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上層階のほうが、むしろマシだったかもしれない。
ミカエルがいるからだ。
その場合、下層階は全滅するだろうが──いや、チューヤたちがいようがいまいが、現状は全滅の方向に全力で突き進んでいる。
裏切りの天使とは別口──かなり初期に裏切って堕天使の名を与えられた、いまや大魔王の貫録を持つもの。
「貴様か。シェムハザを倒したのは」
アザゼルはシェムハザと組んで、さまざまな悪事に手を染めていた。
神学機構の調べでも、かなりの罪障があぶり出されているらしい。
ちなみに、シェムハザを倒したのは、厳密にはチューヤではないのだが。
「お兄ちゃん、これ学館に届けたら、またお金いっぱいもらえるね、お兄ちゃん」
ぬる子が、その手に骨董品らしきもののはいったケースを弄んでいる。
ヒナノの視線が厳しさを増す。
「──聖遺物」
彼らが取引したものは、宗教戦争につながるかどうかはともかく、重大な国際紛争事案の一因にはなるだろう。
宗教的にどのような意味を持つかは別としても、重要な文化財であることはまちがいないのだ。
それを求めたのは、おそらく信濃町──舎利学館だ。
舎利というだけあって、仏舎利を含めた聖なる「遺骨」に対して強い執着を持っている。
キリスト教でも、聖遺物はしばしば重要な役割を果たしてきた。
キリストの遺物を、多くの教会が奪い合った歴史もある。
キリストの乳歯、くるみ布、聖骸布、聖顔布、聖槍、茨の冠(ただしキリストは復活したので、遺骸というものは存在しない)とされるものは、非常に有効な「宣材」だったのだ。
遺骸を聖なるものとして取り扱う場合、いわゆる聖者の頭や腕、舌などが引きちぎられて、各教会の宣伝用に採用された。
世界各地の教会が誇るその手の遺物は、枚挙にいとまがない。
仏教も同じだ。
仏舎利は、仏陀の骨である。
仏陀は火葬されたので、その骨が聖遺物として各寺院に採用されているが、言うまでもなく偽物だらけだ。
世界中の仏教寺院に存在する仏舎利を集めると、仏陀は身長が10メートルもあることになってしまう。
「くだらないもの集めて喜んでんな……!」
チューヤとしては、敵に対する精いっぱいの皮肉のつもりだったのだが、
「くだらないとはなんですか!」
味方から強い非難を受けた。
聖骸布、聖櫃、聖血などの聖遺物は、違法に取引されることがままある。
神学機構の仕事として、聖遺物の違法売買の取り締まり、というのも職掌にはいっているのかもしれない。
ヒナノの手中で、ペンデュラムが激しく反応している。
あそこにある聖遺物は、本物だ。その物体自体が、強い力を持つことは事実なのだ、という。
「あれを取り返さなければなりません」
「そんなこと言ってる場合じゃ……ないと思うんだけど」
アザゼルの動きに合わせて、出入り口は半ば解放されている。
あふれる悪魔たちに対して、生き残った人間たちはあまりにも無力だ。
ボス戦には不似合いに、乱戦の様相が強い。
混乱にまぎれて逃げ出したいところだが、そういうわけにもいかない。
チューヤは悪魔を召喚し、戦端を維持しながら、最適解を模索する。
自分とヒナノの生存を最優先として、つぎに彼らが救ってきた仲間を守る。
ヒナノはセシールを守り、チューヤは父親から託された塩川さんを守る。
彼女は父が上階から連れてきた「花嫁」で、悲劇的な結婚式に、いまだ呆然としているようなところもある。
父は、彼女を守ることが死んだ土屋に対する最後のはなむけだと言った。
チューヤは意識的に、彼女を中心にして防衛網を構築したが、相手が強すぎる。
乱戦とはいえ、ボス戦で民間人を守りながら戦うなど、無理がありすぎる。
悪魔は、人間が守ろうとしている者を、真っ先に殺したいという本能的欲求があるらしい。
ぬる子は、凶悪な武器を手に、兄の魔法で寸断されたチューヤの防衛網に、狂気の笑いを浮かべて突っ込んできた。
「死ねェエェ!」
花嫁が血祭りにあげられる。
不可避的な未来が見えた、その瞬間、ぬる子の身体を巨大な爪が貫いた。
一瞬、何事が起こったのかわからない。
アザゼルは眉根を寄せる。あれは味方ではないのか?
