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「時間ぴったりだね。さすが約束を守る日本人」
出入り口に近い席に座っていたイスハークは立ち上がり、リョージたちに好きな席へどうぞと促す。
上座という概念のあまりないチューヤが立ち上がり、ヒナノに席を譲るが、彼女は無視して部屋の奥へ進み、サアヤの隣に腰かけた。
その横に、リョージ。
ぽつねんとして、座りなおすチューヤ。
出入り口に近く置かれたホワイトボードは、いわば教室における黒板のような位置取り。そこに向けて、コの字型に配置されたテーブルの開いた側がむかう。
出入り口に近い側のテーブルにイスハーク。反対側のテーブルにチューヤ、サアヤが並び、90度の角度でヒナノ、リョージ。
あらためて、チューヤの反対側に腰を下ろすイスハーク。
さきほどとは別のイスラム女性が、新たなティーセットをもってやってくる。
彼女はイスハークに背を向けないように気をつけながら、慎重に給仕している。
いぶかしむヒナノたちの気持ちを察しつつ、チューヤは先刻までの会話を引き継いで、自分たちが把握している相手の情報を全員で共有しようとする。
「破戒僧……とはいえ、支持者はいるわけっスよね」
「はっきり言ってくれるね。ま、否定はしないが。そこだよ。まさにそれ。一部の熱狂的な支持者が、私の周囲にはいるんだ」
にやり、と笑うウラマー。
多くの敬虔なイスラームに忌み嫌われながら、一部のイスラーム自身から熱烈に支持されている。これは事実だ。
「まあ、テロリストにも支持者はいるわけですからね……」
「ひどい言われようだな。私はべつにテロリズムを支持はしないよ。ただ、好きに飲み食いして、好きな店で遊んだらいいと言っている」
「風俗解禁とか飲食タブーなしとか、どう考えても怒られるでしょ!」
「タブーなしとは言ってない。あとでちょっと反省して謝ったらいいよ、って話」
「ないに等しいわ!」
イスラム女性は、やや不快げにイスハークを見つめたが、熱心に突っ込むほど反対しているようすではなかった。
風俗はともかく、飲食タブーがない(ゆるい)のはありがたい。
21世紀の宗教は、人間が生きていくうえで支障になるようなタブーは、すべからく取り除かれていくべきだ、と考える合理主義者の数は加速度的に増えている。
たとえばイスラームでは、賭博はハラーム(禁止されている)だ。
コーランにはっきりと「悪魔は酒と賭け矢によって、おまえたちのあいだに敵意と憎しみを引き起こす」と警告されている。
しかし、この破戒的イマーム(指導者)は意に介さない。
「敵意と憎しみを呼ばない酒と賭けならよい、という意味だよ」
私の人生なのだから、私のしたいことをする。
この西洋的個人主義は、日本にも根づいている。
一方、イスラム教徒が最初に教わるのは、人生は自分のものではないということだ。
すべてのものはアッラーに属する。自分の身体は、アッラーから面倒を見るように任されたものにすぎない。
「イスラーム新解釈の話はもうけっこう。……本題にはいりたいのですが?」
給仕が出て行ってドアを閉めた瞬間、断ち切るようにヒナノが言った。
一瞬、鼻白んだように彼女を見たイスハークは、すぐに笑ってうなずいた。
「ビジネスライクな日本人もわるくない。──それで、私を手伝ってくれるのは、こちらの殿方ふたりでよろしいのかな?」
リョージは納得しているようにうなずいたが、チューヤには意味がわからない。
「あのー、殿方って俺も含まれるのかな」
「あなたは婦女子ですか?」
「チューヤ、女の腐ったよーなところあるよ、これでも」
「いやーん、えへへ……」
「褒めてないよ!」
そんな茶番に相対するイスハークは、どうやらこの高校生たちのあいだに、きちんとした話し合いはもたれていなかったようだ、と理解した。
順を追って説明することが、どうやら少なくない。
