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その通路の奥まった場所に、分娩室はあった。
ドアには、アスクレピオスの杖の意匠。
神話に登場する名医アスクレピオスの持っていた、蛇の巻き付いた杖だ。
現在、医療・医術の象徴として世界的に用いられるシンボルマークとなっている。
横には、ヒュギエイアの杯。
アスクレピオスの娘のヒュギエイアが持っていた蛇が巻き付いた杯で、こちらは世界的に薬学のシンボルとして用いられる。
「蛇」は生命の象徴・豊穣の象徴であると同時に、「性」の象徴でもあった。
「マフユを待ってました、って景色だな、おい」
「意味がわからんけどな。あたしはこの病院に、直接はかかわっていないんだ」
だが裏側からのかかわり方で、結局はだれかを危険にさらしている。
「ヘビー・アントワネット様の登場だもん。フユっち、この先のザコなんか、ビシッとしばきあげちゃえばいいんだよ!」
「おう、そうだな!」
女たちのカラ元気が、チューヤの耳を上滑っていく。
「気合を入れるのはいいが、この先の蛇は普通の蛇ではない気がするぞ。恐怖の蛇大王様が待っていたら、謝って許してもらおうな?」
日本のヤマタノオロチや、ギリシャ神話のヒュドラ・ゴルゴンなど、蛇が恐怖の対象として描かれる事例は、非常に多い。
これらは時に氾濫する川の流れを支配する自然神・水神への畏敬の念を、のちの支配部族が自部族に都合の良い神話として編纂するなかで、単なる恐怖の対象に矮小化した事例であると考えられる。
事実、蓮根に縄文時代以前の遺構は存在せず、ここがかつて水の底であり、近世以降に開拓された歴史の浅い土地であることも──この土地にミズチが住み暮らし、時に祈られ、そして踏みつけにされてきた歴史のうえ、この病院があることも。
すべてを踏まえたうえで、それでも戦うことを選ぶなら。
全責任を負って、そうすればよい。
「ミズチか」
悪魔使いのナノマシンが、再びフル稼働を開始した。
悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ミズチ/龍王/18/4世紀/西日本/仁徳天皇紀/西台
戦闘開始。
中ボスの連続は、かなりの負担だ。
属性をよく考えてパーティを組む、という手順を踏まなかったのは、チューヤに大いなる反省を強いている。
パラケルススの四属性。悪魔の強化には精霊が重要な役割を担うのだが、現状、そのようなレベルにもまだ達していない。
仲間たちが疲弊している。
もう無理、とピクシーが悲鳴を上げる。
まずい。死なせるわけにはいかない。
チューヤはピクシーを下がらせる。
ご主人、と傷だらけの猫が鳴く。
猫派のチューヤには見ていられない。ケットシーを下がらせると、戦場は一気に寂しくなる。
小型の悪魔が2体消えただけで、景色はこれほどまでに変わるのかと思う。
「ごめん、回復間に合わなく……てっ」
ミズチのふりまわした尾の先端がかすっただけで、サアヤの身体が壁まで吹っ飛ばされ、たたきつけられる。
寂しそうな表情のリャナンシー。セベクの表情にも色はない。
ここまでか……。
つぎの瞬間、マフユの眼球がカッと見開かれる。
「そこか、腐れ野郎が!」
一見、戦場と関係のない分娩室横の準備室。
突入したマフユが繰り広げる戦闘音は、それほど長くはつづかない。
やがて出てきた彼女の細長い腕が、力強く引きずり出してきたもの。
その先に捕らえられていたのは、小太りの白衣姿の初老の男だった。
喉元に必殺の切っ先が突き付けられた瞬間、ミズチは動きを止める。
「……そうか。そういうことか」
突然、戦闘のプレッシャーから解放され、チューヤは深く吐息しつつも、その現状認識を進めることに怠りはない。
むしろ、動物的本能で戦闘の舞台裏まで到達したマフユの天性のセンスを、心からほめたたえたいと思う。
この場所は、駅と関係がない。
もちろん境界化しているから、悪魔が悪魔の意思で行動していることもあるだろうが、ミズチはニュートラルの龍王だ。
なんらかの外部の意思を受けて、流されて行動することはあっても、自分の意思で産院を支配することは、ありそうもない。
それでもここにいるということは、それを召喚して使役する悪魔使いがいてもおかしくはない、ということだ。
そう順序立てて思い至る可能性が一番高かったのは、チューヤだった。
その責任を果たせなかった彼に代わって、本能で戦士の責任を果たしたマフユの能力は突出している。
言い換えれば、それは主観的か、客観的かのちがい、と表現することもできる。
マフユは、悪魔使い特有の悪魔の動きを、客観的に見ていた。
チューヤは主観的に、自分の仲間の動きをコントロールしていたが、そこまでで手いっぱいだった。
チューヤの動きと、敵の動きは、まったく異なっていた。
仲間の状態を気にして、危なくなったらもどすようなこともするチューヤ。
