79 : Day -36 : Nakano
ホームの端のほうに向かうチューヤの背中を、やや離れて追いかけるサアヤ。
この男は、なぜ、わざわざ階段から遠いところに向かうのだろう。
決まっている。そこに先頭車両があるからだ。
ポンポンポンポポン♪
と、まえのほうから聞こえるリズミカルな音に、ため息を漏らすサアヤ。
「その、まもなく京都、って言いたくなる着信音やめて」
「新幹線あまり乗らないから新鮮なんだよね。ま、いいか。いつものATCのベルに変えるとしよう」
チン、チン、というシンプルな鈴の音。
「それさ、たまに聞くけど、なんなの? おばあちゃんは、最近は山手線までチンチン電車だねって言ってたよ」
一般に、チンチン電車は路面電車のことだ。
昔の路面電車は、チンチンと警笛を鳴らしていた、また車内合図がベルだった、など諸説ある。
現在は山手線でも、運転席の背後に立つと、チンチン、と音が聞こえる。
「非常に重要な音だぞ。ウテシに速度変更を伝えるATCからの合図で、俺くらいになると、目を閉じても信号の面影を見て取ることができる」
ATCの導入により、山手線にはもう信号機は存在しない。その情報は電気信号となって、運転室に直接届けられるからだ。
もちろんチューヤくらいになると、視覚や聴覚情報がなくても、加速や減速のタイミングと間隔だけで、いまどこを走っているか察することができる。
「そういう恥ずかしい話を、私以外にはするなよ」
「心得てござる……」
鉄ヲタは、秘めたる趣味でなければならない。
「で、チャットだれよ?」
「ああ、リョージから。いまから川の手線、乗るってさ。てことは、到着時間は……」
脳内で時差を計算をする。
チューヤくらいになると、振り替え輸送のシミュレーションまで自動的だ。
「どうでもいいけど、乗車中はおとなしくしてろよ、他のお客様のご迷惑になるからな」
鉄ヲタの保護者として、つねに手綱は引き締めておかなければならない。
「静かに乗ってるよ、いつもは、だいたい……」
だったら残念そうにする必要はないはずだが。
「静かじゃないときはどう……」
言いかけるサアヤに、多彩な動作姿勢で、かぶせるようにまくしたてるチューヤ。
「速度計指差喚呼、保線作業員に警笛、すれちがい車両に減光、速度遵守など、ウテシがやらなければならない仕事は、いくらでもあるのだ。もちろん上級者は構内未加速、ブレーキ込め直しなしだぞ」
運転士をうしろから見ていると、計器や外を指さしながら、制限45とか第3閉塞とか進行とか、口に出していわゆる「喚呼」している。
それを客室内でやろうというわけらしい。
注意しておいてよかった。
サアヤはげんなりして吐き捨てる。
「だれがウテシだ。たしかに訊こうとした私も悪かったが、まだ訊いてなかったぞ」
テツに詳しい説明など求めてはいけない。
チューヤを電車内で見つけたときは、他人のふりをする、というのがデフォルトだ。
「察したのだ。知りたそうな顔し」
「してねーよ! まあ暇だし、聞き流してやるから語るがよい」
と仲良く話しながら、つぎの列車を待つふたり。
もちろんサアヤはやさしいので、知ったばかりのことを得意げにお母さんに語って聞かせる小さい子どもと接するように、チューヤをあやしてあげる(こともある)。
こじらせた鉄ヲタは、その偏った趣味について話す機会がないことが多いので、たまにガス抜きをしてあげなければならない。
ちょっとしたことを訊いただけで、タイムラインが電車についてのリプライで埋まるのは、彼らにちゃんとストレス発散させていないからだ(と思われる)。
──すべりこんでくる中央線快速東京行き。
わくわくの表情で前方を指さすチューヤ。
文字通り東京の中央をまっすぐに貫通する中央線は、中野から西の線区は甲武鉄道をルーツとし、ひたすら直線がつづくことで知られる東京の主要幹線だ。
地下よりはましだが、それでもただ走っているだけの電車の景色に、なんの興味もないサアヤは、チューヤが変なことをやりだすまえに、会話で縛っておくことにした。
「そーいやチューヤ、まだ東京から出られないんだっけ?」
さらっとえぐる。
衝撃を受け、床に両手をつく乗り鉄。
「そ、それは言わない約束だぞ……くそ、なにが運命の女神だ、鬼女じゃないか……」
鬼女の呪いを受けたチューヤが「23区」の駅から出られない事実は、すでに証明されている。
「出ようとすると、どうなるんだっけ?」
「車内が境界化する。それで気づけば、反対方向の電車に乗っている」
「あははは! なんか間抜けだね」
「笑うな!」
「いいじゃん。ただでさえ少ないお小遣い、無駄に使わずに済んで」
「無駄とはなんですか無駄とは!」
運命の鬼女によれば、あと36日の辛抱だということだ。
「そーいや秋田のおじいちゃんちへ行くときも、あんまり新幹線とか乗らないよね、チューヤは。貧乏だから?」
