64 : Day -30 : Naka-meguro
電光石火に走る左手が、イナヅマシフトでレッドゾーンをキープする。
160キロオーバーでの走行を予定されていない車体が、ぎしぎしときしむ。
これほど車内に張りわたされたロールバーが意味をもつ走行方針はまたとない。
「戦えよ、最後の審判まで」
前方、直上にとらえたシトロエン2CV。
マツダR360は火を噴くように加速する。
「こいつァ、シビれる、バトルだぜぇーっ、さぁあ、いぃーってみゃしょお~!」
追走する新舘が、この風圧を受けながらしゃべっていられることにも感心する。
もちろんフルフェイスではあるが、喉から肺にかかる「圧」は半端ではないのだ。
空気は、ある速度から、壁になる。
R360は、その壁を切り裂いて、音速の先へ。
空寒い表情で、チューヤは運転席の男を見つめる。
端正な日本人の横顔に、狂気が宿っている。その表情には光り輝くなにか強い力が感じられはしたが、彼から射す光へと踏み出すことを躊躇させる別のなにかも、またある。
ここには、大きな罠が隠されているのではないか──。
大橋ジャンクションで1車線に分岐するまで、残り数百メートルの勝負。
最後の分岐車線へ侵入の直前、本線から横をすり抜け、2CVのまえに横滑りして割り込んだのは、R360だった。
チェッカーフラッグが振りまわされ、新舘の絶叫が響きわたる。
「いぃいーやっはァア! 今宵、反則R360のロータリーロケットが、フランスの貴公子2CVにリベンジだァ! ハートに刻めビート、帰ってこい大霊界、まだ戦いは、終わらねェぜェエ!」
2輪がアスファルトに膝をこすりながら、2台の4輪の横を蛇行して通り過ぎていく。
いや終わったばかりだろ戦い、なんだよ終わらないってよ……。
憮然とするチューヤの思いはシンプルだ。あとはこのまま車を止めて、互いの健闘をたたえ合い、きょうのところは俺の勝ちだね、それじゃ女の子返すよ、という平和的な決着がもたらされるだけ。
そんな淡い期待は、早々に打ち砕かれた。
これで終わりのわけがない。だとしたら、チューヤたちを乗せてくる意味がないからだ。
わざわざ重くして、ハンデをつけてやったとでもいうつもりか?
そうではない。このさきこそが、問題なのだ。
チューヤたちは唖然として、並走する2CVを見つめた。
そこでは、誘拐犯であるはずのアンリ・マイヨールなるフランス人と、楽しげに歓談するヒナノの姿。
彼は敵ではないのか……?
──大橋ジャンクションは、4重ループ構造、路面の高低差70メートルという、まさに「道の迷宮」の体だ。
屋上は公園となっており、目黒天空庭園と名づけられている。
巨大な城、大橋ジャンクションを回転しながら、徐々に高度を上げていく2台。
上り坂なのでスピードは出ない。
……いや、すでに上りなのか下りなのかも判然としないほど、何周も、何十周もまわっているような錯覚をおぼえる。
──錯覚ではなかった。
この迷宮に、出口はない。
敵を倒して抜け出すしかないようだ。
「……そういうゲームが、はじまった。さあ、ネクスト・ステージ、いってみゃしょお~!」
新舘の姿は見えなかったが、声だけがどこかから響いてきた。
大橋ジャンクション自体は、国立競技場くらいの広さしかない。
わざわざバイクでその回転運動に付き合わなくても、別の方法で観戦することができる、ということだろう。
やおら視線を向けると、2CVの上に立っている、ヒナノ。
彼女を助けにきた……そのはずなのに、かの人物は攻撃の意思も明確に、腕を振りかぶって魔法を詠唱している。
得意の炎が彼女を包み込み、放たれた。
──こちらに向けて。
危ういところで回避するタツマ。
彼はチューヤたちを顧みて、言った。
「さあ、倒してくれ、敵を」
唖然としているチューヤが戦場に出ようとしないので、しかたなくケートが身を乗り出した。
「ボクでもいいんだろ?」
「かまわんが、彼女に勝てるかな?」
「いつかは決着つけなきゃならんと思ってたさ。ちょうどいい」
「ちょ、待ってケート! 俺、俺が行くよ」
あわててケートを押さえ、自分から天井に這い出すチューヤ。
肩をすくめて助手席に移るケート。
チューヤが乗っても、天井にひとが立っているという感覚はない。魔術回路による「ステージ」が形成されているということだ。
ただしそのステージは、けっして広くはない。落ちれば瞬時にミンチになる、というほどの速度は出ていないものの、大けがすることはまちがいない。
