32 : Day -32 : Gokokuji
木曜早朝、ヒナノは朝一番で極東カテドラルを訪れた。
本日、ガブリエルにとって重要な「会議」が行なわれるからだ。
ついでに、サアヤのためにラファエルへの紹介状をもらうという目的もある。
「心配はいりませんよ、マドモワゼル」
清潔な白い服に着替え、窓際に立つ美しいフランス系オランダ人。
清澄な朝日を浴び、彼女はにっこりとほほえんだ。
「……ガブリエル」
眉根を寄せるヒナノ。
「会議」には、イスハークからの援護が届いていると信じたいが、いずれにしても心配していないと言えばうそになる。
あまりにも響きが強いため、異端審問という言葉はあまり使われない。
内部でももっぱら「会議」と称されているが、意味は同じだ。
ローマの異端審問所は、正式には検邪聖省(聖省)と呼ばれる教皇庁の組織であり、現在は信仰教理省と呼ばれる。
裁判が行なわれ最終的に判決が出るのは、通常、パンテオンの隣にあるサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァのドミニコ会修道院だが、これは組織という意味で聖省と同じものである。
聖省は通常10人の枢機卿で構成されるが、他の省と決定的にちがうのは、教皇が代表を務めることだ。
つまり、最高位の省ということである。
現在、ガブリエルの所属するカテドラルには東方聖省が設けられ、教皇から全権委任された枢機卿がトップに立っている。
集会は原則として週に二度、午前中、水曜日には枢機卿抜きで、木曜日には枢機卿が出席し、修道院の僧房で開催される。
木曜のほうは総集会と呼ばれ、重要度が高い場合はカテドラル第一礼拝堂または枢機卿のクイリナーレ宮殿で開催される──。
「心配はいりません、その証拠に、きょうは水曜日です」
重要な会議は木曜日であり、水曜日は枢機卿を伴わない予備的審問が多い。
ガブリエルの言葉に、ヒナノは少しくゾッとして首を振る。
「……木曜日よ、ガブリエル」
「ああ、そうでしたか? いいえ、同じですよ」
ガブリエルは小さく首をかしげ、それから笑った。
曜日感覚も失うくらい、長くこのカテドラルの高い塔に閉じ込められていたということになる。
本日、その罪科を問う答えが出ることになっている──。
「さて、楽しい楽しい宗教裁判のはじまりですよ」
しゃきん、しゃきん、とサーベルを鳴らして審問官らしきひとりが通り過ぎていく。
大聖堂までの出入りは可能だが、そのさきに広がるカテドラルの雰囲気が、いつもとちがうことに気づかざるをえない。
宗教裁判、なかんずく異端審問の最大の特徴は、拷問である。
「まさか、そんなバカなこと、もうやってないでしょ」
大聖堂の入り口で落ち合ったサアヤの言葉に、
「いいえ。13世紀イノケンティウス三世の時代から、試行錯誤のくりかえされた異端審問の歴史は、否定できないキリスト教の歴史、そのものと一体化しているのです」
ガブリエルから受け取った紹介状をわたしながら、静かに首を振るヒナノ。
拷問はともかく、宗教的に裁かれなければならない人間というのは、一定期間に一定数、出てきてしまうものなのだ。
「でもさ、最近の教皇さんは、科学と敵対しないとか、むかしはまちがってたとか、すなおなこと言ってるでしょ?」
「それはそれ、これはこれです。中世を暗黒時代と呼ぶひともいますが、教団にとっては最盛期を意味することを、忘れてはいけません。その真意も──」
神や悪魔、妖怪や仙人がもっとも力をもつ瞬間というのは、周囲にそれを信じる人間が多いときだ。
また、その信頼度がより強いほど、実体は強固なものとなるだろう。
空虚なもののなかに、信仰の実体が浮き上がる。
それは、彼らが信じるからだ。
「イワシの頭も信心から、だもんねえ」
「信仰の問題を取り扱うかぎり、最高にそれを集めた時代の空気を、そう簡単に捨て去るわけにはいきません。残念ながらね」
宗教裁判の冷たい空気が、ひたひたと寄せてくる。
これからガブリエルの裁判が秘密裏に行なわれることになる。
そこにヒナノは参加できない。ただ、ここで待つことしか……。
入口に人影を見て、ふりかえるふたり。
サアヤを迎えにきたチューヤだ。
短くあいさつを交わして、左右に分かれる。
このさきの流れを決めるのは、もっと大きな組織の力学になるだろう──。
「だいじょうぶかな、お嬢」
駅に向かって歩きながらつぶやくチューヤ。
基本的にはサアヤも心配しているが、
「こればっかりは、おとなたちの決めることだからね! それよりチューヤ、どこへ行くかわかった!?」
