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「だいぶまえの話で、お忘れの方々もおられようと思うので、説明を求めたい」
手ごわいダンジョンを進みながら、チューヤはケートに問いかけた。
彼はちらりと視線を移し、
「主語の真意はともかく、まあよかろう。──被害者は、ボクが日本にきて天王洲のホテルで放置された、小学校入学まえの数か月間に知り合った女の子だ」
もはや伝説となっている、幼いケートに対する放置プレイ。
両親は、帰国させた彼はとっくに小学校にはいっていると思っていたと言い、任された側は入学まえに連れてくるものとばかり思っていたという。
9月入学と4月入学の切り替えの端境期らしい、ちょっとした行き違いだが、そうして約半年ほど、忘れられたケートは天王洲のスイートルームに放置されていたのだった。
何度聞いてもバカらしい話だったが、チューヤは一応、笑ってあげるのが正しい突っ込みだと判断した。
「ははは、バカだよね」
「否定はしないが、うるさいぞ。ボクのことはどうでもいい。問題は彼女だ」
天王洲の高級ホテル。
そこで行なわれていた児童買春。
生徒でも学生でもない、まさに児童。
ケートの2つ上、つまり当時、小学校2年生のあいは、(おそらく)父親に売られていた。
よかったね、あいちゃん。家族が増えるね。
そんな会話をした最初、意味はよくわからなかった。
新しい家族と、どんなふうに親しくなっていたのか、いまでは想像するのもつらい。
長いこと放置されていたおかげで、ケートには時間があった。
ときどき彼女と天王洲の公園で会うことを、楽しみにするようになっていた。
ホテルで仕事をしているのだ、という父親を待っている短い時間だけ、遊ぶことができた。いま思えば価格交渉をしていたのだろう。
そうして何度か、彼女が売られるのを見たことになる。
その後、10年という暴力的な歳月を経て、ケートはその忌まわしい犯罪者が逮捕されたと聞いた。
犯罪履歴を追いかけるまでもなく、ケートは即座にあいのことを思い出した。
いくつもの記憶が、犯罪の記録と整合していく。
あのとき、もしかしたら、助けられた──。
「そんなことないよ、ケーたんは、まだ小学生にもなってなかったんだよ。そんなこと、わかるわけないよ」
サアヤは慰めるが、ケートは首を振る。
「たとえ当時はそうでも、その後、気づくチャンスはいくらでもあった。だが完全に忘れていたんだよ。月刊『ヌー』に稀代の性犯罪者とかいうクソ記事が載るまで気づかないなんて、ボクは本物のバカだ」
そうして編集長らとともに、追跡取材のため小菅の拘置所を訪れた。
「あのときか。俺とお嬢は、別の犯罪者に会ってたけど」
「……そう。このさきにいる敵は、ボクとサアヤが、編集長といっしょに小菅の拘置所で会った、吸血鬼だよ」
もっとも邪悪な小児性愛者で、多くの幼女を強姦し、売り飛ばした。
馬場昭文。42歳。暴力団準構成員。
児童買春と人身売買に疑いの余地はなく、さらに過酷な扱いにより何人もの幼女が命を失っていると考えられた。
そのため検察は、殺人罪で極刑に問いたいと考えていたが、そろえられた証拠からの因果関係のみで殺人を問えるかの議論にモタついた。
そのうち世界は、さらに大変な事態に転がり落ち、混乱のうちに拘置所から彼の姿は消えた。
これが先の小菅での出来事であり、ケートとサアヤだけがその顛末を見届けている。
日本の司直に裁きをゆだねる、という甘い判断もありえたが、そこから逃げ出した以上、覚悟を決めてもらう。
この人間の皮をかぶった悪魔を、断じて許すわけにはいかない。
個人的にも、日本ではじめてできた「友達」の恨みを晴らす。
ケートは責任を感じていた。
せっかく逮捕されたものが逃げ出したのは、境界化という大きな「侵食」の結果なので、彼に責任はないといえばないが。
ともかく逃げたという事実が重要だ。
地獄の果てまでも追い詰めなければならない。
その隠れ家の捜索は困難をきわめたが、天才ケートによる執念の探査は着実に包囲を狭め、あらゆる手段による追跡の結果、この「ハウス264」に絞られた。
「264って、世田谷区民におなじみの?」
