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幼い彼女が、幼い彼を指さして言った。
「わたしがサアヤなんだからさあ、あんたも、もっと寄せた名前にしなよ」
彼女の横には、まだ小さな弟がいる。
「しなよー」
ひとりで立ち向かう形の、少年チューヤは憮然として言う。
「なんでおれが、おまえに寄せなきゃいけないんだよぅ」
小学校低学年。
ちょうど漢字で名前を書きはじめるころだ。
「中谷ってメンドーな名前だよねー」
どこがだよ!? 全国に八万人くらいいらっしゃる一般的お名前だわ!
と、いまなら反論するところだ。
チューヤはこれが夢であることを意識しつつ、久しぶりに見た悪夢以外の夢に、しばらく漂ってみることにした。
「そ、そんなことないよ。発田だって」
「文字すくないし! ハッタのほうが、ナカタニより!」
指折り数えられると、
「そ、そうだけど」
納得せざるを得ないのが、小学校低学年の悲しいところだ。
その後、彼女がなにを言い出したかを思い出し、チューヤは苦笑する。
「チューヤにしたらいいよ。決まり。あんた、これからチューヤね」
「え? あの、イミわかんねーんですけど?」
「自分の名前じゃん。イミとか、どうしても知りたかったら、ご先祖のレイにききなよ」
「ナカタニがチューヤになるイミだよ!」
「だからさ、漢字には、おんよみと、くんよみっていうのがあって、ほら、ここに書いてあるじゃん?」
「いやそれは、わかるけど、そういうことじゃなくてね」
「なんかギョーカイっぽくて、かっきいよ?」
「そ、そう?」
俺はバカか。なぜそう簡単にだまされる。
それにしても、このころからあの女、こういうテキトーなことをほざいていたんだな。
見れば、いまと変わらぬアホ毛が、たゆんたゆんと揺れていた。
「だいじょーぶ、チューヤはわるくないから。わるいのは、ご先祖さまだよ。なんで中谷とか、ふざけたミョージつけたんすか、そろそろゲンゴーに合わせて変えていくんでヨロシク、ってお盆になったらアイサツしとけば、しんぱいないよ」
「そ、そうかな。いや、てかナカタニで、べつにいいけど。むしろチューヤとか」
そう、変だぞ。
気づけ俺。
「だって自分は、わたしのことサアヤって呼ぶじゃん」
「本名でしょ!」
「中谷だって本名じゃん」
「だからナカタニであって、チューヤとは」
「読むよ。教科書に書いてあるもん、ほら」
「いや、だから読めるけど、読まないというか」
「もう、細かいことをごちゃごちゃ言ってると大物になれないよ」
「うっ」
いまなら、史上まれにみる小物だと思ってますけども、と返すところだ。
おとなになると、ろくなことはないな。
ゆっくりと目を開く。
景色がもどってくる。さっきまで見ていた景色。
ここは東京の地下で、横に大きくなったサアヤがいる。
境界にいると、逆に、いつものように異世界線の夢を見ることがなくなるのかもしれない、などと考えてみる。
昔の夢を見たのは、本当に久しぶりのような気がした。
「まったく、よくもやってくれたよな」
「…………」
隣に横たわる体躯は動かない。
彼女もうたた寝しているのだろう、と思いながらチューヤは問わず語りに言を継ぐ。
「まさか高校になるまで、同じあだ名で通されるとは、お釈迦様でも気づかないよ。なあ、名付け親?」
ころん、と動くサアヤの身体。
そうだっけ? なんのこと? という回答を予感する。
彼女は自分のしでかしたことの重大さなど、気づきもしないし、気づいても気にしないタイプだ。
十全の予断をもってサアヤのほうをふりかえったチューヤは、しかし、そこに想像を絶する光景を見出し、全身をおこりのように震わせる。
カタカタカタ、と顎の骨を揺らせた骸骨が一体、チューヤを見上げて何事かを言おうと試みている。
ありうべからざる光景。
「う、うわあぁあ!」
というチューヤの叫びと、地下室の奥のほうから聞こえてくる叫び声と、足元から響きわたる犬とは思えぬ奇声、そしてふくらはぎあたりを襲う激痛が、同時ないしつづけざまに重なった。
当然のようにパニックに陥るが、サスペンド状態のナノマシンがただちに起動して、悪魔使いらしい冷徹な状況判断を加速する。
目のまえにいるのはサアヤではない、どこからか現れた悪魔の影だ。
