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宗教裁判は、だれかを異端者として名指しするところから開始される。
うわさ、告発、どんな形でもよい。それが教会の耳にはいれば、ただちに異端審問官が動きだす。
「告発を受けた聖省は、まず予備的な審問を開始します」
虚偽の告発もありえたため、告発を支持するに足る証拠を集める、という手順は昔からもちろん行なわれてはいた。
「じゃ、ガブリエルさんは」
「ええ、まだ初期の尋問の段階です。彼女の位階を考えれば、それでもずいぶん進行は早いと言えますが」
異端の疑いが明確になれば、容疑者は被告となり、異端審問所に召喚されて、正式な裁判の開始となる。
「どんな容疑なの?」
「代々木上原のバフォメット……ムスリムと通じて、神学機構の利益を損なったということのようですが」
顔を見合わせるチューヤとサアヤ。
「え、それ、イスハークさん?」
「今朝、会ったけど」
「……それは偶然ですね。逃亡者ですよ、いまの彼は」
短く嘆息するチューヤたち。
彼らの知るイスハークであれば、さもあろう。
「やらかしたんだね、あのひと、とうとう」
「淫行?」
「いえ、そうではないと思いますが……」
ともかく現状、イスハークは神学機構にとっても「追われる者」となっているらしい。
その仲間の可能性がある、という指摘だが。
「それじゃ先週のイスハークさんの証言は」
「むしろわるい方向に転がりました。共犯者のレッテルを貼られています」
「それにしたって、なんの証拠もなしに有罪にはできないでしょ。証拠はあるの?」
「ありません。状況証拠で3週間、ガブリエルを拘束できていること自体、おかしいといえばおかしいのです」
「3週間まえ……ああ、もしかしてケートが」
拘置所から神学機構のサーバにハッキングをかけた。
そのとき、彼らの行動とはまったく無関係に、その隙を縫うようにして、別のルートからウイルスらしきものが忍び込んだ。
ただちに非常態勢にはいった神学機構は、ネットワークを切断、ブロックごとに洗浄をかけ、可及的速やかなセキュアをとりもどしている。
「しかし、まだ肝心のウイルスの侵入経路が、特定できていません」
「証拠不十分で釈放されないの。近代法治国家なら48時間だよ」
警察官の息子として、証拠をでっちあげてでも検察に送りたいという動機が、まさにこの証拠不十分という言葉にこめられていると思う。
刑事事件においては、48時間、72時間、そして23日という重要なターニングポイントがある。
ガブリエルは逮捕後、すでに23日を経過しているが、異端審問官が「起訴相当」と判断したことにより、起訴後勾留へと移っていた。
起訴が行なわれた背景には、イスハークとの共犯関係の疑いがあるらしい。
「残念ながら、状況証拠はあるのですよ。ウイルスが投入されたと考えられるネットワーク上の経路は、特定できていない。言い換えれば、内部から直接の侵入があったと類推される。USBメモリなどを、サーバルームに持ち込めるかぎられた人間が、疑われています」
「ガブリエルさんは」
チューヤらの視線を受け、軽くうなずくガブリエル。
唇を噛みながら、ヒナノは事実のみを語る。
「本来業務とは関係ないサーバルームに、彼女がアクセスした形跡がありました」
「でも、それだって、ふつうにサーバの管理人が犯人かもしれないじゃん」
「ええ、ですから状況証拠です。現在は、さきにサーバを管理しているスタッフから、起訴後異端審問が開始されているところです」
ヒナノはゆっくりと、重々しく扉を開いた。
カテドラルの地下へ向かう通路。その下から、異常に冷たい空気がぞわりと這い上がってきた──。
一神教の4大天使は、すべての「宗派」に平等である。
言うまでもないが、どこにも肩入れはしない。
一神教という巨大なフレームワークの内側で機能しているパーツであり、特定の宗派に偏ってひいきしたり、批判したりはできないことになっている。
ただし便宜上、代表「格」は存在する、というまことしやかな説はある。
イスラームはジブリール(ガブリエル)、カトリックはミカエル、プロテスタントはラファエル、オーソドックスはウリエルを……。
そのような都市伝説を理由にして、どこかの派閥に肩入れするとかしないとかは、天使としてあってはならないことだし、ありえないことではある。
建前上は──。