「それは246だろ。……たぶん皮肉が言いたかったんじゃないか?」
有名なアンネの隠れ家として、本場アムステルダムでは「263」と「265」番の建物が復元されている。
その周辺も含めて市に買い取られており、アンネ・フランク財団が管理している。
「6な42かたはしないね」
「うまい、サアヤさん!」
「この状況で冗談を言える、キミたちのメンタリティに感心するよ」
冗談くらい言っておかないと、このおそろしい「ハウス」の雰囲気に呑まれそうな恐怖があった。
足立区の幽霊屋敷騒ぎも怖かったが、このビルは近代的だけに逆の怖さがある。
谷在家の幽霊屋敷は、いってしまえば愚かな経営者の転落物語にすぎないが、宝町の売春宿は、多くの少女を巻き込んだ犯罪現場である。
最上階、4階の狭い通路を経て、隣の建物へと移動する。
細い隠しルートにはいったとき、ぱらり、と一枚の紙が床に落ちた。
罠かもしれない。
しかしケートは、躊躇なく手を伸ばした。
警戒するチューヤたちの視線のさき、その紙が読み上げられる。
「ケイティさま。長いあいだ待っていた、私の友達です」
ケートの動きが止まっている。
この字は、あいだ。
ケートはページを裏返した。
「彼のことを、私はケイティと呼びます。この日記帳を心の友にして、いつかケイティが会いにきてくれたとき、どんなことを話せばいいか書き留めておきたいと思います」
これは「あいの日記」だ。
ケートは直感的に理解した。
──有名なアンネ・フランクは、架空の友「キティ」を設定し、彼女を相手に、だれにも打ち明けられない内心を日記につづっている。
ここはハウス264。
おそらく、そういうことだ。
「ごめんな、あい。助けてやれなくて……」
真っ白になるほど握りしめる拳からは、いまにも血がにじみ出しそうだ。
あいの言うケイティは、おそらくケートのことだろう。
小さいころ、天王洲の公園で出会い、ときどき話した「ふつうのお友だち」。
彼女には、ひとりの「友だち」すらいなかった。
さらに目をさきへ移すと、床には日記帳のページが落ちていた。
この廊下を進め、ということだろう。
──15歳まで、恐怖と絶望の2年間を、アンネ・フランクは多数の詩、エッセイ、メルヘン、日記を綴ることによって過ごした。
彼女は、たしかに天才だった。
敵が群がる。
邪悪な敵。彼らこそ「悪魔」と呼ぶにふさわしい。
チューヤは、めずらしく「会話」の選択肢を開かなかった。
そもそも会話の成り立たない敵が多かったこともあるが、ここの住人をナカマにしたいという気が、ほとんど起こらない。
攻撃的に展開した前線で、「隠れ家」を突き進む。
このさきに待っているのは──。
凄惨な日記のページは、つぎつぎとケートの手に集まってきた。
彼は涙でまえが見えなくなりながら、それを読み、進んだ。
「かわいそうな女の子たちが、廊下を引き立てられて行きます。新しい女の子は、いろいろな男のひと、ときには女のひとが連れてきます。ひとりだったり、何人かだったり、男の子だったり。みんなは生木を裂くように別々にされ、そのうち、いくつかの部屋から、とてもいやな音が、聞こえてきます」
かわいそうな女の子のひとりであるあいの視線は、客観的であると同時に、その痛みを共有する筆致で、凄惨な空気をやや遠くから描出している。
内側から描こうと思えばできる。だが、彼女はそれをしない。そこまでしたら、自分自身が壊れてしまったからかもしれない。
悪魔の館は、そうやって日々、脈動しつづけた。
「敵のボスはまだかよォ」
チューヤがやや感情的な声を漏らす。
「なんだ、疲れたのか」
涙も枯れ果てたケートの顔面は、怒りを通り越して蒼白だ。
「……早く終わらせたいだけだよォ」
チューヤの心の叫びに、サアヤも無言で同意する。
一刻も早く、最悪の敵を始末したい。
それは、心の底から突き上げる衝動に近い。
最後の廊下を曲がったとき、そのさきには、もう日記のページが落ちていない。
どんなおそろしい記述よりも、おそろしい表現方法がある。
8月1日。
異常な環境ではあるが、ごくあたりまえの記述をつらねた、その日を最後に、更新が終わる。
これほどおそろしい事実が、ほかにあるだろうか?
