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タニオたちは、裏プロレス界で這い上がろうとしていた。
「こんなところでもたもたしてる場合じゃねえぞ、ダッド。さっさと勝ってランキング入りするんだ」
「そうすりゃ、うまくいくんだな」
「そうさ、勝ちゃあうまくいく、なにもかもな」
いやらしく笑うオニ。
それがダッドの記憶にある、最後のタニオの姿だ。
その後、記憶がかなりあいまいになっている。
ともかくタニオと組んで戦うのだ、という条件付けにしたがって戦った。
プロレスラーとしての本能的な動き。
リョージとも華麗にわたりあった。
しかしタニオがやられた瞬間、洗脳の魔術回路がほどけた。
そのまま放置しても、時間をかければ洗脳は解けたかもしれないが、ただちにリョージが「白いヨシツネ」をぶちこむことにより、闇堕ちダッドはニュートラルをとりもどした。
邪教の依頼、人気プロレスラーであるダッドの救出、奪還、コンプリートだ。
「家に帰るまでが冒険だからね!」
遠足気分で忠言するサアヤの言葉どおり、境界から抜け出すというのはいつもは一苦労なのだが、今回は共有境界なので「自分の意思で」出られる。
チューヤのナノマシンも、東京共同溝につづいて新たなプラグインが追加され、行ける場所が着実に増えている実感だ。
悪魔全書が埋まると同様、マップが埋まるというのは、この手のシリーズにおいて非常な達成感の源である。
「ミナモトといえばヨシツネだよね。……で、どういうことになってんスかね?」
あいまいなチューヤの問いに重ねて、リョージがまだフラついているダッドの肩を押さえながら言った。
「なんにもおぼえてないんスか、ダッドさん」
しばし考え込み、頭を振るダッド。
揺らいだ空間から境界の気配が遠のくと同時に、脳にかかった靄が取り払われていっているように見える。
ふと見まわせば、ここは大田区総合体育館地下の一室らしい。
ドアを開け、外に出れば、あるべき世界線にもどれるという安心感。
そのまえに、いくつかの謎解きはしておかなければならない。
ダッドは問わず語りに言った。
「いや、忌まわしい言葉だけが、頭んなかをグルグルまわってたよ。ぶっ殺してやる、ひとの嫁孕ませて、てめえの子育てさせて、平気なツラしてるクソ野郎、ぶっ殺してやる、そうだろダッド、そうだろダッド」
タニオの声と自分の声が混ざって、思考回路を麻痺させていた。
その意識に、妻自身に対する憎悪は、あまりなかったらしい。
情報を整理すれば、こういうことだ。
ダッドの妻が最近、男の子を出産した。その父親は、ダッドではない。そういう「毒の言葉」が、オセローを狂わすイアーゴーよろしく、タニオというオニから注がれた。
ダッドの嫉妬が向かうのは、妻を孕ませた、どこかのだれか。
けっして、妻ではない。
そこに希望を感じるサアヤ。
「奥さんのことは、愛してるんだね」
「しづかは貞淑な妻だぞ」
それはヨシツネの話だ。
「一時、離れてみるのがいいかもねむ」
全人類を癒すシェルター、サアヤの言葉に、疲れたような表情で首を振るダッド。
妻のことは愛している、たしかに。
だが、彼女が浮気をしたなどとは、まだ信じられない。
あまり鬱になられても困るので、チューヤがなんとなく話題を変える。
「ところでさ、リョージとダッド選手は、どういう知り合いなのよ?」
ご家庭の立ち入った事情までかかわるのは、いかな「お助けマン」リョージといえども唐突感はある。
「いや、ダッド選手の嫁の実家がさ、工務店やってんのよ。で、うちのオヤジもよく世話になってっから」
「オトナな話だな」
「けっこういい家をつくるぞ。チューヤたちも家を建てるときはここに相談してくれ。はい、パンフレット」
懐から、工務店の「家をつくるなら」的キャッチコピーのチラシ。
懐かしげに苦笑するダッドの表情からは、ややこわばりが抜ける。
「商売上手だね!」
受け取ろうとするチューヤの横から、サアヤがひったくる。
当然、お財布を握るのは女子の役目だと自任している。
