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病院には、いよいよひと気がなくなっていた。
はいった当初はまだザコ悪魔の襲来もあったが、すでに生命感そのものが希薄化してきている。
阻むもののない廊下を、チューヤは全力で走る。
505号室の位置を確認し、その真下の座標を目指して階段を駆け下りる。
その先に、病室はあった。
「先生、しっかりして、先生!」
「うぅう、ぁああ! いぃああぁ!」
本物の痛みが引き起こす絶叫とはこんなものか、とチューヤは思った。
すべての母親が、こうして子供たちを世の中に送り出しているとしたら、母親とは本当に偉大なものなんだな、と思う。
背後からの音に、ハッとしてふりかえったマフユは、すぐに戦闘態勢を解き、
「チューヤ! 生きてたのか、おまえ」
「まあ、なんとか。……それよりどうなってるんだ、先生」
「ああ。どうやら出産がはじまっているらしいんだが」
「分娩だよ、フユっち、もう開始されてる」
出産は、赤ちゃんを産む行為の総称として使われる。
分娩は、医療用語であり、開始時刻と終了時刻が明確に定義できるようになっている。
本陣痛の発来によって分娩が開始され、この時期を「分娩第1期(開口期)」と呼ぶ。それから「分娩第2期(娩出期)」を経て、「分娩第3期(後産期)」で、胎児および子宮内付属物を母体外に娩出すると、分娩が終了したと見なされる。
現状は第1期、のはずだが。
「男にできることないから、ハイ、出てって出てって!」
と、産婆さん追い出されるようなことは、この際なかった。
そもそも、状況が異常すぎる。
先生は、とても先生とは思えない形相で、ベッドのフレームをつかみ、半ば立ち上がるような格好で、両足を広げ、絶叫しながら、何事かを唱えている。
「クオダム・ウビクエ、クオダム・センペル」
きちんと文字に起こせば、そう言っているのだが、現状のヒステリックな調子からは、なんと言っているのか聞き取るのは困難だった。
ただ、尋常ではない分娩に立ち会っているのだ、ということは理解できた。
「クオダム・アド・オムニブス、クレディトゥム・エスト」
合間に絶叫の悲鳴が混じり、たとえ母国語でも言葉として認識するのは困難だろう。
あきらかに異常な出産シーンに、彼らは立ち会わされている──。
「しっかりして、先生」
「おい、こんなんで大丈夫なのか」
「大丈夫じゃなくてたまるかよ、くそ、センセの好きなアイドルの子だろ、がんばれよ」
サアヤはすこし悲しげな表情をし、チューヤは厳しい表情でマフユの肩をつかむと、
「おい、ちょっとこっち来い」
「なんだよ。説教なら聞きたくな……」
ぱんっ、とマフユの頬を張るチューヤ。
暴力に慣れているマフユの表情はあまり変わらないが、チューヤに殴られるという事実をどう消化していいのか、すこし戸惑っているような感はある。
「以上、説教終わり。言いたいことはある気はするけど、うまく伝える自信がない。とにかく気持ちだけは伝わったろ」
「ああ、まあな。チューヤにしてはわるくない選択だったよ」
「そりゃどうも。……説明しろよ。ロキさんってだれだ」
室内の分娩は、どうやら小康状態のようだ。
先生は、さっきの呪文のような言葉を、こんどは聞き取れる調子で何度も何度もくりかえしている。
サアヤが必死に話しかけているが、会話は成立していない。
分娩が進行中だとしても、できることのないチューヤたちは、すこし離れた場所で話をつづける。
「ああ。さっきも言ったと思うが、あたしの兄貴分だ。たぶん、チューヤのオヤジが捕まえたがってるのは、うちの兄貴なんじゃないかな、って思うよ。ケーサツなんだろ?」
「一応、本店勤務だな。いまは第6方面……たしか上野のほうの事件を追ってると思う」
