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戦力を割りたくない、という強い意見に対し、中谷はわずか2名の「友人」だけを連れて、人命救助のため上階へともどっていった。
部屋に残されたのは30名ほど。男女比はほぼ同数で、外国人が3割ほど含まれている。
警察官を中心に、離脱派の意見が強く主唱された。
その意見は広がりを見せたように思われたが、ヒナノが「上でこの空間をつくった元凶の悪魔を倒す部隊が動いている、倒せばもとにもどる、それを待ったほうがいい」という意見によって、一気に巻き返された。
ヒナノとしては、神学機構の天使を悪魔と表現することに一抹のためらいはあったはずだが、あくまでも裏切り者であり、堕天使は悪魔と割り切ったようだった。
チューヤは半ば感心して、彼女を眺め上げた。
ここから逃げたい、という人間の本能的欲求に全員が感染し、多数決によってその意見が押し通るだろう雰囲気を塗り替え、力強い静穏をとりもどした。
言語的なアドバンテージも大きい。外国人のほとんどは、セシールを中心に完全にヒナノの支持にまわっている。
結局、強行離脱を主張する男たちは、引っ込まざるを得なかった。
彼女にはカリスマ性がある、と心から認めた。
そうだよ、しょせん俺は悪魔使いだし、悪魔を動かすことはできても人間を動かすようにはできていないんだよ……。
いつものように、過剰に内省的になりつつ、ある種のリスクが内包されている事実にも気づいた。当然、ヒナノも気づいているだろう。
どうしてもここから逃げ出したいのだ、と考える一派にとっては、この展開はおもしろくないはずだ。
できるだけ速やかに、上での決着がついてくれることを願うばかりだが、どうやらまだ一山、残されているようだ。
非常扉のほうから、ざわめきが伝わってくる。
大声でやり取りしている見張りの男が、ゆっくりとドアを開ける。
警戒心をあらわにする人々のまえに、数名の人間たちの姿。
「生存者か」
そんな半ばの安堵に塗り込められるほど、チューヤたちの経験値は低くない。
奇妙な空気が場を満たす。
この「箱舟」に新たに加わったのは、たしかに人間に見える。それも負傷者がかなり多いようで、医療の心得がある貴重な人員を割いて、その治療にあたっている。
「……お待ちなさい。あなた方、ほんとうに人間ですか?」
瞬間、身体を包帯でぐるぐる巻きにされた女が、跳ねるように上体を起こした。
「その女だ、その女は悪魔だ! あたしは、その女に殺されかけたんだ!」
空気の流れが一気に変わる。
離脱を主張していた人々と新来の負傷者たちを中心に、部屋が二分されていく。
分裂はまずい。
脳裏をよぎる父親の言葉に、舌打ちするチューヤ。
こんな状況、コントロールできるわけねえだろオヤジ、要求が過大すぎるぞ!
指さされたヒナノ自身は、まったく動じていない。
慌てふためくのは愚の骨頂だが、この場合、あまりにも泰然としていると、開き直っているかのように見て取られるリスクもある。
チューヤはハラハラしながら、
「そんなわけないだろ、あんたら、どれだけ彼女に助けてもらったと思ってんだ?」
俺の大事な友達だぞ、と付け足しかけてやめといた。
自分を過小評価しがちなチューヤは、控えめをもってよしとする日本民族だ。それに、彼女が同じように思っているとも思えない。片想いだ。
「イエス、ワタシたち、助けられた」
外国人を中心に、ヒナノの支持が広がる。
一方、新たに加わった負傷者たちも、彼らを率いてきた「部長刑事」を支持している。
治療にあたっている人々も、負傷者たちはあきらかに人間であると請け合っている。
チューヤとヒナノは視線を交わした。
悪魔のいつものやり口だ。
悪魔は、ひとつの虚偽を信じさせるため、いくつもの真実の衣をまぶす。
今回、たくさんの人間たちを助けた、それは事実なのだろう。
では、その目的は?
……その人間たちを連れて、まんまとこの部屋にはいりこみおおせた人物を、まずは疑うべきだ。
「おーっと、待ちな。聞き捨てならねえぜ、うちの妹を傷つけたっていうねーちゃん、あんた、悪魔の皮をかぶってんじゃないのかい?」
こちらの疑問を、先にぶつけられた。
チューヤたちは、まっすぐにその声の主を見つめる。
包帯に巻かれて、ヒナノを弾劾する女の横に寄り添い、彼女を妹と呼ぶ男は、
「地元麹町警察署、部長刑事、森下です」
妙なアクセントで自己紹介する。
部長刑事は、警部補の下、巡査の上の階級で、初級幹部として司法警察員に任じられるが、平たくいえば下っ端だ。
それでも、それなりの年数警察に所属して、昇任試験を受け合格した、りっぱな中間管理職である。
「刑事らしくねえな……」
それは職掌うんぬんではなく、完全に「見た目」の問題だった。
バブルっぽい艶の強いスーツを着て、派手なリアクション、ときどきクルッと回転する。
個性的といえば個性的な彼を、
「いや、麹町のセクシタだろ、おまえ」
知っている人は知っている。
セクシタと呼ばれた森下は、再びクルッと回転してから、あいかわらず芝居じみた妙なアクセントで言った。
「セクシー部長と人は呼ぶ、俺の名前は森下です。……さあ、だまされちゃいけませんよ、エブリー、フォーリナー!」
もうだいぶ中年の盛りで、まだ下っ端をやっているくらいだからノンキャリどまんなかにはちがいないが、半端に英語ができる下っ端は外国人の多いエリアで重宝されるため、遠隔地に飛ばされることが少ない。
首都中枢である第一方面(千代田区、中央区、港区など)には主要な大使館も多く、現状、本庁に勤務している警察官も多いから、下っ端とはいえ地元麹町署の人員を見知っている者がいてもおかしくはない。
つまり、彼は人間──か?
