37
「わたくしは行きませんよ、殿方の部屋を妙齢の婦女子が訪ねるなど、そもそも」
川の手線の車中、ヒナノは想像以上に頑固だった。
「はいはい、わかりましたよ。じゃ、このまままっすぐ家に帰るの?」
めんどくさそうにシートにもたれるケート。
ヒナノは首を振り、
「いいえ、週末は田園調布の実家に帰ることが多いです。ご存知でしょう」
ケートは斜めうえのデジタルサイネージを眺めながら、
「そうだったねー。そもそも川の手線で駅ふたつ隣に実家があるのに、わざわざ成城に引っ越してるお嬢って、なんなの? まだ聞いてなかったよね、その話」
「ですから、実家が」
「親の実家が成城にあって、学校まで駅ふたつ近いから、って理由としては弱いよね。そもそも中学までデンミツに通ってて、エスカレーターで進学するのが普通なのに、わざわざ」
「それ以上、お話しするつもり、ありませんから」
あいかわらず、取り付く島もない。
デンミツ。田園調布參葉学園。日本を代表するお嬢様学校として知られる。
三位一体を表現する三つ葉を紋章とする、ミッション系の中高一貫校で、高校からの進学は欠員が出ないかぎり認めないという狭き門。
そこを通過して当然の立場をあえて捨て、わざわざ辺境の私立へ……。
「あ、そう」
「あなただって広尾の幼稚舎から、エスカレーターで進学するはずだったのではなくて?」
第一義塾幼稚舎。
こちらも名門と誉れの高い一貫教育校だが、ケートはあっさりとその地位を捨てた。
「広尾? ああ、あれは単に、当時住んでたじいちゃんの家が近かったからさ。大金持ちのオヤジを育んだ実家も、最初から金持ちってんだから、つまんない話だよ」
「世界有数の投資ファンドですものね。資産規模でいえば、わたくしでもかないませんわ」
「言いながら見下すその目、やめてくんない? しょせん成金よね、っていう態度透けて見えるんだよね」
「被害妄想ですわ。ご実家もお金持ちなのでしょう? それにわたくし、べつに家系を誇るつもりなんてさらさらありませんもの。むしろ、あなたの自由がうらやましいくらい」
彼らの周囲に築かれる壁の厚さは、決して財力の厚さばかりが理由ではない。
「ボクたちはどっちも金持ちだけど、育ち方が真逆なんだよ。お嬢はカッチリ社交会の枠にハメられて、ボクは完全に放任された。もちろん習い事はそれなりにやらされたが、それは親の意思じゃない。あくまで教育係の見解ってだけだ。ボクも、あえては逆らわなかったけどね」
「教育係の意見と、親のメンツ。どっちがマシかなんて、だれにもわかりませんわ」
「そのメンツをつぶすような進学だろ? 天下のお嬢様学校ミツバから一般私立なんて」
沈黙のヒナノ。
話のもどし方がわざとらしすぎたか、と反省するケート。
「つぎは西荻窪、西荻窪。JR中央線はお乗り換えです」
一列シートに並んで座っていたふたり。
立ち上がろうとするケートの手に、ヒナノは持たされていたきんちゃく袋をわたす。
「……お嬢?」
「わたくしは行かないと言いました」
「本気?」
「ええ。誇りにかけて」
ケートはしばらく考えていたが、すぐにシートに腰をもどすと、
「まあ、本人がそう言うんじゃ、しかたないよね。……嫌われたもんだな、チューヤも」
「べつに、彼のことは好きでも嫌いでもありません。ただ、そんな人の家まで、わざわざ食べ物を持って行くだけの理由が、わたくしにはないというだけです」
「なるほど。たいへんな説得力です」
閉じるドア。
「本日は首都直下鉄道をご利用いただき、まことにありがとうございます。この電車は環状線左回り、羽田空港方面行です。つぎは久我山、くがやま。京王井の頭線はお乗り換えです。
This is Capital Tube Line trains bound for Haneda-Airport. The next station is Kugayama. Plaese change here for the Keio-Inogashira line.」
「え、つぎゃくぁやぁ、くぁやぁ」
録音された定型文の終わりにかぶせるように、聞き取りづらい車掌のアナウンスがぶっこまれるのは、どこの鉄道会社も同じだ。
人身事故で京王線が遅延しているらしいことを、どうにかその特殊な節まわしから聞き取る。
何人かの乗客は、すぐにスマホで情報を確認している。
乗り換えの必要なく家に帰れるケートたちは、とくに気にする様子もない。
金曜の夕方。
まだラッシュにはすこし早いが、慢性的に混む中央線への乗り換えをこなすと、客数もかなり落ち着く。
はた目には仲のいい姉弟を装ったふたりを乗せて、電車は東京の地下を南下していく。
「……千歳烏山ですよ?」
「ああ。ちょっと葛西に用があるんでね」
「またですか。先週も行っていましたね」
「というわけで、きょうも田園調布でお別れですな、お嬢」
ふたりの時間が、数分ほど延長される。
「葛西は外国人が多いと聞きますが」
江戸川区、江東区だけで、都内の約四割のインド人が集まっている。
2000年問題のときに急増し、以来、江戸川区は代表的なインド人村、IT技術者の町となった。
「インテリジェンスの町さ。IT技術者を集めやすいんだ」
「技術者を集めて、なにをなさるおつもり?」
