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「あなた……拉致されたというのは……狂言ですか」
怒りにふるえるヒナノのうえに、天使の羽がゆっくりと風を送る。
「強制性が皆無であったわけではありません。世界が変わりつつあります。お目覚めください、マドモワゼル。……さあ、これを」
差し出された白いカプセルに、チューヤたちは見覚えがある。
覚醒を促すナノマシン。
デメトリクス社製、かどうかはわからないが、いずれにしても悪魔の力を得るための──カプセル。
「そんなもの……」
手に取って、そのまま投げ捨てようとするヒナノに、
「それを飲むと、私たちと同じになるよ、ヒナノン」
背後からサアヤの声。
ヒナノはちらりとふりかえり、それから手わたされた白いカプセルを見つめる。
彼らと同じ土俵に立つ。
それは望ましいことなのか、それとも。
「お嬢が良ければさ、そんな変な力なんか身につけなくても、俺たちが守ってあげるし」
つぎの瞬間、ヒナノの手が躊躇なくカプセルを口内に放り込んだ。
あんぐりと口を開けて二の句が継げないチューヤ。
肩をすくめ、ため息を漏らすサアヤ。
「ま、ヒナノンのことはさ、とりあえずあきらめなよ、チュー(ヤよ)キチ(ンとフラれとけ)」
いつもの演芸コーナー。
「淡い夢さえも砕け散る、の巻。サヤボー、俺を慰めろ」
「おー、よしよし」
「失恋した直後にやさしくするとか、ズルい女だなおまえ」
「そういうボケ、死をもって贖わせる……よっ?」
「痛恨!」
夫婦漫談からのドツキ系ローリングソバットを無視し、ヒナノはガブリエルにもう一歩、詰め寄る。
「ホールにいた巨大なものは」
「レリエルですよ、マドモワゼル。聞いたことくらいはあるでしょう? 神学機構の施設であるこの図書館で、夜警の仕事をしてもらっています」
「夜警……」
サアヤが背後から、チューヤに関節技をかけながら、
「夜勤の警備員みたいなものじゃない?」
「わかっています! そういうことではありません」
ガブリエルは、どこからか出した紅茶をヒナノに差し出しながら、
「これからは、神学機構の仕事もすこし忙しくなります。毎朝のお勤めは、他の者に代わっていただくことになります」
ヒナノはひとつ呼吸を整えてから、まっすぐにガブリエルを見つめる。
「あなたはいったい何者なの、ガブリエル」
ガブリエルの笑みは神々しい。
「あなたが呼ぶ通りのものですよ。……さあ、そろそろナノマシンが活動を開始したでしょう。あなたのおばあさまがくれた指輪から、カーバンクルが目覚めてくるのが見えませんか?」
言われるまでもなく感じていた。
祖母の指輪を提げた首元が熱い。
事実、赤い光が周囲を明るく照らし出している。
それは指輪の精、カーバンクル。
無数の燃えるような宝石が集まる場所、田園調布で長らく暮らしていた妖魔。
宝石には精霊が宿っている。
なかでも「想い」のこもった指輪には、強い念が封じられ、持ち主を守り、あるいは害を及ぼす。
「さあ、あなたの守護霊、カーバンクルを呼び出しなさい」
「かー、ばん、くる……?」
誘われるように、その種族の名を口にするヒナノ。
呼ばれて飛び出て、という古いニュアンスがぴったりくる古典的な煙のエフェクトに乗って、つぎの瞬間、彼女の胸元から弾けだしたのは、赤褐色の小さな物体。
「かーばーん」
カーバンクルは、辞書的には「ザクロ石」すなわちガーネットである。
中世、スペインの僧侶が見つけたという伝説上の生物でもあり、それによると額に真っ赤な宝石を埋め込んだサルかリスに近い小動物、ということになっている。
日本でも近年、ゲームなどのキャラクターとして、ある程度の認知度を得ている。
──赤ん坊くらいの大きさのそれは、上半身と下半身がカバンのように折りたたまれ、その縁ががま口のように開く、一種のキモかわいい系キャラクターだった。
