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そのさきが、なぜ地下研究所につづいていたのかは、謎としか言いようがない。
だがそこは、たしかに研究所だったし、たしかにサアヤの叔母、ナミがいた。
「おばさん! よかった、無事だったのね」
勢いよく叔母に抱き着くサアヤ。
ナミは苦笑いしてそれを受け止めつつ、
「おばさんはやめなさい。……シンちゃんも、来てくれたのね。ごめんね、サーちゃんに付き合わされたんでしょ」
「いや、俺もおば……ナミさんが心配だったので。無事でなによりっス。で、なにがあったんスか?」
「まあ、話せば長く、いろいろあったんだけどね……」
ナミは周囲を見まわしながら、何事か考え込んでいる。
──ここは地下の一室。
壁には研究所らしい機械設備と薬品棚が並んでいて、机のうえは乱雑に書類や実験器具類が散らばっている。
ナミ以外に人影はない。
唯一、一匹の犬影がいるが、彼はナミから好物のジャーキーをもらって、狂ったように貪り食っている。
おまえの狙いはそれか、とチューヤは半ばあきれながらも、かの犬を見つめるまなざしには、以前より強い敬意がある。
石神井公園のときもそうだったが、うまく危険を回避して生き抜いているケルベロスは、この空間のことを自分よりもよく知っているのかもしれない。
「順番に片づけよ? ね、おばさん。ここはどこなの?」
「ナミさん、でしょ。ここは見ての通り、私の職場なんだけどね。いまは、異世界に飲み込まれた漂流実験室、かな」
境界化、という言葉は出てこなかったが、異世界という言葉が出た時点で、ナミが純粋に科学の徒というばかりでもないことが察せられる。
いや、そもそもオカルトじみたお守りを与えている時点で、ただの科学者だとは考えないほうがいい。
「同僚のひととかは?」
「何人かは生き残ってると思うけど、けっこう殺られちゃったかも」
努めて平板な物言いをしているが、同僚が殺されたという事実について、死に対して敏感な彼女がなにも思っていないわけがない。
「……悪魔がいるんだね?」
「ま、そういうことだね。あなたたちは、もうこの世界について」
「ケルベロスには及ばないかもしれないけど、まあ知ってますよ。怖がらないでくださいね、ほら」
チューヤはハイピクシーを召喚してみせる。
この空間にはいればこっちのもの、自在に召喚は実行される、が。
「あ……れ?」
がくっ、と身体の力が抜ける感覚があって、チューヤはあわてて頭を振る。
内部で、引き起こされた変化に「適応」を開始するナノマシンが、網膜にアウトプットしてくるデータに目を走らせる。
「最終ログ、外部接続断線……内蔵エキゾタイト源泉モードに移行。残量980……なんだ、これ?」
ナミは、めずらしいもののように、しばらくハイピクシーを見ていたが、
「いますぐ必要なければ、悪魔はもどしたほうがいいかもしれないね。あなたはいま、エキゾタイトのネットワークから切り離されているから」
その言葉の意味は、まだよくわからなかったが、とりあえず言われるままハイピクシーをストックにもどす。
チューヤはナミを見つめ、問うべきことを問いかけた。
「エキゾタイトってなんですか、ナミさん。それに、これ……」
ポケットから取り出す、赤いおマグり。
ナミは悲しげに笑い、ゆっくりと口を開く。
「ごめんね、気持ち悪かった? 理由はあるのよ、ちゃんと……」
それは悲しい「死」からはじまった研究。
手術は成功したはずだった。
すくなくとも、医者はそう言った。
あとは運です。
短いが、とても大きな、まさに「運命」を左右する言葉だ。
そして結果は、しばしば冷酷だ。
彼女にとって、可能性などなかった。
そのとき、彼が死んだという事実は100%で、彼が生きている可能性は0%だ。
なぜ死んだのかわからない。
成功率何パーセントの意味がわからない。
ただの統計でしかない。
確率を支える根拠は?
