80 : Day -29 : Senjuōhashi
もともとは川底を走る下水道だった。
水位が下がり、乾燥した東京砂漠で、共同溝とも呼べない汚穢の地下道に、スクラップを加工し、配線をつなげ、ネットワークを構築する人々が現れた。
ときおり濁流に呑まれるリスクはあったが、防御を高める過程で、セキュリティは高まった。
サーバを川の底に隠す、という発想はオモイカネの気に入った。
ほとんど枯れた隅田川の底をさらう物好きは、いないわけではなかったが、北欧の邪龍ヨルムンガンドを釣り上げようとまでする愚か者はいなかった。
通信が安定することで、信頼が高まった。
魔術回路の走るネットワークには、特殊な人々が集い、特殊な文化が発展していった。
現世側の閉鎖されたコミュニティで、特殊な趣味の人々が集まり、互いの成果報告に興じている姿に似ている。
必ずしもダークウェブではなくとも、閉鎖された空間では、しばしば「邪悪」なやり取りが横行することは事実だろう。
自閉空間とは、罪を暴露してもいい場所だ。
「……橋桁が入り口か」
千住大橋に陣取ってしばらく観察していたチューヤは、いわゆる「橋の下の住人」がやけに多いことに気づいた。
当然、雨風をよける場所として、橋の下を住居にする人々は、どこの世界にも一定数いる。
だが、その出入りのバランスが、端の規模に比較してあまりにもアンバランスという不自然に気づけば、そこからさきは簡単だ。
──オモイカネに対してどうこうしようと考える者は、たいてい彼の支配駅である三ノ輪か、その勢力の拠点である「自閉空間」を狙う。
当然の順路であり、その過程で「狙われている」と自覚した敵勢力の集中砲火を浴びて、ほとんどが沈黙する。
長い戦いの末、たとえ正解が「ヨルムンガンド」だと気づいても、そこを攻める兵力も気力も残されていない。
最初から日本勢だけでなく、北欧勢とも敵対するのだ、という意識をもっていれば対処できるかもしれないが、そもそもそこまでの覚悟をもって当たるほどの動機が、惹起されづらいという事情もあった。
この世界線にとって本来の獲物は、物量豊かなチューヤたちの世界線そのものだ。
貧困を極める側で、少ない物資を奪い合うような勢力争いをしていても、得られるものは少ない。
その油断が、チューヤの侵入を許した。
上から見れば、ただの川底。
隅田川が流れていれば見ることもできない川底からは、いくつかの吸排気口が伸びており、サーバの排熱と換気を行なっている。
冷静に観察すれば、あきらかに不自然な「根っとワーク」の川にもぐる。
最後の戦いだ。
最終隔壁を突破して、ネットワークの深奥、最重要サーバのメインフレームが鎮座するフロアへ。
そのまえに、倒さなければならない敵がいる。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ヨルムンガンド/邪龍/47/中世/北欧/スノッリのエッダ/千住大橋
日々、成長著しいチューヤは、悪魔使いの最善を尽くして、レベルが10近くも上の敵を倒すという、通常ではあまり考えられない戦果を積み重ねていた。
最初は甘く見ていたヨルムンガンドも、最適解を連発するチューヤの戦闘に驚き、苛立ち、焦り、そして恐怖した。
いまさらながら、警戒すべき悪魔使いのデータを、ネットワークからダウンロードするが、結果的にここで発生した齟齬が、かの敵の勝率を下げた。
ニシオギのアクマツカイのデータは当然、まっさきに見つかった。
だが、どうみても一致しない。
なぜなら、彼らは「別人」だからだ。
同じ遺伝子をもつ別人──その「ありえない」事実が、ヨルムンガンドの対応をゆがめた。
前後左右を包囲する悪魔の群れから逃れて上に飛び出した頭に、チューヤの振りかぶる炎の剣が一閃。
甚大なダメージを受けて横たわる蛇。
深甚な断末魔の上に立ち、トドメを刺しにむかうチューヤ。
最後にデータの海から、異世界線に召喚された「ヘルの記憶」が降りてきた。
ヨルムンガンドにとっては「妹」にあたる。
その表情には怒りと諦めが交互に宿ったが、最後のあがきをする程度の知性は、まだ残されていた。
