35 : Day -59 : Shakujii-kōen
きょうも絶品の鍋を食べ終えて、マフユは真っ先に立ち上がった。
「ふわぁ……んじゃ、あたしは帰るからな」
あくびを噛み殺す彼女の表情に、昨夜の悲劇的な顛末の一片たりとも読み取れない。
「おまえさ、材料も持ち込まず学校もサボり、鍋だけ食いに来るってどういう了見なの」
ケートをなだめるように、サアヤが温和な声でフォローを入れる。
「部費から足らない材料は買いだしてきたけどねー」
「さんきゅサアヤ。いいだろ、出て来もしないやつよりは」
あいかわらずトゲのある言葉を選ばせたら、マフユはケートに匹敵する。
「まあ……」
一同の視線が、この一週間空席だったチューヤの椅子に集まった。
「しょせん片親は、ろくな育ち方をしないんだな。この程度の連中しかいない」
ケートは、トゲに満ちた言葉を、わざと選ぶから始末がわるい。
チューヤは生まれたときから母親がいないし、マフユの父親は蒸発して行方不明だという。さすがにサアヤは眉をひそめ、
「ちょっとケーたん、そんな言い方」
「まったく、うらやましいかぎりだよ。ボクの家に親がいたことなんて、物心ついて以来、一度もなかったってのに」
ケートは大金持ちのボンボンのはずだ、という予備知識はあるが、じっさい家庭内の状況を知っているわけではない。
仲のいい部員たちではあるが、お互い意外に知らないことが多かった。
「……ケート? だって」
「ああ、生きてるよ。ごたいそうな金持ちらしい。ヘッジファンドの総帥で? 年収がフォーブスに載っかってる? それがなんだって話さ」
「体のいい自慢かよ」
「ふん、金持ちがすごいのか? まあ、すごいとしてだ。親としてマトモかは別の話だ。というか、あんなのは親とは呼ばん。息子がホテルに泊まっているのすら忘れて、一年も放置できるか? それに比べて、キミたちは親がいるんだろう? とくに左側三人。両親がちゃんと家にいるなんて、奇跡みたいなもんだと感謝するんだな」
「親子関係がまともって意味なら、まあ、そうかも」
「親はなくても子は育つ、ってな」
「そういうわけだ、リョージ。両親健在のキミに言われても、説得力はないがな」
そのとき一瞬、ヒナノが見せた陰りのような表情に、何人かは気づいたが言い出せなかった。
他の部員以上に、彼女は自分を出さない。
気高い位置に端然と構え、膝下を見下ろす女帝の位置を崩すつもりはないのだ。
「けれど日本はいい国ね。わたくしのようなエリートと、あなたたちのような下層階級が、同じ高校に通えるんですもの」
さっきから腐されまくっているマフユは、不快げに、
「べつにエリートだけが集まる学校もあるだろ。行けよ、勝手に」
「まあまあ、フユっち。ヒナノンも」
ヒナノとケートは敵を増やす傾向があるが、性根はわるい人ではない、と性善説に立つサアヤはとりあえず信じることにしていた。
「大学からは、もちろんそうさせていただくわ。けれど高校くらいまでは、下層民の生活を知っておくのもわるくはないでしょう?」
縦ロールを揺らして、人を見下したように笑うヒナノ。
「わからんでもないよ。一種の帝王学だよね」
同じ階級に属するケートが、乗馬の鞭の動きを練習しながら言う。
──国石高校は、特進についてはブランドなので、努力さえすればたいていの大学には進学できる枠がある。
だから平民を知るため、高校の3年間「こころみに」進学してみたと言われても、説得力がないわけではない。
もっとも国石がブランドなのは特進だけであって、こと商業科と工業科については、このかぎりではない。
校内を見わたせば、大学のように幅広く自由な交流が行なわれているのが、国石高校の特徴と言えば特徴だ。
「ほんと、敷地を分けてもらいたいくらいですわ」
「昨今のマネーフロー、合併買収の影響かもね」
地元の高校を半ば無理やり統合して、国石ブランドを築き上げた。
そこには当然、地元の意向と同意がある。