足元で聞こえる奇声は当然のようにケルベロスで、ふくらはぎの激痛は、この犬に嚙まれたものらしい。さっさと目を覚ませ、というほどの意味合いか。
視線を転じると、地下室の奥のほう、重機のあるあたりで研究員たちの叫びが交錯している。
ケルベロスが目覚めを急かした理由、という前提でさらに推論を展開する。
重機が不規則に動いている。運転席に視線を移す。
そこに見つけた、サアヤを。
「なんだおい、どうなってんだ」
「ワヒュイッガウンダォン!」
さっさと助けに行け、というほどの意味だろうと推察する。
チューヤは立ち上がり、走り出した瞬間に横方向へ飛び退る。
「……ちィ、悪魔か。ケットシー、セベク、頼む!」
重量級および先制攻撃系のナカマで、襲いくる悪魔を陽動、遮断する。
つづけて支援系のナカマを呼び出し、加速魔法によって行動の効率化を促す。
さらに飛行系ナカマを先行させ、状況の一刻も早い把握に努める。
状況、把握。
チューヤは瞬時に、つぎの事実を理解する。
敵悪魔から「魅了」系の魔法をかけられたサアヤが、ふらふらと歩き出して、石棺を押さえていた重機の運転席に乗り込み、これを動かして石棺を解放しようとしている──。
「ピクシー! 魅了解除だ」
サアヤの間近まで接近したピクシーのステータス回復魔法により、サアヤはハッとして目を覚ましたが、すでに状況は変化している。
がたん、と大きな音を立てて重機のバランスを支持していた棒杭が外れ、支点を失ったアウトリガーの片側が浮き上がる。
強力なパワーで押し返された石棺のフタが浮き上がる。
つぎの瞬間、それは、どさり、と大きな音を立てて横に落ちた。
猛烈な風が巻き起こり、石棺のほうへ向けて流れる。
これは空気ではなく、エキゾタイトの流れだ、と認識する。
「なんか、ヤバそうなもんが」
出てくる。
あきらかに、手に負えない巨大な力。
チューヤは悪魔たちの動きを制御しつつ、サアヤの身柄を回収する。
「チューヤ、ごめん、私」
「いいからまえを向け」
重要なのは、やったことではない、これからやることだ。
黒い棒のようなものが石棺のなかから突き出され、がしっ、と石棺のふちをつかむような動きが見える。
あれが腕だとしたら、それは瘦せ細り、力強さのかけらもないが、なぜか魔力的な圧力が半端ではなく伝わってくる。
「ガァア、グラガ、ァア」
さっきチューヤが見た骸骨とは比べ物にならない、巨大な魔力のオーラを帯びたスケルトンの親玉みたいな化け物が、姿を現した。
千数百年、あるいはそれ以上、地獄の底に捕らえられて、外に出られなかった死骸の恨みつらみ。
彼らは欲している。生きた肉を。餓えた喉を潤す、生者の磁気を。
「ク……ワ……セ……ロ」
「冗談じゃない、化け物。自分の骨でもかじってな!」
声のほうを振り仰ぐと、ナミが自動小銃を手に、フルオートで射撃を開始していた。
日本とは思えない武装に驚いているまもなく、骸骨が腕をひと薙ぎしただけで、吹っ飛ばされる人間たち。
それでも人間たちは退かない。
それぞれに武装した研究員が、それぞれの武器をもって敵悪魔に立ち向かっている。
おそらく最悪のケースとして、このような状況は想定していたのだろう。
「チーフ! 銀の弾丸は、多少なり効果があるようです」
「よし、自動火器は廃止、リボルバーに切り替えて撃て!」
地下室の奥側に位置する敵に対して、手前側の人間たちが機動的に動いている。
チューヤはそちら側に交じるように、移動を開始する。
戦闘指揮を執るナミの声が、より間近に聞こえてくる。
「これ以上、だれも食わせてやるものか!」
「味をしめたんでしょうかね、ここにくればA5ランクの肉が食える、とでも」
「バカな化け物。私は大嫌いよ、ただ脂肪が多いだけの肉の塊なんて。肉は赤身にかぎるわ」
「趣味の問題ですけどね、そこは」
この期に及んで意外に余裕があるな、とチューヤは思った。
「そう、趣味ね。……そして多くの悪魔の趣味は、ただの人肉ではない。エキゾタイトを多量に含む、若き高濃度体質こそが、Aランクに分類される」
ちらり、と背後を振り仰いだナミの視線が、自分たちのうえを意味ありげに通過した事実に、チューヤは気づかないふりをした。
「クワセロ、クワセロ」
巨大な骸骨が、上半身を石棺のうえに這い出させて、駄々っ児のように腕をふりまわす。
鳴動する地下室。体感的には震度6に近い。