──先週、リョージたちがこのモスクを訪ねたとき、最初に対応にあたったのは別のウラマーだった。
イスハークという方に話があると伝えると、やや困ったような表情で、地下で作業中、とのこと。
何事か理解できず、しばらく待つうちに地下から出てきたイスハークは、強力な戦闘要員が必要だとアラビア語で伝えた。
困ったように話し合うトルコ人たち。
ふとイスハークはリョージたちに視線を移し、流暢な日本語で、交渉のテーブルを主催した。
リョージたちがモスクを訪ねた理由は、破戒僧イスハークが学館とガブリエルをつないだ証拠を握っている、という情報に基づいていた。
場合によっては彼が仲介役となっている可能性すらある。その当人を証人喚問したいところだが、神学機構内部でイスラーム勢力は、当然にゆるがせにできない強い力をもっている。
カトリック勢力が、犯罪者のようにイスラム教徒を喚問できるほどの政治的状況は、まだ神学機構内に存在しない。
腫れ物に触るような方法で、ともかくイスハークの協力を得たい。
その要求に対して、彼は言った。
──現在、この地下に忌まわしい悪魔が住み着いて、困っている。
退治したいが、戦力が足りない。それなりの手練が数人いればまにあうと思われるが、本国に「聖戦士」を要請したものの、むこうも(というよりも世界中が)大変な時期で、極東モスクは極東モスク独力で解決されたい由。
リョージとヒナノは、ふたり、それでは協力しましょうと申し出た。
するとイスハークは首を振り、好色な目で……はないがヒナノを見つめ、申し出はありがたいが地下は女人禁制であり、あなたははいれない、と言下に応じた。
宗教的な理由。こればかりは、いかんともしがたい。
イスラム教徒の男しか、そこにははいれないのだ。
それじゃ、そもそもリョージもはいれない、という話になるが、イスハークは、そのあたりは便宜を図る方法もある、と言った。
ただし性別は無理だ。もうひとりかふたり、強い男性を連れてきてもらって、目的が達せられれば、きみたちの要求に応じてもよい。
と、そういう話になっていたのだった。
「世知辛い世の中だねえ。お互い困っているなら、無条件で助け合えばいいだけなのにー」
平和の愛戦士サアヤが言うと、イスハークは軽く肩をすくめ、
「利用されて終わるタイプですな、そちらのお嬢さん」
「言わないであげてください……」
巻き込まれ要員のチューヤとしては、身にこたえる話だった。
ともかく、状況は理解できた。
「で、地下の作業ってなんなんスか」
「悪魔を倒す。簡単なことですよ」
悪魔にもよるが、ともかくチューヤはリョージと組んで、戦えばいいらしい。
「そういうことなら、ケートも呼ぼうよ。あいつが手伝ってくれれば心強い」
「それな。オレもさっきチャット飛ばしたんだが、忙しいってさ」
「あいつはいつも忙しいんだよ! 友情を主張して突っ込めば……」
「まあまあ、ふたりで行ってみて、無理そうだったら援軍呼ぼうぜ」
「……わかった。しかたない。リョージが言うなら」
そもそもリョージが仲間であると考えただけで、基本、負ける気がしない。
「それでは行きましょうか。そちらも、駄弁っている時間はないのでしょう?」
立ち上がるイスハークの何気ない言葉に、チューヤたちはふと顔を見合わせた。
「そーいや鍋は?」
「いろいろあるから、6時ってことで伝えてある」
「……あと5時間か。んじゃ、さっさとやっつけるか」
時計を確認し、立ち上がる。
忙しい高校生たちとしても、時間は有効に使わなければならない。
「よろしい。それでは、詳しい話は歩きながら。女性の方々は、しばしお待ちを。モスク内はご自由に見学していただいてかまわないが、ところどころ立ち入り禁止の場所もあるのでお気をつけて」
「宗教って大変だね! 了解。女人禁制のお山もあるから、気をつけるよ」
うなずくサアヤ。仏教も原初的には女人にやさしくない。
