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ホームに踏み出した瞬間、チューヤはなにか、うすら寒いものを感じて足を止めた。
罠が、張られている。
わずかに腰を落とし、鋭い視線を周囲に振り分ける。
悪魔使いならではの、悪魔の姦計に対する本能的防御反応。
それがつねに奏功するとはかぎらないが。
事実、マカーブルは即座に動いてきた。
境界に片足を踏み込んだその腕が、懐から取り出した──肉塊。
ぎくり、とチューヤの背中がふるえる。
先刻、警視庁で受けたばかりの取り調べが、脳内に反芻された。
バラバラになった、代理教師の肉塊。それを東京の各所に捨てた「悪魔」がいる。
別の部分が、別の場所に捨てられている可能性がある。
もちろん犯人がまだ、それを所有している可能性も。
──はあ? メガネに被疑者の指紋? メガネなんて、どこにでも置き忘れる可能性のあるものですよ。それを手にしたことがあったら犯罪ですか? 死体のそばに落ちていた? 状況証拠にすぎません。単なる偶然でしょう。彼の犯行を証明できますか? むしろ被害者なのかもしれない。邪悪な犯罪者にハメられたのかもしれない。いずれにしろ挙証責任を果たすべきは警察ですぞ、もちろん、このような取り調べは断固として無効です!
悪魔の弁護士による弁論は、ただちにチューヤの拘束を解き放ったが、彼がハメられたとするなら、ハメた者がいる。
たとえば、ここに──。
「集めたら復活するかもしれないぜ? なあ」
一瞬、だれの声かわからなかったが、どうやら仮面の向こう、悪魔がしゃべったらしいという理解が、遅れてやってきた。
マカーブルは言った瞬間、その手にある死体の破片をチューヤに向かって放り投げた。
それは途中から急激に現実味を増し、たしかな物体としてチューヤの身体に当たる。
ぽたり、と落ちる肉片。
チューヤはすばやく周囲を見まわす。
まずい。何人かの目が一連の出来事をとらえている。
さらにわるいことに、そもそもホームは全域がカメラで撮影されている。
警察官も数人いる。先刻の事故の目撃者を募っているが、新たな事件の素材が投入されれば、当然そちらに集中する。
その肉塊には、見覚えがある。
あの下品なマニキュアの色、病的に変色した皮膚。
「矢川……」
短い悲鳴が聞こえる。
ざわめきは、さざなみのように広がり、人々の視線が地面に集まる。
「なにあれ……っ?」
「さっきの事故?」
「だって、そんなバラバラになってないよね?」
「おえ、きもーぉ」
まずい。この肉片はフェイクではない。
本物の人間の手首。もし、だれのものかバレたら。
人々の流れと視線が、チューヤのうえに交錯する。
だれかが彼を指さしている。
ざわめきはさざ波のように広がり、集団のひとりが注目を浴びるという情勢が形成される。
あの高校生の足元だよ。手首だろ、あれ。
ほんとかよ、さっきの事故のやつじゃないの?
あたし見たし! 服のところから、落ちてきた!
人々の思考は、言葉となって流れをつくる。
全体の動きが変化する。
そのなかから、チューヤの視線は特に重要な動きを、ただちに把握する。
あの独特に膨らんだ背広、すり減って薄汚れた靴、なにより、どこかで見覚えのある顔。
「一課……か」
そもそも組対四課が動いたことが、一課にとっては不愉快だったはずだ。
バラバラ殺人事件ほど、警視庁捜査一課が喜んで動く事件はない。
もちろん組織犯罪が疑われれば、組対や所轄も当然に動きはするのだが。
重要参考人に尾行をつけるのは、警察の定石だ。
その行動のなかで、証拠隠滅に類する行為が発見されれば、まんまと御用。
今回のように、証拠物件を押さえられれば万々歳。
どうする? 下手に動いたら、余計にまずくないか?
だが現状、言い訳の余地があるか?