「答えてもいいけど、代わりに、このたとえ話に答えておくれ」
「なんでしょう」
ケートは小首をかしげて考えながら、
「渋谷に実家があるとする。新宿に母方の実家があるとする。で、学校は池袋にある。渋谷からでもじゅうぶん通えるが、新宿のほうが近い。そこで新宿に引っ越す。そういう選択をする人に考えられる理由は、なんだろう?」
「…………」
「……渋谷に住みたくない、なんらかの理由がある。そう考えると、ものすごく理解しやすいと思わないか?」
「ご自分で答えをおっしゃっていますね」
不快げにそっぽを向くヒナノ。
ドアが閉じる。
ヒナノはいつも、この成城学園前で乗り降りしている。
「つぎは二子玉川、ふたこたまがわ。東急田園都市線、東急大井町線はお乗り換えです」
チューブ「西線」の区間が終わり、列車はそのまま「南線」の区間を走行する。
──血筋としては生粋の世田谷っ子だが、ヒナノはパリに生まれ育っている。
「成城は、母方の実家ではありますから。海外生活をしていた間は祖父母に寂しい思いもさせておりましたので、いまは、わたくしの同居を喜んでおりましてよ」
「成城と田園調布、川の手線の駅としてはたった二つだよ。まあ私鉄の駅間距離を考えれば、距離的には近くはないけども」
川の手線が田園調布と成城学園前に駅をつくったのは、彼女の帰省のためではないか、というくらいのタイミングだった。
「電車というものも、このごみごみした雰囲気を除けば、便利なものではありますね」
「切符の買い方も知らなかったお嬢が、なかなか成長したもので」
ヒナノは素で、きょとんとした。
「なぜ切符など買う必要があるのです」
「ICカードがあるから、って理由じゃないところが、お車通学がデフォのお嬢らしくていいね」
二子玉川を過ぎて、ドアが閉じる。
「つぎは田園調布、でんえんちょうふ。東急東横線、東急目黒線はお乗り換えです」
お金持ちパスポートがなくても、田園調布には行けることになっている。
ケートは、壁の広告に気持ちブランド志向が増えてきた雰囲気を感じて、
「そもそも田園調布が高級住宅地なんて、東急が吹聴したデマだと思わない?」
「前半はともかく、後半は事実になったのですから、デマではないでしょう」
「一時的に事実だった時期はあるかもしれないけど」
「いまでも、それなりに事実ではあるかと」
広い家は多いし、ガレージにある車はたいてい高級車だったりする。
「たかが五十年やそこらで」
「たかが十何歳の人間が語りますか」
議論の必要上、互いに対立する立場をとってはいても、当人はべつにどっちでもいいと思っている。
「国としては、すばらしいと思うよ。現に先進国で特異な地位を保っているんだから、それほどわるくはない」
安心して地下鉄に乗れる世界的富豪の御曹司。
こんな空間は、世界のどこを探してもない。
「日本が安全な国で、ほんとうに良かったですね」
「いままでのところは。これからどうなるかは、わからない」
ケートの表情が厳しさを増したことに、ヒナノは気づいている。
「……なにをおっしゃっているの?」
「お嬢のバックに神学機構があるように、ボクや、リョージや、あの蛇女のバックにさえ、組織がある。蛇の場合は組織犯罪といったほうが正確だが」
話題が突然、剣呑な方向に傾く。
ヒナノは慎重な言いまわしで、この展開の落としどころを探る。
「突然のお話で、どう応じればいいのかわかりかねますが」
「すくなくとも神学機構については、よくご存じらしいってことはわかったよ」
素直に答える自分でないことは相手もわかっているから、鎌をかけているんだな、とヒナノは理解して、
「あなたは、たとえば……フリーメーソンのような?」
反撃に転じる方途を模索する。
するとケートは、あっけらかんとした笑い声をあげて、
「あっはは。メーソンの陰謀論は根強いよね。お嬢もけっこう、そういうの好き?」
「いいえ、好きではありません」
「だよねえ。まあ世界のならず者組織に目をつけられたら、殺されるのは簡単なんだよ」
殺し、殺されるのが、日常のなかに組み込まれる世界。
ある種のセレブというのも、楽ではない。
「空港で衆人環視のなか、だれにも気づかれず、ガスで殺されたりもしますからね」
「そう。だから殺すってのは、組織にとっては簡単なことなんだ。難易度で言えばね。……拉致監禁となると、そのひとつ上の工作活動かな?」
ぴくり、とヒナノの肩が揺れる。
一般論なら問題はない。だが、なにか具体的な情報があって、彼がこの発言をしているとしたら。
電車がはっきりと減速を開始する。
それは会話が、残り30秒という意味だ。
結論も拘泥もなく、ヒナノはゆっくりと立ち上がり、優艶にふりかえる。
「お互い、立ち入らないほうがよろしいかと思いますわ」
「……まあね。気をつけて」
だれに言われずとも、ホームにはヒナノを待ち受ける黒服の影がある。
心配はいらないだろう。
つぎの一瞬、ドアを出ようとするヒナノの手に、タッパーのはいったきんちゃくの袋を引っかけ、そのまま押し出すケート。
ふりかえるヒナノ。閉じられるドア越しに見つめ合うふたり。
車内でケートの口がパクパク動くのを、ヒナノは複雑な表情で見つめる。
彼がなにを言いたいのか、なんとなく理解はできる。
ただ単純に、同意ができない──。




