26 : Day -33 : Fudō-mae
サアヤが「フユっちのピンチだよ!」と、チューヤを連れて行ったのと別れて、リョージとヒナノは別行動をとった。
イスハークは、神の子のことは自分に任せてほしいと言ったが、そういうわけにいかないというヒナノの判断は、当然といえば当然だ。
「もしもし、榎戸ですか? ……ええ、これから向かいます」
手短に弁護士と話を済ませるヒナノに、イスハークはいぶかしげな視線を送る。
「榎戸? それはよもや、悪魔の」
「悪魔の弁護士と呼ばれることはあるらしいですが、神学機構に忠実かつ有能な弁護士であることも事実です」
「ははあ、なるほど……」
モスクの裏に横づけされる、南小路家の高級車。
幼児キリスト(ダッドの息子)を一時的にしろあずける以上、その住所はみずからの目で確認しておかなければならない。
帰宅ラッシュがはじまっているとはいえ、モナが住んでいるという五反田の住宅街までは、ほんの20分だった。
「メゾン……ゆうこく?」
首をかしげるリョージ。
「よく読めました。あたしたちは、ぞんた、って呼んでるけどね。おーよしよし」
乗りなれない高級車から降り、答えるモナ。
メゾン夕刻。愛称「ぞんた」。
五反田駅よりも大崎広小路や不動前に近いが、もちろん五反田も徒歩圏内である。
中層階のメゾネットタイプ。中央に共有スペースがあり、現在4名がシェアしているという。
そこに意外な顔を発見して、リョージたちは少しく驚いた。
「ケート!?」
「なんだ、キミたちか。……シェアハウスへようこそ」
皮肉っぽく両手を広げ、ケートは言った。
彼の隣には、ヒナノも見たことのある人物が、夕方からビールを飲んで、同僚らしい女と盛り上がっている。
ケートの重要な情報源である月刊『ヌー』の編集長、三田村だ。
その横にいるのは、不思議系サイト『パカナ』の編集長、丸。
「なにやってんだよ、おまえ」
「キミたちこそ、なにをしているんだ? きょうは鍋の日だろう?」
「だからさっき遅れるって連絡しただろ」
「だからいま、こうして情報収集をつづけているんじゃないか。……そうだ、ちょうどいい。リョージもいることだし、きょうはここで鍋にしよう」
「……なにがどうなっているのか」
頭が痛い、という顔で首を振るヒナノ。
彼女にしてみれば、展開が目まぐるしすぎる。
そもそも秘密にすべき神の子を、マスコミの好奇な目にさらされるリスクのきわめて高い、こんな部屋に置いておくことができるだろうか? いや、できない。
「あら、ハルちゃん、かわいい。いつのまに産んだの」
丸がにこやかに言うと、
「子どもが子どもを産むとは、世も末だな」
首を振る三田村。
「もー、ちがうしー。けどかわいいでしょー?」
自慢げに見せてまわるモナ。
シェアハウスの仲間同士で盛り上がっている。
一方、リョージらとケートも、手短にここまでの顛末を話し合う。
偶然とは思えない顛末に、またぞろ校長の介入すら疑われる。
「あ、紹介するね、このひと、イスラム教のエロいひと、イスハークさん」
自己紹介の流れで、まずはイスハークが引き出された。
三田村たちは会釈しつつ、その紹介に一応、突っ込む。
「ちょ、ハルちゃん。エラいひとでしょ」
「うーん、そうかもしれないけど」
「まちがってないね……」
リョージらも含め、互いに紹介を済ます。
ケート絡みで、ヒナノは三田村との接点がある。
三田村はイスハークに興味をもったようで、もう一度お名前をと問うた。
「イスラームのウラマー、イスハーク・ハバッドです」
丁寧に自己紹介するイスハーク。
モナは笑いながら、
「アブドゥラさんじゃなくていいの?」
「それはお店での仮の名、シーッですぞ、モナちゃん」
唇に指を当てるイスハーク。
お店で本名を名乗るほど、彼も遊び慣れないわけではない。
「ブッチャー!?」
めずらしくボケておくリョージ。
アブドゥラといえば、彼にとってはブッチャーなのだ。
「ウラマーとは、イスラームの知識人のことですよね。それが、ええと……」
首をかしげる三田村。
「ええ、モナちゃんのお店の常連ですよ。それ以外にもいろいろ遊ばせてもらってます。サイコーですね、日本。ま、ウラマーといっても、概念範囲の広い言葉ですからねえ」
日本語に訳すと「イスラム法学者」とされる場合が多いが、キリスト教や仏教における司祭、僧侶の概念まで含んでいる(厳密には区別される)。
「聖職者が風俗とかまずいでしょ」
突っ込みにまわるリョージに、
「ウラマーは教会的な組織を持っているわけではないんだよ。だから〝聖職者〟ではなく〝学者〟なんだ。それなりに大学を出れば、一応は名乗れるんだよね」
法学、神学、哲学、ハディース学、アラビア文法など、伝統的なイスラム的学問を修めるだけで、一般的な信者からは、それなりの「敬意」が払われる(イスラームの教義上、けっして「崇拝」ではない)。