ふわりと空中を舞い、時折炎の息を吐きながら、ちょこん、と肩の上に乗る、マスコット的キャラ、カーバンクル。
ヒナノの金髪縦ロールと、妖魔の巻き上げる炎が混然一体となり、それは見事な一幅の絵画、女神と見まごうばかりの美しさだった。
揉み手で歓喜するチューヤ。
「なんと理想的、魔女っ娘とマスコットのパーフェクト・セット!」
それは秋葉原で売っていそうな、薄い本の表紙にぴったりの構図。
だいたい大きなお友達の喜ぶ魔法少女系の物語では、喋る小動物や謎の不思議キャラが、お供として付き従うというルールになっている。
「あれは、たしかに、かわいいかも……」
すこし羨ましそうなサアヤ。
考えてみればサアヤは、チューヤのナカマから魔法を教えてもらうことはあっても、守護霊的なものに守ってもらっているわけではない。
「サアヤ、ヒロイン交代してもらえば?」
「てめーが退場してから……っな!」
「痛恨!」
背後のドツキ漫才をしり目に、ヒナノは自分の周囲を包む赤い炎を、空恐ろしげに見つめる。
たしかに燃えている、そう見えるのに、熱くない。
「あなたの魔力と共振しているだけです。あなたの適性は炎、そして広範な攻撃魔法」
ガブリエルの言葉に従うように、カーバンクルがくるくるとヒナノの周囲をまわりながら、彼女の脳内に巣食うナノマシンに、自身の攻撃魔法をインストールしていく。
「……火炎魔法、丙級、単式、回路形成、直流にて、執行?」
内なる声に従うように、突き出された腕を巻き込んで、ナノマシンが自動的に構築する魔術回路。
巻き上がる炎を、ガブリエルは軽く受け流したが、ふつうのザコキャラなら一撃必殺の破壊力であることを、ザコキャラのひとりであるチューヤは心から認めた。
「それが魔法です、別の世界線では一般的『法則』であり、こちら側の物理的『原理』とまじわった境界のなかで、あなたの力となるでしょう」
よく見れば中空に浮いているガブリエル。
その周囲には水蒸気が渦を巻いている。
ガブリエルは北方を守護し、その属性は水。パラケルスス四大元素の法則によれば、ヒナノの攻撃魔法に対しては鉄壁の相性を持っている。
まるで、彼女が道を踏み外したら、ただちにそのその炎を消し去りますよ、とでも言わんばかりに。
だが、ヒナノはまだこの世界に参入したばかりの、まさに雛。
「火炎、魔法。この世に魔法なんてものが」
たとえ属性の相性が最悪であろうとも、魔王クラスとわたりあう四大天使の実力に及ぼうはずもない。
サアヤは、ほんの一週間でも魔法的に先行している自分を顧みながら、
「ああいう地球の常識に縛られていた時代が、私にもあったかと思うと、懐かしいというか……なんだか年をとった気がするね」
はらはらと涙を流すチューヤ。
「もう、ふつうの男の子にもどれない……」
「いや、チューヤはじゅうぶんフツーだから。お手本みたいなフツーのダメ人間」
「うっせ! サアヤうっせ!」
ヒナノは、そんな二人のほうに視線を転じ、
「これが、あなた方の言っていた世界……?」
「まあ、そうね。私たちも、まだほんとのところは、よくわかってないんだけどね」
ヒナノは自分のなかの常識と戦いながら、それでも意志の力を寄せ集め、自分の目にしたもの、感じている事実に対応する決意を固める。
「……アニメのなかだけの話かと思っていましたけれど」
「宗教的には、奇跡ってよくあるでしょ」
「これは宗教的な力なの?」
「信じる者であるならば」
物静かに語るガブリエルは、天使の力と悪魔の力、その性質のちがいを明確には説明できていない。
とにかくも、彼女は力を獲得した。
いま、ようやく仲間たちと同じ土俵に立ったのだ。
ガブリエルは優艶に立ち上がり、出口に向かって歩き出す。
「カテドラルに召集がかかっています。しばらく帰れないかもしれませんが」
