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人々のざわめきに、チューヤたちはハッとして視線を向けた。
東側の出口の方向に、美しい純白に輝く巨大なマッスルカーがエンジンを吹かしている。
69年式フォード、リンカーン・コンチネンタルマークⅢ。
ざわめくドミニオン・カーズの面々。
天使たちのクルマがつぎつぎ、内燃機関の音を高めて呼応する。
「ドミニオンたち、必ず仕留めなさい」
「はっ……!」
ミカエルの声に応じて、数人の天使が自分たちの旧車に散らばっていく。
彼らはどうやら、エセ天使をほうふつさせる純白のリンカーンを敵視しているようだ。
──ドミニオン・カーズは、バーミリオン・サンズ(朱色の太陽)という旧暴走族を選抜して、走り屋に仕立て上げた天使の集団だ。
天使ドミニオンが中心となって編成され、バイ・ミリオン・カーズとも呼ばれている。
バイ(さよなら)ミリオン(百万台の)カーズ(車たち)という高速集団ネームにふさわしく改良された走りで、忌まわしい暗黒の騎士リンカーンを撃滅するのだという。
どこかでチェッカーフラッグが降られたのを感知したか、リンカーンは激しくホイルスピンさせながら、辰巳PAから飛び出していった。
追いかける何台もの旧車たち。
──首都高バトルが、はじまった。
「さて、私たちも行きますか。……では皆さん、ごきげんよう」
ミカエルは言葉少なに言って、助手席にボルボ・ヘカーテを乗せて走り去った。
これはシナリオ分岐ではないか、とチューヤは思った。
ここでミカエルを追いかけ、神学機構に手を貸すことで、ヒナノ・シナリオに近づくような気がしたのだ。
が、もちろんそんな選択肢を思ったのは一瞬で、すぐに別の展開がチューヤの意識を占領した。
当然、まっさきに追走しなければならないヒナノが、はるか後方にいる。
それも、外人らしい別の男の車に乗り込んで。
「え、なにあれ、どうなってるの」
「お嬢!」
一瞬、ヒナノは顔を上げてこちらを見たが、すぐにそのまま目のまえの旧車シトロエン2CVに乗り込んだ。
そしてなんと、2CVはリンカーンたちが向かったのと反対方向、外回りのルートに抜ける業務用の鉄扉を開けて、有明方向へと走り出したではないか。
「え、どうなってんの、なにこれ?」
「なんかわからんが、まずそうだな。……どうする? パリーサを待つか?」
ケートとふたり、昼間めぐった行動を思い返しながら、チューヤは一瞬の判断で言った。
「追いかけよう。サアヤはここで待」
「ちょっとケーたん! さっさと運転してよ、このボロ車!」
とっくに後部座席に収まり、ぱんぱんと前列シートをたたいているサアヤ。
「ボロ……」
運転席に走るケートと、助手席に飛び乗るチューヤ。
C2外回り首都高バトルがはじまる。
首都高速中央環状線をぐるぐるまわっていることから、彼らは「ルーレット族」と名づけられた。
そのネーミングセンスはともかく、大井ジャンクションから葛西ジャンクションまで、東京区部をぐるりとめぐるのがそのルートで、両ジャンクションを湾岸線がつなぐ。
路線延長およそ57キロメートル。
C1外回りなど都心の小さな周回ルート(約15キロメートル)でバトルをしていた時代もあったが、2015年の完成以降、走り屋たちのまえには「中環」という広大な戦場が開けた。
「あたりまえだが、走り屋なんてものは、もうこの国にはいないんだぞ」
ぽつりと漏らすチューヤ。
ケートは首を振り、
「きれいごとはやめろ。首都高は700円で走れるサーキットだと、蛇の読んでたマンガ本に書いてあったぞ」
「ちょ、変なところでマフユの影響受けないでくれるかな!? そこに方面本部、見えてっかんね、鬼の第三交機に目ェつけられても知んないよ!」
あたりまえだが、法治国家である日本で、制限速度がある道路を、無法な速度でカッ飛んでいいはずがない。
そんなのはマンガの世界、あるいは境界の日常だ。
──目指すは1957年製シトロエン2CV。
発表当時は「奇怪なクルマ」として人々を困惑させたが、たぐいまれなデザインであり、20世紀を代表する26車種のひとつに選ばれている。
廉価で信頼性に富み、高い実用性を誇った。
追走するはイタリアの名車フィアット500。
フランスvsイタリア、宿命の対決だ。
雨滴が落ちて、すばやくワイパーを走らせるケート。
あたりまえのようにやっているが、彼が外車に慣れているおかげでもある。もし日本車に乗っていたら、ウィンカーが明滅したことだろう。