「もったいないからだ! いやお金じゃなくて、お金もだけど、もったいないでしょ、せっかくゆっくり乗れるのに! 鈍行、各停、普通、緩行線、電車はまったり進むにかぎる。あああ、乗りたい、乗って、遠くへ行きたい!」
この男、もちろんネットで鉄オタ診断をしたときも、疑う余地のない「乗り鉄」と断定されている。
電車に乗ることが苦にならず、むしろ喜びを感じるタイプ、乗り鉄。
ここから、さまざまなクラスにジョブチェンジする可能性がある、すべての鉄オタの生みの親、彼こそは貯金残高=運賃、乗車券の料金は8960円、はぁ苦労、とおぼえている男。乗換回数11回、所要時間15時間34分、乗車時間11時間2分、中央線各停東京行西荻窪駅発、奥羽本線大舘行土崎駅着に愛された、そのジャスティスは「乗る」ことだ。
「で、どうしてそんなことになってんだっけ?」
「同位体の存在が、世界線を接着するとかなんとか言ってたな」
「個人的な恨みを買ってるとかじゃ」
ニヨニヨするサアヤ。
「なんでだよ! 楽しんでるだろ、おまえ!」
キッと睨むチューヤ。
「ニョホホ。たまには東京を楽しもうぞ」
東京駅で、京浜東北線・南行に乗り換える。
複数の路線をまたぐ京浜東北線は、「上り」「下り」がなく、大宮方面は「北行」、横浜方面は「南行」と呼ばれる。
田端から品川まで快速運転を行なっていて、東京のつぎの停車駅は浜松町となる。
「くそ、いつか有楽町の地下に置き去りにしてやるからな……」
通過する有楽町を眺めながらつぶやくチューヤ。
ほぼ一体となった、有楽町、日比谷、銀座という東京駅の南側エリアは、霞が関などとも隣接し、おそるべき巨大地下迷宮を形成している。
あの迷宮から彼女が自力で生還する確率は、かぎりなくゼロに近いだろう。
サアヤは笑ってマイクを手に取るしぐさをしつつ、低い歌声を発した。
「あなたとわたしの合言葉、有楽町で逢いましょう♪」
「……合言葉? 待ち合わせはいいけど、ひとりで行けんの?」
ここからは昭和芸能オタクによるサアヤのための歌娘タイムだ。
「ばかちん、フランク永井に謝れ!」
「どこの外タレだよ」
「純日本人だ!」
当時、ディック・ミネやフランキー堺など、外人のような名を名乗る日本人が多かったらしい。
なるほど昭和の話か、と察したチューヤは考えながら言った。
「戦後だよな。進駐軍に対して活動をするのに、おぼえてもらいやすいようにだろ」
「そういう由来の人もいるけど、ほとんどは日本人に対して芸能活動してるから!」
どう見ても日本人の顔で、どう聞いても日本語の歌を、どうあがいても日本人たちに向かって、どう読んでも外国人らしい名を名乗って歌っていた、倒錯した時代であった。
「戦争に負けるってひどいんだな」
「わるいことみたいに言うな! いまもそういう名前の人いるでしょ」
その手の芸名、通称、マイクネームは現在進行形で存在する。
採用理由は、昔とは大きく異なるだろうが。
「落語家の亭号やコンビ名はわかるよ。伝統とか、おぼえやすいってのは大事だからな。けど、ハーフでもないのにハーフみたいな名前を名乗るんだろ? 顔が外人ぽいからジョンと呼ばれるとか、外国文化を伝道するためにマイケルと名乗るとか、理由がはっきりしてればいいけど。唐突に外人みたいに名乗られてもな……コンプレックスじゃないのそれ」
「人間なんて、多かれ少なかれどこかにあるでしょ、コンプレックスくらい。それが人間の業というものよ」
サアヤは時折、仏教徒ごかして哲学的なことを言う。
もちろんそのとおりだが、コンプレックスの処理方法が人によって異なる。
彼らの人生行路にも関係し、それを掘り下げることは重要な示唆を孕むことになる。
と、そのとき、再びリョージからチャット。
「……駅じゃなくて、現地に直接集合しようって。集合場所の地図。もうインプットした」
一見して把握したチューヤは、人差し指でこめかみをトントンし、ポケットにスマホをもどす。
使い方によっては便利な人間GPSである。
「任せるよ」
短く嘆息するサアヤに、
「……待て待て、これは大変なことを発見しましたぞ! 乗り換えは2回になり申した、サアヤ殿!」
「うれしそうにしよって……。どういうことだ、チュースケ」
「蒲田に行けばいいと申したが、どうやら大田区総合体育館は京急蒲田のほうが近くござる。しかも、あいや待たれい。どちらかというと一駅手前の梅屋敷に近うござるな」
「はいはい、で、どうすんのよ」
「京急に乗り換えて鈍行の旅だね。これでリョージとも着くタイミングが合うんじゃないかな」
「たく。もう好きにしたらいいよ」
品川から京急に乗り換え、各駅停車で京急蒲田の手前、梅屋敷駅を目指す。
ターミナル駅の1駅手前を目指す場合、一度ターミナルまで行ってから引き返す、という乗り方をする人も多いが、これは正しい乗り方ではない。
目的地より先まで行っているわけだから、乗り越し料金を支払わなければならないのだ。
などとチューヤがヲタ話を披露しているうちに、目的地が見えてきた。
つぎの舞台は、大田区総合体育館だ。