「はいはい、ラファエルさんの勤務する聖理科国際病院でしょ。最寄り駅は新富町もしくは築地かな」
「築地ったら、有名なお寺があるとこじゃん。そんなところにキリシタンの病院があるの?」
「お寺も病院も、どこにでもあるでしょ。そもそも東京は土地が足りないんだから。……ご希望によっては、築地じゃないほうの駅を目指しますぜ、旦那」
「だれが旦那だ! 最短距離、最少乗り換え、最安でルート検索!」
「はいはい……まあ護国寺から新富町は、有楽町線で一本なんだけどさ」
「そっか! やっぱりラファエルさんくらい大物になると、通勤しやすいところに暮らし働いてるんだね!」
理由はともかく、乗り換えなし所要時間18分で目的地だ。
ラファエル。
その意味は「神は癒される」。
癒しの天使であり、どんな重症患者、不治の病、末期患者さえも治せる、という。
死人以外は。
「すごいじゃん」
サアヤの話に、すなおに驚くチューヤ。
病院の受付で紹介状を見せると、すぐに応接室に通された。
「ねー。だけどヒナノン、あんまり紹介するの気が進まないみたいだったよ」
キリスト教の病院らしい装飾をきょろきょろ見まわしながら、うなずくサアヤ。
今回も、一筋縄ではいかない事情が隠されているような気がする。
15分も待たされただろうか。
ドアが開き、現れた中年男性は、やや浅黒い肌にヒゲをたくわえた欧米系の容姿。
日本人の平均よりはやや高い程度の身長に、骨太そうな体躯は、おそらく見た目よりも重く力強い。
「ミス・ガブリエル・ソレルの紹介というのは、きみたちかな?」
ガブリエルの紹介状の力は絶大だ。
その背後から、看護師なのか助手なのか、日本人とヨーロッパ人らしい付き人がふたり、ついてくる。
彼らの視線は一様に不安げで、何事かを強く警戒しているようだ。
「先生、あまり時間は」
「わかっているよ。外で待っていてくれ」
ひとりはすなおに出て行ったが、おそらくラファエルへの心酔の度合いが強いらしいヨーロッパ人の女が残って、言った。
「先生は診断はしますが、治療はしません。いいですか?」
「え、あの……」
「まあいいから、出ていなさい」
ラファエルに促され、渋々ながらも出て行く女。
どうやら、ただの医者にふつうに治療を依頼する、という流れにはならないらしい。
もの問いたげなチューヤらに、ラファエルは短く息をついて告げた。
「私が治療をすると、すこし犠牲が出るのでね。彼女も悪気はないのだ。気にしないでくれ」
「……犠牲?」
「等価交換という言葉を好んで使うのは錬金術師だが、私はこれをソロモンの呪いと呼んでいる。一部には問題視される言いまわしだがね」
弱々しい笑み。
ソロモン。旧約聖書における有名な王で、多数の魔術を生み出し、神聖の否定をくりかえした。能力としては、おそらくダビデに匹敵か、ある意味では凌駕する。
「呪い?」
「史上、圧倒的な癒しの能力を与えられる人物というのは、まれに現れる。キリストもそのひとりだった。ラザロ兆候という所見まで誕生した。キリストは、死人にむかって言った。立って、歩け、と」
ラファエルがその動作と言葉を発すると、ひどく説得力がある。
「あなたにも、その力が?」
「さすがに死人まではわからないが、すくなくとも現代医学がさじを投げた何人かを、この世に引きもどしたことはある。……犠牲を伴ってね」
そして彼は、自分には家族が少ない、という事実を手短に語った。
もともと大家族で、母国のスイスではテレビ番組に取り上げられるくらい多数の兄弟姉妹がいた。親戚も多かった。
それが現在、ほぼ「全滅」した。
すべて、ラファエルが医師になってからのことだ。
そのころ彼は、奇跡と呼ばれる手術を、つぎつぎと成功させていた。
ある、癒された患者が言った。
あなたに、命を、分けてもらいました。あなたの手から、命が流れ込んできたのを感じました。ありがとう。私に命を分けてくれて、ありがとう。
ラファエルは仕事をしている。
医師として、多数の患者を救っている。
教皇庁が動くほど、その「奇跡」は多くの患者に希望の光をもたらした。
そして教会法に基づいた厳格な奇跡認定の結果、その「代償」があきらかとなった。
ラファエルは、自分にとって大切な人間の命を神にささげることで、代わりに別の命をこの世にとどめるという「等価交換」を行なったのだ、と。
結果、最近任される患者は、最初から命に別条のない病気やケガが多くなった。
彼は奇跡を起こせるが、それによって犠牲が伴うことを、周囲が理解したからだ。
──それでも、あなたは彼に助けてくれと言えるのですか?
