27 : Day -60 : Hasune
大深度を走る川の手線は、北西の新赤塚で管区が切り替わり、右回り西線から北線へと移行する。
4.5キロメートルという、都会の地下鉄としては非常に長い駅間距離を経て、北線をしばらく進んだ先は、都営三田線と交差する乗換駅・志村坂上。
大深度から、低深度の都営地下鉄に乗り換えた先、狭軌に変わった線路はすぐに地上へ出、さらなる高架へ。
駅2つ、たどり着いたのは蓮根駅。
「ふかーいところから、たかーいところまできたねー」
うーん、と伸びをしながらさわやかに言い放つサアヤ。
「自分がどこにいるのか、わかってる?」
「……東京!」
「正解」
チューヤはため息交じりに、島式ホーム1面2線の蓮根駅をぐるりと見わたす。
地下鉄に乗っていたのに高架駅から出てくる、というパターンは都内ではべつにめずらしいものではない。
改札を抜けながら、マフユはゆっくりと自分の出てきた駅を顧みて、
「レンコン駅か。うまそうな名前をつけやがって」
皮肉に笑うチューヤ。
「おまえ、漢字読めたんだな」
「あたりまえだ」
胸を張るマフユ。
サアヤも、これは乗っからないわけにはいかないとばかり、
「すっごーい。さすがフユっち!」
「だろ? あたしに惚れてもいいんだぜサアヤ」
きゃいきゃい言い合う女たちに、ややげんなりしつつ、
「そもそも蓮根駅に行けって言ったの、おまえだろうが」
「ここに病院を建てたのはあたしじゃない」
「病院? なんかの性病か?」
「殴られたいのか」
「殴ってから言うな……」
その場にうずくまるチューヤ。
サアヤはにこにこ顔を崩さない。
「いやー、優しさに溢れた殴り方だったよ。ケーたんの半分くらいだったし」
「サアヤに免じて遠慮したんだよ」
チューヤは恨めし気に顔を上げ、
「おまえにもそういう良識(?)あるんだな。で、そこに入院してるんだな。先生が」
「ああ」
見上げれば、なにかありそうな空気が、視線の先からたしかに漂ってきている。
駅からしばらく歩くと、その産婦人科病院はすぐに見つかった。
「面会時間はとっくに終了だと思うが」
「そもそも、どの時間にきても面会させてもらえないんだよ」
この病院は、なにかがおかしい。
マフユがそう言うくらいだから、たしかにおかしな気配が感じられる。感じられはするが、周囲に瘴気をまき散らしているような伏魔殿という様子でもない。
うっすらとした、怪異の予感。入り口としては自然な導線にも見える。
じっと口を閉ざして、内部に飲み込んだ獲物を消化しようとしているヘビのような気配は、マフユにその責任の一端があることを示唆する。
「蓮根の病院は、とくに女子的にはいいと思うけどな。配置されてるのが女神エイルだし」
チューヤのゲーム脳から、悪魔のデータが開陳される。
エイルは、古ノルド語で「援助」や「慈悲」という意味のある、北欧神話に登場するアース神族の女神。
古エッダでは「最良の医者」とされている。
ワルキューレのひとりでもあり、死者を蘇らせる能力と結びつけられている。
彼女はすべての治療に精通しているが、とくに薬草に詳しく、死者を復活させることもできたという。
「ゲーム脳、自重ー」
サアヤに言われるまでもなく、いままでも、これからも、ゲームのように片づく案件だとは思っていない。
「いやな予感だけが、めいっぱいするわけだが」
「こんなところでモタモタしてても話は進まん。行くぞ」
そうして院内に足を踏み入れた瞬間、遠くから響いてくる救急車のサイレン。
「救急病院なのか、ここ」
「知らん。けど、特別な病院ではある。特別な患者を収容する……」
「そうなのか。てか、なんで知ってんの、特別とか」
ふりかえったチューヤの視線の先、なぜかマフユの表情が人形のように見えた。
「……やったねフユちゃん、家族が増えるね」
宣うマフユの表情は、なぜかひどく不快で戦慄的。
彼女のトラウマを巻き込みながら、世界が二重になる。
まるで、彼らを待ち受けていたかのように。
病院は、異常な静けさのなかにあった。
患者はもちろん、警備員、受け付け、看護婦の姿もない。
「どうなってんだ、これ」
世界が境界化したことは理解している。だが、
「おかしいね。いままでのパターンだと、人間を食べるために、あちら側から悪魔がやってきて、あたりは大変なことになっているのに」
石神井公園も善福寺公園も、とにかく周囲には人間と悪魔の群れがいた。
だが、きょうはだれもいない。
こんな侵食があるのか?