いや、やさしくしたほうが都合いいんじゃね、と気づいたのがキリスト教より数百年ほど遅れただけ、ともいえる。
西洋ではユダヤ教を脱却した原始キリスト教がローマを牛耳り、東洋では原始仏教から大乗仏教へと発展を遂げた教団が、各国へと布教の触手を伸ばしていく。
「では、行きますよ。……エリアボスを倒すだけの、簡単なクエストです」
「そういうのいいですから」
簡単なクエストへむかう、イスラームではないふたりの男子高校生。
モスクの地下は、いかなる世界なのか。
東京の地下である以上、想定は厳しめにしておくべきだろう。
モスクの地下にそのような空間があることは、一部の高位者にしか知らされていないという。
高位のカーディー(裁判官)やイマーム(指導者)を迎えるための客室、会議室として増設を企図されたが、こたびの異世界線接近で、常設の境界に変わってしまったらしい。
「まあ、その責任の半分は、私にあるわけだがね」
リョージたちを「戦友」と認め、より砕けた口調で言うイスハーク。
「どういうことっスか」
「話せば長くなる。聞くかね?」
「リョージかよ……手短に頼みます」
イスハークはひとつうなずいて口火を切ろうとしたが、すぐに思い出したように、
「しかしそのまえに、まず、きみたちにはやってもらわなければならないことがある。改宗だ」
ごく軽い口調で、とても重要なことを言った。
ある意味、ひとの一生を左右するほどの大事だ。
「……は?」
「最初に言ったとおり、ここからさきへ女性ははいれないし、異教徒も同様だ。よって、きみたちにはムスリムになっていただかなければならぬ」
「……へ?」
「イスラーム(服従の意)にとって聖地に、神の御心に従わぬ者を入れるわけにはいかない。ハッジ(メッカへの巡礼)が許されているのは、ムスリムだけだ。いかなる王侯貴族、テレビ局も、観光はもちろん取材だからなどという理由で、メッカに入城できない。それと同じことだ。……これでも一応、ウラマーなのでね。曲げられない原則もある」
「破戒僧かとばかり思っていましたよ……えー、でもイスラームに改宗ってのはなあ」
「だいじょうぶ、一時的だよ。私を信じなさい」
「ほんとですかー?」
懐疑的なチューヤ。
にやり、と笑うイスハーク。ものすごいくやな笑いだった。
一方、他人を信じてバカみたいに冒険するキャラ、リョージはあっさり言った。
「じゃ、改宗しますか」
「よろしい、さすが思い切りがいい、男前!」
「リョージ、おまえ……」
詐欺師が勢いでさっさと仕事をやっつけたいかのように、イスハークは口調を速めて言を継ぐ。
「では、私のあとにつづいて言ってもらいたい。ラー・イラーハ・イッラッラー、ムハンマドッラスールッラー」
「えーと、ラー、イラー、イライラー、スルラー」
「イライラするなよ」
「……しかたないな。じゃあ日本語でいいよ」
ゆるいウラマーは、神聖であるべきアラビア語をさっさと捨てた。
「厳しいのかゆるいのかわかりませんね……」
「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドは神の使徒だ。……はい、どうぞ」
「アッラーのほかに神はなく、ムハ……ンマドは、神の、使徒、だ」
後半はかなりイスハークの口の動きでカンニングしたが、ともかく彼らはシャハーダ(信仰証言)をみずからの口で宣言した。
にっこりと深い笑みを浮かべ、イスハークは両手を広げた。
「友よ! これであなたは、もうひとりぼっちではない。世界に20億の仲間をもつ、偉大な神のしもべとなったのだ!」
「はあ、どうも。そんじゃ行きましょうか」
「もうちょっと感動してくれてもいいんだが……ま、行こうか」
破戒僧であるイスハークも、さして感動を共有することなく、歩き出した。
開かれるモスクの地下。
そのさきには境界が広がっていた──。




