87 : Day -29 : Gokokuji 「逆転審問ガリラヤの人」
駅売りの新聞を買って、地下鉄で読む。
そんな昭和のサラリーマン的な真似をするチューヤの姿が、祝日の早朝、まだ混雑していない有楽町線で見られた。
「ほーん。ようやく日本も、世界の現実に追いついてござるな」
車内で立って新聞を広げるのは迷惑行為なのだが、それほど混んでいない状況では許容される。
世間は、ドームコンサートでの大量の行方不明者とか、首都高速で走行中の車両がつぎつぎと消滅する証拠映像とか、いよいよキナ臭くなってきた。
いままで「侵食」について、報道管制かと思えるほど不気味な沈黙を保っていた日本のマスコミは、ここへきて社会の決定的変化を認め、国民に意識と覚悟を促す報道を流しはじめていた。
これまでもそういう報道がないわけではなかったが、あくまで「海外ニュース」、つまり対岸の火事であり、あまり身近なものとして考えてはいなかった。
もちろん月刊『ヌー』などは、だいぶまえから取り扱ってはいたが、なにしろ『ヌー』なので影響はかぎられる。
いよいよ、致死率の高いウイルスが上陸した。
防御手段はない。
そういう覚悟を迫る報道だが、逃げ道がないとなれば、日本人は意外に淡々と日常を暮らすらしい。
そもそも深刻な災害の多い国で、平然と何千年も暮らしてきたのだ。
DNAレベルで慣れている、という可能性もあった。
「あ、ヒナノンだ!」
護国寺の6番出口を出て道なりに、最短距離500メートル。
鉄砲坂を登ったあたりで、雰囲気の変化に気づく。
ヒナノにはおなじみの場所だが、チューヤたちが絡むのは初めてだ。
「発田さん、ごきげんよう。早朝からお手数をかけますわ」
「いーんだよ、友達じゃん。ちょうど近くにいたし」
仲良く挨拶する女子2名に、おまけのように付き従うチューヤ。
ケートは同行していない。
彼が「忙しい」のはいつものことだ。
「お手数をかけますね、マドモワゼル。みなさんも、おひさしぶりです」
ヒナノの案内で通された、東方カテドラル。
その奥まった一室に「軟禁」されているらしい、ガブリエル。
「ガブリエルさん! 元気だった? こんなところに閉じ込められて、だいぶやつれたねー」
「そうですか? 動きまわらなくていいので、太ったくらいですよ」
「くだらない話はおやめなさい、ガブリエル。時間がないのですよ」
ろくに挨拶もできず、部屋の片隅に取り残されるチューヤ。
ふと、ガブリエルと視線が合った。
──異世界線からやってきた大天使。
チューヤはその事実について知っている。
あくまでも酔っぱらいの格闘プロモーターによる私見なので、確信をもってみるわけにはいかないが、たしかにガブリエルには当初から、運命の3鬼女にも共通するような、どこか浮世離れした超脱した印象があった。
「どうやらヨーロッパが目を覚ますまでが勝負のようですね」
さしてあわてるようすもなく言うガブリエル。
日本が祝日でも、海外は平日だ。
異端審問は週明けから継続される。
ヨーロッパが夜明けを迎えるまえに、日本である程度、カタをつけておく必要があるらしい。
ここに至る経緯を、ガブリエルは静かに語った。
ヨーロッパから枢機卿たちがやってきたのは、数日まえだ。
リョージが呪われたあの日、ヒナノが日比谷のホテルで接待をしていたのは彼らだった。
そのまま枢機卿のうち数人は、カテドラルにはいり異端審問についての手続きを継続した。
ガブリエルに対し、審問官は言った。
「真実を述べる決断をしないなら、汝に対して適切なほうの救済策が適用されるが?」
救済策とやらを適用したくてしかたがない、という好色な光を、懸命に押し隠していた。
ガブリエルは静かに首を振った。
拷問の暗示──脅しは、彼女には通じない。
彼女は東方カテドラルにおける位階上のナンバー2であったし、異端の嫌疑をかけられたとはいえ、「東方枢機卿南小路家付き首席神学者兼法学者兼翻訳作家」という高位の人物であったから、拷問にかけられることはないだろう、という予断はもちろんある。
彼女自身の法学に対する深甚な素養は、法廷をコントロールするに足る勢威を予想させもする。
