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「で、どういうルールにする?」
「デス、レース、デスレース!」
叫ぶブギーマンの意向を忖度するアンリ。
「なに? 目を閉じてアクセル全開、たくさん殺したほうの勝ち? ばかたれ、こんなだれもいない通りで、ひとなんか殺せるかよ」
「そういう問題じゃないでしょ! もう、そういうことできないようにしたんだから、勘弁してくんないかな!?」
「他人を巻き込んではいけない。どうだブギーマン、チキンレースというのは」
タツマが、自分たちの乗ってきたミニクーパーを指して言った。
ブギーマンはブーブー言いながらも耳を傾ける。
ルールは簡単だ。通りの東西、離れたところから走り出し、さきに交差点にはいったほうが勝ち。ただしセンターラインを外れたら負け。
勝つためには、最高速度を出さなければならない。
だが正面衝突したくなければ、ブレーキを踏むかハンドルを切らなければならない。
さきに臆病風に吹かれたほうが負け。
まさにチキンレース、シンプルでわかりやすい。
その破壊と殺意に満ちたルールに、ブギーマンも納得したようだ。
数百メートルほど離れ、互いの距離を確かめて、スタートフラッグが振られる。
急激に接近する2台。
第2京浜との交差点の中央、どちらもセンターラインから離れるようすはない。
正面衝突する気だ。
チューヤはタツマの意図を察した。
あくまでもドライバーにすぎないタツマは、クルマをぶつけてやって、跡形残らず破壊してやろうというつもりなのだ。
自分は衝突の直前で、クルマから逃げ出せばいい。
そう理解したが、どうやらブギーマンはその上を考えていたらしい。
そもそも車体の形が、適しているかどうかだ。
そして重量の差。
全体的に四角いクラシックなミニは、当時としてはめずらしかったFF車で、重心がやや高く前のめりだ。
一方、カブトムシと言われるワーゲンは、比較的重心が低く、RR車であるためよくトラクションがかかる。
コーナーでは独特な動きをするRR車は、リアでトラクションがよくかかるため、ステアリングとアクセルで車体をコントロールする楽しさがある。
逆に、まえになにもないため高速安定性に欠け、最高速の勝負になるとフロントが浮き上がるリスクが高い。
一方、FF車はノーズが重く、まえから引っ張る駆動方式のため直進安定性が高い。
その点を見越したタツマの直線勝負だったが、見逃していた点がある。
相手は卑怯な手を使う、ということだ。
コーナリングに弱点を抱え、ほとんどメリットのない駆動方式であるRRだが、唯一、ミッドシップ以上に加減速に強いという特性がある。
衝突の直前、一瞬だけブレーキングして前輪を沈ませる。
このとき、スカスカの前トランクから吐き出した鉄板が、路面ぎりぎりでミニの片側タイヤの下に突き刺さった。
直後、ややハンドルを切って斜めに加速するワーゲンの前輪が浮き上がるのに合わせて、吐き出した鉄板がめくれ返る。そのうえに乗っていたミニはたまらない。
わずかでも片輪が浮けば、あとは衝突の勢いに任せて反対方向の斜めに吹っ飛ばされる、という物理法則は境界でも通用する。
猛烈な速度で交錯する2台の詳しい動きは人間の目ではとらえられなかったが、魂の時間を駆使してその顛末を見届けたアンリは、ヒューと口笛を吹いた。
なかなかうまいな、このブギーマン。
「くっそー! 卑怯だぞ、てめえ!」
当然のように生きてクルマから飛び出してきたタツマは苦言を呈したが、そもそもぶつけて逃げる予定だからこそ抜け出せたのであって、あまり説得力はない。
炎上するミニを背景に、高らかに笑っているらしいブギーマンのエンジン音。
どうやらゲームは、決着の3回戦を戦わずにはすまないようだ。
こんどは、おれの、ルールだ!
KdFワーゲンからそんな意識が漏れ出たと思われた瞬間、運転席のドアが突然開き、伸びてきた悪魔の腕に捕まったのは──。
ハッと気づいたときには、チューヤはワーゲンの運転席に座っていた。
「ちょ、チューヤ!」
サアヤの伸ばした手が、空を切る。
ネクストステージに強制的に立たされているのは、どうやらチューヤらしい。
顔を見合わせ、舌打ちするタツマとアンリ。
「……まずいな」
「ああ、その手があったか」
ワーゲンの運転席で絶叫するチューヤの全身に、ミミズのような虫がゾロゾロと這いこんでいく。それはコンピュータウイルスと同様の魔力回路であり、既存のシステムに感染し、暴走させる。
チューヤの皮膚に相剋する魔力回路が浮き上がり、自罰傾向のように血管と筋肉を切り裂いていく。
運転席に鮮血の噴水が弾けた。
「チューヤ! どしたの!? 助けて、ねえ!」
サアヤがタツマたちに懇請するが、彼らは静かに首を振る。
「ゲームははじまってしまった。ああなったら、もう無理だ。一体化している。助けるには、殺すしかない」
「いっそ楽にしてやるか……」
魔力を高めるタツマたちに、サアヤは全力で反論する。
「だめ! 殺したらダメ! 助けるんだよ、チューヤを助けるの!」
「助けが必要なのは、あんただよ、お嬢さん」
「そいつから離れろ。殺されるぞ」
ヴォオォンっ!