記述されない、という記述。
以後、その日記を更新する主体の不在を意味する、空白。
あいの日記は、その日をもって終わった。
「もし神さまが、私を長生きさせてくれたら、私は世界と人類のために働きます」
15歳9か月。
判然とはしないが、おそらく彼女はそのくらいで死んだ。
「なにがあった? あい、おまえは」
彼女が死んだことは知っている。
それが8月だったことも、なんとなく知っている。
だが、具体的にどうして死んだのか、そこまではわからない。
ここから、彼女らは召された。
一枚の板のようなモニュメントに、年代と名前の羅列。
いま、中庭になっている場所で、焼かれたものがあるという。
「そいつらは、永遠に行方不明なんだ」
穀潰しセンター。
ケートの手に集まった日記帳によれば、彼らはそう呼んでいた。
病気などで働けなくなった少女が、最期を迎えた場所だという。
「…………」
めずらしくサアヤの口数が少ない。
チューヤとケートも、必要以上のことを言わなくなった。
ここからさきの悪魔に、容赦する必要はない。
チューヤが無言で、目のまえの悪霊を切り裂いた。
──最後の扉のまえに掲げられていた標語が、冷たく背筋を凍らせる。
「労働は自由への道」
アルバイト・マハト・フライ。
いいバイトあるよ、と気軽に立ち寄った少女が、特別な例外を除いてこの門を出ることはなかった。
「なんて皮肉だよ」
名高いこの言葉は、かの絶滅収容所アウシュビッツの正門にも掲げられていた。
このドアの奥には、少女たちを誘ってこの仕事につかせた女衒がいる。
ふと、チューヤはドアの下に、小さな紙切れが落ちているのを見つけた。
いままでのノートのように大きくないので気づきづらいが、ケートには見覚えがあった。
それはケートが、あいの誕生日にあげた「なんでもいうことをきく券」だった。
彼女はそれを持って、二度とケートがやってこない公園に、しばらく佇んでいた。
ケーちゃん。
たすけて……。
ぞわり、とケートの全身の毛が逆立った。
チューヤも感じた。もう許す許さないの段階ではない。
──殺すために、扉を開く。
「三千世界のカラスを殺し、コウモリの国で眠りたい」
のんきに都都逸を歌っていた男が、ゆっくりとチューヤたちに顔を向けた。
ケートには見まごうはずもない、それはまちがいなく指名手配中の強姦殺人者、馬場だった。
「──殺す? 上等、殺し返してやんよ」
会話の選択肢は当初から排除した。
殺す者が殺されるとしたら、目のまえの男こそ、まっさきに殺されるべきだ。
「地獄で永遠に起きてろ、もがきながらな!」
ケートの全身に殺意の電撃が宿る。
チューヤも武装を解放した。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ヴァンパイア/夜魔/46/15世紀/ルーマニア/ドラキュラ/御成門
現在レベルはわからないが、負けたとしても逃げ出す選択肢はない。
──ボス戦だ。




