34
胎児は黒い靄につつまれて、ゆるやかに這い出してきた。
やがてそれは、胎児ですらないことが判明した。
腕、肩、頭……。
それは人間の形をして、羊水にまみれた人間の顔で、地獄の底から響くような産声を漏らした。
「ああ……ぁあ、あぁあ……」
ぎくり、とマフユの背中が揺れる。
この声に聞き覚えがあった。
つぎの瞬間、這い出してきた黒い影は、その上半身に大きく息を吸い、瘴気に満ちた吐息を吐き出して、言った。
「ふぁあーぁあ。あの……ハゲネズミ……めが、おもしろいことを……やってくれる」
びくん、とマフユの全身が痙攣する。
「ロキ……兄?」
「まさか」
仲間たちも、にわかに信じられないが、たしかに目のまえの黒い影は大人の男のシルエットを保ち、女の股から這い出してきたとは思えない大きさまで膨れ上がっている。
「マフユか、なにしてる、こんなところで。おまえの先生、大変だなあ」
細い蛇のようになったウエストまで出てきたところで、ロキと呼ばれた影は、その場に立て肘をつき、頭を載せて傍観者のような口調で言った。
先生は足を開いた状態でのけぞり、意識を失っている。
出血は見たところ、それほどない。
魔術的な処理が行われている、と考えるのが妥当と思われた。
「おもしろいガキじゃないか」
羊水にまみれてぬらぬらと光っていた皮膚が、急速に乾いて表情がはっきり見えてくる。
邪悪なこの神の名は、ロキ。
正真正銘「神」の一人だという見解もあるが、行動からいって「邪神」である事実は揺るがない。
最後に英雄的な相討ちを遂げる悪役ではあるが、決して改心したわけではない。
ただ、彼のやり口が「悪」だと多くの人類が考えた時点で、北欧のいたずら者は悪というレッテルを貼られた。
俺が邪神? 上等だ。かまわんよ。俺は好きにする。おまえらが、それで楽しもうが苦しもうが、知ったことかよ。
そうしてロキは、現代社会に舞い降りた。
人間が必要だと思う欲望を、かなえてやっているだけだ。
たとえば臓器売買。苦しんでいる金持ちに、貧乏人の内臓を届ける仕事をしている、という。そしてロキは、周辺の人々に、これらの言葉を投げかける。
「簡単な話だ。DNAをとって、マッチングする。それで当たりを引いた貧乏人のクソガキの家族が、だいぶ助かるんだ。いい話だろ?」
「子どもがいなくなる。たしかに、寂しい話だな。だけど親切なお金持ちに引き取られて、幸せに暮らしているよ」
「そうとも。信じろよ。俺は嘘は言わない。金持ちに引き取られて、幸せな人生を送るんだ。──その子の臓器がな!」
「金持ちの身体のなかで、終わりかけていた人生をもう一度、楽しむことができるんだ──だれが? その金持ちがだよ!」
「ああ、なんたる幸せだろうな? くくく、はーっはっは」
ロキの陰にある闇の深さは、もうチューヤたちの目ではとても追い尽くせない。
その闇の同じ深みで、先生が取り扱われ、どんな目に遭わされたのかを見れば、事態ははっきりしている。
「すばらしい子どもを産める。おまえの望んだ遺伝子で。女よ。トウの立ったおまえが、自分の遺伝子を残すため、最良の選択肢を見出した事実を称えよう。ああ、売ってやる、おまえの大好きなアイドルの精子をな」
ロキは、身体をぐるりとひねり、意識があるのかどうかもわからない先生の頬に手を当て、悪魔の睦言を囁いている。
ロキのつくりあげた(というよりもゆがめて利用している)精子バンクは、もちろん普通ではない。
手下の淫魔を使い、アイドルの精子を集めて売却している。
これはあまりにも非公式だが、芸能事務所の一部上層部とも話がついている。
彼らは金を受け取り、事務所のアイドルの精子を売りわたす。
枕営業と同じことだ。特段、騒ぐほどのことでもない。
人気上昇中の若手アイドルの精子が高値で売買されることと、有名なクラシック三冠馬に高額なシンジケートが組まれることに、どれだけの差があるというのか?
精子も卵も、若いに越したことはない。卵は若返らせることはできないが、女には自分の好きな若い精子を選ぶ権利がある。
そう耳元で囁かれたら、女はどういう理由でその誘いを退けるのだろう?
