59 : Day -56 : Kasumigaseki
チューヤは目のまえにあるメトロの入り口を素通りし、南に向かいながら考える。
まず今回、逮捕に至った事件について、ふりかえっておかねばならない。
逮捕容疑は刑法199条「殺人」および190条「死体損壊・遺棄」罪。
発見されたのは国津石神井高校代理教員・矢川啓子のものと思われる右手首。
被害者の迅速な特定に至ったのは、その指紋が未成年淫行と動物虐待で逮捕(不起訴)歴のある女と一致したから。
ざくり、と矢川の手を切り落としたときの感触が、チューヤの手に蘇る。
通常、そのまま異世界に持っていかれるべき遺体が、なぜか別の場所で、当該被害者のものと思われる髪の毛に絡まって、被疑者の指紋のついた眼鏡とともに発見されたのだという。
人体の一部と、その遺品にべったりとついた指紋。
だれが見ても犯人か、すくなくとも重要参考人が、厳然たる「遺棄」の証拠とともに浮かび上がった。
ただちに検索されたデータベースから、チューヤの指紋が割り出され、避けがたい結末にいたった。
「なんでケーサツに俺の指紋あったんだろ? なんかわるいことやったっけな……」
ちょっと考えて、すぐに思い当たる。
それは十年もまえ、父親が、事件の証拠物を家に持ち帰ったことに端を発する。
本来、まっすぐ本庁に帰って所定の証拠保全をすべきところ、刑事らしく(?)下水を這いずりまわった身体を洗うため、家に立ち寄ってシャワーを浴びてしまった。
そのとき、資料の詰まったカバンを無造作に廊下に放置した。
それを勝手に開けて、べたべたと触ったのが幼少期のチューヤであった。
当然、大騒ぎになった。
幸い、事件解決の邪魔をすることはなかったものの、証拠物についたチューヤの指紋を排除するため、彼の指紋がすべて採録されることは避けられなかった。
そのときのデータを元に、いま容疑者として割り出されることになったわけだ。
「因果応報ってやつかね」
チューヤはふりかえり、警視庁本店を見上げる。
父親の苦虫を噛み潰した表情が忘れられない。
じっさい真っ先に父が動いてくれたことは、まったく喜ぶべきことではなかった。
父親は、憎い自分を逮捕する理由ができて、喜んでいるんじゃないか、とすら思えるくらいだ。
鑑識が照合を済ませた直後、ただちに動いたのが本庁の組織犯罪対策四課の中谷警部補だった事実に、一定の関係者の思惑が絡んでいることに、疑いの余地はない。
そこから先、異常な速度で釈放に至った事実についても、別の思惑が絡んで複雑な動きを呈している。
チューヤはため息をつきながら、矢川の遺体が発見された経緯について考える。
発見場所は、学校のある練馬区と矢川の自宅がある足立区との中間地点、北区から板橋区にかけての空き地。
獲物をついばむカラスが、凶鳥のように鳴き狂っていたという。
本来、境界で餌食になった死体は、あちら側に奪われる。
死体が存在しないため、現在進行形で多数発生しているだろう行方不明事件も、なかなか騒ぎになるまでに至らない。
しかし、境界からこちら側に何かを持ち帰ることが可能なのも、また事実だ。
チューヤは、自分が肩に巻いている紐に指を触れる。
現在はただの紐だが、境界に行けばアイテムのはいった袋を絞める背負い紐の一部になっている。
言い換えれば、この紐自体は、境界からこちら側に持ち込めていることになる。
ベルト代わりにしているクチナワの剣にしても、剣としての用途は頼りないが、物理的な事象として存在していることはまちがいない。
つまり、境界から屍体がもどってきても、なんら不思議はない。
問題は、あえてそれをやったのはだれか、どんなメカニズムでそれが行なわれたのか、だ。
「……思い当たるのか、ハトホル」
チューヤは自分の脳内に問いかける。
