49 : Day -57 : Shakujii-kōen
チューヤは、日曜日の校舎を歩いていた。
濃密な一週間をふりかえりながら。
先週の金曜にはじまった石神井公園での事件以来、あまりに多くのことが起こりつづけてきた。
極めつけに、昨夜の研究所での事件に出会ったわけだが、その顛末そのものが、彼に強い違和感を刻みつけている。
大山鳴動して鼠一匹。
そんなふうに処理されてしまって、ほんとうにいいのかと疑いたくもなる。
研究所の地下の一角が水没した件については、水道管の破裂、という単純な一言で片づけられてしまった。
数人の研究員が巻き込まれて死亡した。発生の予測がむずかしい種類の事故とはいえ、社内で起こった死亡事故を遺憾に思う。労災であり、国とともに誠意をもって対応する、というコメントを会社側は速やかに発表したらしい。
機能が失われたのは研究棟の一部のみで、工場棟に問題はなく、主力商品の製造を継続する。締めくくりに、以下の一文。
今般の水道管破裂事故により、取引先・商品納入先各社様にはご心配をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません。事業・納品計画についての変更は一切ありませんので、引きつづきご愛顧のほどをよろしくお願い申し上げます。
あれだけの事件があって、この程度の告知で処理してしまう。しかも最終的解決として。
週明けを待たず、日曜日中に迅速に報告したことを称賛されてさえいる。
世界には、もっと他に注目すべき事件や事故はたくさんあって、水道管の破裂程度のことでこれ以上、時間も場所も割いてやるわけにはいかない、とばかり。
水没した地下室から、数人の遺体が回収された。もしこのなかにナミの名があれば、チューヤはいまごろ、べつの行動をとっていただろう。
だが結局、ナミは生還を果たした。
鼠一匹。
これ以上、チューヤがチューチュー鳴くような必要すらない、とでも言わんばかり。
彼は大いなる肩透かしを食ったような気分で、土曜から日曜にかけてを過ごした。
そして夕方、何をか思って学校にいる。
「懐かしいな」
と思わず口に出した自分を、彼は自嘲気味に客観視する。
しょせんチューヤがどう行動しようと、あるいはなにもすまいと、世界はいっさい変わらないし、だれも気にも留めない。
だから彼は学校に来なくていいし、言い換えれば、登校してもいい。
どっちでも同じなら、まあ、登校するか。
その程度の気持ちなんだよ、と考えている自分を、だれに言い訳してんだバカか、と嘲笑う。
学校にくれば、もどれるような気がした。事件が起こるまえの生活に。
なにもなかった、ただの高校生の頃の自分に。
自分がもどれば世界ももどる。
そんなふざけたことを考えているわけではないが、だとしても、そんなふうに自分を慰めたっていいじゃないか、と開き直る。
いつの間にか、足が部室棟へ向かっていた。
彼が登校する理由の半分は、この先にある。
あの鍋さえ味わえるなら、多少のトラブルを引き受けてもいいくらいだ。
部室棟のドアは開かれていた。
一瞬、違和感をおぼえたが、日曜日に登校して部活動をしているマジメな生徒もいるらしいという話を、風のうわさで聞いたことがある。
階段を上がる。
2階の奥まった一角に、鍋部の部室はある。
ガラッ、と扉が開くことに、再び違和感。
週末は全部室に鍵をかけておく、というルールのはずだが。
土日に活動する部活が申請を出して、なかにだれかがいて、部室を使用しているという事情があるなら、開いていても当然ではある……。
「ねー? 言ったでしょ。チューヤはこういうやつなんだって」
部室のなかに、5つの見慣れた顔。
それぞれの表情で、それぞれのまなざしをチューヤに向けている。
「はあ? どういうことだよ、おいサアヤ」
当然に問いただすべき先をサアヤに絞り込む。
周囲からの視線は、あいかわらず生ぬるい。この舞台をしつらえたのがサアヤであることは、あまりにも明白だ。
だが、代わって答えてくれたのは、それ以外の4人の部員たち。
「おまえが、定期的に登校拒否症候群に陥る引きこもり野郎だという事実と」
「その解消のタイミング、それにまつわる傾向について」
「とくに興味もありませんでしたが、彼女の問わず語りはいつものことですし」
「その通りの行動を、まさにくりかえすチューヤは、ほんと単純な男だなって、みんなで笑ってたのさ」