お待ちなさい、とヒナノは早足でガブリエルの歩調に合わせ、
「あなたはいったい、だれ? 神学機構とは、実際問題──」
「あなたも、それなりにご存じのはずですよ。あのままミツバに通っていれば、もうすこし多くの情報を得られたでしょうが」
チューヤたちも、ヒナノが名門から一般の高校に降りてきた理由を、よく知らない。
そんなこと……と言いかけて、ヒナノはハッとする。
「わたくしが、あの場所から離れたから、あなたが派遣されてきたの?」
「そればかりではありませんが。そもそもマドモワゼル、あなたはまだ神学機構に近づく資格さえない。あなたの周りには、まだいくつかやるべきことがある。
あなたの指輪を狙う盗賊、あなたの両親を包んでいる不穏、あなたとちがって熱狂しすぎる弟君、それにあなた自身を縛りつづける過去……。
それらを乗り越える力を、あなたはあなた自身か、あなたの頼れる友人たちのなかに探し出す必要がある」
軽くふりかえり、言い放たれたガブリエルの口調は、いままでのなかでいちばん冷たい。
心を鬼にして、わが子を千仞の谷に突き落とす獅子の気持ちに近いのかもしれない、と傍観者たちは思った。
そのまま姿を消すガブリエル。
会議室に残される三人。
──彼女は彼女自身の力だけを頼る。
そういうタイプだとわかってはいるが、友人として、できるだけのことはしてやりたい。
遠慮がちに口を開くサアヤ。
「なんか、いろいろ大変なことがありそうね? よかったら手を貸」
すると、ふりかえったヒナノの表情は、ほとんど意地悪とも呼ぶべき傲岸不遜。
「あなたこそ、問題にまみれているのではなくて? 他人の心配などしている余裕はないでしょう。先刻、おばさまに呼び出されて、あわてて向かったその場所に、あなたの果たすべき役割があるなら、すぐにでも向かいなさい」
「それは、その」
口ごもるサアヤ。
両者を見まわして首をかしげるチューヤ。
ヒナノは決然と言い切る。
「今回の件で、多少、あなた方の手を煩わせた事実は、記憶にとどめておきます。果たすべき清算は、しかるべきときに行ないます。わたくしはわたくしの問題を、あなた方はあなた方の問題を片づけなさい。……では、これで」
言いたいことだけを言い、出て行こうとするヒナノ。
かけるべき言葉があるような気もするが、残された側にも、気になる事態はある。
ヒナノのほうに一歩を踏み出しかけたチューヤは、すぐに足を止め、ふりかえる。
「……どういうことだ、サアヤ。おばさんに呼び出されたって?」
「というか、ちょっとしたトラブルみたいなんだけど、たぶん会社で」
目線を泳がせながら、どう説明したものかと戸惑う。
「トラブル? 会社の問題なら、社会人として通常業務だろ。それ、サアヤに対処できるの?」
「それでさっき一度、光が丘に行ったんだ。会社まで行ったけど、門が閉まってて」
「まあ週末だし、夜中だし」
社会の常識では、「勤務中の社員」にはアクセスできない時間だが、彼女の常識は社会の非常識、という定説もある。
「携帯もつながらないし。どうしようチューヤ。私どうしたらいいのかなあ?」
「……とにかく行ってみよう。呼び出しだけは定期的にしろ」
「うん、わかった。ごめんね、チューヤ」
困惑の表情のなかに、一抹の安堵をもたらしえたことに、チューヤは満足する。
「なーに。お嬢の問題を解決したってことにすれば、もう部員4人分の面倒は見終わったわけだ。あとは真打登場、サアヤの問題を片づけないとな」
「おばさんの問題だけどね。ってか、そもそも問題ないかもしれないけど」
「ここからなら、そんなに遠くない。確認したほうが安らかに眠れんだろ」
「だね。しかたない、手を貸させてやるか!」
にこにこ笑ってチューヤの肩をたたくサアヤ。
その先に、因縁の岩戸が立ちはだかっていることも知らず。




