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「おお、よしよし……」
小さな女が、さらに小さな赤ん坊を抱いてあやしていた。
彼女が昼間、おそろしい大事件を引き起こした邪悪な女であることを、リョージたちは知らない。
しかしイスハークは平然として、ヒジャブを目深にかぶらせた小さい女を、さきほどの部屋まで連れ込んで、救出してきたダッドの息子を任せていた。
「あのー、やっぱりこの女のひとの共犯者って」
「はっはっは。だって、かわいそうじゃないか。ねえチーちゃん」
「イスハさんには、とても感謝しているの」
小さい女は言った。
それは昼間、狂気の表情で新婚カップルに血を注いだ、同じ女とは思えない穏やかな表情だった。
「そもそもわるいのは、あの男だからね。彼女の処女を奪っておきながら、別の女と結婚したその目的が、同じ神学機構の人間でありながら、われわれイスラームに対する二重スパイだというのだから」
「あなた、それは確証があって言っているのですか? そのような誹謗中傷」
事情はよくわからないが、ヒナノにとっては耳の痛い話だ。
「状況証拠でよければ、じゅうぶんだね。あの新郎は、キリスト教からイスラームに改宗するふりをして、われわれの内部に埋伏しようとした毒だ。天罰が下るように祈ってバケツをひっくり返したところ、まさかの直撃だからね。神は見透かされておられる」
「天使も、けっこうエグいナンパ師、いるっぽいよねー」
六本木を見てきたサアヤとしても、わるいのは男だ、という意見には無批判に同調しやすい。
一息ついて、チューヤは話題をもどす。
「で、どういう知り合いなんです?」
「五反田の幼女カフェで知り合った。彼女はとても頭がいい。すぐに気づいたよ。すぐれた女性だ。永遠のアーイシャだよ」
大天使ジブリールが現れ、この女と結婚せよ、彼女はおまえの妻である、と言った。
「田中モナです」
小さいモナは、ぺこりと頭を下げた。
何度見ても、あのとき狂気の顔で猛り狂っていた女と同一人物とは、とても思えない。ある種、分裂的な性格なのかもしれなかった。
そもそも「幼女カフェ」というところにだれも突っ込まないことに違和感をおぼえたが、チューヤ自身、あまり掘り下げないほうがいいという気もしていた。
しかし一部の人々にとっては、どうしても触れずにはおかれない。
「違法な労働をさせられていたわけではないですよね? おとなですよね?」
「うふふ、身長は9歳です」
日本人の女子の平均身長は、9歳で133センチほどである。
彼女はそれを利用して仕事をしている、おとなだ。
9歳という年齢も示唆に富んでいる。
ムハンマドの3番目の妻、アーイシャは9歳で結婚した。
もっとも議論の多い存在であり、その評価はイスラム内部でも割れている。
ムハンマドが小児性愛者と攻撃される理由にもなっているからだ。
アーイシャ自身は、成人してから軍を指揮する(敗北したが)など、指導者の妻という職務規定をはるかに超えた才能(勝者側に対してさえ影響力をもった)を、高く評価されている。
その知的名声、宗教的権威は、現在にも強く受け継がれていた。
ムハンマドは、アーイシャ以外のいかなる処女とも結婚していない。啓示は、つねにアーイシャとともに下された。アッラーがムハンマドの魂を取ったのは、アーイシャの胸の内にいたときだった。
多くの妻のうちで、アーイシャが特別な存在であることは、議論の余地がない。
最初の妻ハディージャも、強烈な印象を与えはする。
ムハンマドより15歳年上のシングルマザーで、彼の上司でもあり、みずから告白して妻となった。
しかし、タイミングの問題かもしれないが、初期のイスラムの歴史書で活躍するのは、やはりアーイシャなのだ。
ハディージャの活躍のほとんどはイスラム開教前であり、アーイシャは開教後に活躍した。アーイシャの発したファトワーはたいへん尊重され、こんにちのイスラム法にとってもきわめて重要なものとなっている。
「ともかく、約束は果たしましたよ。ミスター・イスハーク。ガブリエルを助けてもらいます」
ヒナノの要求に、すなおにうなずくイスハーク。
「……そうですね。では明日までに、ヴァチカンに書簡を送っておきましょう。私にできることはしますが、その結果、上がどう判断するかまで責任はもちませんよ」
彼ほどの奸知をもってしても、神学機構の全体の動きまで予想することは困難だ。
「疑いが晴れてガブリエルが解放される以外の判断があるでしょうか。父と子と聖霊も照覧あれ、アーメン」
「ジブリールに幸いを、まことよく赦したもう神の名において、インシャラー」
一神教徒たちが同じ神に祈っている。
チューヤたちには違和感しかないが、世界の半分が信じているらしい。
無神教、多神教徒たちにとっては残念ながら、これが現在の地球なのだ。
「ところで、仕事も終わったし、イスラム教徒やめたいんですが」
思い出したように、チューヤが言った。
イスハークはさして興味もなげに応じる。
「ああ、そういえば、そんな話もしたね。ははは、いいのかい? 私は死なないからいいけど」
「なんですか死ぬって!」
あわてて立ち上がるチューヤに、平然と言い放つイスハーク。
「いやイスラームに改宗するのは簡単だが、イスラームをやめると死刑なんだよね」
「はああ!?」
イスラム法上、棄教は「死刑」とされる。
ただしハナフィー派とシーア派では、女性の場合は終身禁固でよかろう、という意見もある。