どうやら自分は、一致団結して笑われているようだ、とチューヤは理解した。
「チューヤはね、ひさしぶりに登校しようって決めた日の前日、必ず学校にこっそり様子を見にくるんだよ。で、自分の机に花瓶とか置かれてないか確認してから、つぎの日に困らないように机の中身とかちゃんと整えておいて、何食わぬ顔で翌日、登校するわけ」
「く……っ、サアヤ、おまえそんなこと」
「見透かされてるねえ。知らぬは亭主ばかりなり、か」
哀れみともとれる、いくつかの笑い声。
返す言葉に詰まりつつ、必死に考えてどうにか対応するチューヤ。
「だ、だけどさ、そんなつまらない俺みたいな者のために、みんなよく集まってくれたよ」
「1割の皮肉と9割の感謝だよ、みんな! これがチューヤの精一杯」
「分析すんな!」
チューヤから投げ返されたボールを、部員たちは順に打ち返す。
「わたくしは華道部が大会のためにつくった作品について、意見がほしいとおっしゃるので、そのついでに」
「ボクは、理系クラスの連中が、数理クラブで発表することについての検討があるからって呼び出されただけだよ。わざわざ日曜にやるってのもおかしな話だが、まあ、そのついでにチューヤがおもしろいことやりそうだからって、見にきただけだ」
「あたしは、机のなかでちょうどよくカビるまえのパンが、いちばんうまみを出すタイミングだって思い出したから取りにきたのさ」
「月曜に使う食材を確認にな。万一、復帰するチューヤが豪華な食材を大量に持ち寄るという責任を、果たさなかった場合に備えて」
それは理想的な答え、部員たちの自分に向けられた愛に満ち溢れている、とチューヤは解釈することに決めた。
「そ、そんな責任、も、もちろんだよ、いいよ、いいんだよ、わかってるよ、みんな。どんなついでであっても、なくても、俺なんかのために集まってくれたってことが、ほんとうにうれしいよ!」
「9割方、素直なチューヤ。残りは謎のチューボー的自意識」
「チューヤがチューボーなのはデフォだろ」
「おまえらなー!」
いつもの部員たち、いつもの部活の風景が、あっという間にもどってきていた。
月曜を待たずして鍋部の6人が一堂に会した、この事実。
このことに、なんの意味もないはずがない──。
いまある材料で、なにかつくれ。
そういう無茶ぶりには、慣れたもの。
リョージは冷蔵庫のなかとにらめっこしつつ、
「ソフトめん食う?」
と、自分が持ち込んだ生めんの袋の束を、テーブルのうえに置いた。
「なんですの、それは」
「思い出の給食、関東ランキング上位常連の老人ホイホイらしい」
1960年代、学校給食の主食を増やすために開発され、東京都が採用してから、関東、東海地方へと広まった「ソフトめん」。その他の地域では、ほとんど知られていない。
東京都は2016年度まで、年1回「懐かしの給食メニュー」として提供していたが、それも中止されて久しい。
彼らの記憶に「ソフトめん」がなくても、致し方のない話だ。
「見覚えはないが、食ってやろう、そのソフトめんとやら」
偉そうに椅子に腰かけ、腕組みをするケート。
「うどんみたいだね」
袋を持ち上げ、顎をひねって眺めるサアヤ。
「見た目はな。原料も製法もちがうらしいぞ。店長が懐かしさのあまり箱買いして、くれた」
早くも調理の用意にかかりながら解説するリョージ。
「体のいい布教活動じゃないのか」
「正直、使ったことはないので、どう調理したものやら」
ソフトめんの袋を中心に、考え込む6人。
「見た目こんなだし、鍋焼きうどんとかでいいんじゃない?」
「焼きうどん好きー」
「思ったんだが、焼いてないよな、鍋焼きうどん」
「まあな。つゆを味噌味にすれば、味噌煮込みうどんだしな」
「だろ? 煮込んでるくせに焼きとか、うそつくなよ!」
「俺に言うな。じゃあわかった。焼いてやる。ああ焼いてやるさ」
コンロは壁際に置いたまま、火を入れるリョージ。
あいかわらず手早い。
「ちょっとリョーちん、意地にならないでー」
「いや、そもそも表面が糊化しているから、スパゲッティ用途にも使えるって店長言ってた。それに焼いたところで、焼きうどんになるだけだし。オレの記憶が確かならば」
「その人生は宴だった、か」
静かなるBGMに乗って、そこには料理の超人が集いつつあるかのよう。
「L'ÉTERNITÉ
Elle est retrouvée.