「怪我をしても、医療器具はたくさんあるから安心だね」
「器具を使う人はいないわけだが」
「包帯ぐるぐる巻きにしてあげるよ」
「遊んでる場合じゃないぞ、おまえら。どうやら、だれもいないわけでもなさそうだ」
廊下の向こうからやってくる悪魔たち。
いままでに比べて控えめな数ではあるが、敵がいないというわけではないようだ。
戦闘、開始。
一階をひととおりまわったが、めぼしい情報は得られなかった。
五階建ての病院。
エレベーターは動いていない。
階段を上がってつぎのステージへと進むまえに、ひとまずロビーで休憩をとりつつ、作戦を練ることになった。
「目的は、先生に会うことだったよな」
チューヤの問いにマフユはうなずき、
「そうだが、先週、ここに入院するってメールがあって以来、連絡が取れない。病室がどこかもわからない」
「先週の金曜か。それで用があるとか」
サアヤがすこし頬を膨らませて、
「顧問なんだから、私たちも誘ってくれればよかったのに」
「そうしようとも思ったが、今回の妊娠にはいろいろ事情もあったからな」
精子云々という話題の顛末は、まだ詳しく聞いていない。
「ふーん。とにかく、何号室にいるかわからないんだよね。カルテを調べてみるよ」
無人の受付のカウンターを乗り越え、調査を開始するサアヤ。
チューヤたちもあとにつづく。
「産婦人科か。男には縁のない場所だよな」
ぶつぶつ言いながら、キャビネットに並んだ名札を眺めるチューヤ。
「生まれたときは、だれでも世話になるんだろ?」
マフユがもっともなことを言う。
「どこの病院で生まれたとかも、そういや聞いたことないな」
「あたしは便所で産み落とされたらしいぜ。アルコール漬けの母親の胎内から、予定日の二か月もまえに、蛇みたいに、必死で這い出してきたんだとさ」
空恐ろしいことを、平然と言うマフユ。
生々しすぎてサアヤには語れないことも、チューヤに対して遠慮なくぶつけてくるのは、ある種の友情の証なのかもしれないと考えてみる。
「ま、それでも生きてるんだろ? うちは母親、いないからさ」
「そうか。あたしんちは、父親がいないよ」
彼女がチューヤを選んで会話することは珍しい。
「まあ片親なんて、世の中にはいっぱいいるさ」
「だな。いなくていいしな、あんなもの」
問わず語りに、自分のことを語りだすマフユ。
彼女をこんな気持ちにさせている理由は、チューヤにもわからない。
母親は夜の街で商売をしている、という。
いわゆる「スナックのママ」として、職業上、いまも昔もアルコール漬けは変わっていない。
本当に便所で産み落としたか真相まではわからないが、ろくな産まれ方でなかったことだけはまちがいない、と確信している。
物心ついたとき、父親はいなかった。塀の向こうにはいっているということだった。
あの子の父親は犯罪者、犯罪者の娘も犯罪者。
あの子と遊んじゃいけません。
そうして社会に傷つけられた。
彼女は早い段階で、自分がいつも傷だらけであることに、慣れた。
やがて別の父親が現れた。形式的には父親だったが、じっさいは破壊者だった。
彼女は攻撃を受けた。破壊され、傷ついた。心も体も。
あらゆる手段で傷つけられた。
虐待という便利な言葉がある。
その一言で片づけられることを、被害者がどう思うかはともかく。
傷だらけの身体を引きずって、それでも彼女は生きた。
何度か入れ替わった父親は、いつの間にかいなくなっていた。
最後の父親が「いなくなる」のを、彼女は目のまえで見たが、それについて語るつもりはない、という。
母親はいつものように場末のスナックで小銭を稼ぎ、底辺の生活を支えているし、ご近所も結局は似たような境遇で、弱い者たちがさらに弱い者をたたいていた時代は過ぎた。
いま、彼女の家は、弱い者たちのなかでは強いほう。
ただ簡単に壊れるものが、身近に少なくなっただけの話かもしれないが。
マフユは掃きだめに暮らし、汚泥のなか、汚水をすすって、茎のように生長した。
「あたしはずっとひどい目に遭ってきた。そんなあたしを助けてくれた人が、ふたりいた。ロキ兄と、成田センセだ。だからあたしは、ふたりの役に立ちたいと思った。おかしいか?」
語り終えたマフユの表情は、どこかすがすがしかった。
彼女がこんなに素直に自分を語るのは、珍しいことだった。
「いや、おかしくない。というか、マフユらしからぬまっとうさだ」
「余計なことを言うな」
ふと恥ずかし気な表情で、プイと横を向くマフユ。
「あったよー。先生の病室、505だってー」
サアヤが棚の間から、なにやら書類をひらひらさせながら現れた。
とにかく5階へ向かおう。
そこに、なにが待ち受けるのかはわからないが。