「どうするんです、ナミさん。あんな化け物」
「ぶっ倒す、ってのはちょっとむずかしいかもね。押しもどすしかないわ」
ナミは空になった薬莢に、銀の弾丸を詰めなおす。
「押しもどすって、具体的には」
「天井一面に、観測用のセンサーをとりつけた天板が張ってある。石棺のフタを一度、そのうえに吊り上げる」
見れば、すでにその作業は開始されていた。
この過酷な環境で、それでも生き延びている研究員たちはそれなりの剛の者で、多少のダメージはものともせずに業務をこなす、日本人の鑑のような労働者たちだった。
倒れた重機をもどし、ウインチで牽引し、所定の位置まで引き上げる。
「あれだけの重量物が落ちてくれば、重力加速度だけでそうとうのはずだけどね。……ここは、そんな物理学の常識が半分しか通用しない場所だから」
「準備できました、チーフ!」
「時間ない、やっちゃって!」
つぎの瞬間、激しい落下音。
押しつぶされる骸骨。一瞬、その姿がもうもうと舞い上がる土煙の向こう側に消える。
轟音にかき消されて状況はわからないが、一瞬の合間に聞こえる悪魔の叫びが、早くも作戦の不成功を伝えてきた。
「やれやれ、もう打てる手は」
「ないんですか?」
「あんまりね。成功もおぼつかないし、時間もないってことで……」
ナミの手が、手元のコンソールを走る。
つづけて無線に向け、
「兼井、元栓全開! 地下ごと沈める!」
「了解。水槽貯水はほぼ完了しています。カウントダウン願います」
「……全員、40秒で退避しろ!」
切り替えた無線の周波数の先から、生き残った研究員たちの応答。
背後のドアに向け、数人の研究員が駆け出していく。
ナミが手元の端末を操ると、水道関係の状況が表示される。
雨水や地下水が降りてくる先の地下世界では、もっとも重要な水管理システム。
各水道管、排水管、貯水槽、巨大な貯留池などとの連携をとって、どこにどれだけの水を入れ、あるいは出すかというコントロールは、危機管理上、欠かすことができない。
「一次注水開始!」
どどどど……と、どこかに開いているらしい水道管から、濁流が足元を満たしはじめた。
「ナミさん」
「あら、まだいたの? さっさと逃げなさい」
「あ、はい、けどナミさんは」
「アクアスーツならそこに1セットある。水没したら石棺のフタをもどす。重機は防水だからたぶん動くはず。どこかに不具合があっても、計算上、水で埋まるのは天井の高さまでだから……たぶん生き残れるはず」
現状、ぎりぎりでひねり出したリスク管理、といった気配。
いくつか用意した条件のひとつが不具合でも、なんとか生き残れる。
ふたつ以上が同時に不具合を起こせば、わからない。
とにかくこれが、現状の精いっぱい。
濡れネズミになりながら、ナミはチューヤに改めておマグりをわたし、
「これが使えるかぎり、私たちはつながっている。いつまで使えるかはわからないけど、これが使えるということは、私の研究がうまくいってるってことだから。──いざとなったら、今回みたいに節約すればいい。ちゃんと集める癖をつければ、そうそう不足することもないはずよ」
「集めるって」
「言ったよね、爪で掻き集める、っていう象徴的な形容、それ自体に意味がある」
倒した悪魔のうえに手をかざし、みずからの爪で精気を集める。
そうして角質全体に分散しながら溜めておけば、いざというとき、つまりおマグりが使えなくなったときにも、みずからエキゾタイトを供給して召喚を維持できるということ。
自身の角質器にエキゾタイトを集積する、という概念的行為を具体的にどうするかという点については、もちろんナノマシンが動いてくれる。
蓄積上限は感染率によって変わってくるが、50%ナノマシンを駆使できるチューヤのエキゾタイト総量なら、現状のナカマを維持する程度なら、じゅうぶんすぎておつりがくる、というナノマシンの計算をチューヤはなんとなく理解する。
引き際だ、という認識とともに。
「手伝えることは」
「ないわね。……いいえ、ひとつだけ」
「なんなりと」
「サーちゃんをお願い。生き残ってね」
それだけ言って、踵を返すナミ。
水煙の向こうで暴れる骸骨に向かって、科学者らしからぬ勇猛果敢さで立ち向かう。
彼女の姿を見た、それが最後にならないようにと、チューヤたちは祈る。
夜明けは近い──。