チューヤも驚いて、ぬる子を刺し貫いた悪魔を見つめる。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ツチグモ/地霊/31/8世紀/越後/越後国風土記/東尾久三丁目
土蜘蛛。記紀神話における日本の原住の民が貶められて成ったとされる。
穴居人であった彼らは、手足がひょろ長く背が低かったが、その姿を蔑称して土蜘蛛と呼ばれたという。
時の朝廷からの討伐や迫害に遭い、山岳地帯へと逃れた彼らが、時代を経て妖怪として解釈されたか、もしくはその怨念によって巨大な蜘蛛の妖怪に変化したものと考えられている。
上階で、まさに花婿の土屋を殺した悪魔である──。
「彼女を、守ってくれよ、シンヤくん」
ツチグモの無数の目のひとつが、土屋の顔に変わった。
瞬間、その身体がアザゼルの魔力によって引き裂かれる。
「おのれ、敵味方の区別もつかぬ駄悪魔めが! 俺の妹に、なんてことをしやがる!」
チューヤのナノマシンが、目前でサキュバスとツチグモのステータスを更新する。
デッド。
ゾンビとして蘇らせる以外、二度と動くことはない。
ぬる子の懐から、聖遺物が落ちる。
アザゼルが怒り狂って突進してくる。
チューヤは再度、悪魔の群れを再編成して受け止めようとするが、強すぎる。
つぎつぎと弾き飛ばされるナカマたち。
チューヤの目のまえで、こんどこそ殺されようとしている花嫁。
瞬間、花嫁の喉首を引き裂こうとした悪魔の腕を、切り落としたものがある。
「ギャアァアーッ!」
絶叫し、もんどりうって飛び退くアザゼル。
ハッとして視線を転じると、そこには一振りの輝く剣を手に──ヒナノ。
彼女は、ぬる子の持っていたケースから、強力な聖遺物を取り出し、装備していた。
「デュランダル……」
ヒナノの魔力を受け止め、強大なパワーを迸らせる聖剣──デュランダル。
ナノマシンが、仲間の装備を更新する。
その攻撃力は、大魔王の腕を切り落とす程度には、強力だ。
──『ローランの歌』のローランが持つ聖剣デュランダルの柄には、聖母マリアの衣服の破片、ペテロの歯、聖人の血や毛髪などがはいっていたとされる。
使う者が使えば、すさまじい威力を発揮する。
「おのれ、もう許さん、許さんぞォオォ!」
悪魔が人間の皮さえも脱ぎ、アザゼルの正体を現す。
強大な大魔王が、本気を出した。
その瞬間、天井の上のほうから抜けるような開放感。
空気がスッと上方に引っ張られるような浮遊感があり、直後、再び地面に引き寄せられる。
チッと舌打ちするアザゼル。
「貧弱な星天使が、くたばりやがったか」
「……やったのですね、ミカエル」
「よし、援護を待とう、お嬢。その剣はたしかにすごいけど、あいつはそう簡単に倒せない」
うなずくヒナノ。
長期戦を覚悟して戦線を組み立てなおすが、アザゼルは不気味に笑い、やがて哄笑する。
「仲間を待つだと? 愚か者が。上はもう解放された。残るは下のみだ。ここは一方通行の閉空間だ。俺を倒さなければ、だれも出ることも、はいることもできぬわ!」
「なんだと、ウソつくな!」
と反論してみたが、境界の構成者自身がそう言うのだから、その可能性は否定できない。
悪魔なのでウソをついている可能性ももちろん高いわけだが、外部から、なんらかの救助を期待して戦うという戦術は、正解ではない可能性もある。
短い時間のうちに、戦闘は悲劇的な結末への急坂を転がり落ちていく。
チューヤたちは必死に戦端を維持したが、状況は悪化の一途だった。
強いものが勝つ。
この鉄壁の摂理に、あらがうことはむずかしい。
そして現状、どう考えても強いのは大魔王の側だ。
戦況、陣容が変わらなければ、負ける。
チューヤの冷徹な覚悟が、つぎつぎ補強されていく。
そのマイナス要素の渦に、わずかな光が混ざるまでもちこたえられたことが、逆転の芽を残した。
チューヤの視線が、戦場の片隅に見つけたもの。
「ロビーへおびき寄せろ、シンヤ!」
声は聞こえなかったが、ゼスチャーで意思は伝わった。
上階に向かっていたはずの父親が、もどってきた。
これが、そのままミカエルたちの参戦を意味するわけではないが、援護であることはまちがいない。
最後の力を振り絞って、重量級の悪魔を召喚するチューヤ。
