35 : Day -32 : Shimo-itabashi
「……わるいな、佐藤。ツケといてくれ」
マフユは言いながら、足の指のあいだに刺した注射針を引き抜いた。
さして抵抗もなく、使いまわしの注射器を使うところは、彼女の日常をほうふつさせる。
「いや、ロキさんから聞いてるから、それはいいけどよ。……それからおれは佐藤じゃねえ、サテュだ」
薄汚れたレゲエ・ファッションの売人は言いながら、使い古しの注射器を洗面器に放り込んだ。
狭いマンションの一室に生活感はなく、ドラッグのディールと製造所(混ぜ物)として使われるだけの部屋らしい。
マフユも一応、彼らをたどって調査を継続していたが、下板橋の売人については締め上げるような関係ではなかった。
しばらくすると、マフユに顔色がもどってくる。
さっきまで死人のように真っ白だったが、いまはかろうじて人間の血色だ。
薄汚れた床の埃にまみれた手で顔を拭うと、頬が汚れた。
マフユはいつも、なにかしら汚れている。だいたい食べ物のソースだったりごはんつぶだったりするが、オイルだったり返り血だったりすることもある。
「そうだったな、サトゥ」
「サテュだよ。……おまえさ、色白なんだからもっときれいにしたらどうだ?」
「うるせえ、だれが喜ぶんだ、そんなことして」
「そりゃまあ世間の男たち……」
サテュは言いかけて理解した。
マフユがいちばん喜ばせたくない人々のために、彼女はわざと自分を「汚し」ているのかもしれない、というのは深読みだろうか。
「てめえの返り血で汚してやろうか? あ?」
「すまんすまん。……で、中野の総選挙の話なら、おれは知らねーよ。なぜってここは」
「板橋だから、ってか」
「ざーんねん。下板橋と名はついても、豊島区所在なんだな」
へらへら笑うレゲエ男に、いやな鉄ヲタの顔を思い出したマフユは一発、壁を殴りつけた。
──板橋界隈には、欲望を象徴する駅が無数に存在する。
なかでも下板橋は、完璧なシモの存在だ。
サテュもよく中野方面まで遠征し、さまざまなアイドルを物色していた。赤羽方面まで這い進み、娼婦たちに捧げ貢ぐこともある。
「中野のアイドルたちにも流してんだろ、シャブ」
「人聞きのわるいこと言うんじゃねーよ。芸能界は暴力団と関係して……いることをバラしちゃいけないことになってんだ」
安全な「興行」のため、芸能界と暴力団は、切っても切れない関係にある。すくなくとも、かつては。
需要と供給の問題だ。
芸能にはリスクが伴う。土地を使用する、そこに人間が集まる、お金が動く、当然、厄介な人間も集まる。
それらからタレントを「守って」いたヤクザたちだが、現在は彼ら自身がタレントの足かせになっている。
ゆえに、ヤクザは別の姿をとって、タレントたちをいまも「守りつづけて」いるのだ。
さまざまな代償を支払って。
「アイドルは眠っちゃいけねーからな。せいぜい助けてやれよ、あの娼婦たち」
彼女が「娼婦」と言ったときの口調に見下す気配はなく、むしろいとおしい隣人、敬愛すべき商売人へのいたわりとやさしさに満ちていた。
世に悪の種は尽きないが、悪を悪と定義する物差し自体が、時代や人によって大幅にその性質を変える。これは事実だ。
──麻薬はわるいものではない。
そう主張する人々はいる。
そもそも「麻薬」は、ひとくくりにしていいものではなく、どう定義するかによって、話はまったく異なる方向に進むのだ。
広い意味では、酒やたばこも麻薬である。カフェインもそうだ。
気分の変化を引き起こし、常習性がある。過剰摂取で人体を破壊する。場合によっては狂った行動に出て、人生を破滅させる。
なんでも食べ過ぎれば死ぬ。調味料の塩も、水もそうなのだが、カフェインの場合は5から10グラム、50杯のコーヒーであの世行き、という計算になる。
「まあまあ効くだろ? その新型。おれが考案した、最新のカクテルだぜ。リスクとリターンのバランスが、かなりハイな長時間タイプだ」
サテュは言いながら、マフユのポケットに自分が調合した上物カクテルのパケットを2つ、滑り込ませた。
気をつけろよ、と言いながら。
彼自身は、やらない。それが売人としてのポリシーだ、という。
マフユはそんな彼を、一応、ぎりぎり信用している。
さっきまで、腕を持ち上げるのもダルかったが、いまは元気に起き上がることができる。
動かなきゃならないときに動くための最適解。
それがドラッグだ。