そうして彼女は、家に帰る間も惜しみ、研究室に閉じこもるという生活へと逃げ込んだ。
彼女の研究は、まさにその「生きる」ということの意味をターゲットにしていた。
なぜ彼は死んだのか? 運が悪かった?
ちがう。生きる力が足りなかったのだ。
そう、それは生きる力だ。
生きようとする感情、意志、精神力の総合値、見えない力を客観化、定量化する概念を、技術によって見える化したい。
核心となる考え方、それがエキゾタイト。
「エキゾタイトが足りなくなるから、人は死ぬ」
ナミの言葉に、チューヤとサアヤは顔を見合わせ、異口同音に反問する。
「それって、魂?」
「魂と肉体をつなげる接着剤、と言ったほうが正しいかな? これだけでどうこうって話じゃないけど、最後のところで、生きるか死ぬかの切れ目を決定づける、重要な要素のひとつよ」
その要素を「科学」の眼で「定量化」しよう、というぶっ飛んだ研究なのだから、それに携わる彼女の行動が多少ぶっ飛んでいたとしても、異とするには当たらない。
「そんなこと、ほんとに……」
「悪魔を呼んでるご本人が、まさか疑う余地はないよね? もちろん肉体的に致命傷を負っているとか、修復不可能な欠損だとか、そうなるとエキゾタイトどうこうの問題じゃないわ。でも、肉体は修復した、あとは精神力と運の問題、と言われるような状況で、その先行きの決定に重要な位置を占めるもの……」
本来は精神論的な話を、彼女は冷徹な科学の視線から語っている。
チューヤはしばし考えつつ、
「つまり、今夜が山田、って言われたら」
「山田の口座に、エキゾタイトがいくら貯蓄してあるか、ってことね」
生きる力。
そんな大切なものを使って、悪魔の召喚は維持されているということか。
「悪魔を呼ぶと寿命が吸われるって話は、それじゃ本当なんですか」
「本当でもあるし、嘘でもある、と思うわ。悪魔召喚の概念については詳しくないけど、目のまえで見せてもらった事実から推論はできる。……いままではフリーモードで召喚が維持されていたんでしょう?」
チューヤはポケットから「おマグり」を取り出し、
「はい。思うに、このお守りの力なんじゃないかと」
「でしょうね。それだと説明がつくもの」
ナミは、部屋に一隅にある霧箱のような機械を指し示す。
それは、ちょうど人間の下腕が収まる程度の大きさの箱。
透明なガラスで覆われたそのなかに、湾曲した楕円形の1センチ程度の大きさの薄片が、空中に浮かんでいるように見える。
が、よく見れば薄片は細い針金のようなワイヤーに釣られていて、天板の下面に接着されている状態。
ときどき薄片がぴくぴく動くのは、このワイヤーを伝って電気的な力が伝わっているからのようにも見える。
だが、それにしても時折まるで人間の腕が、なかにあるような錯覚を覚えるのは、まさに手の指と同じ位置にその五枚の薄片が位置し、常になにかを求め、つかみ取ろうとするような動きをしているせいだった。
「なんですか、これ」
「なかに浮かんでいるのが、たんぱく質を主成分とする角質器。……見覚えあるでしょ?」
ごくり、と息をのむチューヤ。
「それって」
「そう、成分としては〝爪〟よ。あれは私のじゃないけどね」
自嘲気味に笑うナミ。心配げな表情のチューヤたち。
彼女からもらったお守りにはいっていた、彼女自身の生爪の印象があまりにも強い。
「ナミさん……」
「心配しないで。あのころは病んでたのよ。ま、いまも大差ないって言われちゃったら、そうかもしれないけど。……すごく楽しいのよ。この研究は。人類はようやく、エキゾチック物質に到達した。ゲット・エキサイテッド・エキゾタイト! ってね。ま、向こうの学会ですら、なかなか相手にはしてもらえなかったんだけど」
一年ほどまえ、アメリカの学会に出たナミは、そのあまりのひどい対応に、激しく嘆いていた時期がある。
「もう空港で泣きながら納豆食べるのはやめてよね、おばさん」
