04
吾輩は犬である。名前はもうある。
残念な名が。
とでも言わんばかり、薄汚れた小型犬がハッハッと短い呼吸をしながら、薄明るい壁際をせわしなく歩きまわっている。
「ハウス! おとなしく待ちなさい、ケルベロス」
サアヤが鋭く指示をする。
ぴたりと動きを止め、ケルベロスと呼ばれた小型犬はお座りの姿勢をとる。
「にしても、殺伐とした名前だよな」
椅子に浅く腰掛け、だらしなく両足を投げだした姿勢で言うのは、部室に真っ先に集まっていたマフユ。
「なんでポメラニアンがケルベロスなんだ?」
「だな。せめてドーベルマンとか土佐犬ならわかるが」
うなずくチューヤ。
窓側でリズミカルに包丁を揺らすリョージも、
「たしかに、見た目に対して怖すぎだよな」
「いいでしょ! 当人が、いや、当犬が名乗ったんだから」
言い張るサアヤの根拠は、以下の通りだ。
ついてきちゃダメでしょ? あなた名前は? お腹減ってるの?
あ、こら。勝手に食べちゃダメ。
もう、食べたんだからちゃんと教えてよ、名前。え?
辛いの大好きサアヤが愛用する激辛ソースたっぷりのカレーパンを食って、ポメラニアンが地面をのたうちまわりながら叫んだ声「ウェケヒャルベォウロス」が、ケルベロスに聞こえた、というのが理由らしい。
「おまえ動物虐待で訴えられるぞ」
「なんでよ。おいしいじゃん、激辛」
「辛みは味覚じゃない。痛みなんだよ。辛いの好きなやつはマゾだと思うわ」
ふと何事かを考え込むサアヤ。
「痛み、か。……たとえばさ、ねえ、死ぬって痛いのかな? 最近よく見るのよね。自分が死んで腐っていく夢。身体じゅうから蛆虫が……」
「おい、これから飯を食うんだぞ、俺たちは」
料理は佳境を迎えている。
リョージは材料を、部室中央にデンと構える六角形のテーブルに移し、その中心に置いてあるコンロに火を入れる。
「失礼します。遅れましたか?」
そのとき、軽いノックにつづいてはいってきたのは、文系特進のヒナノ。
授業時間は変わらないが、特進クラスは放課までが微妙に長引く傾向がある。
「ちょーどいいタイミングだよ、お嬢」
「ヒナノン、ケーたんは?」
「理系も終わったはずですよ」
六角形のテーブルをはさんで、5人がそれぞれの席につく。
「とにかくさ、刺激を愛するって意味では、人間的ではあるよな」
「そもそも辛さと死をつなげるってどうなの」
「死ぬってのは、人間にかぎらず全生物の宿命ではあるが」
「まあ、深遠なお話をなさってらしたのね」
「いや、それほどでも」
流れるように組み立てられる会話が、鍋部のもうひとつの特徴だ。
「じゃあ辛いの無理なケルは、生物としてはどうなのって話?」
「ちがうわ」
「おまえら、ケルを甘く見るなよ。そいつは都会のジャングルを一匹で生き抜いてきた野生児だぞ。ぶっちゃけ、おまえらより生存能力は高いと思うわ」
「ときおり見せる野生の視線が怖いよね、たしかに」
「必要なら人間を嚙み殺してでも生き残るよ、こいつは」
「ハッ、ハッ、ハッ」
期せずして視線を集める野良ポメラニアン、ケルベロス。
その視線は、当然のように中央の鍋を狙っている。
──吾輩は犬である。名前はもうある。
余り長たらしくて毒悪なのはよくないと思って、一幕物にして置いた。
今宵も御覧じろ、滑稽なる人間喜劇を。
●人物チューヤ(C) 男
サアヤ(S)女
ケート(K)男
リョージ(R)男
ヒナノ(H)女
マフユ(M)女
●背景部室。壁に棚とロッカー、パソコンデスクがひとつ。
電源の落ちた旧型のPCとプリンタが1台。
窓側に理科室のようなシンクと、最低限のキッチンセット。
中央に円卓。六角形のテーブルシートが敷かれている。
使い込んだカセットコンロと、食器セット。
円卓を囲む椅子は、ありふれた学校用の備品。
多くの面々は座って雑談。
リョージがひとり、シンクに向かって調理を進めている。
そのとき叩きつけるように部室のドアを開けてはいってきた、最後の部員。
勢ぞろいを待つかのように、調理は終盤を迎えている。
K「おい、きょうはカレー鍋だという噂は本当か」
C「そう叫びながら部室にはいってきた人間は、きみで3人目だよ、ケートくん」
K「どうやら本当のようだな。この香りに包まれれば疑う余地もない」
R「部室の外からすでにわかってたろ」
K「ああ、まあ、餓鬼がうろついていたからな」
C「ケートほんとにカレー好きだよな。インド人もびっくりだ」
K「じゃあおまえはきらいなんだな、ボクが代わりに食ってやろう」
C「すいません。大好きです」
S「とくにリョーちんのカレーは絶品だよねー」
M「中華屋でバイトしてるだけあってな」
S「チューカレー!」
C「おまえら食うなよ。チューヤさま専用のカレーだからな」
