61 : Day -56 : Kyodo
電車は豪徳寺から経堂あたりで一瞬、揺れが激しくなる。
すわ危険の予感! などと慌てているようでは、沿線区民は名乗れない。
どこの路線にもこのようなポイントがあるものだが、小田急では経堂あたりにこの揺れポイントが存在する。
チューヤは電車と一体化したように揺れをやりすごし、ふらつくサアヤの頭に目を止める。
いつものアホ毛が、ゆらゆらと揺れている。
見れば、ケルベロスが厳しい視線で、揺れの先に視線を集中していた。
「……いやな揺れだな、サアヤ、おまえの妖怪アンテナ」
苦情を呈するまもなく、つぎの瞬間、電車に急ブレーキがかかる。
チューヤは片手で手近の吊革につかまり、もう片方の手で傾くサアヤを支える。
「あ、ありがと、チューヤ。……なにかな」
「最悪のケース、かもな」
変な音とともに、緊急ブレーキで停止する電車、というパターンの末路は、だいたい決まっている。
いやな予感しかしない。
ぞくっ、と冷たいものが背筋に落ちてくる。
いつもの停車位置よりもだいぶ手前で止まる車両。
数十秒後、車内アナウンスが流れる。
「ただいま人身事故が、えー、発生いたしました。ただいま……ええ、現場を確認しております。ご迷惑をおかけします。えー、状況を確認中です。しばらくお待ちください」
乗客が左右の窓に散り、外に目を向ける。
いつも通りの駅で、変わったものは何も見えない。
だが、この下に肉塊があるのかもしれないと思うと、足が震える。
あるいは上方、パンタグラフまで飛ばされて引っかかっている、というパターンを考えると、こんどは首がすくむ。
「お急ぎのところ、恐れ入ります。少々お待ちください。えー、人身事故が起きました、ただいま救出しております、そのまま、どうぞ車内でお待ちください」
「救出だって。よかったね」
「どうだろうな」
チューヤの視線は冷たく、なんらかの力の流れをたどるように空中を漂っている。
「ただいま、事故発生のため、停車しております。人身……ええ、すいません、お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております。事故……」
アナウンスの声が震えている。意外に若そうだ。
ひどいトラウマになるだろうな、と心配になる。
もちろんすべての鉄道会社で、人身事故は発生する。
新小岩があまりにも有名だが、数で言えば中央線や京浜東北線が多い。
小田急では鶴川が多いが、豪徳寺や経堂あたりも、二日連続で人身事故が発生したりと、ある意味、危険な駅といえる。
線路上に、数人の作業員らしい人間が集まってくるのが見える。
車内アナウンスの声が、ベテランらしい男性に代わる。
「お待たせしております。お客様のなかに、事故の状況をご覧になった方がおられましたら、車掌までお申し出ください。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしております。事故を見た方、おられましたら、車掌まで申告してください」
「どうなってるんだろ……」
こわごわと外を見るサアヤ。
電車は、ホームに半分ほど頭を入れた状態で止まっている。
多くの乗客が外を見たり、スマホに指を走らせている。
すでにSNS上には、多数の情報が流れ出している。
「恐ろしい世の中だね。生配信されてますよ、車掌さん」
皮肉な口調でつぶやくチューヤ。
数秒のラグで、いま自分たちが聞いているアナウンスが、スマホから聞こえてきた。
「お待たせいたしまして、誠に申し訳ございません。ただいま、警察・救急等が到着いたしまして、電車の下より救助を行なっております。電車、すこし動きますが、救出作業のためです。いましばらくお待ちください」
ライブ配信サイトに、リアルタイムで映し出される、自分たちの乗っている電車。
先頭付近にはブルーシートがかけられ、警察が現場検証中のようだ。
中からの画像と、外からの画像が、つぎつぎとタイムラインを埋めていく。
じりじりとした時間が過ぎる。
「ただいま現場検証と車両点検を行なっております。警察の許可が出しだい、発車いたします。いましばらくお待ちください。お急ぎのところ、誠に申し訳ございません。再開の見込みは……えー、30分、16時30分を見込んでおります」