端から見れば電波と会話している危ない少年だが、東京を歩いていると、自分と対話している人には、しばしば遭遇する。珍奇の目で見られるリスクは、のんきな地方に比べれば低い。
チューヤの脳内、ストック枠の中からハトホルはこんなことを言った。
「境界からもどるとき、風を感じた。ハヤブサの風だ」
言われてみれば、不思議な風が吹いたような気はする。
「ハヤブサ?」
「なによ、こんどは宇宙の話?」
背後からの声に、チューヤは慌てて飛び上がった。
ふりかえった視線の先、いつもの顔がある。
「なんだ、おまえも逮捕されたの?」
サアヤは、いつものアホ毛をふりまわしながら、
「いっしょにすんな! ヒナノンに連れてきてもらったんだけど、ちょっと気になることがあって、うろついてた」
「迷子になるぞ」
彼女は自信満々に胸を張り、両手をチューヤに向けて差し出した。
「もうなった。さっさと私を連れて帰れ」
見まわせばコンクリートジャングル。この巨大迷宮から脱出するには、特殊なマップオタクのスキルが必要だ、とサアヤは言い張っている。
「やれやれ。そのまえに、とにかく事情を探らせてくれ。ハトホルに聞いたんだが、境界からもどる瞬間、風を感じたって。ハヤブサの……」
「感動したよね、イトカワから帰ってきたときは」
「おかえりハヤブサ! などというアホな話は」
「おいといて。ハトホルってエジプトの神様でしょ? エジプトでハヤブサっていったら?」
「……ああ、そういうことか」
脳内から、ハトホルが首をかしげながら答える。
「かの天空と太陽の神にとっては、バラバラにされた屍体をまき散らすなど、トラウマ以外のなにものでもないはずだが」
「事情がありそうだな。とにかく当人に聞いてみよう」
考えながら、歩き始めるチューヤ。
自然にその背を追うサアヤ。
「どこ行くの?」
「家に帰りたいんだろ? 連れてってやるよ」
「それは後でもいいよ、事件解決の手がかりを探したいなら、しかたないから協力してあげる」
「そりゃどうも。探すにしても、帰り道だよ。──喜多見に行く」
「なんだ世田谷か。じゃ帰り道だね。なんの用?」
チューヤはネットを開きながら、
「喜多見駅にいるんだよ、ホルスが」
「またゲームの話かよ! まあそれはそれで、けっこう成立してたりするからいいけども」
「いや、今回は駅というより、駅のそばのペットショップが問題らしい。知ってる? 喜多見ペットショップ」
サアヤの動きが一瞬止まる。
彼女は何事かを考えるしぐさで、
「わるい意味で、聞いたことある。けっこうエグい商売、してるとこ。動物虐待とか」
「そりゃ深遠な話題だ。やれやれ、素敵な予感しかしないよ」
チューヤはポリポリと頭を掻きながら、目的の駅を見定めて歩き出した。
喜多見に行くなら、小田急小田原線だ。
東京メトロに乗り入れているので、桜田門からならそのまま有楽町線に乗るより、霞ケ関まで400メートルほど歩いて、千代田線から乗ってしまったほうが早い。
「ふつーに歩くね、チューヤ。路線図とか見ないの?」
「オヤジの職場の最寄りだぞ、一応」
「そうだけどさ、私なんか……」
「GPS地図を見ながら反対方向へ進むような人と、いっしょにしないでいただきたい」
「地図を読めるからっていい気になるなよ、話を聞かない男め!」
「聞いてるでしょ! まったくもう!」
騒がしい高校生たちが、首都の中枢を闊歩していく……。
「というか、これさ、私が探してた線だよ」
霞ケ関駅の表示を見上げ、サアヤはひとり感心している。
「……は? 探すもなにも、警視庁の本店から300メートルも歩いてないわけだが?」
「えー? だってさ、近くにあった地下鉄の入口には、別の名前書いてたよ?」
桜田門駅の出入口4が、たしかに警視庁の目と鼻の先には見える。