ラファエルのチームは、重体の患者の搬送を受け入れるとき、その家族に問いかけることにしている。
あなたの家族を救うために、ドクターの家族が死にます。
それでも、あなたは家族を助けてくれと、ドクターに求めますか?
だれかが死ぬ代わりに、だれかが助かる。
その責任を、請け負う決意の問題だ。
現在、彼には妻と娘がいる。それ以外は、ほとんど天涯孤独となった。
医者をやめる、という選択肢もあった。だが、彼は自分の仕事を天職だと思っている。
妻と娘には、こう言っている。
「もう、力は使わない」
だが、世界の側は時折、こう要求するという。
「新しい妻を用意した、子どもをつくれ。それで、われわれが必要としている、きみの力が発揮されるのならば」
直近では、アメリカ大統領の家族を救った。
ラファエルの妻は現在、原因不明の病気で入院している。
「つぎにだれかを助けたら、妻は死ぬだろう」
ラファエルは言った。
「もう仕事やめたほうが」
周囲の人々は言うが、
「いいや。それでも私は、ひとを救うんだよ」
ラファエルは首を振る。
ただ、無造作にその力を行使していいものではないことも、理解している。
死ぬ運命の人間を引きもどすこと、あるいは、まだ死ぬべきではない人間を天国へ送り込むこと。
いずれにしても、秩序に反する行為なのだ。
「私の力は、生命のルールに危険を及ぼす。命の価値を、私が決めることになるからだ」
「医者や救急隊員は、多かれ少なかれ選別をするでしょう」
「その一歩さきを行っているのだろうね。だれかを殺せば、だれかが助かる。そんなシステムが生み出されたら、世界の秩序はどうなるだろう?」
高額な生命を有する先進国の需要と、安価な生命を生み出す国家の利害が噛み合って、ある種の「輸出」が盛んになるだろう。
そんな「貿易」が、許されるだろうか。
いや、その手の取引は、すでに行われている。かつては、もっとひどかった。
「人類はむかしから、似たようなことをくりかえしてきた。いまさら、きれいごとを言ってみたところではじまらない」
かつては、生命どころか人間としての生活、尊厳すべてが、奴隷商人という名のヤクザ者らによって、海を越えて取引されていた。
殺してくれと泣き叫んでも、自殺しないように船底に鎖で縛りつけられた。
人間は、できることは、すべてやる。
なぜなら、それが人間だからだ。
「買えるものならば買うし、売れるものならば売る。それが人間だ」
「けれど、それをしないと決められるのも、人間だと思いますよ」
「意識高い系らしい言葉だね。美しい響きだ」
そして空虚でもある。
もう、治療を依頼するという段階ではなくなった。
肩を落とすサアヤに、ラファエルは力強く伝えた。
「安心したまえ。私が、なんのために診断医をやっていると思う? たしかに私の力で助けることはできないが、治療の役に立つことはできるのだ。──きみの叔母さんを連れてきなさい。診てあげよう」
ドアが開き、回診を促す声。
ラファエルは優秀な診断医であって、みずから治療はしなくても、多くの人々の命を救うことができる。だから彼は、いまでも医者をやっている。
サアヤはすぐにナミに電話して、電話に出たイッキに、聖理科病院へくるよう伝えた。
ラファエル・フランケンシュタイン。
彼はいぜん、希望を生み出しつづけている。