戦闘不能になるか、戦場から落ちれば負け。
どうやらそういうルールだ。
「……どちらが出てきても同じこと。神の名のもとに、排除します」
ヒナノの背後には新たなガーディアンらしい天使ドミニオン。
さきほどのスピードスターズな雰囲気で付け替えてきたのか、そもそもそういう予定だったのか。
「お嬢、落ち着いて。俺たち、助けにきたんだよ?」
「悪魔の口車に乗ってね。旧知のよしみで、降伏するなら命までは取りません。考える時間をあげましょう」
まとった炎でドミニオンを愛でるヒナノ。
天上位階論において主天使と呼ばれ、上から4番目に配される強力なガーディアンだ。
どうやら本気で殺しにくる気のようだ、とチューヤは理解した。
ここにケートを出さなくてよかった、と思う。
ヒナノのことがあまり好きではない彼なら、喜んで本気の殺し合いに参加する可能性が高い。
「……悪魔の口車に乗ってるのは、どっちだろうね」
慎重な物言いをする悪魔使い。
いかなる特殊な状況に陥っても、合理的な理由と解法を探して解決を試みる。やることは変わらない。
クルマがぐらッと揺れて、バランスを崩した。
ここはジャンクションであり、らせんを描きながら走行するルートには、それなりに悪魔たちの仕掛けた障害物がある。
それを回避する運転ゲームであると同時に、上では戦闘力を競うバトルが展開される、という二重においしい「ゲームを楽しもう」というのが、最新版の首都高バトルにおける仕様らしかった。
「あなたなら、落ちても死にはしないでしょう。……さっさと終わらせましょう」
強力な火炎魔法が、直撃コースでチューヤを襲った。
悪魔たちを展開して軌道をそらせつつ、自分も空中で支えを受ける。
飛行系の悪魔を駆使すれば、容易に落下することはない。
一方、反射的に反撃に転じた悪魔の爪が、ヒナノのバランスを崩して落下コースに落とすが、彼女のガーディアンであるドミニオンがそれを支えた。
どうやら「落として終わる」というのはむずかしそうだ。
「お嬢、話を聞いてくれ。……きみの下にいる、その男は悪魔だぞ?」
「なにをバカな。悪魔使いの言葉に、なぜわたくしが耳を傾けると」
「だっておかしいだろ、じゃ、そいつはだれなんだ?」
「……わたくしの友人、東方の賢者です」
フランス人のはずなので、どちらかといえば西方のひとのはずだが、彼女がそう表現したことには、もちろん意味がある。
諸説はあるものの、キリスト教は星辰にしたがって生後間もないイエスに会いに、ベツレヘムへきた「東方の三賢者」を、ゾロアスター教のマグだとみなしている。
その時点で、ゾロアスター教は、基本的な部分は保ちつつも、祭儀や多くの点で既存の宗教と混交し、ゾロアスター自身、予想もしていなかったであろう新しい形態となっていた。
「またぞろ比較宗教学っすか……」
げんなりするチューヤ。
悪魔についてはそれなりに詳しくなっているが、背景にある歴史、宗教、民族の、複雑に絡まった流れについては、さほど詳しいわけではない。
そもそもチューヤは、絡まり合った信仰の糸より、鉄路を乗り換えるプランを練るほうが好きなのだ。
まあ、どちらも似たようなものではあるが。
「お互い、深刻な歴史を乗り越えて現代に受け継がれているのです。わたくしも、彼もね。皇帝とは、つねに厄介なものでした。折り合いをつけるまでは」
ヒナノは親愛の視線で、車内のフランス人を一瞥する。
ここまでのレース時間中、歓談していたヒナノの耳に、その悪魔がどんな毒の言葉を注いだのか、チューヤにうかがい知ることはむずかしい。
──世紀の英雄、アレキサンダー大王は、ゾロアスター教徒にとっては悪魔の名前である。
ペルセポリスの宮殿を略奪し、壁に貼られた黄金をはぎ取り、ペルシア出征の軍費とした。その軍隊は火の寺院を破壊し、祭司を虐殺した。
このとき、何世紀にもわたって培われたゾロアスターの知識は失われた。教義は指導者を失い、混乱に陥った。
ヒナノにも、勃興期のキリスト教徒を襲った混迷のローマ時代を知る素養がある。
そういうスノッブな会話を楽しむことで、アンリはヒナノの警戒の壁を取り去ったのかもしれない。
「そういうむずかしい話は、ケートとしてもらったほうがいいかもね」
「たしかに、彼とは会話が噛み合うでしょうね。ただし、意見が合うことはないでしょう」
アレキサンダーの死後、帝国は分裂した。
紀元前2世紀、パルチア統治下のペルシアで、ゾロアスター教は依然として強い勢力を保っていた。