「そうか、そういうことか……。ありえないことを、はじめやがったな。まさか異世界線の悪魔使いとは。……いいのか? オレを倒して、いいんだな? ヘルにつづき、オレを倒せば、もうロキは、おまえらを許さんぞ」
邪神ロキの3人の子どもたちとされる、魔獣フェンリル、邪龍ヨルムンガンド、そして死神ヘル。
現状、チューヤはすでに渋谷でヘルを打倒している。
これ以上の敵対行為は、マフユ・シナリオに決定的な障害をもたらすだろう。
「……わるいけど、聞けないな。ごめんよ、マフユ」
切り落とす、世界蛇の首。
ネットワークが寸断され、ダークウェブに深刻な打撃が与えられる。
南千住界隈を中心に展開していた重要なインフラが、破壊された。
──昨夜来、AKVN14などを使って膨大な利益を受けたであろうダーク勢力に対して、チューヤの一撃は「バランスをとった」と評価されるかもしれない。
同時に、ダーク勢力からは「許されざる敵対行為」として断罪されるときも、くるかもしれない。
答えは歴史が出す。
チューヤはただ、選んだだけだ。
その部屋は、川の底を思わせるだけの水量をたたえていた。
水槽が並ぶこと自体は、さほど驚くにはあたらない。
それが冷却用のタンクにすぎなかったならば。
その水槽内に浮かぶもの──そのような忌まわしい風景が、チューヤの予想の斜め上すぎたことを除けば。
「脳……」
浮かんでいる、脳が。
水槽のなかに、それも、ひとつやふたつではない──。
科学史家のキャシー・ギアによれば、「水槽に浮かぶ脳のイメージは、科学者を、不死を約束する神か、幻想をつくりだす悪魔としてみる科学技術万能主義の象徴だ」という。
神であれ悪魔であれ、その超自然的な力は、部分と全体の境界を操るところからきている。
社会通念上、許されないことを許される特権者のみが、全体を部分に切り分けたり、部分を全体として組み立てたりできる──。
俺の首を斬ったのは、山田浅右衛門なんだよ。
脳裏をよぎる室井の言葉の意味が、真に迫ってきた。
首を斬ったから、彼は死んだのだという思い込みは、このさい捨て去らなければならない。
室井は……いや、ムロイはこのなかで、生きている。
俺を、殺してくれねえか……。
その真に迫った懇願は、こうして水槽のなかで生かされることが、どれほどの苦痛をともなうことを意味するか。
あるいは、ほかに理由があるのだろうか。
考えてもわからない。
ただチューヤは、やるべきことをやる。
彼らは慎重に、水槽の隙間を進んだ。
コンプレッサーの吸排気や、循環器の回転音、ハード系の低い機械音に満ちた、天井の低い10メートル四方程度の部屋。
よくみれば、ひとつひとつの水槽は別々の脳を収納しており、ひとつの巨大な水槽で混ぜ合わされている巨大な脳、という段階ではないようだった。
遠くから見て、あまりにも多くの縦型水槽が重なって見えたため、ひとつの巨大な水槽にみえたのだった。
しかし考え方によっては、ひとつの巨大な水槽といえないこともない。
同じ溶液が、すべての水槽を循環しており、かつケーブルによって物理的に「直結」されている。
生体と機械を直結させる、という実験と挑戦はあらゆる場所で進展し、くりかえされているが、ここではそのさらにつぎの段階、生物の脳同士を連結する、ということに挑戦しているようだった。
むしろ有機物と有機物を接続するのだから、無機物と接続するよりはハードルが低い可能性もある。
別の脳が、言語やその他の感覚を介することなく、神経線維によって直接接続し、会話をするとしたら、どのような言語(便宜的な意味で)が用いられるのか。
直接、イメージをやりとりできるのか。発想の瞬間を共有できるのか。思考の本質を見極め、考えることそれ自体の前駆状態をも、客観視すると同時に主観的に把握したりもできるかもしれない。
無限の広がりをもつ、壮大な科学実験室。
ケートは、このような在り方を、われわれの「順路」と認めるだろうか?
だとしたら、彼とはたもとを分かつしかない、と思う。
ともかく、どれが室井……いや、ムロイなのか、探し出さなければならない。
脳しかない状況。困るのは当然、会話だ。
呼びかけて返事をしてもらう、ということができない。脳には目も耳も口もついていないのだ。
では、どうやって意思疎通するのだろう?