そのまま戦端を維持し、ヒナノたちをロビーに向かって走らせる。
一見、仲間だけを先に逃がすという戦略に見えるが、陽動の可能性に気づいた場合、悪魔がどう判断するか。
アザゼルの表情からは読めないが、ともかくチューヤの思い通りの方向へは動いている。
吹き抜けのロビー。
駆け抜けるヒナノたちを追って、アザゼルがそこに出た瞬間、短く連続する爆音とともに崩れ落ちる上階層。
もうもうと立ち込める土煙と瓦礫の山の傍らに、にやにや笑って立つアザゼル。
……見透かされていた。
「残念だったな、悪魔使い。これがおまえの奥の手か?」
「いや、これだよ」
その声は、アザゼルの背後から響いた。
「オヤジ……っ」
「死んでくれや、化け物。じゅうぶん殺したろ、帳尻合わせてもらうぜ」
ピン、と弾かれてくる小さな金属片。
手榴弾か。
「チッ」
舌打ちするアザゼル。
人間というやつの一定数には、自分が死んでも相手にダメージを与えたい、という趣味の持ち主が一定数いるらしい。
振り払うのは間に合わない。
アザゼルは別の魔力回路を起動し、防御に徹することにした。
父親が死ぬ。それも、たぶん無駄に。
ゾッとしたチューヤは、何事かを叫んだが、なんと叫んだのかはよくおぼえていない。
鋭い閃光が周囲を満たし、耳を聾するような爆音が、世界を無音に変えた。
あとで考えれば、たかが手榴弾の爆発としては強力すぎるような気もする。
最後に聞いた絶叫のかけらは、アザゼルのものだったように思われるが、確信はない。
いずれにしても、つぎに意識をとりもどしたとき、彼はロイヤルアーク半蔵門のロビーのソファーに横たわっていた──。
多くの救急隊員が駆けすぎていく。
あたりは無数の非常線に囲まれ、その隙間を縫うように、間断のないけが人の搬出が行なわれている。
ふと見まわすと、横にはヒナノの姿もあった。
高級そうな服が薄汚れているが、けがはないようだ。
彼女はゆっくりと視線を持ち上げ、複雑な表情で言った。
「榎戸……」
福々しい太った体躯と満面の笑み。
神学機構に近い弁護士、榎戸がチューヤとヒナノを交互に眺めている。
小菅のときもそうだったが、やはり今回も──。
「いたんですか、榎戸さん。助けてくれたんですね?」
アザゼルは、自分が死ぬまで出ることもはいることもできないと言っていたが、やはりあれはウソだったということだ。
もしウソでなかったとすれば、最初から境界内に榎戸は隠れ潜んでいた、ということになる。
しかし彼は、ゆっくりと首を振って言った。
「いいえ、私はなにもしていませんよ。いや、なにもしていないわけではないですが、きっかけを与えたにすぎません。お嬢さまもご存じのとおり、私はけっして戦わないのでね」
それが、強すぎてバランスを崩すからか、そんなに強くないことがバレたくないからか、それともほかに意外な理由があるのかは、わからない。
「どういうことですか、榎戸さん」
「帳尻を合わせるという法理は、とても強力なのですよ。世界を永劫に支配する原理原則の類といっていい。……とくにその執筆者の力をもってすればね」
榎戸がなにを言っているのか、さっぱりわからない。
問い詰めたい気もするが、ヒナノは別方向から切り崩す。
「ミカエルたちはどうしました?」
「職務を果たしましたよ、当然ね。腐っても筆頭大天使ですから、当然の仕事をしたまでですが。いまごろ、坊ちゃんをお送りになっているのではないですか」
「……アザゼルは?」
「エノク書の悪魔の末路については、私も多少なり興味はあります。しかし『法典』の力には、やはりかないませんな」
「──法典?」
チューヤは、船橋かな? と思ったが口には出さなかった。
「あなたは、なにをしたのですか、榎戸」
チューヤと同じ疑問に、ようやくヒナノも乗ってくれた。
榎戸は深い笑みを浮かべ、ただ繰り返した。
「世界を支配する原理原則の行使です。われわれの『啓典』に匹敵する、とまでは言いたくありませんがね。──桜田門は、その『法典』を管理するのですよ」
その横を、全身を保温フィルムで覆われたけが人が搬出されていく。
視線が合った。
「……オヤジ!?」
「よう。どうなってんだ? まあいいや、行ってくれ」
遠ざかる救急車のサイレン。
この数十分のあいだ、なにが起こったのだろう──。