パルチアは宗教に対しては柔軟で、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教などが入り混じっていた。古いミトラス信仰、イシュタル信仰、女神アナーヒタの像も崇拝の対象となっていた。
キリスト教も、似たような流れで他の信仰を取り込みながら、ひとつにまとまっていく過程をたどった。
そのような歴史的背景に基づいて、会話を交わすこと。
わかるよ、きみたちはそうして、こうなった。同じようにわれわれは、こちらの道をたどって、ここにいる。
いま、運命はぼくときみを、この場所で結びつけたんだ──。
超絶イケメンが、女性ホルモン横溢する高校生の婦女子に、ロマンティックあげるよ、とささやくようなものだ。
ヒナノという貴族の心を解きほぐすハードルは、いうまでもなくスカイハイだろう。
その空の道をかいくぐり、アンリというイケメンは、ヒナノに「未来の同志」を感じさせた。
理屈はともかく、本能で察したチューヤはさけぶ。
「そいつは悪魔……アーリマンだ!」
彼の悪魔相関プログラムが正しければ、そうなる。
──時代は、ササン朝ペルシア。
多様だったゾロアスター教が統一され、『アヴェスター』の編纂が進む。
アンリマンユが「アーリマン」などと呼ばれるのは、新たな信徒の母語ペルシア語の発音に寄せた結果である。
「いいえ、彼は唯一の神を信じる者、わたくしたちの仲間です!」
ぶつかり合う魔力と悪魔。
そもそも対立概念の塊である、神学機構と悪魔使い。
唯一の神という巨大な共通項のみによってくくられる神学機構に、アンリはみごと、取り入ったということかもしれない。
一方で、多神教という「存在するだけで害悪」の連中には、最初から強い警戒と敵愾心をもつように、一神教徒というものは生まれつき教え込まれている。
「本気出せてねえな、チューヤのバカめ」
観戦しながらぼやくケート。
部室での議論ならケガをすることもないが、ここでの戦いは文字どおり、骨身を削る。
問題は、そこだ。
「信じてよ、お嬢! 俺とそいつと、どっちを取るの!?」
「彼です、決まってるでしょう!」
訊かずもがなのこと訊いて、勝手にダメージを受けるチューヤ。
──統一から数百年を経て、神と悪魔の戦いはより具体性を増していた。
アフラマズダには肩を並べて戦う陪神「聖なる不死」アムシャ・スプンタが寄り添い、形をもたなかった邪悪の象徴アンリマンユは、「虚偽」という名前を与えられて黒い悪魔の姿となった。
真理と虚偽の戦いを、人々が思い描きやすいように、他の多くの概念とともに具象化が進められていった。アフラマズダの天地創造も、ゾロアスター教の教義の一部となった。
「やれやれ、またぞろ神さまが創り出されていくってわけかい。しかも唯一の神ってんだから、始末がわるいや」
ケートの侮蔑的な物言いを、運転席の男は能面のような無表情で聞いている。
絶対的な正義を信じる人間がしばしば見せるのは、狂気の笑顔か信念の無表情と相場が決まっているらしい。
ふと、懐疑主義者のケートの精神に、少なからぬ疑念が流れ込みはじめた。
──この男は、ほんとうに正しいのか?
阿藤タツマ、たしかに自分たちを助けてくれた味方のように思われる。
が、待てよ……まさか、お嬢のほうが正しいなんてこと、あるだろうか?
そういう思考自体が悪魔の奸計なんだ、とチューヤなら言うだろう。
「この世に邪悪が存在するのは、なぜだと思う?」
タツマは言った。
現在進行形で宗教者を悩ませ、何千年もまえから、くりかえされてきた疑問。
この世に邪悪が存在するのは、なぜか。
完全に善なる神がこの世を創ったのだとしたら、なぜ最初から悪を祓ったうえでお創りにならなかったのか。
無数の意見と回答が提出されているなか、そのごく初期にゾロアスターが与えた回答こそ、二元論だ。
アフラマズダの行ないはつねに正しく、アンリマンユの行ないはつねに邪悪。
アフラマズダのつくった精神は正しく、アンリマンユのつくった肉体は汚い。
突然、タツマはアクセルを踏み込み、アンリのクルマへ衝突させる勢いで寄せた。
相手が躱さなければ激突していただろう。
その一瞬、車から振り落とされるヒナノ。
当然、彼女を助けるべきガーディアン・ドミニオンは、絶好のチャンスとばかり悪魔使いの喉元に向けて剣を振り下ろす。
吹っ飛ぶチューヤ。
スピンしながら止まる2台の車。
まさかの決着は──。