学区内の悪たれも、どうにか拾い上げてくれ。というわけで、多少は勉強すれば入学できる専門科に、一部の親の意向を反映させた。
入学してからも、がんばれば目指せる上級の未来を身近に用意してくれ。というわけで、特進科が用意された。
他科からも、転科試験を通れば特進に移れるし、特進でも成績がわるければ普通科へ移される。学内にも競争原理が導入されていた。
結果、多科併設の玉石混交、自由な校風の神道系高等学校が、西東京エリアに出現することになった。
「無法地帯なんだろう、きみたちのクラスは」
ケートはリョージたちをふりかえって言った。
工業科には男子クラス、商業科には女子クラスがある。
彼らは室内で平気で脱ぐし、生理用品は飛び交うし、やたら筋肉を見せ合う、という。
「気楽でいいじゃん」
「それが人間さ」
慣れたもので、リョージもマフユも、そういうものだと思っている。
むしろ教室のなかでさえ異性の目を意識しなければならないクラスなんて、めんどくせ、というわけだった。
マフユはもう一度、大きくあくびを噛み殺すと、
「んじゃな。来週は多めに持ってくるわ」
そのままふらりと出て行った。
つづけてシンクからふりかえったリョージは、
「サアヤ、これ特製ソース。マフユに使われるまえに確保しといた。持ってってやれ」
タッパーに一人分のお持ち帰りを確保しているサアヤは、手刀を切ってそれを受け取り、
「サンキュー、リョーちん。助かるー」
「ふん、あんな引きこもりを甘やかす必要はないと思うが」
「まあまあケーたん、あれはあれでも、あれなりに生きてるんだから」
「そうやって甘い顔をみせるとつけあがりますよ、下層民というものは。……もちろん、すばらしい才能の持ち主に関しては、このかぎりではありませんが」
だれを意識しているのかわからないヒナノの言葉に、リョージは特段反応せず、ひととおり材料の片づけを終えると、
「んじゃ、オレこれからバイトだから」
「毎日よく働くな。おまえの場合、たまには休めよ」
ケートが、敵ながらあっぱれの口調で言うと、リョージは首を振り、
「そうも言ってらんないんだよね。何気に行方不明者が多くて、うちのバイトくんもひとり減っちまってさ」
一同の動きが一瞬止まったが、その話が掘り下げられることはなかった。
発言者当人があっという間に姿を消したし、まだそのことを語り合えるような空気でもない。
「結局あいつ、今週ずっとこなかったな」
「もともと引きこもり気質だからねえ。今回は、まあいろいろと事情もあるわけなんだけども……」
サアヤは、静かに紅茶をたしなむヒナノをちらっと見たが、ヒナノは一切興味がない様子だ。
ケートはしかたなく、
「事情なんて、だれでも抱えてる。甘ったれるんじゃない」
「っていうタイプのおっさんが近くにいてくれたら、よかったのかもね」
「これだから片親は、って話にもどっちまうじゃないか。まったく」
「いや、チューヤのお父さんもさ、あれはあれで、あんまり……」
そのとき紅茶を飲み終えたヒナノは、立ち上がり、
「それでは、わたくし帰らせていただきま」
言いかけた言葉を遮るように、鳴り響くサアヤのスマホ。
ごめん、と右手を立てて通話を開始するサアヤ。その表情が、見る間に曇っていく。
「……え? ちょっとわかんないよ、待って。……だから、おばさん。なんのこと?」
ひどく狼狽し、あわてている。
助けが必要か、とケートが腰を浮かせたとき、サアヤは通話を切るや否や、
「ごめん、私ちょっと行くところできた。ヒナノン、わるいけどこれ、チューヤに届けてあげてくれないかな?」
「は? なにを冗談……」
「じゃ、私急ぐから、これで!」
有無を言わさず、その場から走り去るサアヤ。
取り残される上級市民がふたり。
これがサアヤの戦略だとしたらなかなかだが、まあ、そんな小器用なこと、あいつにできるわけないよな。
ケートはそんなことを思いながら、生ぬるい目で成り行きを見守ることにした──。
 