見える人にしか見えない悪魔が、にやにや笑ってこちらを眺めているんだなどと叫んだところで──。
が、それ以上、悩む必要はなかった。
別の動きが、状況を劇的に変転させたからだ。
「ぼくの、るなちゃんだ!」
小太りのあきらかにオタク男が、転がるように駆け寄ってきて、肉塊を拾い上げた。
そして、周囲を一顧だにせず、駆け去っていく。
チューヤに向かってきていた刑事たちの動きは、即座にそちらの方向に向き直る。
「追え、あの男だ!」
「所轄! 向こう押さえろ」
ふたりの刑事が、それぞれに言葉を発しながら駆けて行く。
注目の先はチューヤから、新たに現れたオタク、そして刑事らしい男たちに分散し、別の流れを形成する。
視線を転じると、死神がつまらなそうにチッと舌打ちをするのが見える。
「なんだよ、ここにもマニアがいたのかよ」
チューヤはすぐに動きを開始する。
相手の思惑が外れたと見たら、思考を立て直されるまえに主導権を取り返すべきだ。
ナノマシンを起動し、相手の悪魔の形成する力場に注意を集中する。
境界化するなら、させてしまったほうが話は早いかもしれない。
チューヤの背後にはサアヤが、盤石の態勢でバックアップの準備を整えている。彼女がいると思うだけで、生命の危機が遠のくのを感じる。
「おい、死神。なぜ、おまえが彼女の手を持っている」
「拾ったんだよ。だってここは東京だぜ。そこにもかしこにも、屍体と怨念が山積みされてるじゃないか」
悪魔はにやにや笑いながら、新しい手首の切れっ端を拾い上げ、しゃぶる。
「それは……だれだ?」
チューヤとマカーブルの会話が開始される。
トークによって相手の立ち位置を知り、情報を仕入れ、アイテムや通貨などの交渉をし、場合によってはナカマに引き込む。
それが悪魔使いの戦い方であり、生き様だ。
「さっきのオタク野郎が探してたパーツだろうよ。死体をばらばらにする人間というのは、昔からたくさんいてな。けっこう、いろんなところに埋められているんだぜ? 掘り返してみなよ」
常磐線やTXの拡張のとき、南千住あたりを掘り返していたら、白骨がぞろぞろ出てきた、という話はチューヤも聞いたことがある。
「ここは、南千住じゃない」
マカーブルはケラケラ笑い、鉄ヲタの知識を裏書きする。
「あのへんは二百年来の仕置き場で、怨念と屍体の大山脈だからな。ベルゼブブ大先生が取り憑きたがるわけさ。掘れば掘るほど味が出る、ってか」
「餌をバラバラにして、いろんなところに埋めて隠すなんて、動物みたいなやつだな」
マカーブルの視線とチューヤのそれが、意識的に噛み合う。
「わかってきているじゃないか。俺たちは捕食者であり、おまえらは餌なんだってこと」
「──納得はしていないが、理解はした。それに、バラバラにしたのは人間なんだろう?」
「おっと、語るに落ちたか。なかなかやるじゃないか、人間のくせに」
「褒められていると受け取っておく。で、媒介した悪魔は?」
悪魔のペースで話を進めていると思わせつつ、じつはチューヤが誘導している。
悪魔が境界から死体をどちら側にも持ち出せることはわかったが、それをやっている悪魔の正体と動機が知りたい。
「悪魔が簡単に仲間を裏切るとでも?」
「思ってる」
「正解だ。おもしろそうだから、今回はおまえに乗ってやろう。……赤羽の周辺に巣食っている者どもは、本当に居心地のいい連中だぜ」
「ダークサイドが寄り集まっているわけだな。まあベルゼブブの名が出た時点で、予測はできたが」
恐ろしげもなく大物魔王の名を口にするチューヤを、マカーブルはおもしろそうに眺める。
「こっち側にも、なかなかおもしろいやつがいるな。言っておくがベルゼブブは大ボスだぜ。ケチなバラバラゲームで遊んでるのは、もっと下っ端さ。赤羽あたりに巣食う邪神も、だいぶ絡んではいるようだがな」
「赤羽……ロキか」
「やつらは女衒らしさを、フルスロットルで発揮しているだけさ。女をバラバラにして、男好きのするパーツを集めて、人気の出そうな肉人形をつくって売っている。板橋あたりの欲ボケどもが、発狂しながらハァハァなんとかタンを集めてまわってやがる。まったく、おもしれえかぎりだぜ、人間ってやつは」
