90 : Day -35 : Shakujii-Kōen
部室。
料理をするリョージ、壁際にとぐろを巻いて寝ているマフユ。
サアヤは宿題をやっていて、その向かいではケートがへたくそな字で、わら半紙に何事かを書いている。
それをじっとのぞき込んでいるのが、彼に仕事を依頼したチューヤだ。
「なんでボクが、こんなものを解かにゃならんのだ?」
あいかわらず変な姿勢で、左手で巻き込むように下手な字を書く。
わら半紙という問題用紙がめずらしくて、そのざらざらした質感をしばらく楽しんだ。
かつては上質紙と呼ばれた白く滑らかなコピー用紙のほうが、現在は安くなってしまったため、わら半紙が教育現場で使われることはついぞなくなった。
しかし、この独特な手触りの灰色の紙を愛する層は存在し、現在も、用途をかぎって細々とつくられ、使われつづけている。
「へー。やっぱり、見る人が見るとわかるんだな。いやー、オカルト部のブブ子部長には、世話になってるようななってないような気がするからさー」
一応、いまのところ彼女を敵にまわさないほうがいい、という直感に従っている。
事実、相手もチューヤに対して友好的にふるまっている。
この関係が永続性を保つと考えるのは早計だが、当面ゆるい連帯はあっていいはずだ。
「なんだよ、まだあんなヤベーやつと付き合ってんのかよ、おまえ」
寝ていたマフユが、片目を開ける。
「おまえに言われたくないんですけど! ……で、なんの魔法陣なの? これ」
ケートという飛び抜けた天才の「知恵」は、あらゆる魔術回路を設計できる。
みずから引いた図面をわたしながら、ケートはあきれたように、
「知らんで仕事をさせるなよ。……その記号は、拡張虚数。オカルトの世界では冥途定数とも呼んだりするらしいが」
イマジナリー数である「i」に、「e」を乗せたような図形。
イマジネーション・インフェルノ。
この数式を描ける人間は、まだ世界にそれほどいない。
「いつものことだけどさ、俺にもわかるように説明してくれると助かるんだけど」
「あらゆる数学より難易度の高いミッションだぞ、それは。まあ……ともかく、なんか地面に生きたものを埋めたんだろ? で、そいつが死なないように、生体エネルギーがすくないロスで循環するような永久機関っぽい回路だな。ただし元気に生きられない程度には、ギリギリの量で」
「……もういいです。それ以上聞きたくありません」
ブブ子がこの回路をどういう目的で使うのかは、詮索しないことにした。
オカルト部に届けてくるよ、と言って部室を出て行くチューヤの代わりに、最後にやってきたヒナノ。
一瞬、サアヤと視線が絡む。
今朝の出会いを、ここで早速、話題にすべきかどうか。
「よーし、できたぞー。きょうは、あっさりめでお願いしたい」
「わーい。きょうは水炊きだねー」
基本中の基本、鍋はここにもどってくる。
まるで物語が折り返したことを意味するかのような、原点回帰。
水炊き!