ヘッドラインのニュースが更新されていく。
小田急線は、16時11分頃、経堂駅での人身事故の影響で、新宿~小田原駅間で運転を見合わせています。
小田急線は、経堂駅での人身事故の影響で、新宿~成城学園前駅間で運転を見合わせています。運転再開は16時30分頃を見込んでいます。
「お待たせいたしました。まもなく発車いたします。ただいま最終点検にはいっております。えー、この先、行先等の変更が出る場合もございますので、あらかじめご承知ください。まもなく発車いたします。そのままお待ちください」
やがて、電車はゆっくりと動き出す。
たった20分で人身事故から復旧する、という現実が、この手の「日常茶飯事」ぶりを示している。
本来、停車すべき位置まで進むと、ドアが開く。
「お待たせいたしまして、誠に申し訳ございません。お出口は左側です。……ええ、申し訳ございません。この電車は、新百合ヶ丘を終点とさせていただきます。その先をご利用のお客様は、乗り換えをお願いいたします。まもなく発車します。お急ぎのところ、誠にご迷惑をおかけいたしました」
事故は過去となり、電車は未来へと進む。
乗客たちの表情に、まだ多少の動揺はあるものの、めずらしい体験をした、という程度の感想しか持ち合わせていない者が多い。
「救出、成功したんだね」
「……ああ、そうだな。部品、全部そろったみたいで、よかったな」
人身事故といえば、成田エクスプレスに吹っ飛ばされてバラバラになった、などのスプラッタな状況が真っ先に思い浮かぶが、減速中の列車に飛び込んだ場合、それほどバラバラになることはない。
もちろん下敷きになれば悲惨な結末は免れないわけで、「救出」されたのが遺体であり、どの時点で「死亡」が確認されたかという問題まで、乗客に知らせる必要はないという判断だろう。
チューヤは厳しい表情で、駅のホームに目を凝らす。
傍らではサアヤも、ナノマシンを起動して、チューヤが見ているのと同じものを見つめる。
こちら側、つまり完全な物理空間上に「悪魔」が実体化することは、いまのところありえない。
科学の視点から魔法が実証されていないのは、その法則が通用する「力場」が物理と相容れないからだ。
魔法や悪魔は超心理的な存在である、と科学は定義している。
言い換えれば、悪魔が霊的な存在として「見える者には見える」状態を保つことは、純粋な物理空間内においてもじゅうぶんに考えられる。
魂を持っている人間は、ある意味で霊的な存在であり、人によって程度の差こそあれ、魔法的な法則にも縛られる。
この再現性の低さによって、科学からはオミットされる案件ではあるのだが、とくに今回のように、人間たちの命を嬉々として奪い、溢れる感情をおいしく吸いまくって、エキゾタイトの塊を堪能した「悪霊」のリアリティは、不愉快なほどはっきりとチューヤたちのナノマシンを刺激した。
「あいつが、やったの?」
眉根を寄せ、ホームに佇む悪霊を睨みつけるサアヤ。
「やらせた、と言ったほうがいいかもしれないが」
チューヤはこぶしを握り、どうすべきかを考える。
ホームには、マカーブルと呼ばれる悪霊が、ケタケタと笑いながら、なにかをおいしそうにしゃぶっている。
巨大な鎌を背負い、踊りながら、人間たちの魂を刈り取っていく、ヨーロッパの死神。
駅を通過する人々の魂、感情の起伏をエサにして、力を蓄えるという悪魔。
それ自体は、認める認めない以前の基本要素になってしまっている。
東京中に悪魔を放逐し、自由な餌場、狩場に変えてしまうことに比べれば、ここは秩序ある「牧場」と言えるのかもしれない。
通過する人数を決めているのは人間側だし、その中から、たまにこういうエサを選びだし、いつも以上の美味を抽出してむしゃぶりつく悪魔的な「事故」も「許容範囲」だと、世界の偉い人は決めたのだという。
──そんな陰謀論の側に与するのか?
「……行こう」
「うん」
ドアが閉じる直前、経堂駅のホームに足を踏み出すふたり。
彼がそう決めたのは、悪魔がその指先でつまみ、ぶらぶらと揺すっている「肉塊」に、卒然とした連想を覚えたから。
ふたつの世界線が、再び急速に近づく。
 