「……貴様も噛んでいるんだろうが」
チューヤのなかに、鬱勃として怒りが沸き上がる。
こいつは忌まわしい敵だ。
悪霊というその性質上、やっていることが邪悪なのは当然といえば当然なのだが、それにしても人間の良識を逆撫でしすぎる。
この会話のなかで最高潮に、両者の視線が戦意を帯びた。
ナカマになれ、とは言いたくない気分だし、そもそもそういう状況ではない。
「ああ? やんのか、おい」
「退治してやるっきゃ、ないようだな」
じわり、と片足を下げつつ、召喚の準備をする。
マカーブルは一瞬、何事かを考えたようだが、チューヤから向けられたある種のプレッシャーに、応じる決意を固めた。
底意に対して意識的かはともかく、チューヤが会話から戦闘までを誘導している。
悪魔使いの真骨頂。それこそ「場の支配」だ。
もちろん相手にも主張がある。互いの意思をすり合わせ、落としどころを探る。このような「交渉」ができなければ、悪魔使いはできない。
相手の握っているオプションを局限し、自分の行使しうる幅だけを広げる。
重要なのは、そこだ。
ここで相手に「あちら側」に隠れられたら、また駅のホームを歩きまわって境界の扉を開き、無理やり引きずり出さなければならない。
それはそれでいいが、余計な時間がかかる。
相手からこの場を境界化させ、タイマンの場をつくる。
それがチューヤの目算だった。
「わるい子を退治するんだね」
背後から、サアヤの声がする。
チューヤはふりかえらず、うっすらと笑う。
「どうやら境界に引きずり込まれたらしい。生きて帰りたかったら、そうするしかないぜ」
「もう、狙ってたくせにぃ」
同じことは石神井公園駅でもあった。
悪魔に言うことを聞かせる最短距離は、じっさい戦って強さを誇示するのが、結局のところ最善なのだ。
さて、と悪魔召喚を実行しようとした瞬間、チューヤはぎくりと震えた。
「きゃーっ!」
「うわああ」
「ぎゃあぁあ!」
全方位から悲鳴。慌てて視線を走らせる。
どういうことだ?
見まわせば、境界化された範囲に多くの人間が巻き込まれている。
1対1で決着をつけてやる、というチューヤの思惑は、完全に裏切られた。
「てめえ、死神……っ」
「なんだよ。境界化ってのはパワー使うんだよ。この程度の餌を捕食しなきゃ、費用対効果に合わねえだろうが」
駅の支配、という言葉の意味がまだよくわかっていなかったことを、チューヤは反省する。
じっさい悪魔は石神井公園そのものを境界化して、多くの人間を「行方不明」にした。
同じことをこの場で実行する可能性は、当然に考えるべきだった。
「てめえ、ぶっ殺──」
目のまえの敵を、まずは屠る。
挑発に乗ったチューヤの敵意に、真正面から立ち向かおうとした。
それが、マカーブルの敗因だった。
がぶり。
敵の喉首に食らいついたヌエが、一気に引きちぎる。
チューヤの死角から隙をついてふりまわそうとした巨大な鎌が、ぽとりと地面に落ちる。
彼は気づいていた。
マカーブルが影に腕を落とし、死角から斬りかかってこようとしていたことを。
機先を制したのは、まさにその夜の闇に紛れてうごめく妖獣ヌエの本領。
マカーブルは一匹であり、二つの目しか持たない。
だが悪魔使いは、召喚できる悪魔たちの視線のすべてを持っている。
「意外に……冷静じゃねえかよ、悪魔使い……」
狩ることはあっても、狩られる経験はなかったマカーブルから、魂が抜けていく。
故郷の地獄へ帰ったのだろう。
倒されたその死体を、しかしチューヤは見ていない。
いま、ここで戦う力があるのは自分たちだけだ。
こいつはボスじゃない。
マカーブルは一匹の悪魔の名前ではなく、種族の名前だからだ。
ここは死神の巣。一匹や二匹倒したところで、ゲームは終わらない。
見れば、踊り狂う死神の数は──。
「わかんねえけど、とにかく近くから片づけていくぞ」
「おっけ、がんばろう!」
地獄と化した境界の経堂駅を、人を救うため、悪魔使いは駆け巡る。