しばしその反応を楽しんでから、イスハークは笑って言った。
「だいじょうぶ、改革派は信教の自由を擁護してるから」
「それ以外は死刑なんスね……。よかったですよ、イサクさんが改革派で」
旧ソ連圏やトルコ、アルバニアなど、イスラム教徒が多くてもイスラム法の影響力が極度に低下した地域では、死刑はごくまれである。
「それじゃまあ、慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において、イスラムやーめた、とでも言ってもらおうかな」
「やーめた!」
「まことにアッラーは、よく赦してくださる優しい神である」
恬然と笑うイスハーク。
どうやらこれで「改宗」完了、らしい。
『コーラン』には厳しい顔を見せる神の姿が多く、それを文字どおり受け取って社会を絞めつけているのが、いわゆる原理主義者などだ。
一方、優しい部分も多く表現されており、それを文字どおり受け取って悪用のかぎりを尽くすのが、イスハークのような改革派(?)である。
「いいんスかね、こんなんで」
「いいんだよ。反省して心を入れ替えれば、たいていのことは赦してくださるのだ、われらの優しく親切なアッラーは」
日本におけるムスリムには、心の内面における信仰の自由も認められており、そのことを公言しなければよい、とされている。
まことにアッラーは、よく赦したもう、心の広い神である。棄教さえも許すとなったら、タブーなどないに等しい。
よって、彼は平気で豚肉を食うし、酒も飲むし、女遊びも激しい。
やらかしてしまったあと、すんませんでした、と言ってプチ断食や寄付などで償えば済むからだ(と彼は解釈している)。
これからのムスリムは、そのくらい「ゆるく」ないとダメなのだ、というのが彼の主張である。
「なるほど、さすがユリーデッセ学派ですね」
「意外に流行る気がするんだよね、ユリーデ。私のまわりも、けっこうゆりーよ。なにしろ私なんかがウラマーを名乗ってるくらいだからね」
一定数の支持がある「知識人」は、ウラマーとして権威を付与される。
言い換えれば、人々のあいだでウラマーであると認識されないかぎり、どんな名門大学でイスラム的学問を修めたところで、なんの権威もない。
イスハークのような、ゆりー考えの派閥が実在することにより、このモスクにおける一定の自由行動が保証されているわけだ。
「保守派のひとも、だいぶ苦々しく思ってるでしょうね……」
「世代間闘争は、どこの社会も免れないもんだよ」
あいかわらず他人事のように言い放って、イスハークは視線を転じた。
この場でもっとも若い、赤ん坊へ。
この「神の子」は、はたしてどのような役割を負わされるのだろう。
「しかし残念な話だと思わないか? われわれの仲間をやめるなど」
両手を広げ、部屋を歩くイスハーク。
彼は部屋の奥、左右に座るサアヤとヒナノの肩に、なれなれしく手を置いた。
「私、仏教徒ですけど」
サアヤの言質を無視し、イスハークは、少女たちを巻き込んで言った。
「われわれこそが世界なのだ! そこの男子諸君。きみたちは現に、世界宗教をまえにしているのだ! ひざまずけ、命乞いをしろ、小僧から石を……」
「……お黙りなさい」
下からサアヤとヒナノのダブルアッパーが、イスハークの身体を舞い上がらせた。
興奮した彼の手が、女子高生たちのボディタッチを不埒なレベルまで高めていたことは事実である。
これは正当防衛といっていいだろう。
「いてて……。いやー、最近のヤマトナデシコは強いねえ」
「キリスト教と仏教はともかく、あなたがイスラームを代表しているとは、だれも信じないと思いますよ」
「仏教か。あれは宗教というより哲学だよね。彼女も……ただの魔女だ」
にやり、と笑うイスハーク。
その視線はサアヤをとらえている。
「無礼ですよ。アブラハムの宗教に泥を塗るのはおやめなさい」
「これはしたり。時代は変わったね。15世紀なら、こういう女性はみんな私のものだったのだ」
不敵なことを宣うウラマー。彼のサアヤに対する視線は、ひどく好色だ。
世界中の人々から愛されるタイプのサアヤだからしかたない、と一種の諦めに近い理解を示す一同だったが、じつはその背後には深い皮肉が横たわっている。
理解できたのは素養と偏差値の高いヒナノだけだ。
「魔女の安息日は、いまや絵画の世界にすぎません」
マドリードに、フランンシスコ・デ・ゴヤによる有名な画題の名画がある。
バフォメットをイメージさせる雄ヤギは、コウモリの群れが空を覆う荒野で、生贄の赤ん坊を捧げる──いわゆる「サバト」で、キリスト教のミサを冒瀆する象徴となった。
牧神パンなどとも同一視されるこの悪魔は、ヨーロッパを暗黒に染めた異端審問官たちと、数百年にわたって戦い、いまも戦いつづけている。
「異端排除という至上命題は、すこしも変わってはいないはずだがね」
さらに頭のいいイスハークは、すかさず鋭いところを突いた。
ヒナノは唇を噛んだ。
よもやガブリエル自身が、異端審問にかけられるなど──。
「しょせん、神学機構そのものが寄せ集めのガラクタにすぎない」
イスハークの暴言、にらむヒナノ。
血塗られたアブラハムの宗教が、苦心して築いた一神教の楼閣だ。
「あなたがイスラームの異端で幸いです。あなたを除いて、われわれは手を取り合うことができる」
口元をゆがめて笑うイスハーク。
完全にバフォメットである笑みのさき、彼は暴虐なる秘密を暴く。




