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65 : Day -30 : Ikejiri-ōhashi 「ゾロアスターはかく語りき」


 地面に転がり落ちて大けがを負っているはずのヒナノは、チューヤの召喚した悪魔によって拾われている。


「……慈悲か。すべては無意味だが」


 つぶやくタツマの背後に、光の環が見える。

 彼に光り輝くガーディアンが憑いていることの証左のようにもみえるが、純白の光輝を放つクルマに乗る悪魔だっているのだ。


「チューヤ、わるいがボクは降りるぜ。……お嬢、今回はキミが正しいかもしれない」


 ゆっくりとヒナノのほうに合流するケート。

 ヒナノは不快げに自分を助けてくれた悪魔を振り払い、周囲を見まわして状況を確認する。


「正義が負けるなどあってはなりません。この勝負は……」


「まあ、どうみても負けだったよ。事実は認めないとな」


 背後に歩み寄るアンリが、肩をすくめて言った。

 チューヤ、ヒナノ、ケート、タツマ、そしてアンリ。

 5人の視線が交錯する。みずからの立ち位置を鮮明にしなければならない。

 舞台の中心は、にらみ合うタツマとアンリだ。


「アンリ。二度と少女に不埒な真似をしないと誓え」


「なにを言っているのかわからないな、タツマ。彼女らは望んでぼくに身を任せているんだ。──そうだろう、マドモワゼル?」


 その物言いは、若干ヒナノの心を逆なでした。

 ケートは自分を正義と認めたが、彼女自身はみずからの正義に疑念が混じるのを感じている。

 チューヤに負ける、などという許しがたい事態が拍車をかけた。

 ──正しくない自分を、神は罰しているのではないか?


「おーっと、またぞろ痴話げんかかァ? こいつら、いっつもそォんな感じィイ! というわけで視聴者の皆さん、中継はここまでだァ。ここからさき誇り高いエンスージアスト諸兄は興味もなかろうが、よかったらどろどろ醜態ワイドショー、お昼のソープドラマにチャンネル切り替えてもらって、つづきをどうぞォ。いったんお返しするぜー!」