「きみがイスラームに肩入れしすぎるという考えは、まちがっていると思いたいものだな、ジブリール」
入口のところで腕を組み、静かにガブリエルを見つめるのは、ミカエル。
昨夜までボルボ・ヘカーテとの休日を楽しんでいたが、日本は祝日だというのに、ヨーロッパの枢機卿たちは仕事をつづけるらしい、と聞いて出勤してきた。
「あなたこそ、カトリックの刃を研ぎ澄まして、ローマをどうするつもりですか」
ガブリエルは静かにミカエルを見つめる。
この陰謀には、最初から不愉快な影がチラついている。
ミカエルが「主犯」だとは思えないが、重要なパーツを担っていることはまちがいない。
「……ばかばかしい。われわれは神学機構だ。一神教内のゴタゴタは、すべて棚上げすると決めたはず」
「ならば、なぜこのような目に遭うのでしょうね?」
彼女の両手には形式上、縛り紐がある。
動作を遮ることはまったくないし、捨て去ろうと思えば簡単なことだが、それをすればすこし厄介なことになる。
「皮肉な話だが、女性を虐げるのはイスラームのお得意だろう?」
「そのような誤解を、あなたの口から聞かされるとは、確信犯にしても吐き気を禁じえませんね」
イスラームも当然、ミーカールを生真面目な守護天使として崇敬するが、ムハンマドと一心同体に『クルアーン』を彩る告知天使ジブリールには及ばない。
そのムハンマドを悪魔として転訛した(異説あり)バフォメット。
そのバフォメットを崇めた(と糾弾された)テンプル騎士団。
キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(テンプル騎士団の正式名称)の資産をぶんどるために、異端の罪を着せたフランス国王。
あまりにも絡み合う歴史と利害の糸が、ガブリエルたちをしてその動きを桎梏している。
すくなくとも言えるのは、キリスト教側に、イスラームに対する強いアレルギーがあり、もちろん反対側からも同様である現状は、まったく変わっていないということだ。
「極端な連中に対する怒りは共有するにしても、それ以外の部分で、教義の現代化はじゅうぶんと言えるのかい?」
「だからこそ私は、その流れに一臂の力を貸すのです。本来、あなた方も手を差し伸べてしかるべきはずですがね」
「ローマやエルサレムでの仕事が忙しいものでね」
この会話で何事かが解決するとは、両者とも思っていない。
ただ、互いに気になる部分をすりあわせておくことは、爾後に有意だ。
「……そういえば、あの弁護士の姿を最近、見かけませんが」
「メ……榎戸氏か。彼こそ、われわれに距離を置きすぎると思わんか? 同じ神学機構、手を携えるべき仲間のはずだが」
「ユダヤにはユダヤの思惑があるのでしょう。なにしろ彼らは、世界の陰謀の半分に加担しているのですからね」
「きみの口からそのセリフが聞けるとは思わなかったよ。確信犯にしてもね」
にやり、と笑うミカエル。
神学機構の内部は、あまりにも複雑怪奇だ。
「で、なに呆けてんの、うちのGPSは」
本来、さきを行かなければならないチューヤを追い越して、サアヤはふりかえった。
カテドラルを出て、音羽通りを北上する3人。
チューヤは感慨深げに、あたりを見まわす。
「いやあ、ここは護国寺だなあ、と思ってさ」
護国寺といえば、駅前広告を支配する有名な出版社などでも知られているが、ここもまた境界化に最適とされる「坂」が多い。
東京はどこもかしこも、もちろんここ護国寺も、小篠坂、三丁目坂、鼠坂など、史跡の坂が無数に行きかう巷だ。
伝統ある大学や墓地があり、真言宗豊山派大本山・護国寺は、五代将軍綱吉の母・桂昌院の発願により建立された。
門前に住まわせた御殿女中の「音羽」と「青柳」の名は、現在にも残っている。
ヒナノは周囲を見まわし、
「目白台や音羽には友人が多いですわ(高級住宅街なので)」
「この小篠坂を17系統の都電が登っていたんだねえ(鉄ヲタなので)」
反対方向を眺めて、しみじみとつぶやくふたり。
それを眺めるサアヤは、短く嘆息した。
「永遠にまじわらないものってあるんだね……」
そもそも天と地ほど属性に隔たりのあるメンバーが、奇跡的に集まっている場所、それが鍋部だ。
ともかく、こんなところでモタモタしてはいられない。
「そうだ。カテドラルのセキュリティを管理している会社、近所なんだよね?」
「ええ。何度か予備的な調査もはいっていると思いますが、進んでいません。われわれで決定的な証拠を見つけたいと思います」