「なんだよ、パンチねーなー」
がっつり肉が食いたい、ガテン系男子のような食欲のマフユとしては、やや不満だ。
一方、ダイエットにも最適のあっさり鶏肉とお豆腐の水炊きは、それ以外の女子には評判がいい。
「わたくしの鶏肉、ご利用いただけたのね」
「高級すぎて使いづらいんだけど、まあ、勘弁してくれ」
鍋を煮立たせている間に、チューヤももどってきた。
チッと舌打ちするマフユ。
チューヤの被害妄想は敏感だ。
「なにそれ、もしかして俺がもどってきたことに対する舌打ち!?」
「うるせえな。おまえが鍋を食わないなら取り消してやる」
「なんでだよ!? 食うよ! 俺の鍋!」
6人がいつもの自分の席に陣取る。
鶏がいい具合に煮えたタイミングで、野菜と豆腐を投入する。
軽く煮込んで、ポン酢でいただく。
「もぐもぐ……そーいやキミら、きのうはプロレスして遊んでたらしいじゃん」
「なんで知ってんの、ケーたん」
同じタイミングで咀嚼しながら問い返すサアヤ。
「遊んでたとは失敬だな。生きるとは戦うことだぞ」
「生きる! いい言葉だな。ところでチューヤ、王子の問題は解決したのか」
リョージの問いに、チューヤはうなずいて、
「ああ、一応、関係者の探偵さんとはコンタクトとったよ」
「そいつ、狙われてんぞ」
目線を鍋に固定したまま、めずらしくマフユが言葉を発した。
「は? なにそれ、なんで知ってんの、マフユ」
「身内のゴタゴタの話は、勝手に耳にはいってくんだよ」
それ以上、説明する気はないらしく、その巨大な口はかたくなに放り込まれたエサを喰う。
「身内っちゃ、お嬢はどうなってんの、ガブんちょの問題とか」
「そーいえば先週、リョーちんとおデートだったよねー」
ヒナノは静かに鶏肉を食みながら、
「……代々木上原ですね。今週中には片づけるつもりです。そんなことより、いまは別の問題があります」
首元のルビーの指輪をいじると、かーばーん、とかわいらしいモンスターが出現する。
「まだ飼ってたのか、そいつ」
「祖母の大切な形見なので」
「ケーたんだって、頭にウニ乗っけてんじゃん」
「ハルキゲニアだ、失敬なやつめ」
「頭にイヌころ乗っけてるやつにだけは言われたくないよな」
「バウギャハウガガウバウン」
サアヤの頭上、ガーディアンのケルベロスが吠える。
「ちゃんぴょんベルト巻いてるやつにもね! って言ってるよ」
「高校生にもなって、ちゃんぴょんかよ」
「だってチューヤ、アホだもん。アホのちゃんぴょんだよ」
「そうか、じゃあアホのちゃんぴょんベルト、見せてもらわないとな」
「アホのちゃんぴょんベルト、見せろよォ」
「ないわ! これ腰痛ベルトだから! アホちゃう!」
マフユも加わり、どこぞの新喜劇のようなやり取り。
ほほえましく見守るリョージ。
「……おまえら、息ぴったりだな」
「お嬢のせいだぞ」
「あなた方には、あまりかかわりたくありません。こちらを見ないでいただける? これでも、わたくし忙しい身なので」
「みんな忙しいよー」
「だいたいお嬢、ガブんちょ以外に、まだ厄介な問題、抱えてんのかよ。ゴタゴタが多すぎるぞ、神学機構は」
「いえ、神学機構とは関係ありません。よろしければ」
ちらり、と視線を走らせるのはリョージのほうだが、リョージの視線はチューヤに向かっている。
ヒナノは一瞬、いやそうにチューヤを一瞥してから、言を継ぐのを諦めた。
「どんまい、チューヤ」
により、と笑うサアヤ。
「はあ? なんのことっスかね、サアヤさん」
憮然として野菜を食うチューヤ。
「ケートは問題ないのか?」
リョージの振りに、
「問題だらけだ。また貸してくれよ、チューヤ」
ケートが視線を転じる。
「ご用命ですよ、サアヤさん」
「おい、だから勝手にあたしのサアヤをレンタルすんじゃねーって言ってるだろ」
「貴様が口を出すな、蛇。それに今回はチューヤ、キミを借りたい」
そこで一瞬、座が静まった。
新しい流れができようとしている。
「チューヤの力なら、オレたちも借りたいよな、お嬢」
「……まあ、あなたがそう言うなら」
「だが断る、あたしの用が終わってからにしろ」
リョージ、ヒナノ、マフユまで参加して、いつのまにか話題は「チューヤの用途」になっていた。
慣れない状況に、ぽかんと口を開けるチューヤ。
「はあ? なに言ってんの、きみたち」
「ふーん。めずらしく人気者だね、チューヤのくせに」
