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「ナミおばさん、なんの研究してたっけ?」
不法侵入の道中、チューヤは緊張感を和らげるため、あえて会話を試みる。
「エキゾタイト」
「それって、ええと……?」
とても大切なもののような気がするが、まだ掘り下げて考えたことはない。
「なんかすごいむずかしいこと言ってたけど、えっとね、エキゾチックなんだってさ」
エキゾチック物質。
分野によってその概念は微妙に異なるが、たとえば物理学などで言及される場合、風変わりな粒子、といった意味でとらえられる。
負の質量、虚数質量など、あくまで仮説上の数式のうえでのみ想定されている。
「生物学畑の人じゃなかった?」
「そう。生物がどうして生きて、どうして死ぬかを研究してる人」
一瞬、深いものを感じさせるサアヤの物言い。
「……おまえさ」
チューヤには母親がいない。
つまり母親を失ったわけだが、それは出産時のことであり、物心ついたときにはすでにいなかった。
母親はいない、というのが彼にとってはあたりまえの日常になっている。
一方、サアヤには弟がいない。
だが、かつてはいた。それも十分に物心つくまで、毎日顔を合わせて元気に過ごしていた弟が。
弟は本来、いるべきものだった。
それがある日突然、交通事故という悪魔によって奪われた。
きれいな顔をしていた。死人の顔とは思えないほど。
サアヤの弟は、永遠に帰ってこない。
そのとき、サアヤの心が壊れていく様を、チューヤは近くで見ていた。
あれ以来、彼女は「死」に対してヒステリックな拒絶反応を示すようになった。
卵さん、死んでないよ、温めれば、ちゃんと生まれるよ。
そうやってベッドのなかで、何個もの鶏卵を腐らせた。
中学生という多感で、人生にとってきわめて大切な期間の多くを、生き死にの問題について考えることに費やした。
そうして、いまの発田咲綾がいる。
「心配いらないよ、もうわかってるから。生物は栄養を摂って生きている。リョーちんの鍋、おいしいし。牛も豚も卵も、感謝していただきますよ!」
サアヤが強がるときに特徴的な、必要以上に首を振るしぐさとともに、口調だけは力強い。
それでも人間は、生き物を殺して、食べて生きている。
そのレベルのカルマは乗り越えた、と彼女は主張している。
「そういう心配はしてないが」
「……えっとね、人も動物も死ぬでしょ? で、人が死ぬと21グラム軽くなるんだって」
魂の重さは21グラムである、と報告した博士がマサチューセッツに実在した。
「ああ、そんな映画、見たっけ。トンチキな話だ」
「21グラムかどうかはともかく、それがエキゾチックな物質でできていたら、って考えてみてるのが、おばさん。で、エキゾチックな物質を集めて、死んだ人に注ぎ込んだら生き返らないかな、とか」
身近な人間を失ったのは、おばさんも同じだった。
サアヤには悲しむことしかできなかったが、おばさんの手にはそれ以外の手段があるのかもしれない、と考えてみる。
ひどく胡乱だが、どこかで符合はする。
「おい、サアヤ」
「冗談! チューヤったら、マジな顔しないのー」
表情は笑っていたが、目だけはとても冗談には思えなかった。
「おばさんマジメに研究してんだろ。生命医学に関して。この爪は……ともかく、変なふうに受け取るのやめてやれ」
「……だね。大事な人を失うって、だれでも悲しいし、だれもが経験すること。乗り越えていかなきゃね」
一瞬、沈黙する。
その真面目モードに耐えかねたように、チューヤが口を開く。
「ぼ……」
「ぼ?」
「ぼくは、しにま、しぇん」
「…………」
「アナタがー、チェキだからー」
ぽかーんとしてから、笑いかけて、ハッとし、無理やり怒りの表情をつくると、チューヤの胸をどつくサアヤ。
「チェキってなんだよ! 告るならちゃんとしろ、全国の女子ぷんすこだぞ」
「だれがだれに告るんだよ! しかもこの謎タイミングで。冗談はよしこさんにでも聞かせとけ」
鉄拳が交錯する。誰が見ても仲の良いふたり。
そこに底流する悲しみの深さは、一見してはわからない──。
これだけ堂々と動いているのに、警備らしき動きのないのが逆に不気味だった。
いや、すでに警備システムは作動していて、ただ敵の掌のうえで泳がされているだけなのかもしれない、という嫌な予断を振り払う。
工場棟は、どうやらドルミナンBを製造しているラインのようだった。
いくつかパーティションで区切られているだけで、ほとんど壁のないぶち抜きのフロアを数階、積み重ねた構造のライン上、機械のように動く従業員たち。
そのひとりに発見されたとき、チューヤはいままで感じていた違和感が、的外れなものではなかったことを認識する。
──従業員の目はうつろで、生気がない。
まさに、機械。
彼らはチューヤたちが侵入者であるという意識もないかのようだ。
決まったルートを動き、決まった動作をする自動機械たちは、侵入者を見ても適切な対応ができない。
