02 : Day -66 : Seijogakuen-mae
秋、早朝の冷気のなか、明るい色の髪をなびかせ、悠然と闊歩する女子高生。
駅舎ゲートをくぐるモノクロの人々の流れのなか、彼女だけが華やかな輝きを見せる。
少女の名はヒナノ──南小路雛乃。
白い肌、決意を秘めた双眸は、明るい髪色とマッチして、有無を言わせぬ「気高さ」を押しつけてくる。理想的な肉感を備えたボディラインは慎重に隠されているが、彼女が「すごい」ことは脱がなくてもわかる。金髪縦ロールの「お嬢」「夫人」の系譜を、否が応でも受け継いだ華族の導く先に、現在と未来の地球の半分がある……かもしれない。
その斜め後方、スーツ姿の女が控えめに付き従う。
改札を抜け、地下へつづくエスカレーターを降りきると同時に、走りこんでくる地下鉄。
ヒナノは一歩も足を止めることなく車内に乗り込み、約束された窓際で足を止める。
反対側のドアが閉じ、列車は高い起動加速度で走り出す。
「本日は首都直下鉄道をご利用いただき、まことにありがとうございます。この電車は川の手線、環状線右回り、赤羽方面行です。つぎは千歳烏山、ちとせからすやま。京王線はお乗り換えです。
This is Capital Tube Line trains bound for Akabane. The next station is Chitose-Karasuyama. Plaese change here for the Keio line.」
数百回は聞いただろう車内アナウンスを聞き流し、加速と減速に身を任せる。
朝の通勤通学時間帯。
客数は多いが、彼女の周囲には、謎の見えない防壁がある。
人々は、まるで畏れ多いものであるかのように、彼女を直視することさえ遠慮しているかのよう。
「つぎは千歳烏山、ちとせからすやま。京王線はお乗り換えです」
減速度4.2km/h/sで列車が停止する。
人々が流れ出し、流れ込む。
小柄な少年がすたすたと歩み寄ってきて、軽く手を上げる。
「おはよう、ガブんちょ。きょうもきれいだね」
ヒナノの斜め後方で、ガブんちょと呼ばれた女は、軽く会釈をする。
「おはようございます。あなたこそ、おかわいらしい。それでは、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げ、手にしていたカバンをヒナノに、もう片方の手にもっていたトートバッグを少年のほうにわたして、静かに電車を降りていく女秘書。
最寄駅から隣の駅まで主人を見送り、級友に引き継いで、そのまま引き返すのが彼女の朝の日課だ。
その小柄な「かわいい」少年の外見は、ある種の女性にとってターゲット・ロックオン待ったなしだ。無造作に着流した制服や、効率的に寝癖を隠せるバンダナは、彼が物事に徹底して優先順位をつけ、どうでもいいことにはまったく興味を示さない性格をあらわしている。ある種の「主張」をも秘めた虹色のバンダナの奥、少年の大脳が紡ぎ出す「天才」は、いずれ世界を変える……かもしれない。
ドアが閉じ、再び地下鉄は、減速度と同じ起動加速度で位置エネルギーを積み増していく。
女子としてはやや高めの身長であるヒナノは、はるかに小柄な同級生、西原慧人を見つめて静かに言う。
「彼女をガブんちょと呼ぶのは、やめておあげなさいな」
「だってガブリエルじゃん」
小さな背中に、さっきわたされたトートバッグを背負いなおしながら、ケートは悪びれもせずに言った。
フランス人の血が流れるらしいガブリエルは、長年ヒナノの秘書的な役割をはたしている。年齢を聞いたことはないが、妙齢であることはまちがいない。
「だからガブリエルであって、ガブんちょではありません」
「敬意を表してるんだぞ。昔、ドン・ガブンチョというエラい大統領がいてだな」
いたずらっぽく笑うケート。
この表情がキラースマイルだ。
バンダナのうえからのぞくアシメトリーの銀髪マッシュパーマを揺らし、小さな身体で小首をかしげられると、たいていの女子が「かわいい」とため息を漏らす。
もちろん女子の「かわいい」にたいした意味はないわけだが、ケートの場合にかぎっては素直にショタコンをキラーする。
もっともヒナノに、その手の趣味はない。
「その件、言下に否定されたのですが。見た目が外国人だからといって、NHKを見ないと思わないほうがよろしくてよ」
「海外でも放送してるしな。……そもそも、カワイイと言われて喜ぶ男子がいるのかという点について、お嬢もガブんちょとよく話し合ってみたらいいと思うよ」