「やだなー、リョーちん。チューヤにそんな甲斐性ないよぉ」
「失敬だな! まあ否定はせん。そのときは、サアヤの実家を接収するとしよう」
「マスオさん!? それもいいけど、一国一城の計画くらい建てる気概はないの」
お財布は握りたいが、責任を押しつけられるのも困る。
すなおなサアヤは、チューヤの眼前に現実を突きつける。
ため息まじりにパンフレットに目を落とし、やや考えながらそれを読む。
「はいはい。イエズス……務店?」
「やっぱそう見えるよな。そのデザイン由来で、神の親ダッドって名前にしたらしい」
四角い社名ロゴを指さし、リョージが言った。
正しくは、スズイ工務店。しかし文字をデザイン的に配置した結果、イエズス務店のように読むこともできる。
「家をつくる~なら~、イエズス工務~店~♪」
「変な歌を歌うな」
「まあ、嫁のほうの実家なんだよな、スズイは。だから、うちにはいない」
どうやらダッドの嫁は、現在、実家に帰らせていただいているらしい。
事実、マスオさんの立場はダッドのほうで、元スッチーの妻に惚れ込んで、なんとか結婚を許してもらった。
Go! Go! マスオ! なダッドが、現状、小さなアパートに取り残されているという体だ。
じゅうぶんな距離は置けている。よくある夫婦の危機は、サアヤさんも食わない。
なにより問題は……。
「で、その赤ちゃんは?」
「行方不明」
ようやく、最重要な問題点に逢着した。
チューヤとサアヤは、同時にその場で跳びあがる。
「それよ! 事件じゃん! タニオさんがさらったの? 超絶問題すぎるんだけど!」
「もちろんそうなんだが、状況がよくわからない」
「誘拐されたときの状況、ってことか」
視線を受け、ダッドは静かに首を振りながら、
「そもそも誘拐なのかどうかさえ……。ある日、家に子どもがいなくなった。嫁は、いなくなったと言うだけで、それ以上のことを言わない」
「……あきらかにワケアリだね」
「奥さんはもちろんだけど、あなたが本当のことを言っているともかぎりませんよね」
刑事の息子らしく、チューヤが冷静に指摘した。
いよいよ問題の核心に切り込んでいる。
サアヤは不安げに視線を揺らしながら、
「ちょっとチューヤ」
「言いたくないけど、あのオニの理屈も筋は通っているよ。妻の不貞を責めた夫によって、赤ん坊は殺害された。もしかしたら事故なのかもしれないが、すくなくとも重大な過失があって、証拠隠滅のために死体は遺棄された。負い目のある妻は訴えることができず、結局、夫婦で共謀して事件の隠蔽を図っている」
推理小説の読みすぎ、とも思えるが、現実に捜査を担当している身内がいると、そういう事件は……まれによくある。
父親も言っていた。
被害者(依頼人)が、つねに正義だなどと信じないほうがいい。
「うわー、火サスだー、いやな話だー」
「だが状況を考えれば、警察も、そういう線で動く可能性は高い」
リョージもすなおに認めた。だからこそ、という予断があらかじめ共有されているということでもある。
ダッドは黙って下を向く。
「なるほど、だからリョーちんにお呼びがかかった、ってわけだね」
「ところがオレは探偵じゃない。だからチューヤの出番、ってわけだ」
「俺だって探偵じゃないけど、すぐ探偵に訊いてみるよ」
ダッドは目線を下げたまま、静かに言った。
「探偵……か。嫁の浮気相手を調べさせるつもりなら、無駄だよ。どんな探偵に調べさせても、わからなかった。あるところからさき、なんかの力が働いてるみたいに、まったく調査が進まなくなるんだとよ」
「……どこぞの大物ってことかね」
「うわー、社会の裏側だー、陰謀論だー」
どうやらリョージのもってきたシナリオも、だいぶ社会の闇に切り込んでいるようだった。
あかるい少年漫画の主人公キャラだからといって、つねに友情、努力、勝利というわけにはいかないのだ。
新たな端緒を得て、ひとまずプロレスの宵は明ける──。
帰路、川の手線に揺られながら、チューヤとサアヤは並んで立っている。
長いようで短い日曜日だった。
「男女の話はむずかしいね」