 騒がしいスター新舘がどこからか現れて、実況中継の終了を告げる。

 回線の向こうでは、今夜はめずらしくR360が勝った、という結末で賭金のやり取りが行なわれるだろう。


「内燃機関こそが正義だ。信じるべきは炎だ。この爆発だけが、俺たちの進むべき道なんだ」


 そういう()()()()()()()が、極東のゾロアスターの一定割合を占めている。

 内燃機関に対する燃えるような愛着、エンスー度合いは、たしかに拝火教に通じるものだ。


 インドとイランにあるゾロアスターの神殿では、先史時代からの火が、いまも絶やさず燃やされつづけているという。

 ギリシア神話ではプロメテウスが火を与えてくれたが、ゾロアスターではスリソーグという牛が、背中に乗せて天から運んできた。

 ゾロアスター教は牛と関係が深く、人間は牛の魂を守り、牛に悲しみを負わせないことを要求される。この伝統はヒンドゥーへと受け継がれた。

 ケートがウシを神聖視するのは、アヴェスターからの伝統ということだ(正しくはアベスターグで、アヴェスターは近代ペルシャ語訛り)。


 もちろんユダヤ教やキリスト教にも、絶大な影響を与えた。

 天国と地獄という概念、天使と悪魔の戦いという考え方、終末の日に善なる人々が救われるという信仰も、ゾロアスター教からはじまった。

 こんにちの世界宗教の基礎の大部分は、古代の牛飼いゾロアスターが得た啓示に端を発している、とさえいっていい。


「……はいはい、どうも。ご苦労さんだったね」


 中継が切れたことを確認して、新舘は軽く手を振りながら舞台の収拾にやってくる。

 番組の「中継者」である彼にとって、同じゲームを盛り上げた「競技者」は「仕事仲間」のようなもの。

 レースの結果が出たら、あとは「なあなあ」で終わろうじゃないか、という生ぬるい笑みが──ゆがんだ。


「滅びよ、ダエーワ!」


 つぎの瞬間、なんの前触れもなくタツマの拳がスター新舘の横っ面をとらえ、彼は吹っ飛ばされた。

 あいかわらず状況の変化に追いつけないチューヤたちだが、いくらイラつく実況者とはいえ、いきなり殴りつけることはないのではないか……。


「バレてるみたいだよ、新舘さん。あんたのイカサマさァ」


 倒れる新舘を見下ろして、アンリが嘲るように言った。

 新舘は頬を押さえながら、怒りをこめて吐き捨てる。


「てめえ、アンリ。だから、もっとうまくやれって」


「どういうことだ、あんたら」


 自分の立ち位置までが曖昧模糊としてきた、と感じたケートは苛立ちとともに問う。


「どうもこうもねえよ。ここ最近、賭金がアンリに偏ってた。せっかくだから大儲けしようってだけさ」


 ──新舘によれば、どうやらこれはイカサマの出来レース、らしかった。

 アンリは、わざとタツマに勝ちを譲った、八百長の参加者だ。

 一方、タツマはどうやら「知らなかった」らしい。

 唇を噛み締める。先刻ようやくそのことに気づいた彼が、あふれる怒りを新舘にぶつけた、という現状らしいとチューヤたちも察する。

 彼にとっては屈辱の結末、ということになるのかもしれない。


 ちなみにダエーワは、ゾロアスター教における悪魔の総称である。

 アンリマンユが生み出したものだが、これはディーヴァ神族であって、インドでは崇拝され、逆にアフラマズダを意味するアスラ神族は悪役になっている。

 わかりやすく善が悪、悪が善に切り替わっているわけだ。

 もちろん価値観の転倒は歴史上よくあることであり、ゾロアスターとインド神話はその好適な例といえる。

 ケートにも同じ「反転」が起こったことと、無縁ではないかもしれない。


「どっちが正しいんだ……?」


 やっぱりイカサマ賭博をしているほうがわるいようにも思うが、いきなり戦闘を強いたり、車をぶつけようとしたり、ひとを殴りつけたり、無礼な発言が散見されるタツマにも、現代人の価値観からみれば、わるい部分がないともいえない。

 くりかえすが、物の価値など、時代や社会によって大きく転換する。

 この場で高校生たちが、安易にみずからの立ち位置を変えたとしても、それは責められるべきではない。


 ──見まわせば、彼らは屹立する巨大なジャンクションという城塞の周縁に立っていた。

 内側に視線を向けると、中心の広場に高い塔がたたずんでいるのが見える。

 自分たちは、それを包むようにめぐらされた壁のうえに立っている格好だ。


「そもそも純粋に速いほうが正義、ってルールにすりゃあ良かったんだよな」


 アンリの言葉は、現状では逆に、そのルールが適用されていないことを意味する。

 歴史はしばしば、というよりほとんど、強い者が正義というルールで貫かれてきた。

 であれば、アンリとタツマの関係も、戦って勝ったほうが神であり、負けたほうが悪魔であるというルールの適用を受けるのが、手っ取り早い。


「バカな、神は……正義は絶対的なものです。神が行なうがゆえに、それは正義なのです。アンリ、あなたは唯一の神の庇護を受ける者ではないのですか?」


 猜疑と懸念に満ちて問いかけるヒナノ。

 彼女のキリスト者としての信念に、残酷な「揺らぎ」が生じていた。


 くりかえすが、ゾロアスター教ほど世界の宗教に強い影響を与えた宗教はない。

 完全な善、完全な悪、という二元論に汚染された世界が、どれだけの犠牲を生み出してきたかを考えれば、あきらかだ。

 アンリマンユという存在が、世界に利益をもたらすことは、ひとつとしてない。絶対の悪であり、すべてのゾロアスター教徒は、善の勝利のために貢献しなければならない。

 そのためによいことを考え、よいことを語り、よいことをする。

 善思・善語・善行。たいせつなキーワードだ。


 社会が未成熟で、独特規範というものを必要とした原始宗教としては、これは非常に()()()()()()だった。

 アフラマズダは、世界ではじめて「完全なる善」と定義された。

 多神教がほとんどだった古代神話体系のなかで、たったひとつ成立した唯一神の例。

 彼は絶対に正しく、彼以外に神は存在しない。

 ゆえにアフラマズダは、しばしばヤハウェやアッラーフの源流に置かれる存在だ。


 アイデンティティのクライシスに見舞われたかのような、ヒナノの悲しげな表情を、アンリは薄笑いを浮かべて見返した。


「おまえの立つその場所を、ほんとうに信ずべきか?」


 両手を広げた瞬間、身体がふわりと浮き上がった。

 いや、その表現は適切ではない。()()()した、といったほうが正確だろう。

 同時に、彼の横に止まっていた2CVが、突如としてドリフトを開始した──その表現も適切ではない。

 車と人間は、内側の()()()()()()()()はじめた。

 その表現が正しい。


 激突音とともに、2CVが()()()()壁に、ヒビがはいった。

 そのうえに、さらにR360が()()()くる。

 そもそも落下の衝撃を受け止めるようにはできていない「壁」に、いかに軽量といえど2台の車がぶつかった結果、すべからく開く穴。

 もんどりうって壁の向こう側へ落ちていく2CVとR360を追うように、単身、飛び込むアンリ。

 唖然とするチューヤたちのまえで、同じように落ちはじめたタツマは、一瞬だけ壁の穴の横に()()()、チューヤたちを()()()た。


「その目で確認にくるがいい、()()()()()()という次元に、踏み込む覚悟があるなら」


 そうして穴に吸い込まれ、姿を消した。

 急いで駆け寄り、むこう側を見るチューヤたち。

 あきらかな異世界が広がっているのかと思ったが、さにあらず。

 そこは暗黒の宇宙空間でもなければ、虹色に揺らめくタイムトンネルでもない。

 大橋ジャンクションの中庭である空間と、突き当たりは道を半周したさきの壁。

 唯一、現世らしくない要素といえば、中庭の中心に高い塔があることくらいだが、その粗末な造りの塔に吸い込まれたのかどうか、すでにアンリもタツマもクルマたちも、姿は見えなくなっていた。


