45 : Day -31 : Araiyakushi-mae
信濃町の案件から外された中谷は、貫地谷の配慮から、警察病院に近いエリアの捜査にまわされていた。
結果、彼は中野界隈で発生した、アイドル絡みの(可能性がある)殺人事件捜査に協力することになった。
そんな彼が、中野の街角でロキに出会ったのは、必然という名の偶然だろう。
「……旦那、お元気そうで」
交錯する視線。
渡部ロキ、中谷ケンゾー。
両者ともに、巨大なものを背負っている。
「渡部か。この時期にこのエリアは、職質かけてくれって状況だぜ。なんなら引っ張ってやろうか?」
ロキは軽く両手を広げ、不敵に言い放つ。
「勘弁してくださいよ。オレァこれでも千住芸能社ってところのステークホルダーでしてね。がんばってるうちのアイドルたちを、応援にまわってるだけですよ」
「ふん、そのアイドル絡みで、ちょいちょい警察に面倒かけてるようじゃないか」
「ああ、金持ちのファンが死んだとか、行方不明とか。だが行方不明のほうは……あんたもご存じのはずだ」
中谷の脳裏を、忌まわしいロイヤルアークの惨劇がよぎる。
世界をひっくり返すような大きな事実を知っていて、それでも平静を装い、事件を追っている自分の行動は、あるいは欺瞞なのではないかとも思う。
「地球が終わるからって、中野の犯罪がチャラになるってわけじゃねえ」
「なるほど、それじゃ信濃町のほうはどうなってんですか。あれだけの資料、まともに使いこなせないひとでもないでしょう」
中谷は内心で歯噛みする。その文句を彼自身、貫地谷に突きつけてもいる。
結果、ここにいる……。
「組織には組織の事情があるんだよ」
「だから一課のヤマに四課……いや、暴対がしゃしゃり出るわけですか?」
「セクショナリズムには辟易だよ。もちろん四課も、このヤマに無関係じゃない。常識だろう? おまえらの跳ねっ返りが、下手に暴れてくれるのと同じだよ」
チッと舌打ちをするロキ。
互いの情勢は、ある程度把握している。警察が中谷の思いどおりに動かないように、北東京の半グレがロキの思いどおりに動くわけでもない。
かのナポレオンも言った。もっとも手ごわいのは優秀な敵ではなく、無能な味方であると。
「芸能界はヤクザの巣、ってか。このご時世そんなこと言ったら、いろんなところから苦情がきますぜ」
「苦情が届いたからって、殺人事件の捜査をやめるわけにもいかんだろう」
「現場から衝動的犯行は明白。組織の関与なし」
「……だれから聞いた?」
「あんたの息子ですよ」
時間が止まる。
互いの目をうかがうようにねめつける。
その緊張がピークに達しかけたとき、横の道を通りかかった女の叫びに注意がそれる。
「ふざけんじゃねえよ! そんなはした金で女が抱けるかい!」
はすっぱな物言いに、晩秋とは思えない軽装。
足元のブーツだけがやけに季節感を出しているが、それも中途半端な履き方で途中が折れている。
女の背後からは、オタクふうの男が追いかけてきて、罵言を吐き散らす。
軽く踵を返した中谷が出した足に引っかかって、派手に転がる男。数段、叫びのボルテージを上げた男のまえに、警察手帳と拳銃をちらりと見せる中谷。
雰囲気からして、あきらかにその筋だ。
瞬時に状況を理解した男は、跳ねるように逃げようとして動きを止める。逃げればそれを理由に捕まるからだ。
わるいことはしていない、まだ、と自分に言い聞かせて悄然と向き直る。
中谷は背後のロキに逃げられないように気を配りながら、男に二言、三言、注意を促して反対方向へ追い払う。
ふりかえり、本命であるロキに言う。
「ちょうどいい治安状況だな、この方面も」
「どこだろうと必要なんですよ、底辺ってやつはね。そいつらをうまくコントロールする方法を、あんたらはまだもってない。キャスティングボートを握るのは、オレたちなんですよ」
ロキの周囲の空間がゆがんだように見える。
しかし中谷は動じない。むしろ呑み込み返すくらいの気概を示す。
「ヤクザごときが」
「警察ごときが、あまりナメた態度をとらないほうがいい。オレたちの力を、いやというほど思い知ることになる」
ようこそ掃きだめへ。
ロキが両手を広げると、部分的境界化。
彼は中谷を巻き込んで、殺そうとしているのか?