左ハンドルの車は当然、日本車とはウィンカーとワイパーの配置が逆になる。
さらに言えば、外国製の右ハンドル車も、右手がワイパー、左手がウィンカーの場合が多い。
晴れているのに、右左折レーンでBMWミニ・クーパーが突然ワイパーを動かしたら、こいつ慣れてないな、と思っていい。
「なにこれ、バカッ速いな!」
チューヤは悲鳴に似た感嘆の声をあげる。
軽自動車みたいなものだと高をくくっていたのに、やけに加速が鋭い。
「内燃機、けっこういじってあるみたいだな。クラシックの範疇で」
カッカッ、とシフトチェンジをしてアクセルをべた踏む。
ヨーロッパ人、とくにイタリア人はMTを好む傾向が強い。
「どういうことよ」
「21世紀の整備が若干、混じってるってことだ。まあ、技術自体は半世紀まえまでのもので、このクルマは比較的オリジナルに近いけどな」
右手が電光石火でギアを4速に放り込む。
吸排気系を高効率化した499.5ccエンジン、120kmメーター、ウェーバー26IMB2キャブレター等はオリジナルのままだが、細かいところに改良が施されているという。
とくにシフトノブから先が、かなり「ピーキー」にセッティングされているらしい。
軽くクラッチをもどし、つなげる。
ギアの噛み合わせを、耳と三半規管で感じる。
減速感が弱く、かなりギア比が近いようだ。
「知ってる、これエンブレだよね!」
サアヤが、ガソリンスタンドで教わったばかりの言葉を使った。
エンジン・ブレーキ。
オートマ車では、あまり感じることのない感覚だ。
「よく知ってたな、サアヤ。自動車検定、17級を認定しよう」
「わーい!」
「17級……ケートは何級なの?」
後部座席の無邪気な幼馴染から、運転席の小柄な友人に視線を移すチューヤ。
ケートはにやりと笑い、
「ボクは自動車大国で生まれたから、その時点で初段だ。エンジンの仕組みについては入学まえに知っておかないと、小学校の入試に落ちるんだよ」
「……そっすか」
突っ込む気力もない。
すばやくシフトアップし、かなりの加速度で前走車の隙間を縫いつなぐ。
トントンとステアリングでリズムをとりながら、自動車の仕組みについて教授するケートには、まだ余裕があった。
「いいか、ガソリンエンジンの出力は基本的に、吸い込んだ空気の量で決まる」
「ターボってやつね。そのくらいは知ってる」
「だが必要な空気の量は一定ではない。それを調整するのがスロットルだ。必要のないときはスロットルを絞る。すると当然、そこには抵抗が生じる。エンジンが本来、吸い込もうとしている力をロスしてるってことだ」
サアヤはもはや興味を失い、流れる夜景を嗜んでいる。
男の子の義務として、チューヤは真剣に耳を傾ける。
「うーん、わかるようで……わからん」
「極端な話、スロットル全閉じの状況を考えろ。エンジンの吸気抵抗が最大の状態だ」
「抵抗が、最大。ってことは、スピードが落ちる……?」
「正解だ。それがエンジンブレーキだよ」
クルマを減速させるほどの抵抗をもたらすエンジンブレーキは、極端に薄い燃料比によって引き起こされる。
これをリーンバーンという言葉で表し、低燃費を訴求していた時代もあった。
ケートは走るほどに車の癖をつかみ、うまくなっていった。
エンジンの特徴はつかんだ。足まわりもいい。
さっきから引っかかっているのは、シフトだ。
「無理やり乗っけたせいか、シフトアップに違和感があるな」
カーブで減速しつつ2速まで落とす。
そこから3速に上げようとした瞬間、眉根を寄せる。
「故障か?」
「ちゃんと走ってるだろ。まずはこのむずかしいクルマを乗りこなしている、ボクを誉めろ」
「ケーたんすごーい」
「いやあ、それほどでも」
「……で、どうむずかしいの。ふつうのクルマじゃない、ってのはなんとなくわかるけど」
両手両足で踏ん張りながら、ケートの乱暴な運転に耐える高校生たち。
ケートは当然のような顔で、ぽんぽんとフロアシフトをたたきながら、
「軽い違和感はある。ミッションとのシンクロ感がつかみづらい」
左ハンドルの特徴といってもいいが、シフトアップ時に親指の付け根にかかる力が強まって、手のひら全体を使いづらい。
「……おクルマにも、シンクロ率ってあるんすね」
「人馬一体は乗り物の基本だぞ」
女とクルマの乗り方については、未成年とは思えぬほど極めているケート。
そもそも左ハンドルには原理的な弱点があって、シフトダウンよりもすばやい操作が必要とされるシフトアップ時、右手が「すっぽ抜け」やすくなる。