一方、目のまえの悪魔は、自分が危険になっても、ある場所を守ろうとするような動きを、無意識的にではあろうが、何度かくりかえした。
ということは、その動きで守ろうとした場所に、なにか重要なものがいる。
マフユの戦士としての直感は、正鵠を射た。
黒幕をつるしあげることにより、戦闘は膠着する。
「ひっ、くそ、放せ、貴様ら皆殺しだぞ」
叫ぶ彼はその名札から、蓮根産婦人科病院の院長だとわかった。
院長が悪魔使いになって、なにかを企んでいる病院。
どう考えても、入院させていい場所ではない。
「マフユ、そいつ」
「ああ、あたしとしたことが、やっちまったかもしれない」
腕に力を入れ、院長の喉首を締め上げる。
自分のミスで、こんな悪魔の住処に、先生を送り込んだのだとすれば──どう償っていいのかわからないが、とりあえずこいつは殺しておくべきだ。
「やめ、ろぉ。貴様ら、ほんとに殺す、ぞぉ」
激しく身震いし、攻撃態勢にはいるミズチ。
自分が殺されるまえに、何人かは道連れにしてやるという気迫が感じられる。
「待て、マフユ。……おっさん、こっちの悪魔も引き上げる。とりあえずその悪魔をもどしてくれないか」
チューヤの冷静な提案に、混乱状態の院長は激しく毒づく。
「ばかが、そんな口車に、だれが乗る。わしを殺す気か、やってみろ、貴様らも皆殺しだぞ」
マフユはちらりとチューヤを顧み、
「悪魔使いを殺すと、呼び出された悪魔はどうなる?」
「支配を解かれるわけだから、自由になるだろうけど」
院長はヒステリックに叫び散らす。
「そうだ。ミズチは恨んでいるぞ、この土地を自分から奪った人間を。わしが支配してやらなければ、大量虐殺の巷と化していたところなのだ。感謝されこそすれ、こんな目に遭わされる理由は、微塵もない」
悪魔はもちろんだが、人間だってうそをつく。
チューヤは慎重に、院長の表情を注視する。
「それにしては、状況がおかしくないか、おっさん。……先生をどうした?」
「先生? ここには医者と看護婦と妊婦しかいない。医者は全員帰った」
「ちがう。妊産婦として入院している、学校の先生だ。505号室の……」
瞬間、にたあ、と不気味に変わる院長の表情。
「ああ、なるほど。そういえば、そういうことか、そうだったな……くく」
通底する忌まわしい、なにか。
生臭い臭気が漂ってくる。
それは、なにか特定のものが腐臭を発しているとか、そういうはっきりとした原因や理由があるわけではなく、ただこの場所に蓄積した長年の澱が、自然発酵的に漂わせている臭いのように思われた。
「オギャア、オギャア」
かすかに聞こえる、赤ん坊の泣き声。
ぐちゃり、ぶちょっ。不愉快な粘着質の音。
見まわせば周囲の空気は完全に入れ替わり、というよりむしろ、本来の空気感に引きもどされた、といった気配。
目のまえの院長の皮膚は赤黒く変色し、それが人間ではない、かつては人間だったかもしれないが、もうその範疇に暮らすことをあきらめた、ひとつの「異物」が、そこで悪臭を放つ吐息を、ぶふぅえふぁ~っぷ、と吐き出しているのだった。
思わず、つかんでいた襟首を放すマフユ。
チューヤたちは一か所に集まり、周囲に押し寄せ、ひたひたと迫りくる真綿で絞められるような悪意に、全身全霊を鼓舞して立ち向かう。
悪魔と化した院長のなかへ、ミズチがゆっくりと飲み込まれていく。
──ミズチは院長であり、院長はミズチだった。
ミズチがその龍王の魔力によって、愚かな人間の魂を奪い取り、形を成したのだ……そう考えたいところだったが、事実は逆だろう。
邪悪な精神は極限まで肥大化し、大地に何百年を閲した精霊の昇華した姿、名高い大地の霊たちをも、体内に取り組み、食らいついて、己が力とした。
げに恐ろしきは人なるかな。
「思い出したぞ、ひょろ長い、そこの女」
蛇のようにぬらついた指をうごめかせ、院長の指がマフユを指した。
「あたしは、おまえみたいな化け物に知り合いはいない」
「くくく、ナーガにまとわりつかれているおまえも、普通の人間から見ればじゅうぶんに化け物だと思うがな。……知らんとは言わさんぞ、人類の子宮、ウォンバリーにかかわった事実をな」
ぎくり、とマフユの身体が震えるのを、チューヤたちは強い懸念とともに見守る。
マフユがまだ言えないでいる、恐ろしい事実を、この院長の口から聞かされることになるのだろうか。
「ウォン、バリー……?」
「フユっち、なんなの、それ」
同級生たちの声に、マフユは激しく首を振る。
「おまえらは、知る必要ない。そんな薄汚い世界に、かかわるべきじゃ……」
「その薄汚い世界を! おまえは、おまえの恩人の先生に、紹介したのではなかったか? 恩人を闇の底、この世で最も汚い世界に投げ入れて、悦に入っているのだろうが」
巨大な悪意が得意とする、他者の小さな失態をあげつらうこと。
「それは……っ、望んだから、先生が、子どもが欲しいって」
それでも彼女は、その組織にみずから接触し、掲げる思想に同意して、利用した。
人類の闇を集めた、その組織を──。