サアヤが冷たい目線で、稀有な流れを見守っている。
「しかたない。ジャンケンで決めよう」
「べつにいいだろ、全員に付き合えよ。一週間は7日あんだし」
「それもそうだな。じゃ明日はボクな」
それほど熱心に奪い合うつもりもないようだ。
このあたりの展開、チューヤには分相応といえる。
「んじゃオレたちは水曜にすっか、お嬢」
「あなたがそれでよいなら」
リョージとヒナノの合意形成を、絡むのも面倒げにマフユが引き受ける。
「ま、あたしは何曜でもいいけどよ、結果さえ出してくれりゃな」
「しょーがないな。じゃあ順番ね」
サアヤがまとめて、ひとまずチューヤ活用計画が成立した。
そこに本人の意思はない。
「ちょっと勝手に決めないで! だいたい、どういう話なのよ、それぞれ!」
「私は話したよね。ナミおばさんの問題、どうにかしなきゃ」
「ああ、それは聞いたけど……俺がホストクラブ行くとか変でしょ?」
ぴくり、と肩眉をあげるケート。なかなか聞き捨てならない単語だ。
「ホストクラブ? なんの話だよ」
「そういや今朝、お嬢がホストに送られてきたって、噂んなってたな。どういうことよ?」
ヒナノは一瞬、首をかしげてから、すぐに落ち着き払って説明した。
「ホスト? ああ、彼は神学機構の方ですよ。カテドラルで偶然、会ったのです」
「だってさ。だから見まちがいだって言ったろ、サアヤ」
「安心こくな! チューヤのくせに」
ヒナノはしばらく考えてから、事実を告げておいたほうがいいと判断した。
「神学機構に所属するといっても、仕事は別にあるはずですが、詳しいことは存じません。ちなみにガブリエルは翻訳家ですし、弟の保護者的な役割を担ってくださっているミカエル氏は、国連職員ですよ」
「……じゃ、そのなんとか機構のひとが、ホストクラブに勤務しててもおかしくないね」
ヒナノはしばらくその職業について己が倫理観にかけていたが、必要以上に踏み込むことを避けて断じた。
「たとえ、どのような職業であろうとも、そこには目的があります。神学機構の重要な存在理由にかかわる、ね」
「各界の職業人、有力者を集めて、あらゆる方向から世界を取り仕切る、と。神学機構らしいやり口だな」
「ホスト調査も必要みたいね……」
チューヤは脳内のスケジュール帳を整理する。
さしあたり月曜、これからサアヤに付き合ってホストクラブ。
明日はケートに付き合って、どこに連れていかれるか知らないが、なんかあるらしい。
水曜はリョージとヒナノ。鍋食ってから出かけるのかな?
木曜はマフユか。そーいや先週、中野でヤバそうなやつ見かけたっけ、もしかしてアレかな……。
金曜以降は自由時間、でいいのかな!?
適当すぎる計画表だったが、チューヤごときには分相応だ。
「で、どうなってんだ?」
ケートの問いが鍋のうえを漂っていく。
「どうって、なにが?」
鍋をつつきながら、高校生たちは高校生らしからぬ会話をつづける。
「脳みそ湯豆腐にして食った事件だよ」
「ちょっとケーたん! お食事中ですよ!」
「あーね。特捜が立ち上がったと思うよ、桜田門のお膝元だし」
警視庁管内に設置された特別捜査本部。
マスコミが「発生特捜」と呼ぶ事件だ。
「ネタ流してくれってよ」
「あのときのケートの知り合いの記者さん? うーん、言ってもただの息子だし」
「断絶の危機を迎えてる親子だよね」
「ほっといてください」
「いまごろ捜査会議の真っ最中かな、お父さん」
鑑識からの結果報告をもとに、捜査方針や分担などが決められる。本庁の刑事と所轄の刑事が二人一組でコンビを組み、担当する捜査を受け持つ。
地取り、鑑取り、証拠品分析、電話解析、ビデオ解析などが主となる。
「靴をすり減らしてナンボの仕事だと思うよ、下っ端だからな、オヤジ」
そのとき、めずらしくマフユが口を開いた。
自分のまえに食えるエサがなくなったことが、おもな理由だが。
「いや、おまえのオヤジは、けっこうな大物だぜ」
「……なに言ってんだよ、マフユ。おまえ、俺のオヤジ知ってたか?」
「知るわけねーだろ」
「じゃなんで」
「ロキ兄がさ、おまえのオヤジがどうこうって、けっこう重視してるみたいな話してた。いまも、たぶん会いに行ってんじゃねーかな。そんなこと言ってたぜ」
「……どういうことだよ」
ほんの一瞬だけ、不安げに視線を揺らすチューヤ。
物語は錯綜している。