「お兄ちゃん、あいつ! あの女、殺して、悪魔だよ!」
「おお、俺のかわいい妹、ぬる子ちゃん。まーかせておきな、この世に悪魔の栄えたためしはねぇーぜ」
セクシー部長刑事森下と、ぬる子ちゃんの目が同時に、ヒナノ、ついでにその背景と一体化しているチューヤを射抜く。
ぞくり、と走る寒気。
まちがいない、こいつらだ。
チューヤたちは確信したが、他の面々の少なくとも半数は、逆のことを確信しつつある。
部屋が二分され、にらみ合うチューヤ側と森下側。
これ自体が、悪魔の狙い通りだ。
──その正体に、最初に気づいたのはヒナノだった。
「わいせつな魔力の歌に気をつけなさい。二度とは許しませんよ」
「……ごめんなさい、そういうことか」
うなずき、理解するチューヤ。
包帯でぐるぐる巻きにされているのは、上でわいせつな空気を醸し出していたサキュバスだ。
地上に落ちた彼女を、兄の森下が救った、ということだろうか?
いずれにしても、彼らが復讐にやってきた、と疑うに足る理由は見つかった。
あとは信じるに足る証拠が必要だが──。
「開廷する!」
木槌でドンドンとプラスチックのテーブルをたたき、森下が言った。
被告席に座らされているのはヒナノ。
弁護人、チューヤ。
証人としてセシールなどが準備されている。
原告側は、ぬる子(温子と書く可能性が高い)。
検察官、森下。
「検察が勝手に開廷すんのはおかしいだろ!」
弁護人の異議申し立てはただちに却下され、公判が開始された。
日本の刑事訴訟手続きによれば、独立の権限主体である検察官によってのみ公訴が提起される。これを起訴独占主義という(きわめて稀に強制起訴という例外もある)。
裁判の執行は原則として検察官が指揮し、死刑執行の際は、代理人とともにこれに立ち会う。
「判決、死刑、以下略!」
ドンドン、と主文を読み上げる森下。
「待て待て待て待て、おかしいだろ、みんな気づけよ!」
さすがにざわめく法廷(仮)。
「関係ないね」
両手を広げ、クルリとまわる森下。
バブルな衣装で派手なリアクション。
もちろん、こんな刑事はいない。
「ご祝儀の額で、あんたらの将来がわかんのよ」
にやりと笑い、包帯ぐるぐるのぬる子がゆらりと立ち上がる。
その包帯の隙間から、黒い尻尾がこぼれ出る。
「イッツ・ショー・タイム!」
同時に、森下の皮を脱ぐ悪魔。
──そういや、セクシタのやつ、めずらしく大手柄だってんで、意気揚々、きょうこそ逮捕してやるって、まじかよ、あのセクシタが? ついに追い詰めたってよ、浅井兄妹? まあまあのB号(指名手配照会)じゃん、おいおい近場すぎんだろ、ロイヤルアークか、フダ(令状)は持ったか、よし行くぞ、所在確認、正面突破だ、突入する! 警察だ手を挙げろ、おとなしくしろ浅井、動くな、撃つぞ、やめろ、うわ、あああ!
惨殺された森下の皮から、あふれ出る無念の記憶。
その死体の皮を脱いだのは、ヤクザじみた中年、浅井。
──浅井兄妹。
「やっぱり皮かぶってちゃ、本気は出せねえなあ」
「男は皮かぶっちゃだめだよね、お兄ちゃん!」
「男の価値は?」
「サイフの厚さ!」
前世紀の遺物のようなバブリー兄妹が騒いでいる。
チューヤはナノマシンの表示にゾッとする。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
アザゼル/大魔王/40/紀元前/エチオピア/エノク書/五反野
人間を教育するため地上に降りた天使たちの集団「グリゴリ」の指導者。
地上の美しい人間の娘たちに回復されて妻にめとったり、禁じられた様々な知識を人間に与えるなどの、神への背反行為を行なった。
武具や装飾品、化粧などの知識をアザゼルから得た人々は、男ならば戦い争うことをおぼえ、女ならば着飾って男たちに媚を売ることをおぼえたという──。
「どうやら、こちらもボスのようですが?」
ちらり、とチューヤに視線を移すヒナノ。
ボスは上にいるのではないのか、という暗黙の問いに、
「上にもいると思うよ、たぶん星天使ってボスが。だけど、だからって下に大魔王がいないって意味じゃない、ってことかな」
複数のボス戦が重なるパターンというのは、ないわけではない。
共有された境界で、お互いの獲物を食い尽くす。
呑み込まれた獲物たちにとっては、悲劇だ。おそらく通常よりも被害率は高くなるにちがいない。
敵の本気度を示す、という意味もあるだろう。
通常、ボス戦はこちらから攻撃することで、発生する。
守りに徹しているところに、むこうからボスがやってくるというのは、やや新しい。