ただ非常停止ボタンを押すように、警告を鳴らしてだれかを呼ぶ者も、なかにはいた。
機械は、予定されていない問題を、自分の力で処理できない。
そのための別の作業員を呼んで、問題を取り除き、再びルーティンの仕事をくりかえすのみ。
「これが人間、なのか」
あるいは、人間がやってきたこと。
かつて人間がこれらの仕事をし、機械という新生物によって代理させ、やがて再びその仕事が人間にまわってきただけ、とすれば。
新生物が、創造主である人間を超えるに及んで、人が神を殺す、その理が証明される──。
深い考えを推し進めている時間など、もちろんない。
警備員たちの姿が、通路の向こうに見えた。
彼らの視線さえ、あるいはうつろで、侵入者排除というルーティンをワークしているだけなのかもしれない、などと考えてみる。
とにかくも、まだ捕まるにはすこし早い。せめて抵抗の痕跡くらいは残しておきたい。
そう判断したチューヤは、常ならざる高い集中力を維持して、的確な退路を選択しつづける。
通路を右に左に折れながら、たどり着いた部屋、窓を開き、下を覗く。
背後には警備員が迫っている。
「高いよ、無理だよ、死ぬよ」
首を振り、いやいやをするサアヤ。
「俺が先に降りる。受け止めるから」
議論している時間はない。チューヤは窓にぶら下がり、手を放す。
この状態だと、すぐ下の階の窓枠までは1メートルもない。
落ちながら、下階の窓枠を踏み台に、適宜落下スピードを殺しながら、地上へ。
ふつうなら、思っていてもできないことだ。
それが、なぜか異様に冴えた脳細胞によって、最善のタイミングで四肢を動かす能力が付与されていた。
地上に降り立ち、見上げる。
わかってはいたが、高い。10メートルの高さを受け止める自信はない。
が、やるしかない。
「飛べ。俺を信じて」
そのときチューヤは、サアヤが遅まきながらナノマシンを起動するのを見た。
チューヤの集中力の源泉をそこに見出したのは、正しい。
「いい。同じこと、なんとかやってみる」
もちろんそれが最適解だ。失敗した段階で壁を蹴ればいい。
いきなり失敗するかもしれないが、多少ダメージが増えるだけのことだ。
挑戦しないでだれかに頼るより、失敗してから頼ったほうがいい。
「無理すんな、サアヤ」
「するよ、多少は。だってチューヤさ、最初からパソコン不具合報告すると、不機嫌になったじゃん」
ちょっと調べれば解決法が出てくるようなことを、最初から、できなーい、やってー、と甘えてくる女子。
甘えられることの好きな男はいる。自分が頼られていると感じたいからだ。
それが簡単にできることなら、簡単に自分が役に立っていると感じられる。
そういう需要は、たしかにあるのだが、逆のタイプもいる。
ベストを尽くして、それでもできないので手を貸してくれ、と言ってほしい。
それなら喜んで手を貸す。むしろ頼られたい。
だが簡単にできることで頼るのは、どういう了見だ。
俺は便利屋じゃない。ベストを尽くしてから、しかる後に頼れ。
チューヤは、どちらかというと、そっちのタイプだった。
「そっか。よし、失敗したら受け止める、がんばれ」
「うん、行くよ……」
「失敗したと思った瞬間、壁を蹴れよ」
「私、失敗しないから」
じっさい、彼女はうまくやった。途中までは。
2階で失敗するが、壁を蹴って傾いた身体をチューヤが受け止め、とくに被害はない。
やった、俺たちはやったよ、と手をたたいて喜ぶふたり。
「すごいね、ナノマシン。いろんな能力を上げてくれる」
「ああ。ついでに悪魔も呼べればいいんだが」
チューヤは召喚のプロセスにはいろうと試みるが、視界のノーティスがグレイアウトするばかり。
本質的にそういうものなのか、チューヤの能力が足りないだけなのかはわからない。
とにかく「こちら側」では、ナノマシンが本来持っている力を使い切ることはできない仕様になっている。
「やっぱり、あの変な空間にはいらないと、悪魔は実体化させられないの?」
ナノマシンを起動して、集中力を増す程度は、いつでも可能になっている。
だが、こちら側で純粋に「魔法」が使えないことは、すでにサアヤも確認済みだ。
悪魔召喚に関しても同様、人間など憑依する媒体があればいいが、なにもない物理空間に直接悪魔を呼び出すのは、すくなくとも現状では困難だった。
世界が境界化していれば、こちら側であると同時にあちら側でもある、という好条件によって、召喚は成立する。
だが現状、世界はあちらに寄ってはいても、あくまでこちら側だった。
「完全に境界化するまでは、実体化は無理かもねー」
空中から声がする。
チューヤの視界には、不完全召喚、と警告が出ている。
目を細めてじっと見つめると、虚空にハイピクシーが、うっすらと存在していることがわかる、という程度の姿を見せている。
「まあな。古典的な物理学が、容易に存在を認めないモノだからな、悪魔は」
チューヤも、その理由について、なんとなく察しはつけている。