「と、いうと?」
「あなた方が証言をすればよいのです。サーバ管理担当者にウイルス入りのUSBメモリをわたした。犯人は彼である、と」
朴訥な、エンジニア然とした、民間企業の労働者らしい、若い男の顔写真が貼られた社員証を示すヒナノ。
どうやら彼女は、彼が犯人である、という「ソロモンの偽証」をでっちあげて、公訴棄却を狙っているらしい。
さすがに唖然とするチューヤとサアヤ。
「……へ?」
「それ、ウソだよね」
「大きな正義のために、小さな便宜が図られることは、神の御意志です」
胸を張るヒナノ。
謀略渦巻く上流階級では、これが自然の摂理なのである、とでもいわんばかりだ。
「ええと、お嬢さん……」
「冗談ですわ。教会にそのような時代があった悲しい事実を、わたくしたちは忘れていません。それをくりかえすことの悲劇も、当然に避けねばならないでしょう」
どうやら上流階級のエスプリに満ちた冗句らしい。
半ばあっけにとられつつも、胸をなでおろすチューヤたち。
「それじゃ、だったら」
「聖省の動きに一部、奇妙なところがあります。ドミニコ会の暴走が考えられるでしょう」
チューヤは片眉をあげ、脳みその情報を整理する。
これ以上、神学機構について脳容量を圧迫されるのは、さすがにきつくなってきた。
「なにがあったの?」
「異端審問を務める枢機卿たちに届けられた摘要報告書が、改竄された形跡があります。ガブリエルを審問から排除できるじゅうぶんな証拠が、あえて棄却される内容でした」
「つまり」
「ガブリエルの追い落としを狙う派閥……いえ、悪魔が聖省にまぎれこんでいる」
顔を見合わせるチューヤとサアヤ。
どうやら、かなり神学機構の内部に踏み込むミッションになりそうだ。
ヒナノがもっている社員証の男が、このミッションの契機になるであろうことは想像に難くない。
「そのひとが、悪魔、なのかな?」
「いえ、彼は協力者です。──東方カテドラルは、極東の本部組織とはいえ、ヴァチカンなどとは規模がちがいます。セキュリティも足りない可能性がある。悪魔に籠絡されていないとは言い切れません」
「悪魔じゃなくて、考え方のちがうただの天使かもよ」
「だとすれば、修正される必要があります。いずれにしても、わたくしたちのやるべきことは決まっています」
ヒナノから指示された住所は、東池袋の一角。
民家が建ち並ぶ住宅街に、ぽつねんと構えられた小さな事務所は、独特な雰囲気のある低層階だ。
もともとあった古い商店を改装しただけのようだが、内装はかなりハードに仕上げられているらしいことが、外からでも見える設備の端々から察せられる。
祝日で、ひとはいないようだ。
ヒナノも、とくにインターホンを押すつもりもなく、件の社員証を入り口のセキュリティに通すと、ロックが解除された。
チューヤは不安げに監視カメラを見上げながら、その小さな社屋へと足を踏み入れる。
「──サーバルームを調べるんだね?」
「ここ3週間、さまざまな検証、調査が進められていますが、これといった発見はありませんでした。痕跡が残っているとすれば、あと一か所だけだそうです」
勝手知ったる他人の家のように、ヒナノは奥のエレベーターへと直行した。
地上3階の小さな建物だが、どうやら地下も3階層あるらしい。
神学機構は、日本での情報管理のため、いくつかの会社に業務を発注しているが、なかでも最後まで調査にてこずっているのがこの会社、アズテック社だという。
「テスカトリポカが待ち受けてるのかな」
国内にもよくありそうな名前のAztec社。
会社ごとに語源は異なるだろうが、チューヤに近い世界観でいえば、ナワトル語のアステカ(Azteca)だ。
アメリカ大陸の歴史をも穿ちかねないチューヤを無視して、ヒナノは言う。
「最後に残ったサーバは現状、セーフモードで稼働しているそうです。セントラルドグマは海外のサーバに転送されています。数人の天使たちが、サーバ内でデジタル化した悪魔の残滓を駆逐している段階ですが、この作業に疑問があります」
「ガブリエルさんの罪状をでっちあげる作業が行なわれている可能性がある、と」
「だとしたら許せませんので、調査にはいります」
「勝手にはいっていいの?」
ここまで来ておいて、いまさらながら言ってみる。
ヒナノは冷たい目でチューヤをふりかえり、言った。
「わたくしが許可します。やりなさい」
デジタルデビルを駆使する能力をもった悪魔使い、チューヤの出番のようだった。