Quoi? — L'Éternité.
C'est la mer allée
Avec le soleil.」
ヒナノはすらすらと、元ネタにあるフランス語の素養をひけらかす。
「もう、じゃいいよ! アレ・キュイジーヌ!」
薄っぺらなテレビ知識をもとに、サアヤが調理の開始を告げる。
「土鍋のジャン、見せてやるぜ!」
ぐっ、と腕をまくり、バンダナを巻くリョージ。
料理人の完成だ。
敷かれたごま油が十分に熱されたところで、ぶたこま投入。ジャッ、といい音がする。
余り物の野菜を適度に切り入れる。つづけてソフトめんを投入。サッとめんつゆをふりかける。野菜から出る水分で、ソフトめんがほぐれていく。
タオルで鍋の取っ手をつかみ、中華鍋のように振りながら、ジャッジャッとひっくり返すリョージの手際の良さに、ひとしきり感心する。
「いい香りだなあ」
「早くしろリョージ」
「焦るんじゃない、おまえらは腹が減っているだけなんだ」
孤独さのかけらもないグルメたちのまえで、リョージの腕がしなる。
学校の備品である六角形の机のうえ、ずらりと並ぶ6枚の皿。
空中を舞うソフトめんたち。
「よだれを拭け、そこの蛇」
「黙れ。食べることが、あたしの仕事なんだ。へへへ」
「なにより楽しい仕事だね、フユっち!」
虜になる料理をつくるほうがわるいのだ、と言わんばかり。
かつおぶしをふりかけ、ぴたりと動きを止める料理人。
「さあ、味わうがいい!」
つぎの瞬間、
「ワヒャガルイォグァマンテ!」
空中を回転しながら飛び込んでくる物体。
「け……」
「ケルベロス……」
すさまじい形相のポメラニアンが、自分の食い扶持を確保すべく身をかがめ、臨戦態勢を整えている。
「おまえのことを忘れていたよ」
「おれさまの分をよこさないと、おまえらマルカジリだぞ、だって」
「やれやれ。しかたない……」
リョージは肩をすくめ、自分の皿から、一部をケルベロス用の皿に取り分ける。
ぎろり、と周囲を睨みつけるケルベロス。
部員の半数が目をそらすなか、サアヤとヒナノが、同じ量だけケルベロスの皿に加えてやる。
「これもノブレスオブリージュでしょう」
「ありがとーヒナノン、って自由なケダモノも感謝してるよ」
一人前としてじゅうぶんな量が確保され、満足げに焼きうどんを平らげるケルベロス。
「もぐもぐ、わるくない味だ、さすがリョージ」
「いつもの鍋には劣るが、まあ、ぎりぎり合格点ってところだな」
「このソースおいしいよ? チューヤも使う?」
「ば、ばかたれ! そんな恐ろしいものを近づけるんじゃない!」
サアヤの激辛ソースは「殺人的」と評判だ。
──いつもの騒がしい食事風景に、別の空気がひたひたと迫っていることに気づいたときは、すでに手遅れだった。
外を見れば、早くも刻限は日没をまわっている。
本来、この時間に外にいるのは、あまりにも危険。そのことを、彼らは知っているはずだった。
家にいるからと言って安全というわけでもないが、それにしても、その場所はあまりにも危険すぎた──。
「グルルル、バウワウ!」
最初に警戒の声を発したのはケルベロス。
窓の外に、異様な重い空気が垂れ込めている。
──案の定、境界化。