リアに搭載されたエンジンが激しく吹け上がる。
ガク、ガクンッ、と揺れるように動き、そのまえに立つサアヤの足元を突いた。
コロセ、コロセ、コロス、コロセ、コロセ、シネ、シネシネシネ……。
悪魔がやってきた行為が、永劫回帰に再生産される過程。
チューヤのうえに展開する呪いの魔術回路は、彼に大量殺人を教唆している。
これまで多くの人々が、この呪いに感染し、多くの同胞を死にいたらしめてきた。
呪いのクルマに取り憑かれたら、轢き殺さないわけにはいかないのだ。
ガクンッ、と前進するワーゲンのフロントリップに駆られて、バランスを崩し、ボンネットに倒れるサアヤ。
それでも彼女は、車から離れようとはしない。
二度と、殺させない。
この車に、たいせつな家族を、二度と。
「おやおや、死ぬぞ、お嬢さん」
意外な酷薄な口調で言うタツマ。
それを当然のように受け入れつつ、一応突っ込んでおいてやるか、という体のアンリ。
「助けないのかよタツマ、おまえは正義のカミサマだろう?」
「方法さえあればな。残念ながら、わからん。おまえこそ、アンチヒーローぶりを発揮したらどうだ?」
アンリはしばらく考えていたが、ふとKdFワーゲンの後部座席をみて、軽く口笛を吹いた。
光の神には光の神に特有の特技、闇の悪魔には闇の悪魔が得意とするジャンルが、たしかにある。
全身が痙攣する。
痛みは超克した。
この肉体はもう無理だ、壊れる、そう覚悟を決めた。
ここで死ぬのはいい、いや、よくはないが、しかたない。
だが、彼女を殺すのはダメだ、それは認めない、許さない。
左足で、全力でブレーキを踏んだ。それを跳ね返そうとする魔力に抗して、ひたすら押し込んだ。
同時に両手で剣を抜いた。アクセルを踏もうとする右足を引きもどすには、腕の力だけでは足りない。
炎を巻き上げる剣を突き立て、自分の右足をフロアに固定した。
ザグッ!
激痛が走るが、耐えられない痛みではない。
すくなくとも、このまま拱手傍観するよりは。
殺させない。サアヤは殺させない。
自分の血で真っ赤に染まった室内を見まわし、泣き叫ぶサアヤの姿が赤い膜の向こうに消えていくのを眺めた。
ぷちぷちぷち、と血管が切れる音が聞こえる。
眼球の裏側で、いろいろな細胞が死んでいく──。
「おやおや、痛そうだな」
助けるそぶりもなく、ぼんやりと状況を眺めるタツマ。
「痛くなったらメルセデス♪」
重ねて冗談まで言えるのが、アンリだ。
「これはワーゲンだが」
「同じドイツ車だし、半分くらいは効くだろ?」
「ドイツ車の半分はやさしさでできています、ってか。だが、効いてないみたいだぜ」
「東側のドイツなんだろ。……なあ、クリスティーネ?」
ゾロアスターの神と悪魔は、くりかえされてきた生と死の「現代版」を、じっと眺めている。
そのとき悪魔の口が紡いだ名に、どんなナラティブを見つけ出せるか──。
全身の細胞とともに、脳細胞もつぎつぎと機能を停止していく。
その壊れかけた聴覚視神経に届く、ささやき声。
チューヤの本能が、魂の時間をなぞって引き上げた言葉。
大魔王アンリマンユが、後部座席に乗っていた女の魂に呼びかけた、名前。
「……もうやめろ、ゆるしてやれ、やるしてくれ、ゆるすよ、おまえを、ゆるす……クリスティーネ」
瞬間、空気が固まった。
室内を満たしていた怨念が、釣り糸に引き上げられるように、いずこかへ吸い込まれて消える。
空漠たる車内空間に、血みどろのチューヤがひとり。
助手席に、静かな表情のドイツ人女性。
彼女は乱暴され、ひどいケガを負っていたが、それは何十年を閲した残存思念のイメージにすぎない。
「私の名前をつけてくれると、彼は言った。メルセデスのように、私の名前を、このクルマにつけてあげるよと」
メルセデス・ベンツにその名を遺す「メルセデス」は、オーストリア・ハンガリー帝国の領事も務めた人物の娘の名前である。
当時、響きのいい女性名を、社名などに採用することが流行していた。
だが、クリスティーネという自動車メーカーも、車種も、またそのような関連の愛称も存在しない。
彼女はナチスドイツの将校によって犯され、殺されたからだ。
ゆるすな、ありえない、ころせ、ころすんだ!