だが、法廷が法律によって動く、と朴訥に考えるのはまちがいだ。
それは、しばしば政治と資本によって左右される。
「きみが拷問にかけられないと信じたい気持ちはわかるが、その根拠には、なんの説得力もないぞ? もちろん文字どおりの意味ではないが」
一応の予防線。
ガブリエルは見下すような視線を投げ、
「承知しています。神学機構において、16世紀は忌まわしいと同時に誇るべき世紀でもありますからね」
拷問は正規の裁判手続きに組み込まれており、自白があらゆる証拠のなかで、もっとも信頼できると考えられていた。
それはつまり異端審問官と枢機卿が、自分たちの都合のいい結果を自由につくりだすことができる、そのことによって民衆の心をガッチリとつかみつづけるためのフリーハンドを獲得できた時代、という輝かしい栄光の世紀を保ちたい──そんな組織的願望が通底している。
教会が、自分たちだけに都合よく、好き勝手できた時代。
現代では嫌悪される、その時代こそが、彼らがもっとも強い信仰を集め得た最盛期でもあった、という皮肉な事実。
神学機構は、その過去の栄光を追体験する組織でもある。
「私は裁判を、より厳格にしなければならないと考えはじめている」
「あなた方は、理屈で説得する必要はありませんものね」
不敵でも諦念でもなく、ただ淡々と彼女は言った。
それを、ある種の不遜な自信と受け取り、わざわざヨーロッパからやってきた枢機卿は逆上した。
わざわざ彼を日比谷のホテルで接待し、それなりに好印象を与えておいたヒナノの努力は、ほぼほぼ水泡に帰した。
「むなしい野心と、まったくの無知と不注意による、きみの過ちは正されるであろう」
ガブリエルが答える暇もなく、枢機卿は部屋から立ち去った。
彼女は静かに視線を落とす。
魔力回路を内向きに閉ざす呪いの手錠を、いますぐに引きちぎって飛び去る誘惑に駆られなかった、と言い切ることはできない。
彼女は静かに高い窓を見上げた。
ほとんど入れ替わるように、別の人物が部屋にはいってきた。
ニッコリーニ。
いつも笑顔の不気味な枢機卿にして、星天使をガーディアンとする大物だ。
クラシックカーに耽溺する趣味人のひとりでもあり、ドミニオンの一角として先日の首都高暴走にも参加している。
もちろん彼はそんなことをしに日本へやってきたわけではなく、重要な星天使として日々を神学機構に捧げている忠臣だ、とみずから言い張ってはいるが。
「私の不幸がそんなに楽しい? ニッコリーニ」
「これは手厳しい。生まれつき、こういう顔なのですよ、わたくしは」
さきほどの枢機卿と異なり、かなり砕けた口調で年も若く、ガブリエルとは親しげだ。
今回の裁判にまつわる聖省からの派遣は間断なくつづいており、すでに数人の枢機卿が日本入りしている。
これは、ガブリエルという存在が神学機構にとって、いかに重要であるかの証左でもある。
「そのようね。幸せな人生を送れそうで、羨ましいわ」
「ところが、どうもそういうわけにはいきません。わたくしの敬愛する法学者が、このような場所に監禁されているようではね」
表情はにこやかだが、語調は深刻だ。
神学機構内でガブリエルの動きがあまりにも長期間、制限されていることによって、組織内の力関係にもかなりの「ゆがみ」が生じつつあった。
「私は法学者よりも翻訳家でありたいと願っているわ。あなたの日本語はまだまだね、ニッコリーニ」
ぺちんと額をたたいて、口癖のようにくりかえす。
「これは手厳しい。──あなたは、どうしてもガリレオになりたいらしい。宇宙の言語を翻訳して有罪になった、かの偉大な近代科学の父に」
ガリレオ・ガリレイ。
正しいことを言った、という理由で宗教裁判にかけられ有罪判決を受けた、史上あまりにも有名なイタリアの天文学者である。
「……パリとベルリンの枢機卿は?」
「どちらも慎重な態度を崩しておりません。敵とも味方とも」
「ウルバヌス猊下が動かれたのであれば、あまり楽観するわけにもいかないでしょう」
ウルバヌス9世。現ローマ・カトリック教皇である。