 彼らはこの穴のさきが「下」であるかのように落ちていったが、チューヤたちの目には、どう見ても「横」に開いた穴にしか見えない。

 理解できない事態、しかし理解できそうな要素も感じて、いぶかしげに観察をつづけるケート。


 ともかくあの中心の塔に行ってみる必要がある。

 地上から行くか? いや、正規ルートはおそらく上に架かっている橋だ。

 地面から突き立っている塔の基部に、入り口らしきものは見えない。近寄ることもできないよう、火が焚かれている。

 一方、上には周囲の壁から一本だけ、塔にむかう橋が架かっている。


「悪魔相関プログラムも同意らしいね」


 チューヤの視線もケートの見つめるさきに合流した。

 フィールドデータが更新される。


 ──それは、チントワと呼ばれる橋。

 ゾロアスター教において、生前の善行と悪行が等しい者は、ハミスタガーンと呼ばれる罰も報いもない中間界へ行く。

 それ以外の者はチントワ橋で、天使たちがその魂を秤にかける。

 悪行のほうが重ければ、冷酷な悪霊ウィーザルシャに捕まって拷問を受ける。

 最上の天国は、ガロー・デマーンと呼ばれるアフラマズダがいる場所だ。


 世界最古の宗教、善悪二元論。

 善と悪の最終決戦は、開祖ザラスシュトラ(紀元前7世紀ごろ)生誕から3000年後、救世主サオシュヤントが到来し、善が勝つことで終わるという。

 善が勝利をおさめたとき、すべての死者は死んだときと同じ場所で、生前と同じ肉体で復活する──。


「復活、するんだって!」


 ハッとして、声のほうをふりかえる。

 そこには、ようやく彼らに追いついてきたサアヤとパリーサが立っていた。




 どうやらサアヤは、ここまでくるあいだに、パリーサから妙な話を聞き取ったようだった。

 ──死者が生き返る。

 それはゾロアスターの教義の一端だ。

 が、アンリとタツマの戦いに加担して正義を勝たせることで、死者をよみがえらせることができる、という話ではない。


「あのな、サアヤ。何度も言うが、ひとは死んだら」


 ぐっ、とサアヤの手がチューヤの口を押さえつける。


「黙れ。ひとは死んだら、生き返らせればいいのよ」


 口元に浮かぶ微笑は、私は冗談を言っているんですよ、と主張したいからかもしれない。

 だがチューヤの目には、そこに宿痾のようにこびりついた過去を、きれいに拭い去って見ることができない。

 サアヤの考えは、なにかにすがりつきたい人間の心を反映している。

 まさに宗教の存在理由だ。


「まあさ、そのまんま生き返るとはかぎらんけど、ちょっとした奇跡くらいは見せてもらえるかもしんないぜ」


 ケートは穴のむこうを見下ろし、それから見上げた。

 現状、中央の塔につながる道をショートカットできるのは、アンリやタツマのような選ばれた人間だけかもしれない。

 しかし、それ以外の人間はジャンクションの屋上にかけられた正規の橋を使って、そこへ向かうことができる……ように見える。

 この混淆した物理法則の謎を、解き明かしてやらずばなるまい。


「彼女に伝えたとおりです。アフラマズダを信じる者は、すべての願いを叶えられ、天国へと引き上げられるでしょう」


 パリーサの表情には喜びが満ちている。

 ヒナノは複雑な表情で、そう宣言する見知らぬ女を見つめた。

 同じ言葉をアンリから聞き、共感もしたが、それは彼が唯一の神を信じる者であるという前提だった。

 唯一神という存在を設定するシステム自体に、この信仰は揺るがず屹立するセントラルドグマだ。


 唯一神と同一のものであるかぎり、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラームも手を取り合うことができる──すくなくとも、その可能性については神学機構が一応の成果を出した。

 アンリは仲間だと思っていた。

 だが、そうではないかもしれない。


 光とはなにか、闇とはなにか。

 正義とは、なにか。

 これからの正義の話をしよう──。


「進もう、さきへ。……彼は知っているんだろう? 悪魔の名前を」


 チューヤの問いに、うなずくパリーサ。


「あなたたちの求めるすべてが、このさきにあります。行きましょう」


 人類の母なる概念を多神教としたら、父なる概念である──かもしれない、一神教。

 その先達でありながら絶滅危惧種、ゾロアスターという世界のさきへ──。



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