「じゃ、そんなに遠くない。兄貴の地元は赤羽だ。上野の組織とも、もちろん緊密に関わってる。元川東連合のメンツは、けっこう千住会系にも多い」
だからこそ広域暴力団と呼ばれる。
千住会は日本の古参の極道組織だ。
それを取り締まるのが、天下の警視庁、組織犯罪対策部第四課である。
「相手が組織犯罪なら、オヤジの管掌ドまんなかだよ。じゃなくても、川東連合ならだれでも名前くらいは聞いたことがある。……そんなところを、先生の出産なんていう大事なことにかかわらせて、どうなるか予想できなかったのか」
「ああ、そうだな……。人身売買。臓器取引。国際犯罪。闇の全部を背負ってやるよ。もう殺せばいい、あたしを。生きる価値ないだろ、こんな女に」
薄く笑い、両手を開く。
本当に殺してくれとでも言わんばかり。
チューヤは唇をかみしめ、
「わるいのは、おまえだけじゃ、ない」
「そうだな。だけど、あたしもわるい。わるいヤツを殺せばいいのさ。順番に、全部殺しちまえば、すこしは世の中もましになるんじゃないか?」
「それで物事が解決するなら、そうする。だが、そんなことはできないし、だからおまえを殺したところで、問題は何ひとつ、解決しない。むしろ」
考え込むチューヤの気持ちを忖度して、マフユは代わりに言ってやる。
「むしろ情報提供者を断つことで、組織犯罪を摘発できる可能性が減るって? あはは、どこの独立捜査官だよ、チューヤ」
「おまえは悪人じゃない。マフユ」
「……知った風なことを。あんた、あたしのなにを知ってるっていうのさ」
さっきマフユ本人から、ちょっとした出自の話は聞いた。
なんとなく察してはいたが、はっきりと知ったのは今回が初めてだった。
鍋部の仲間とはいっても、そのくらい、お互いのことをよく知らない。
リョージは、ルイさん経由で政府や政治結社的なキナ臭い世界にかかわっている。
ケートに暗黒社会の気配はないが、自分の信じる正義に対してはどんな行為も確信犯的に遂行するようなところがあるから、油断できない。
マフユの闇は、どうか。
それはキナ臭いどころの話ではない。完全な犯罪に当たる。議論の余地のない「悪」。
しかし、その悪はだれかに必要とされて存在するという、事実。
ブラックマーケットは、需要があるからこそ供給がある。この鉄壁の事実をまえに、人類はそこにある矛盾をどう解決するのか。
「何者なんだ、その……」
「ロキ兄? すごい人だよ。日本のヤクザは、だれも逆らえないくらい」
「そういう権威に逆らうのがヤクザなんじゃないの?」
「ヤクザのなかにも序列はあるさ」
「古くは広島、新しくは福岡あたりで、ドンパチやってるだろ。序列を懸けてかどうかは知らんけど」
「その結果、上位に立ったんじゃないの、ロキ兄は」
「なんでそんな人とかかわってんの」
「かかわるもなにも、うちのアニキだし。最初から言ってるだろ、ロキ兄って」
さすがに聞き流すことができず、チューヤはポカーンと口を開いた。
「……はあ? おいおい、兄貴分と兄貴はえらいちがいなわけだが? 正真正銘、暗黒街の女王だったわけかよ、おまえ」
マフユは肩をすくめ、
「あたしとは直接関係ないよ。クソムシみたいなオヤジは同じらしい、ってだけ」
「異母兄妹ってやつか。じゃ、関係はあるだろ」
「まあね。あのクソムシをぶっ殺してくれたことは、感謝してる」
「……行方不明なんだろ、オヤジさん」
「この世にいるとは言ってない」
「いないとも言ってないわけだが」
「あのクソムシは殺されて当然だよ」
「いや、殺されることと殺すことは別問題で……」
「そんなくだらねえ話」
その「くだらねえ話」をそれ以上つづける必要は、もうなかった。
再び分娩が開始された。
しかもこんどは、さっきまでの絶叫とは一段、トーンがちがう。
「出てきた……っ」
正面に陣取っていたサアヤが、思わず手を口で覆い、その場にしりもちをついた。
尋常ではないモノが、そこに現れたから──。