叫ぶブギーマンの声を、光の神の腕が引っこ抜いていく。
分離したらこっちのもんだ、残念だったな。
そんなタツマの声が聞こえた気がした。
無数の怨念が閉じ込められるなか、最期に残った善良な霊も何体かいる。
彼らはチューヤを、やさしい目で見つめていた。
そのうちのひとつの顔に、彼は見おぼえがある。
「最後の審判のまえに、また会えたね。いや、お姉ちゃんふうに言えば、弥勒菩薩のおかげさま、かな」
少年は、言った。
これまで、ずっと迷っていたのだろうか──サアヤの弟が、ここにいる。
──ゾロアスターは、現存するうちでは世界最古であり、その後に登場する多くの宗教に影響を与えている。
最後の審判の影響はユダヤ教、キリスト教にも継承された。
大乗仏教での弥勒信仰、イスラム教もまたゾロアスターの影響を受ける。ただしニーチェのツァラトゥストラに関しては、名前以外はなんの影響も受けていない。
永遠の天国は、最後の審判の四日目、世界の大改造を経て到来する。
天国と地獄を隔てたチンワト橋も焼け落ち、世界は燃え盛る溶岩に飲まれて、すべてが平坦になる。そこには天国も地獄も存在しない。
世界には善のみが存在し、人間は善良かつ不死の存在となる。ゾロアスターの天国では、生前の行ないにかかわらず、すべてのひとが、ゆるされる。
「そうだ、きみを、きみたちを、ゆるす……」
チューヤの言葉に、最期まで残っていた霊たちの姿も消えていく。
最後に、サアヤの弟の声が聞こえる。
──ぼくは死んだけど、お姉ちゃんが生きていてくれたら、きっと楽しい話を、また会ったときにたくさん聞かせてもらえるから。
彼は笑って、あの世へと去っていく。
同じ言葉をサアヤも聞いている、とチューヤは理解した。
視線の端、自分の血に汚れたフロントグラスの向こうで、呆然としたサアヤが自分の弟と話し、目のまえで消える彼自身を見送っていたから。
それ自体、記憶が捏造した慰撫にすぎないのかもしれないが──。
「クリスティーヌ……きみは?」
「そうね、ゆるされるなら、私も逝きます。ゆるしてくれて、ありがとう。私も、あなたをゆるします……」
バン、とドアが開いて吐き出されるチューヤ。
境界が解かれ、現世側にもどっている。
つぎの瞬間、車だけが境界に引きもどされていく。
代金だ、もらっておくぜ。
そんなアンリの声が聞こえた気がした。
「なにをした?」
タツマの問いに、アンリはナンパ男よろしく、言った。
「おまえとちがって、オレは女の子とヨロシクやんのが好きなんだよ」
一瞬だけ、魂の時間に介入し、きっかけを与えた。
あとは当人しだいだった。
彼らは黒いKdFワーゲンに乗り、境界の道をゆく。
「だれだよ、さっきの?」
「50年まえも100年まえも、1000年まえからだって、いい女はたくさんいたからな」
「長々とおまえの女遍歴を聞くつもりはないよ。……この世界は、どっちへ転がるだろうな、アンリ」
「さあね……まあ、自分の足に剣を突き立てるような頭のおかしいやつの決めたことなら、聞いてやってもいいかもしれねーな」
立ち去るアフラマズダとアンリマンユ。
ともに光と影を背負いながら、並び立ち、仲のいい友人のようにさえみえる。
これは、彼らのアイデアを容れて神学機構が構築した、絶対にして唯一の光、善という概念と対立する。
だからこそ、ゾロアスターは衰亡したのかもしれない。
境界で、現世で、異世界線で、彼らは永久に戦いをつづけるために、お互いを必要としているのだ。
駆け寄ってくるサアヤ。
強く抱きしめられ、全力で回復魔法をかけられる。
すでに境界から抜けているのでその効果は不十分だったが、かろうじて残されていた魔力回路の残滓が、致命傷だけは回復させてくれた。
もちろんオオクニヌシの加護もある。世界の神話中、最強レベルの不死身。
なかなか死なない、ということが彼の最大のアドバンテージだった。
「チューヤ、見た? 弟が、あの子が」
「ああ、よかったな。もう解決したんだ、サアヤの問題は、全部……」
吐き出すように言って、全身から力を抜いた。
長い夜が明けようとしている──。