「あはは、いやなこと覚えてるねサーちゃん。まあ、あの当時は、まだまだ不十分な研究だったし、相手にされないにもほどがあったけど、最近はね、けっこう注目してくれる人が増えてきたのよ。エキゾタイトの実在が証明され、定量化の手段も見えてきたから」
似非科学の議論から一転、科学の俎上に載ってきた、ということ。
それは、量子化された生きる力。
彼女は魂の存在に触れつつあるのかもしれない……。
「それ、21グラムだった?」
「21グラム? ……ああ。あはは、まだそんなこと言ってるの?」
「おばさん!」
「ナミさん。グラムといえば、グラム染色で生きている菌と死んでいる菌が鑑別できるか、って問題、知ってる?」
露骨に話題をそらそうとしているようにも聞こえるが、学究肌かつ天才的な人間にとっては、あらゆる情報が高次に連結している。
「ええと、すいません」
「あはは、そうだよね。細菌の死、ってどういうものかも、わからないよね。人間の死を定義するのさえ、じつは困難だったりするし」
チューヤとサアヤは顔を見合わせ、小首をかしげて、
「あの」
「ご心配なく、私は変なオカルトや宗教にはかかわってないから」
「魂とか、呪いとか……」
ナミはすぐに察しやり、軽く頭を下げる。
「ごめんね、怖がらせて。その爪はたしかに、私の爪。そして私が研究しているのが、何度も言ってるとおり、エキゾタイトなんだけど」
「物理学のむずかしい理論なんですよね」
「エキゾチック物質といえば、そうね。数式化しようと思えば、その手の応用数理もいろいろ必要になってくるだろうけど。私は実務家なのよ。
理屈のうえでは生きてるはずだとか、確実性の高い予想では元気でいるとか、そんな言葉にはなんの興味もない。現に目のまえに、生きているか死んでいるか。その生命力を支える、ひとつの重要な要素はなにか。興味があるのは、それだけ」
「それが、エキゾタイト、ですか」
「生きる力。心の力。生命力。精気。なんでもいいけど。私たちはそう名づけた。それ自体に重さはないのよ、サーちゃん。
で、発見した触媒が、それ。爪よ。
掻き集めるもの。種によっては牙だったり皮膚だったりするけど。とにかく角質化した、生体の延長線。
言うなれば生体と死体との中間物質」
「生体と、死体との、中間」
「そう。細胞は生きているけど、爪や髪はある意味、死んでいる。けど、生命体の一部ではある。そして、その一部を使って獲物を殺したり、食ったりする。爪、牙、歯。エキゾタイトを集めやすい媒体だと思わない? 掻き集める概念の象徴化した物質。それが人間の場合、爪である蓋然性がきわめて高いことを、私は証明したかった」
「この爪が、悪魔の実体を」
「らしいわね。シンちゃん、あなたの力にとって、その爪は奇貨となる」
チューヤの脳裏に、新しい情報がつぎつぎと整列されていく。
「悪魔の実体化を支持する、悪魔の餌、エキゾタイト……」
「掻き集めなさい。あなたの爪に連動して、エキゾタイトは蒐集される。あなたのナカマを維持する、それは力となる」
「おば……ナミさんは、どこまで知って……」
彼女は笑う。
ルシファー。クリシュナ。ロキ。そしてガブリエル。
さまざまな悪魔の姿を見てきたが、サアヤにも、そういう「後援者」あるいは「狂言まわし」がいるのか。いるとしたら……。
「私は、ただのナミさん。あなたにとっての、そう……ルチャリブレみたいなものかな?」
チューヤの腰を指さし、いたずらっぽく笑う。
そこには、チャンピオンベルトを模したコルセット腰ベルト。
チューヤは、めくれた上着を慌ててもどしながら、
「あ、あの、これは」
「袖すりあうも他生の縁。あなたの場合、その傾向が顕著だったりするから。一度、会いに行ってみたら?」
「ええと、これはマスクマン議員の」
「……さて、行こうか」
状況は切迫している。
ナミはその核心部分へ、若者たちを連れていく決意を、ようやく固めた。