「……なるほど、そういうことですか」
底流していたいくつかの確執を了解して、ヒナノは黙り込んだ。
「てかさ、登校の電車に乗るのに、秘書を連れてくる高校生いる?」
最初から、地下鉄通学そのものが彼女にとって不自然な行為ではある。
わざと人生経験を積むためにやっている、としか思えない。
本来、高級車を校門前に乗りつけるべき人種なのだ、彼女は。
「とても新鮮な経験をさせていただいておりますわ。……それは、あなたも同じはずですが?」
両目いっぱいの皮肉を感じ取って、ケートはフイと視線を逸らす。
「クリスは、ただの連絡係。放任主義の家系なもんでね。それでも放蕩息子のことは気になるらしい。いや、気にしちゃいないか。にしたって、たまに顔を出す程度だよ」
ケートの服装は一見ふつうだが、端々に見られる小道具には最高級品しかない。
女秘書がいなくなっても、彼らの周囲に防壁が残っているのは、このお金持ちオーラが、あくまで一般ピープルを退けているせいかもしれない。
南小路家は日本が誇る元華族の名門、西原家はフォーブスにその名を刻むヘッジファンドの超成金。
彼らがここにいること自体、本来はひどく不自然なことだ。
「つぎは久我山、くがやま。京王井の頭線はお乗り換えです」
ドアが開いてようやく、お金持ちオーラを切り裂く存在が現れた。
いつもどおり元気に飛び込んできた、現役女子高生のお手本みたいな少女が、能天気な笑顔とともに同級生の肩をたたく。
「おっはーYo! 仲良しさん!」
「おす。あいかわらず元気だな」
「おはようございます、発田さん」
3つの導線が絡み合い、ひとつの軸を形成するのにそれほど時間はかからない。
同じ高校に通う3人は、はや丸1年以上、毎日ここに存在する権利を有している。
彼女は先の少年と比較しても、さらに小柄だ。童顔、栗毛、ぱっつんに、前頭部から伸びた触覚のような「アホ毛」が、すべてを決定している。チョコマカした子犬のような挙措動作は周囲の庇護欲求をくすぐるが、その芯には世界を包み込めるほどの強い母性が秘められている……かもしれない。
ドアが閉じ、列車が加速する。
乗客の数が増えてきて、さすがに彼らの周囲にも人の壁ができる。
元気少女サアヤは、うりうりと同級生たちの身体に体当たりしながら、
「どんなラブラブトーク展開してたの? ん? 白状せい」
ケートは軽く肩をすくめて、
「なんでデンミツ(田園調布参葉中学校)に通ってた名門子女が、国石高校みたいなフツーの私立に行くんだ、おかしいだろ、って話さ」
「あー、そーいえばヒナノン、田園調布参葉小学校付属幼稚園からストレートだもんね! なんか呪文みたいでおぼえちゃったよ、でんえんちょーふー」
「行きたければ、あなたが行ったらよろしいわ。神と母マリアの導きに従ってね」
「宗教戦争開始ってか」
デンミツはミッション系。授業や行事にもキリスト教のカラーが強く反映しているという。
一方、彼らの通う国津石神井高校は神道系ではあるが、学校のカラーに宗教色はあまりない。
ケートはすこし意地悪な笑みを浮かべ、
「で、正味なにがあったのよ、お嬢」
「べつに、あなたには関係ないでしょう。あなたこそ、広尾の幼稚舎が敷いてくれた絨毯から、なぜ降りてしまわれたの?」
ヒナノの冷たい表情から返されるリターンエースは力強い。
ケートもケートで、おかしな進路をたどっている。
親がほとんど海外で暮らしているため、三者面談にも来ない。好きにしていい、という許可は得ているが、それにしても放任主義がすぎるといえないこともない。
中学までは広尾の豪邸で暮らしていたが、なにを思ったか、いまは千歳烏山のタワーマンションで一人暮らしをしている。
そんな自分語りをするつもりはないとばかり、無理やり話題をもどすケート。
「リムジンで送迎が日常のはずなのにな、お嬢は」
「あなたこそ、ヘリ通学が基本でしょう」
「アメリカ時代の一時期だ。ボクは電車が好きなんだよ」
「あら偶然。わたくしも意外に鉄子でしてね」
お金持ちトークがなにやらぴりぴりしはじめたのを感じて、最高の緩衝材である一般ピープルが俗な話題に引きもどす。
「んもう、お堅いお堅い! いいのよ恥ずかしがらなくて、ふたりが仲良しなの、よーく知ってるからさ! 遠慮しないで、イチャコラしてよ」
「毎日訂正するのも飽きましたわ」
「くだらん色恋の話がしたければ、つぎの駅で彼氏が乗ってくるまで待ってろってばよ」