ここで彼女が、教皇に対して「猊下」を使ったことには意味がある(通常は枢機卿に対して使い、教皇には聖下を用いることが多い)。
「ガリレオ裁判の因縁を果たすつもりですかね」
ガリレオが有罪判決を受けたのは、ウルバヌス8世の時代だ。
ガブリエルは軽く肩をすくめ、
「バルベリーニの動きは、意外だったわね」
「あなたの最大の理解者であり、協力者と思っていましたが」
「機を見るに敏、と言えるかもしれない。どうやら私は、いよいよ追い込まれたらしいわ。……そのために彼らは動いている、か」
E pur si muove
それでも動いている。
ガリレオが言ったとされる、有名な言葉。
じっさいに言ったかはともかく、当時のヨーロッパの人々の願望を反映しており、蒙昧なカトリック教会に逆らった英雄的な科学者にふさわしいエピソードとして広まっている。
そして現在、人々が動く動機はさほど変わらない。
自分の利益と、安全のためだ。
同じ太陽を、あれから400回以上もまわったというのに、変わらない人間たちがここにいる。
チューヤたちは顔をそろえて、宗教裁判の顛末を憂えた。
「有罪になったの?」
高校生たちの問いに、ガブリエルは首を振る。
「いえ、まだですよ。ニッコリーニの尽力で、結論は週明けの審問まで引き延ばされています」
「だからアルフォード・プリーという道もあると」
そこでヒナノが、チューヤたちにはよく意味のわからない言葉を口にした。
ガブリエルは冷たい目でヒナノを見つめ、
「こざかしい知識を振りかざすために、あなたは法律を学んでいるのですか」
唇を噛むヒナノ。
脳天ハテナマークの一般ピープル。
「えーと、なにそれ?」
アルフォード・プリー司法取引。
起訴状に記載の犯罪事実について、被告人が無実であると主張しながら、有罪答弁を行な
うことで求刑や言渡し刑が軽減される制度だ。
1970年から存在する司法取引の一種だが、一般人の見地からすると、かなり意味不明な論理である。
「罪は認めないが、有罪に足る証拠の存在は認める、ということです」
「え……なにそれ? 矛盾してない?」
一般人の脳に理解させることを早々に諦めたヒナノは、ガブリエルに向き直り、
「──あなたが罪を犯していないことは、わたくしも信じています。しかし、いまはここから出ることが先決です。これであなたは即時、自由の身に」
「自由の代価が、有罪の宣告ですか。マドモワゼル、あなたは根本的にまちがっていますよ」
400年前の科学者が言いたかったこと。
まさに彼女は、ガブリエル・ガリレイ……。
「まちがっているのはあなたでしょう! 法務部とも協議しました。たしかにこの件では客観的に有罪となりますが、あなたはそれを認めていないのだから、将来関連する罪に問われたり、訴訟が提起されても無罪の立場を維持できます」
「私が無罪だと言ったときは終身刑になって、罪を認めたら自由になれた、ですか?」
皮肉な口調で言い放つ。
アメリカの司法制度のおかしさを端的に表した、まさに名言だった。
やってもいない罪(当人としては)を認めることで、その取引に参加する全員の利益の総量が増える、という法律の負の側面が如実に表れた司法取引だ。
「だけど、そういうことなら……」
一般ピープルは、ただちにその取引の魅力に食いついたが、
「ルシファーの罠ですよ、マドモワゼル。気づきませんか」
ぎくり、とヒナノの肩が揺れた。
カテドラルではじめて見たあの黒い男は、ずいぶんガブリエルと親しげにしていた。
それほど忌まわしいものも感じなかったが、だとしたら彼はガブリエルを助けようとしているのではないか?
現状、動きを押さえられていることのリスクのほうが、はるかに大きいように思われる。
たとえ一時的にでも有罪(の証拠)を認めて、自由を得たほうが、お互いの利益が大きい。
そう考えるのは、ある意味で当然ではあるまいか。
「それでは、あなたは」
「やってもいない罪を認めることはできません。──安心してください、ここは現代ですよ。中世の宗教裁判のようにはなりません」
ガブリエルはあっけらかんと言って、優艶に笑った。
彼女がそう言うなら、そうなるにちがいないと思えるが……。