右ハンドルも左ハンドルも、ギアシフトの配置は基本的に同じだ。
左手でシフトアップするときは「押し出す」ような動きですばやく動かしやすいが、右手の場合は親指の付け根に引っ掛けるか、つかんで引っ張る動きになる。
ミッションから伝わる力を、手のひら全体で感じるのには不向きな配置、といえる。
「上から、ガッ、って握ればいいんじゃない?」
全体を覆ってしまえば、たしかに方向感は関係ない。
チューヤの素人じみた指摘に、首を振るケート。
「あのな、そんな運転したら、うまくならないぞ。フィーリングが伝わりづらいし、そもそもシンクロを痛めるもと……シンクロ? ああ、そうか。どうも速いと思ったら、これノンシンクロのドグミッションだったな」
電光石火シフトで知られる競技用変速機ドグリングミッションのコツは、とにかく「すばやく」やることだ。
シビれるような加速をもたらしてくれるが、場合によっては、神経質な変速機ともいえる。現状、ギアノイズもなくスムーズに乗りこなせているのは、ケートの技量が優れているからにほかならない。
バイクではあたりまえのドグミッションだが、ほとんどの自動車では軟らかいシフトチェンジが可能なシンクロ機構が採用される。
「詳しいね、ケーたん」
一瞬、憧れのまなざしを見せるサアヤ。
とたんに、てれっと笑い、ふりかえるケート。
「惚れたろ? むかしから、クルマと女には乗ってみろって……」
「エロオヤジか! まえ見ろ、まえ!」
境界の道路にも、クルマが走っている。
湾岸線の制限速度は時速80キロだ。
その隙間を縫うように追い抜くケートの旧車。
抜かれたクルマのドライバーの表情は、なにやら恐怖にひきつっている。おそらく現世側の首都高を走っていて、突然に獲物として選ばれ、呑み込まれた人々なのだろう。
その表情の恐怖の意味が、チューヤたちにも伝わってきた。
「どわぁあっ!」
あわててハンドルを切るケート。
危うくスピンしかけるが、なんとか立て直す。
直撃コースで光の弾丸が突っ込んできたのだ。
花火か鬼火か知らないが、どうやら意図的な「攻撃」と考えてよさそうだった。
見まわせば、路面のあちこちに悪魔の影がある。
下手に止まれば悪魔に喰われるだろうし、走りつづけるのも厄介な路面状況だ。
「なんとなくわかってきたよ、このレースのルールってやつが」
チューヤはただちに飛行系の悪魔を召喚し、周囲からの攻撃に対して防衛的に展開する。
半ば身体を盾にしてクルマを守ってくれる悪魔を、サアヤが全力でバックアップする。
ケートは運転に集中し、なんとか安全なルートを最速でコントロールするが、路面にはつぎつぎと悪魔が出現してきてキリがない。
「……見えた、お嬢だ!」
大きく曲がって湾岸道路から首都高中央環状線へ。
見逃せば羽田方面に通り過ぎてしまうところだった。
「おもしろくなってきやがった。……まくるぞォ!」
たんたんっ、とシフトを下げ、半ばパワードリフトで悪魔を踏み潰しながら回避する。
──もはや海外のカーインプレッションも、その車がどれだけドリフト性能が高いかを、映像で示している。
後輪を滑らせ、カウンターステアを当てた状態で、コントローラブルであることを示す日本文化「ドリフト」。
20世紀ならドライバーの「腕」として評価された領域を、最近はコンピュータが代行している。
一瞬タイヤが浮く。
つぎの直線、あるいはコーナーの角度に合わせて、前輪は突き進むべき正面を指している。あとは後輪が仕事をするだけだ。
加速しろ。
踏み込むアクセル。
じゃじゃ馬チンクェチェントは、流星となって湾岸線を薙ぎ払う。
ドリフトとは、コントロールされたスリップだ。
タイヤの回転数と、慣性方向、加速度、グリップ力、動力伝達率、すべてを測定し、数値として入力することで、CPUは答えを出す。
必要なら排気量もコントロールする。もはや「クルマの運転」は、人工知能の領域に移行しつつある。
ここでしょ? このタイミングでしょ?
コンピュータの答えが、じっさいの接地、グリップ力の回復と一致する。
「軌道、加速、摩擦。この程度の計算、CPUに頼るまでもない」
ケートならではのドライビング。
ビッグデータから導かれた車両運行の最適解は、怜悧な高校生の数学センスで代行できることを証明した。
天才の脳は、平然とコンピュータ並みの仕事をこなす。
「ドリフトってなに!?」
「野球選手の……」
「それドラフトな!」
会話の呑気さとは真逆のシビアさで、悪魔との追いかけっこはさらに白熱している。