「えー、やだなーケーたん、私、べつに付き合ってるとか、ないしぃ」
てれてれと笑いながら、本心のわからない表情でくるりとまわるサアヤ。
「つぎは西荻窪、にしおぎくぼ。JR中央線はお乗り換えです」
すべての駅で乗り換えが発生するという、特殊な実質国営ごり押し民間セクター、首都直下鉄道株式会社。
通称チューブ。
東京23区をぐるりとめぐる環状線で、営業距離約90キロ、乗り換え停車駅31で、1年半ほどまえに全線開通をはたした。
高校に進学したての彼らにとっては、まさに渡りに船。
ここに至り、満を持して登場する主人公、という雰囲気をもたないのが、一般ピープルの一般ピープルたるゆえんである。
「まーるいブルーの川の手線、まんなかとーるは中央線♪」
いつものドアから、頭のわるそうな歌声とともにはいってくる少年、チューヤ。
「杉並、西荻、地下の鉄、通うは国石高校!」
呼応してリズムをとるサアヤ。
タッタターン、タッタターン、タッタタタタタン。
にこやかに足踏みする「ふつうの」高校生男女。
ケートは首を振り、ため息交じりに、
「バカな夫婦だな」
「もう、チューヤのチューブに、ちょっと乗ってやっただけじゃん」
ぷーっと頬を膨らますサアヤ。
その横に、まるで永遠のように寄り添って立つ男に、主人公のオーラは微塵もない。
一般ピープルをカタチにしたら、彼のような鋳型ができあがる。黒髪、真ん中分け、ブラウンの瞳、平板な顔、中肉中背、凡庸な着こなし、特徴のない動き、イズ・ザ・パンピー。唯一特記すべき「根性」は表にあらわれないし、そもそも彼が自分の趣味に偏執的な集中力を示したところで、だれの利益にもならない……はずだ。
「リパブリック讃歌ですね」
ヒナノが静かに言った。
ようやく挨拶することを思い出したチューヤは、
「おはよう、お嬢。きのう、新宿で買い物してきてさ。え、なに?」
「Battle Hymn of the Republic、ではなくて?」
「ええと……西口?」
嚙み合わないチューヤとヒナノ。
再び呆れたように肩をすくめ、しかたなく答え合わせをしてやるケート。
「19世紀アメリカの歌曲が原曲なんだよ、その替え歌CMソングは」
「そ、そうなんだ。ふーん、なるほどね。し、知ってたよ。さすが海外出身者、よく気づいたね!」
ごまかすように笑うチューヤと、いぶかしげな表情のヒナノとのあいだに横たわる懸崖、格差は大きい。
「つぎは上石神井、かみしゃくじい。西武新宿線はお乗り換えです」
電車が止まり、再び発車する。
この駅で乗ってくる同級生は、いない。
目的地まで1駅では、自転車で行ったほうが早いからだ。
中央線での乗り換えが多く、一時的に周囲の人数は減っていたが、西武沿線にはいって再び増えはじめた。
目的駅まで残り2分のあいだに、決めておかなければならないことがある。
「さて。で、きょうはなによ、チューヤ?」
「それな。タララタッタラー、ベーコンー」
言いながら、カバンから取り出したビニール袋を、ケートの手にあるトートバッグに詰め込もうとするチューヤ。
ケートはそれを制して、ヒナノのほうをふりかえる。
「ちょっと待て。……つぶれるもんじゃないよな、お嬢」
「だいじょうぶですわ。きょうはお野菜にしました。純紫アスパラガスというものが手にはいったので」
ヒナノとチューヤの持ち込んだ食材で、期せずしてメニューができあがる。
「アスパラいいねー。ケーたんは?」
楽しそうに話題を振るサアヤ。
「決まってる。高級しらたきだ」
「またしらたきかよ。ケートほんと好きだな、しらたき」
トートバッグごとわたされ、そこに食材を詰め込むチューヤ。
「うるさい。味を吸って美味いだろうが。サアヤはなによ?」
「私ねえ、パパが出張で買ってきたおぼろ豆腐! きょうは伝統的な鍋いけるね!」
「そういうことは早く言え、バカ」
チューヤは慌てて、バッグのなかの豆腐がつぶれていないことを確認する。
「豆腐か、いいな」
「ま、わるくはないですわ」
「この感じ、なんとなく見えてきたねえ」
各者各様の思惑を脳裏に描く高校生たちの表情は、一様に明るい。
こうして持ち寄られた食材が、ヒナノの用意したトートバッグに集まるのは、週3回のお約束。
ほどなく大きく膨らんだバッグを中心に、4人の視線が交錯する。
「さて、それじゃ決めますか」
「じゃーん、けーん」
いつもの朝の光景。
彼らの日常は、まだそこにある──。
「つぎは石神井公園、しゃくじいこうえん。西武池袋線はお乗り換えです」