K「ふざけるな!」
S「チューヤのくせに!」
M「罰としておまえの分をよこせ」
C「勘弁してください!」
M「まだかリョージ、腹と背中がくっつくぞ」
リョージは苦笑いしながら、窓際の棚からボールにはいったゆで卵をもってくる。
固く冷たい卵が、それぞれの小皿のまえに並ぶ。
R「ほれ、好みで使え」
C「これ、ゆでたまご?」
S「剝きやすーい! お店で買ったやつみたーい。これ、どうやるの?」
R「昼休みに茹でて、塩水の冷水に漬けといただけ」
S「画期的!」
R「いや、主婦とかやってるだろみんな」
K「おまえは主夫か」
R「ま、ある意味。そのまま食ってもいいし、鍋に使ってもいいぞ」
C「おでんなら溶かすんだけど、カレー鍋はなあ、迷うなあ、うーん、あれマフユは?」
M「もう食った」
CS「早っ!」
K「で、なにカレー?」
R「きのこと鶏肉にベーコン巻きを合わせて和風に仕上げたカレー鍋、かな。ベーコンとアスパラあったら、とりあえず巻いちゃうよね? 残り物の鶏肉と合わせて、いい味出てる。豆腐もヘルシーでちょうどいい」
高級アスパラをベーコンで巻く。鶏肉を一口サイズに切る。
おぼろ豆腐は6等分。白菜は3センチ幅のそぎ切り。
しめじは根元を切り、小房に分けておく。水菜は5センチ。
鍋に「カエレルー」を入れて温める。
ほどよく溶けたところでベーコン巻き、鶏肉、豆腐、白菜、しめじを加えて煮る。
M「よくわからんが、とにかくうまそうだ」
C「もう店やれよ、リョージ」
R「そこまでじゃねえよ。鍋なんて、だれでもできるしな」
最後の食材をシンクから円卓へと運ぶリョージ。
水菜は食べる直前。投入した瞬間、煮立っていた泡が消えて、一瞬の静寂のなか、すーっと香りが広がる。
C「いやいや、まさに神鍋だよ」
R「そりゃどうも。……火が通ったものからいただいてくれ」
火加減を調整しつつ言うシェフ。
箸を伸ばそうとするマフユの動きをすばやくカットし、サアヤが言う。
S「奉行、お裁きを」
CK「だな」
鍋は奉行に任せるにかぎる。
そもそもこの鍋で、喧嘩にならないようにするためには、奉行の初期采配を信頼するのがいちばん効率的である。
R「よし、小皿を並べろ。好き嫌い、ないよな?」
無言でうなずく面々。
リョージのまえに並べられる小皿。
再び沸騰しつつある鍋を見極め、奉行の手が電光石火で走る。
ぴたり、と動きが止まった瞬間、5つの腕が自分の小皿をとりもどす。
鍋の中身は半分以下になっている。
火加減を弱め、さらに追加の野菜を投入する。
R「マフユを除いて、適宜、好きなものをとってくれ」
M「おい、がぶがぶ、なんで、むしゃむしゃ、あたしを、ごくん、除くんだ」
R「おまえは、食いながら追加を取ろうとするからだ。もうすこしゆっくり味わえ」
K「どっちが得か考えながら食うんだな、バカ舌」
M「くそチビ、黙っとけ。ちぇ。いつも物足りないのが、リョージ鍋の決定的弱点だな」
K「養豚場にでも行け。豚の餌でじゅうぶんだ」
S「でもさー、フユっちはいくら食べても太らないから、豚舎のひとも困っちゃうよねえ」
C「そうだな、彼らは太らせて売るのが仕事だからな」
M「どういう意味だ、おまえら」
H「食べても太らない体質をうらやんでいるのでは? ……あら、いいお味」
K「燃費がわるいって、飢餓社会では淘汰されるけどな」
「がうがう、ばうっ」
そこへ割り込むケルベロス。忘れず初期配分されてはいたが、すでに皿の中身は空だ。
申し訳なさそうに、わずかな量を追加するリョージ。
R「わるいなケル、きょうはあんまり残りそうにないんだ」
C「なんか敵視されてるんですけど」
R「おまえらが残さず食うからじゃないか。残飯処理係の敵だぞ」
S「残さず食べるのはいいことでしょ!」
M「残飯の出ないような料理をつくるほうがわるい」
カレー鍋が残ることは、ありえない。
あとは、うどんで締めるか、雑炊か、それが永遠の問題だ。
C「で、シメは? カレーうどんは神だぞ」
K「いや、カレー雑炊もうまいわけだが」
R「本日は、雑炊を採用」
シェフの手ずから投入されるチーズ。
絶妙な風味を加えられたカレー鍋は、もはや肉など残っていなくともうまい。
煮込めば煮込むほど旨味が増していく。
そうして投入される冷や飯。一瞬の静寂。じわじわと煮音が響く。
ほどなく全員のまえに並ぶ神味、カレー雑炊。
C「溶き卵でぎゅっと閉じ込められた、この旨味。くーっ!」
M「はふはふ……。くっそ、うまい」
K「ふん、ボクは味の解説なんかしないぞ、行儀のわるい」
言葉にならない部分を、咀嚼音で埋め合わせる。
鍋のシメ問題も、目のまえにある雑炊にはかなわない。
とにかく、うまい。
これが「鍋部」の部活動。