学者として生計を立てている者ももちろんいるが、たいていは信者からの支援によって生活を賄っているため、日本的感覚で言えば「聖職者」だ。
「学者にしてもまずいでしょ。裁判所で法律とか倫理語るひとが、キャバ嬢にハマってたら説得力なくなりますよ」
「いや、はは。そりゃそうだねえ。まあ若いころにヤンチャしてたひとのほうが、犯罪者の気持ちがわかったりもするじゃない?」
ヤンチャな若者に対する法解釈がわかれはじめたアッバース朝のころから、ウラマーはその社会的影響力を強めていった。
現在でも熱心な信者は、「この行動は宗教的にどうでしょうか?」といちいちウラマーにお伺いを立てることが、イスラム社会ではよくある。
女性が、他家の老人の下の介護は許されるのか、緊急事態の場合はどうか、などだ。
だが、落ち着いて考えれば、その信者は「神にどう思われるか」よりも「それをウラマーがどう判断するか」に依存している、ともいえる。
「神にさえ恥じなければ、どこぞのだれかにどう思われようが、気を使う必要はさらさらないんだよ」
ウラマーの権威を否定するような物言いだが、個人の見解であり、このあたりのバランス感覚は非常にむずかしい。
ただ自分の信じる神だけにしたがっていればいい、と思い込んでしまうと、そこは狂信者の論理が割り込む余地ともなる。
彼にとっての神がどんな姿をしているかは、彼以外に知りようがない。
神の姿は相対的であり、精密科学のように定量化できない。宗教が科学にその地位を譲った最大の理由が、そこだ。
だからこそ、ウラマーという判断の基準が、イスラム社会ではとても重宝され、権威化されることにもなる。
ちなみに現在では、ウラマーは、学者、教師、カーディ(裁判官)、モスク管理者などの仕事に就くことが多いようだ。
ウラマーのなかでも高位の宗教指導者は、ムフティーやイマームと呼ばれ、イスラム社会に強い影響力をもっている。
イスラームについて詳しくはないが、三田村は、イスハークという人物のもつ画期的な思想性、興味深い独自解釈に引き込まれた。
不思議雑誌の編集者として、彼と親密になることは得策だ、と判断したということだ。
「まさかですけど、その赤ちゃん」
「ああ、いや、ははは。私の子ではないよ。なんと、誘拐された神の子なんだ!」
ぶちまけるイスハーク。
表情を引きつらせるヒナノ。
苦笑するリョージと、やんや喝采のモナ。
状況はよくわからないが、どうやらタダゴトではない事情があるようだと理解する編集者たち。
マスコミ関係として掘り下げにむかうと、もう秘密にしておくことはむずかしい。
むしろ公開してしまったほうがいい、というイスハークの謎の判断の根拠はよくわからないが、ともかく腹蔵なく話してしまうと、彼らは目をらんらんと輝かせて、そのありえない非常識な話を受け止めた。
「で、三村さんは記事にするんスか?」
「いいね、じつにおもしろそうだ。丸編集長、どうだい?」
「さきに記事にしていいですよ。まんま使わせてください」
不思議系記事を集めて売る、インターネット事業者の編集長・丸。
いまだ紙媒体に主軸を置く三田村は苦笑して、
「ははは、労働集約型だね」
「秘密を教えたんだから、そちらの秘密も教えていただいてよいかな?」
イスハークの問いに、困ったように顔を見合わせる三田村たち。
教えてもらった情報に見合うような秘密の持ち合わせはない、という表情だったが、代わりにぶちまけたのはモナだ。
「女房子どものいる三田村っちは、独身の丸っちとデキてて、このシェアハウスはラブホ代わりなんだよー」
「ちょ、ハルちゃん」
「公然の秘密ってやつでしょ。もー夜とかうるさいしー」
既婚者の三田村の本宅はもちろん別にあるが、通勤などの都合でシェアハウスもキープしている、という体だという。
どうでもいい話だな、というイスハークの表情は、しかしこのさき、どう変化するかわからない。情報はそこに価値を見出そうとする努力によって育つのだ。
そのときリョージのケータイが鳴った。
「……もしもし、チューヤか? ああ、なんと聞いて驚けよ。ここにケートがいる。……そうかそうか。マフユ見つかってよかったな。え、話せば長くなる? ははは、じゃまたこんどな。ってことでさ、ここで鍋やることになったよ。
……そうか、マフユならそう言うだろうな。じゃ、待ってる。場所はGPS送るわ。え、不動前なら南北線から乗り換えなしで直通の東急? いや、どうやって来るとかいいから。近く着いたらまた電話しろよ。ああ、じゃな」
「どうやら、そういうことになりそうですね」
首を振り嘆息するヒナノ。
「よし、買い出し行こうぜ。編集長たちもいっしょにどうだい」
「鍋だって? いいね! ぜひここでやりたまえ」
こうして川の流れるように、シェアハウス「ぞんた」が水曜鍋の舞台と決まった。




