのだ」
煮えたぎる怒りを内に秘め、ホルスはとつとつと語る。
「イシフ……?」
「ミイラを包む布のようなものですよ。トト神が考案し、イシス様の織った布は、死体をつなぎ合わせることができるのです。この国にも一部、伝わっているはずですが」
チューヤの疑問に、明快に答えるハトホル。
伝説のなかでも、イシスの補佐役でありホルスの部下でもあったハトホルは、重要な役割を果たしており、当然多くのことを知るべき立場だ。
悪魔の布が、織り上げられていく。