できれば簡単な関係を望んでいるチューヤが言った。
ドロドロしためんどくさい話も、それはそれで大好物(他人事)なサアヤは、くるくるとアホ毛をぶんまわしながら、
「だからおもしろいんでしょ、男女の話は。言ってもお互いオトナなんだから、それぞれが自由にやったらいいと思うよ、自己責任で。……けどさ、子どもは別だよね。赤ちゃんとか巻き込んだら、ぜったいダメだと思うよ」
それはそうだ、とチューヤも認めた。
なんらかの事件が起こり、それは男がわるいかもしれないし、女がわるいかもしれない。
だがすくなくとも、赤ん坊がわるい、という可能性はない。
「見つけなきゃな。行方不明の赤ん坊」
「神の子、だもんね」
何気ないサアヤの言葉に、なぜかチューヤは、ぞくりとふるえた。
なんだろう、この……違和感は。
考えれば考えるほど、ぞわぞわとまとわりつく不安をぬぐえない。
罪の蛇に絡みつかれ、締めあげられているかのような……。
「そーいやさ、ナミおばさん、退院したんだって?」
半ば以上、現実逃避の目的でチューヤが話題を変えた。
新しい問題を解決するのも大事だが、昔の問題を再整理することも重要だ。
ナミおばさんは、サアヤの叔母であり、かつてのサアヤ宅に現在暮らす独身女だ。
父親以上に帰ってはこないが、なにしろ隣家の住人でもあるので、風の噂ははいってきやすい。
光が丘の研究所で、地下の「アマテラス」といざこざがあったのは、もう何年もまえのことのように思われる……。
たしか重傷で、しばらく入院していたはずだが、退院してからはどうなのだろう。
「うん、なんかね、最近、働きすぎだからって、まとめて有給もらってた」
「そりゃそうだ。会社に住んでたからな、あのひとは。ゆっくり休むのはいいことだ」
「うーん。いいのか、わるいのか……」
地下鉄の揺れに身を任せ、首をかしげるとアホ毛も揺れる。
「どういうことよ」
「休みのはずなのに、家にいないでしょ」
「……そういえば、気配ないな。いつものことだから気にもしなかったが」
「青山のほうに、入り浸ってるみたいなんだよね」
「青山? 実家でもあるのか?」
「ううん、ホストさんの家がある」
「ほ、ホスト?」
ぴょん、と跳ねるチューヤ。川の手線の揺れのせいばかりではない。
男女のヤバそうな話は、どうやら世間にゴロゴロと転がっているようだ。
「なんかね、六本木のホストに入れ込んで、彼のうちに住んでるらしいよ。ま、家賃はおばさんが払ってるみたいだけど」
「な、なんだその画期的な展開は」
「おばさんも、彼氏が死んでだいぶ経つし、新しい彼氏つくるのはいいことなんだろうってお母さんも言ってた。私も、頭ではわかってるんだけど」
「ホストは……どうだろうな……」
「わるいひとじゃなさそうだったよ」
危うく流しそうになったサアヤの言葉を、チューヤはあわてて拾い上げた。
「な、なんで知ってるんだ?」
「先週、初バイトのご褒美にって、連れてってもらったんだ。お母さんもいっしょに、六本木のお店」
「…………」
お母さんといっしょに、ホストクラブ……。
社会の闇……。
頭痛が痛い、と眉根を寄せるチューヤをしり目に、サアヤの報告は明るい。
「ピンドン入れたら、めっちゃ盛り上がってた。お姫さま扱いも、なかなかイイネ」
「サアヤ不潔! 病気がうつる!」
「うつってしまえ! まあ、とにかく、しばらくは六本木から、本郷のほうの本社に事務仕事で通うって言ってた」
「そっか、そういや光が丘は研究所で、本社は母校(東大)の近くとか言ってたな。六本木から本郷なら、南北線で10分だしな」
「ホストさんが、へらーりで送っていくから、電車なんか乗らないと思うけどね」
「へらーりとか、東京の交通事情に向きませんけどね! ……じゃ研究職からは解放か?」
「当面ね。まあ、本社は本社でいろいろあるらしいよ」
「……かかわりたくないな」
「かかわるよ、たぶんチューヤは。だって谷根千だもん」
「ぬこ万歳! って、どういうこと!?」
どうやら水面下で着実に蠢いている闇に対しても、覚悟を決めておく必要があった。