睡眠時間を削ってでも仕事をしなければならない、というときに「覚せい剤は違法だがカフェインなら合法」という理屈には、疑義がある。
カフェインだって、飲みすぎれば死亡する。合法だからといって、安全ではない。
現在も、酒やたばこは合法だが、かつては覚せい剤も合法だった。
疲労をポンととるヒロポンは、たいそう売れた。
創作のなかにも、ジャンキーはいる。
シャーロック・ホームズが、その代表だろう。
ヘビースモーカーで、モルヒネやコカインの常習者だ。
そういう表現が許されない時代になっているので、マイルドな形に再構成されているが、そもそもの設定では彼はジャンキーなのだ。
アーサー・コナン・ドイルが、なぜ、そういう設定にしたか。
言うまでもない。麻薬は脳をクリアにし、天才的なひらめきを加速するからだ。
「東京は厳しいが、神奈川じゃ合法だろ」
ポケットにある「命の粉」を確認し、飄々と言い放つマフユ。
「あはは、そうだったな。さすが、カワサキのケツァル」
悪名高い神奈川県警。
彼らなら麻薬を認めてもおかしくない、と思わせる程度の前科はある。
その後、サテュと短いやり取りをして、彼女は部屋を出た。
まだ眠っている場合ではない。
中ボス・アシヤドウマンは、なかなかの手ごたえだった。
それまでにバルビエルやフレスベルグなど、もっと強い敵と戦っていたが、そのときとは状況が異なる。
リョージやマフユなど、より力強い仲間が、いまはいない。
サアヤと、この手の戦闘に慣れていない無道。
場合によっては、彼らを守りながら戦う必要がある。
倉田さんという歴戦刑事の守護霊がいるとはいえ、境界での戦闘ではあまり役に立たない……かと思いきや、なんと倉田さんはクラマテングだった!
地味に戦闘で役に立ってくれたのだが、チューヤの印象では、あまり手を貸さないようにしている印象が強かった。
そして、無道という孫自身の成長を、必死で促している感があった。
気がつけば、無道のガーディアンはコッパテングになっていた。
倉田さんがコッパ刑事からはじめたように、境界で生きる戦士として最初の一歩を刻ませたように見えた。
なるほど、倉田さんは孫を成長させたいのだな、と理解した。
仲間の成長を促す戦い、というのはチューヤもあまり慣れていなかったが、たしかに無道には才能があった。
とくに親友であるジョージを殺した、アシヤドウマンという陰陽師を倒すために、「寺生まれのKさん」は全身全霊を尽くした。
そうして戦いを終えたとき、妖魔コッパテングは天魔テングへと成長を遂げていた。
チューヤにとってはいつものルーティンワークだが、無道にとっては長いミッションだった。
境界から抜けた瞬間、チューヤの電話が鳴った。
「……オヤジ。心配しなくても、調査中だよ」
通話を開きながら言った瞬間、背後に気配を感じて思わずふりかえる。
倉田さんが寄り添って立ち、電話の向こうに懐かしげに挨拶しているのを感じた。
「倉田さん?」
電話の向こうから、父親の驚いたような声。
このタイミングで父が電話をかけてきたことに、なんとなく笑ってしまうチューヤ。
「説明すると長くなる。用件は?」
「……倉田さんが電話に出るようじゃ、ばかばかしい話とも言い切れんかな」
短く嘆息する父の内心を忖度しながら、促す息子。
「俺の能力とかも、ばかばかしいと思ってたでしょ。ためしに言ってみたら」
「……ふん。幽霊屋敷ってやつがな、第六方面にあるってよ」
台東区、荒川区、足立区だが、おそらく、
「足立、かな」
「知ってるのか」
「千住……いや、もっと北」
「そうだ。西新井から竹ノ塚にかけてのエリア」
警視庁の刑事にとって、東京の地理感は必須だ。
もちろん鉄オタにとっても、地図は自家薬籠中である。
「ああね。なるほど……」
「そこに出没する幽霊には、脳がないらしい」
能無し、という意味ではない。もしかしたらそういう意味も含むかもしれないが、これまでの流れで、互いに意味するところは理解している。
文字どおり、脳みそがないのだ。
「幽霊からも事情聴取しなきゃなんないとなると、いよいよ天下の警視庁も手詰まり感?」
「いやなら行く必要はない」
「……行くよ。こっちもこっちで事情はあるしね」
マフユの関係は、いつもチューヤを困らせる。
一度通話を切り、とりあえず学館の施設から脱出した。
調査はまだ終わったわけではないが、とりあえずきょうのところは一定の成果を得たとして、無道とは信濃町で別れた。
目指すは、足立地獄。