「いや、その皇居の桜田門に背を向けて、桜田通りをすこし歩くだけだ。そうすると霞ケ関駅のA2出入口、つまりここにたどり着く。なぜこんな近いものを見つけられないんだ」
「いや途中に曲がり道あったじゃん?」
見まわすまでもなく、周辺には国家の中枢機関が軒を並べている。
「逮捕されるぞ、勝手に総務省とか国家公安委員会の庁舎はいったら」
てくてくと階段を下りていくチューヤの背中は、サアヤの愛用するいつものナビゲーション。
「なかにはいってからも複雑だね。ええと……丸の内線? 私が探してた線とちがう」
「探してた線てなんだよ」
「綾瀬とか行けるやつは?」
チューヤは脳内に路線図を呼び出しつつ、
「ああ、千代田線な。俺らがこれから乗るやつだよ。向かうのは反対方向だけど」
「それで北綾瀬、行ける?」
「行けるけど、場合によっては北千住で乗り換える必要があるぞ」
千代田線に乗り入れているのは、JR常磐線と小田急小田原線だ。
小田急の駅から直通運転の車両に乗って、寝こけていたら気づけば松戸、ということもじゅうぶんありうる。
千代田線は現在、そのほとんどが北千住や綾瀬からそのままJR常磐線に乗り入れて松戸方面へ向かうので、北綾瀬は千代田線のターミナルであるにもかかわらず、ある意味で支線扱いされていた。
「北綾瀬にさ、足立の母って呼ばれてる占い師の先生がいるのよ」
「うらないー? まだそんなこと言ってんの女子ー?」
「うるさい。当たるんだし。行く先に迷ったら、足立の母に会いに行くといいし」
「ふーん。まあ北綾瀬なら川の手線でそのまま行けるから、そのうち連れて行ってやるよ」
「よかろう、案内させてやる」
サアヤは胸を張って言った。
短く嘆息しつつ、霞ケ関の地下空間を、迷わずてくてくと進むチューヤ。
彼の脳内では、『デビル豪』のBGMがリズミカルにダンジョンビートを刻んでいる。
「まあ霞ケ関もじゅうぶんにおそろしいダンジョンではあるが、サアヤ、おまえはけっして東京の五大迷宮には近づくなよ」
「よくわかんないけど、そうするよ」
わかりづらいことこのうえない地下鉄駅として、帝都東京で五本の指に数えられるのが、市ヶ谷、大手町、九段下、新橋、そして日比谷だ。
とくに大手町は、ホーム6か所・改札12か所・出入口13か所・フロア4階層という、まさしくダンジョンで、日比谷線、千代田線、三田線が乗り入れ、さらに東京駅からも徒歩連絡が可能という、複雑かつ広大な迷宮となっている。
さらにいえば、同レベルの迷宮ダンジョン日比谷までも数百メートルの距離であり、東側では銀座とも地下通路で接続しているため、よほど熟達したダンジョンマスターでもないかぎり、ガイドなしでこのエリアに足を踏み入れることは自殺行為とされている。
「なんとおそろしいエリアであろう……」
ぞくり、と首元をすくめるマスター・チューヤ。
「けど、チューヤがいれば平気だね」
「いや俺ですら、あまり使わないルートをナビなしでスムーズに連絡乗換できるか、と言われると、いまいち自信はない」
東京メトロの社長さえ「迷う」とおっしゃっている空間だ。
同一会社同士の乗換でも、いったん改札口を出て乗り換える場合も多い。日比谷駅と有楽町駅のように乗換え駅同士の名前がちがっていたり、都営三田線の大手町駅、日比谷駅と千代田線の二重橋前駅のように、隣接していても連絡乗換不可のような駅もある。
とにかく地上に出て、歩いて東京駅までたどり着ければ及第点、というところか。
「人類は、おそろしいものを築いてしまいましたな」
「バベルの地下を築いた東京は、ついに神の怒りに触れて黙示録の世界に突入ですよ」
冗談めかして言っている言葉が、冗談にならない現実に向かい合う。
チューヤのスマホに表示されているアプリには、霞ケ関に巣食う「悪魔」が表示されている。
そのあまりのおそろしさに、彼はゆっくりと画面を閉じた──。