脳だけでネットワークできるのか?
自分もこのなかに加われば、そういうことも可能かもしれない。
そのとき、足元をとてとてと転がるように動く人形に気づいた。
素体と呼ばれる自己拡張媒体。
どこか遠くのカメラを動かして周囲の景色を眺める、というネットワークカメラの概念を推し進めていく過程として、人形に仮託してもうひとりの自分を動かすという考え方は、さしあたり順路と認めてもいい。
「おまえ、さっきの」
「仕事が多くて困るよ。お出かけですかー」
箒で掃いて掃除をしている、同じフォーマットの人形。
ある意味ギャグマンガのようだが、こういう拡張現実によって維持される意識状態というものもあるかもしれない。
すべては夢、という考え方すらあるのだから。
「さっきの子じゃないと思うけど……」
サアヤは部屋いっぱいに浮かぶ脳から目を背け、意識的に人形を凝視している。
汚染された地上を動きまわる、薄汚れた先刻の人形と同一のものでは、たしかにないようだ。
すると人形は、くいっと視線を持ち上げ、言った。
「いや、さっきの子だよ。……わるいな、代わってもらって」
「いいよ。おまえにはゲームで世話になった」
人形が一人二役でそんな会話をしている。
どうやら内部のコントロール権を入れ替えたらしい。
別の人格から、ムロイという人格へ。
一瞬、安堵しかけたチューヤだが、すぐに警戒を新たにする。
彼が必ずしも室井と同じ目的を有しているのか、わからない。
むしろ、こちら側の世界線のムロイを「殺してくれ」と依頼されているとバレれば、敵として認知されるかもしれない。
しばらく見つめていたが、人形の表情から何事かを察するのは不可能だ。
ムロイはくるりと踵を返すと、箒を動かしながら、ゆらゆらと進んでいく。
「こいつらとは、けっこう長い付き合いでな」
問わず語りに自分を語る。
機械音に満ちた部屋に、ムロイの合成音声はひどく噛み合っている。
林立する水槽のあいだを、縫うように進んでいくと、同一規格である水槽にもそれなりに個性があることに気づく。
個性といっても脳自体ではなく、それを収容する容器に多少の飾りや落書きが加えられているという程度だが、どうやら水槽内の脳がリフレッシュのために動かす素体が、ちょっとした変化を求めてこのような装飾を施すらしい。
ほとんどの水槽には、脳髄と溶液が満たされている。
が、ときおり空っぽの水槽が見つかった。
新設されたのか、それとも廃棄されたのかはわからない。
なかでも、濁った液体だけが満たされた水槽が、注意を引いた。
ここでは、いったい……。
つぎの瞬間、ぴちゃっ、とその水槽の水が跳ねた。
そんな気がしたのではなく、現に跳ねた。
びくっ、として水槽を注視する。
数センチほどの見たことのない小さな生物が、水槽の内側を這いまわっている。
あたかも最初から「飼われていた」かのように。
「なんか見たことあるね、これ」
サアヤに言われるまでもなく、チューヤのデビルアナライズが反応した。
その小さな生物は、たしかに「実在」する。が、「実体化」まではしていない。
中途半端な状態、要するに──弱い霊体に近い。
まえを行っていた人形が、ふとふりかえり、水槽を見上げて感慨深げ(?)に動きを止めた。
「ああ、こいつとは親しかったな。考えすぎるのは良くないってことだ。──冥王代の情報にアクセスできたって言ってた。頭に座布団みたいにウィワクシア乗っけてよ、楽しそうだったな」
ウィワクシア。
古代カンブリア紀に生息した、バージェス動物群の一属である。
全長約2.5~5cmの楕円形をした軟体動物と考えられる。
──いわゆる古生物が「カンブリアの悪魔」として、ごくまれにだが東京でも遭遇しうるようになった。
どう考えても古生物学に興味などないだろうサアヤにすらおぼえがあったのは、つまりそういうことだ。
それにチューヤたちは、そもそも、ものすごく身近に似たような人物の影を思い浮かべることができる。
頭に古代生物を乗っけるというのは、天才たちに共通するトレンドなのかもしれない。
そう、まさにここは「天才の巣」なのだ──。