そうではない。ただ、見せようとしているのだ。
現在の東京は、警察が守っているわけでも、ヤクザが支配しているわけでも、もちろんない。すべてはバランスのうえに成り立っているのだと。
「必要なんですよ、この廃墟には、暴力がね。東京という砂漠に、力なくして正義も秩序もありうるはずがない」
「……正義か。心配するな、言葉尻なんかどうでもいい。混沌と秩序、光と闇が入り混じってこそ、東京だ。だから俺たちは、仕事があるんだよ。おかげさまでな」
中谷も理解している。
ヤクザという必要悪と、警察という正義(仮)がくりかえしてきた、永劫回帰のカリカチュア。
──ヤクザは社会の役に立っていた、いいこともしていた、などというつもりはない。
余計者であり厄介者であるヤクザにも、居場所や役割はあるというだけのことだ。
社会の秩序におさまらない異端者は、「悪」の烙印を押され、迫害されたが、存在としての悪がもつ力強さは、それゆえに尊ばれてきたところもある。
すべからく悪を、社会の片隅に置いておく必要があった。
境界化した側から、粗末な着物を着た浮浪児が、よろよろと物陰から姿を現して、その場に膝を突いた。
中谷はポケットからアンパンを、ロキは同様に缶コーヒーを取り出し、そちらに投げやった。
それをつかみ、脱兎のごとく逃げ去る浮浪児。
──東京。
その形が一応なりとも確立する、幕末維新期。
社会は政治的にも経済的にも変遷する。それまでの形のヤクザは存在できなくなり、新しい「近代ヤクザ」の形態へと変化する。
片方に、シンプルな押し売りから総会屋へといたる「仕事」がある。
社会は暴力との中間地点に線を引き、その境目から引き取ってもらうために、とりあえず金一封、という行為がくりかえされてきた。
一方、同じ側でありながら、それを排除するための組織もできる。
用心棒と荒くれの衝突、刃傷沙汰、という図式の事件は無数に発生した。
警察権力だけで治安は維持できず、自衛のための市民兵は組織される必要があった。
これが、地域に「分権的なヤクザ」の登場だ。
地域において統合し、調整する役割のヤクザは、たしかに存在した。
たとえば筑豊の大親分、吉田磯吉などがその走りといえる。
彼はその後、興業の世界のフィクサーともなっていく。
芸能、相撲とヤクザは、もともと密接なかかわりをもっていた。「角力」は近世以来、ヤクザの一種だった。
下層社会に属す大衆芸能も、もちろんヤクザの縄張りだ──。
「これまでべったりとヤクザを頼っておきながら、恩知らずな連中ですよ」
現に興行を成功させるには、地元ヤクザとの結びつきが不可欠だった。
たとえば浪花節。黄金時代が去るにつれ、浪曲師によって人気が偏ることから、東京では、自前のルートで興行する仕組みが多くなっていった。
神田組、浅草組、睦会、大谷組など多数にのぼった。これらはそれぞれ、独自にヤクザと結びついていた。
「それが趨勢だ。ヤクザって時代じゃねえんだよ」
「新暦の大刈込でもやりますか?」
「古い話を持ち出すじゃねえか。暴対法なんて、ものの数じゃねえって?」
明治17年の大刈込として語り継がれている、明治政府による博徒の大弾圧があった。
1883年から翌年にかけて行なわれ、なかでも1884年2月の博徒狩りでは、清水次郎長、会津小鉄といった有名人も挙げられた。
この集中検挙は5月まで五月雨式に行なわれ、徳川時代以来の古い型の博徒は、いったんほぼ一掃された。
「結局、入れ替わるだけなんですよ。中身はおんなじだ。鼬ごっこでしかない。穴はいくらでもある。お互い承知しているとおりね」
ロキの言葉に、中谷はふっと表情を崩した。
こいつは、俺に似ている。いや、もうひとりの俺なのではないか、と。
「おまえみたいな考えのやつが、なんでヤクザなんてやってんだよ?」
「誘導尋問には引っかかりませんよ。オレはただのビジネスマンなんでね」
「たいそうな自信じゃないか。しょせん千住に手は出せないだろうってハラか」
「いえいえ。永田町とも桜田門とも、われわれはうまく付き合っていきたいだけなんですよ」
流れがロキに傾きかけた瞬間、中谷が目を見開いて言った。
「……ひとを殺しておいて、自分が生きていられると思うなよ」
中谷はみずからの身体から迸る気合だけで、境界を切り裂いていくようにみえた。
あのロキが、その瞬間だけ、全身に恐怖をみなぎらせた。
だがすぐに冷静さをとりもどし、すなおに力を引き上げて周囲を現世にもどした。
「旦那の原則論にゃ、うんざりなんだ。耳が痛いや、帰らせてもらいますよ」
「……首を洗って待ってな。信濃町のつぎは、てめえらだ」
ロキと中谷は、同時に踵を返した。
同じ場所、別の世界線、並列した時間が流れる。
新井薬師・梅照院は、1586年の創建以来、東京を代表するにぎやかな門前町を形成していた。
寺社とは古来、現世と異界の境界である。
神の巷であり、同時に悪鬼の集散する場でもある。
悪所ほど栄えるのは世の常だ。
当然、そこには薄汚れた場末の淫売宿も連なっていた。
ひとが集まるところ、芸人と淫売は欠かせない。
駆けもどってきた浮浪児は、なにやら食べ物をもっていた。
目ざとく見つけた女衒の男は、渾身の力で子どもをぶん殴り、奪い取って食い散らかした。
泣き叫ぶ子どもを、姉らしい細面の白い顔が悲しげに見下ろしている。
客だ、早く客を捕れ、雪!
寝てても金は稼げねえんだよ!
叫び散らす女衒。
芸能の本質をも、みごとに剔抉している。
芸能、淫売、その本質は、すべて金だ。
借金が払えないなら土地か娘を売れ、あるいは両方売れ、というよくある話。
そして娘・雪は、女郎に売られた。
──雪はハッとして、瞬きをした。
眼下で薄汚れた浮浪児が、あんパンを食っている。コーヒーの缶の開け方を知らないらしい。代わりに開けて、わたしてやった。
……金が要るんだよ、金が!
総選挙で勝たなきゃなんないんだ!
そのためには、金が要る!
雪の脳裏を駆け巡る、マネージャー、所属事務所の面々の叫び。
どこまでも金、金、金、金がすべて。
狂ったドルヲタから、どれだけ金を引っ張れるか。
たとえ殺してもいい、奪い取れ。
雪は決意をこめて、入り組んだ広大な門前町を眺める。
この新井薬師前から、天下を獲るのだ。