彼女が身ごもったのは、何度もコンサートに足を運んだアイドルの子ども。
美しい顔立ちの子が産まれてくるに決まっている。きっとダンスの才能があって、いい声で歌ってくれるにちがいない。
美しい未来が思い描かれる。未来には、希望しかなかった。
希望を食い物に吊るし、世界の闇を混ぜる悪魔たちの用意した、その舞台のうえ。
彼女の夢は、悪夢に終わった。
暗がりのなか、幼いマフユの耳に響く、若い男の声。
「どうした、マフユ」
「あのね、いま、ロキ兄のお父さんが来てるの」
崩れかけた階段の下、文字通り真冬の冷えた暮方。
「…………」
「だからね、お母さんの部屋にはいっちゃいけないの」
ロキはマフユと並んで、薄汚れた窓ガラスに光る灯りを見つめる。
「……あいつ、好きか?」
「…………」
ロキはうっすらと笑い、一歩、足を踏み出す。
「きらいだよな。俺もだ」
「どこ行くの、ロキ兄。ねえ、あたし……」
ロキは、身長の割に軽すぎるマフユの身体を、ひょいと抱き上げる。
「まえのオヤジは、どうだ?」
「ぜんぜん、いまのほうがいいよ……」
その言葉を聞いて、ロキの表情がわずかに曇る。
「あれでも、まえよりはマシか」
「……ロキ兄もいるし」
もし自分のために、彼女が気を使っているのだとしたら。
「俺がいなかったら、殺してほしいか?」
「え?」
ロキはゆっくりと、マフユの家の傾いたドアを開く。
「役に立たない、むしろ害になるようなオヤジ、殺したほうがいいよな?」
あのときの兄の顔を、マフユはいまでも忘れられない──。
ロキは言った。
「生命装置だよ」
ぴくん、と斜め後方でサアヤの身体が揺れたことに、チューヤは気づいていない。
生命装置。
それは人が生きること、動物が生きること、生命がその生存を維持する行動のすべてを支持するための装置。
死なないようにする。生かすようにする。チューブにつないでも。
死んでいない状態で、生かしつづける。
それが「装置」だ。
さらに新たな生命を生み出す。望み通りの形で。望み通りの遺伝子を入れて。
つくりだす。望まれし生命を。
そういう「装置」もあるだろう。
「生命装置。金さえ払えば、望んだDNAを集め、結果を出してくれる装置。先生は同意したよな、マフユ?」
ふらふらとロキのほうへ、誘われるように足を踏み出すマフユ。
世界の半分を埋める毒の思想が、マフユにも十分に注ぎ込まれている。
「ブラックマーケットの介入する余地が」
「そうだ、ここにある。いつまでも、闇の社会が人間を殺してばかりいると思うな? たしかに殺しはする。人間をさらうし、それを売り払う。だれかは死ぬだろう。だが、その代わりに助かる命がある。高価なほうを助けるんだ。これはビジネスだよ。しかも、世界中から望まれた」
ロキはマフユの肩を抱いて、チューヤたちに向き直った。
圧倒的な絶望感。最強レベルの邪神をまえに、有力な仲間の一人も取り込まれた。
とても戦闘にはならない。だが反抗しないわけにもいかない。
チューヤは唇をかみしめ、
「望まれてなんか」
「需要もないのに供給するバカがいるか? 望まれているんだよ。それ以上の拒否反応があるかどうかは、知ったことじゃない。必要なところに、必要なものを届けてやった」
「それなら、先生は」
「なあに、たまには失敗することもある。成功を保証するヤクザなんかいねえよ。うまくいったらお慰み。覚悟のうえで依頼するんだろ?」
「ふざけるな、俺らの先生に……っ」
「ロキ兄、だって、それは」
さすがに反抗しようとしたマフユだが、
「諦めろ、マフユ。これが現実だ。おまえだって、わかってるはずだ。どんな必死に叫んだところで、届かない声もある。いや、むしろ」
「声なんて、届かない」
マフユの吐き出した一言に、すべての闇が集約されている。
「そうだ。その声を、一時的にでも届いたと思わせてやった。彼女は幸せだった。夢を見られたんだ。感謝こそされ、憎まれる」
「憎まれるに決まってるだろ! てめえら」
これ以上、彼らを容認できない。
憤激して叫ぶチューヤ。
一方、ロキは場に不釣り合いなほど、朗らかな笑い声を立てて、
「あっはは、そりゃそうか。もちろんだ。憎まれることには慣れてる。むしろ、俺らの仕事はそれだ。社会の悪を背負って、憎まれ役に徹してやるよ。そしておまえらは、貧弱な自分たちの社会に連帯感という幻想を感じていればいい。いいねえ、わかりやすい。その世界線のうえで理想を叫びながら、飲み込まれっちまえよ!」
世界が、ぐるり、と反転したような感覚。
足元から、なにかが突き上げてきて、串刺しにされて路傍に突き立てられる、痛みと哀しみに似た感覚。
もし、あちら側から押し寄せる世界線が、そのような秩序ない世界をもたらすのだとすれば、彼らとの協定は──悪だ。
「たとえ、そうだとしても、ロキ兄、あたしは」
そのときマフユが、ゆっくりと絞り出した声の真意を、だれよりも汲み取ったのはロキだった。
彼は哀れみにも似たまなざしでマフユを見つめ、それからゆっくりと言った。
「闇の女王、おまえは、どうしてほしい」
「あたしは、世界が滅びても、かまわない」
割り込もうとしたチューヤたちの喉元を、正体不明の魔力が締め上げる。
「それでも守りたいものが、あるのか?」
「あたしは、ロキ兄の世界で、いいと思う。だけどね、センセは……」
ロキはしばらくマフユを抱いて、何事かを考え込んでいた。
それからゆっくりとふりかえり、先生の青白い顔に向けて言う。
「あんたにとって、それが幸せかは、わからないがな。女王のご託宣だ、受け取れよ」
つぎの瞬間、悶絶していた先生の身体が、フッと消滅した。
一同の疑問に答えるように、ロキは下半身の消滅した自分の身体を闇に溶け込ませながら、ゆっくりと言った。
「先生の身体は返したよ。赤ん坊は残念だったが、先生は生き延びるだろう。せいぜいつぎの希望にでも、すがりつくといいさ」
消えていくロキとともに、空間も境界化を解き始めている。
やはり、この境界を維持していたのはロキだった。最初に境界化させたのは院長だったとしても。
「ロキ、兄……」
「マフユ」
「フユっち」
それぞれに、かける言葉が見つからない。
彼らの一夜は、こうして明けた──。