要するに「科学的ではない」とサイエンスが退けるような空想的な存在は、心霊スポットや霊験あらたかな地、パワースポットの内側でのみ、共同幻想として存在を許されているに過ぎない、という話だ。
そのモノが、容易に物理空間を蹂躙することは、人類が積み上げてきた古典物理学の見地からしても、断固として許されない。
そういうものだ、と認めるしかない世界として、たしかに「量子力学」という新しい要素は付け加わった。
その延長線上に、魔法を合理的に理解する数式が隠されているらしいことも、一部の科学者、数学者たちが予測をつけつつある。
ただ現状、未完成の理論が役に立つ場面はほとんどない。
体験上、「境界」という物理学をさらに拡張する概念が混じった空間においてのみ、別の法則に従った悪魔が実体化する可能性があるというだけの話。
そして、そんな思考実験的な考えを推し進めている余裕も、いまの彼らにはない。
「危ない……っ」
直後、チューヤは身体を反転させながら、腰のベルトを引き抜いて横に薙ぎ払った。
背後から接近していた警備員の顔面をとらえ、弾き飛ばす。
想像以上の破壊力に、ベルトを振ったチューヤ自身が驚いた。
「ワーオ。ナイス反応だね」
陽炎のようなハイピクシーが、ゆらゆらと揺れながら、倒れた警備員のうえに覆いかぶさるようにして、その指をべろりと舐める。
首が妙な方向に曲がっている。
びくり、とサアヤは背中を揺らす。
「……まさか」
「うん、死んでるね」
ふるえあがるチューヤを慰めるように、ハイピクシーはつづける。
「最初から」
「……え?」
「こいつは、半分ゾンビみたいなもん。あたしと同じに、こちら側に実体化できない悪魔の触媒として使われているだけの、操り人形だよ」
地面に倒れた屍体、なにかをつかもうとするように中空に突き出された腕。
その腕にまとわりつくようにしてくりかえし、べろり、と舌なめずりをするハイピクシー。
「なに、やってるんだ、ピクシー」
「うふ、おいしい(はぁと)」
その声を発するピクシーのシルエットが、やや濃さを増したように見える。
「ピクシー!」
もう一度呼ばれ、ハイピクシーはややうざったそうにふりかえって、
「……はあ? エキゾタイトでしょうが。あんたバカぁ?」
再びチューヤとサアヤの心に、情報の連結と共有化が図られていく。
「エキゾタイト」
生体磁気、心の力、精気……。
「いろんな呼ばれ方をするけど、要するに強い感情やショックによって最大化する、一種の生命エネルギーだよ。一般には、殺される瞬間のエキゾタイトが最も強烈とされてるよね。だから、おいし」
最初から死んでいるはずのゾンビ警備員も、その動きにトドメを刺されたという意味での生体磁気が、発生しているのかもしれない。
「教えてくれ、ピクシー。エキゾタイトって」
「あたしをナカマにして以来ずっと、チューヤの身体からふつーに供給されてるじゃん、エキゾタイト。意識してないの?」
うっすらと、まとわりつくようなエネルギーの流れを、当初から感じてはいた。
悪魔相関プログラムに自然に付随するものと思い込んでいたが、その正体について、突き詰めるべき時期にきたのかもしれない。
「この……お守りか」
チューヤはゆっくりと、ポケットから赤い「おマグり」を取り出した。
懐中時計に定期入れという日常的に持ち歩くモノに、ナミおばさんからもらったお守りをつけて、チューヤ3点セットとして肌身離さず持っていたことの意味。
いまや、新たな知見を得たチューヤの要求に従い、ナノマシンは対応する情報を開示しはじめた。
お守りから、謎のネットワークへアクセスしているログが割り出される。
AMTRSネット。
直近の記録は、アクセス停止ログだった。
「そのお守りが、どこかからエキゾタイトを供給してくれていた。だからあんたは、本来はエキゾタイト残量を気にしながら維持しなきゃいけない召喚を、ほとんど無制限のフリーモードでつづけられていた。ところが現状、その供給が停止している。その謎を解くべく、本丸らしいネットワーク中枢に突撃してる、ってわけじゃないの?」
ハイピクシーは、ゾンビ警備員のエキゾタイトを吸い尽くしたらしく、ふわふわともどってきた。
「ああ、どうやら結果的に、そういうことになりそうだよ」
「ナミおばさん、もしかしても、いろんなこと知ってるのかも」
いよいよサアヤの叔母に接触する必然性が、いや増した。
ハイピクシーは、チューヤのナノマシンが用意する「ストック」という住処にもどりながら、
「なんかさあ、いろいろ秘密ありそうよね、こっちのあんたにも」
チューヤの脳裏を、クチナワの剣をくれた、もうひとりの自分の姿がよぎる。
見たことはないが、たぶん同じ顔だろう。
そして自分よりは、悪魔召喚について詳しいはずだ。
「こっちの俺、か。ふん、俺は俺で俺だけだ」
「そうかな? そうなのかな? うふふ。やっぱ、おもしろい。退屈しないわー。今後ともヨロシクね、チューヤ」
ハイピクシーが姿を消すと同時に、別の足音が迫ってくるのを感じた。
まだ危機が去ったわけではない。
ミッションは継続中だ。




